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2018年07月25日

ガダルカナル島の戦いとは?


 ガダルカナル島の戦いとは何故起きたのだろう?

 先のミッドウェー作戦の失敗が影響

 連合艦隊がミッドウェー海戦で敗れた直後、大本営は第17軍(軍司令官・百武晴吉中将、司令部はラバウル)に東部ニューギニアのポートモレスビー(オーストラリア領)を陸路で攻略する研究を命じた。 連合軍によるラバウル空襲は日を追って激しくなるばかりで、その発進基地・ポートモレスビーを沈黙させたいと云うのであった。 海路による攻略作戦は、珊瑚海海戦によって阻止された為、陸路から攻略する他無かった。

 連合軍による空爆を止める目的

 ポートモレスビーからの航空攻撃は、ラバウルだけで無く東部ニューギニア北岸のサラモアやラエに対する日本軍陣地へ激しさを増していた。これらの陣地は、昭和17年(1942年)3月、第144連隊と海軍特別陸戦隊一個大隊が占領した。 連合軍が進出し、その一帯を基地として利用させ無い為である。
 この様に連合艦隊の根拠地トラック諸島を防衛する為にラバウルを占領し、そのラバウルを守る為に東部ニューギニアの要地を攻略占領しようとした。所謂外郭用地の攻略である。

  

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 米豪遮断を目的とした第17軍

 第17軍はこうした目的を達成する為に編成され(昭和17年5月)、ニューカレドニア諸島(仏領)、フィジー諸島(英領)、サモア諸島(米領)、そしてポートモレスビーを攻略しようとしていた。
 これらの作戦は、海軍がオーストラリア本土を攻略占領したいと云う案に対して、陸軍が猛反対し、三か月協議を重ねた末、その妥協案として生まれたものである。これらの要地を占領出来れば、米豪遮断が出来、米軍がオーストラリア経由の反攻作戦を取れ無くなり、ラバウルもトラックも初めて安泰に為ると云うのである。

 ミッドウェー海戦で空母を4隻失った日本軍

 しかし、ニューカレドニア・フィジー・サモアへの攻略は、ミッドウェー海戦で空母4隻を失ったので立ち消えになった。 空母抜きで輸送船団を護衛する事は出来無いから、残るは、オーエンスタンレー山脈を超えて、ポートモレスビーを衝く以外にない。歩兵によって、ジャングルを越えなければ為らない。
 だが、その道中は深いジャングルに覆われ、低い所でも2000m級の山々が立ちはだかっている。 満足な地図も無く、ジャングルに覆われた山越えの間、果たして食糧や弾薬の補給が続くかどうか、最初から危ぶまれた。

 実行可能か否かを「研究」する「作戦」

 だから当初は「研究作戦」であったが、何時の間にか本物の作戦と為ってしまう。 命を受けた南海支隊(グアム島やラバウルを攻略した部隊。約5000名)の先遣独立工兵第15連隊は、7月半ばブナに上陸した。何処まで道路があるか、ジャングルの中に道路が作れるかを見通す為である。

  

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 日本軍がガダルカナル島に飛行場を建設

 丁度その頃、英領のガダルカナル島(略語:ガ島)では日本海軍の基地設営隊が飛行場を建設しつつあった。
ガ島はラバウルから西へ約1000キロ、ソロモン諸島の西端から二番目の小島(四国の1/3)である。 島に進出したのも、矢張りラバウルを守ると云う事である、そこに航空基地を前進させようとして居たのである。
 ガ島の飛行場は7月末にはほぼ完成しようとしていた。これに慌てたのは連合軍であった。 日本軍の進出を阻止する為、取り合えず大急ぎでガ島を奪回しようとした。

 ガダルカナル島を巡る最初の戦い

 昭和17年8月7日早朝、アメリカ第一海兵師団(約20.000人)がガ島へ上陸した。 上陸前の砲撃で海軍陸戦隊と飛行場設営隊はジャングルの中に逃げ込んだ。 戦闘部隊は約300人しか居らず、とても太刀打ち出来無かった。

 ツラギ島の戦い

 日本海軍はガ島前方の、フロリダ島に抱かれた様な小さな島ツラギ(ソロモン諸島の政庁があった)も占領していたが、ここの部隊250人は全滅する迄抵抗したという。島が小さ過ぎたので逃げ場が無かったのだ。

 第一ソロモン海戦

 ラバウルにあった第8艦隊(司令長官・三川軍一中将)は直ちに反撃に出た。8日深夜中にはガ島海域に到達、偶々付近を航行中の米艦隊を発見して海戦と為った。そして、重巡洋艦「キャンベラ」など3隻を沈め他の数隻にも大損害を与えた。 日本側には大きな損害はなかった。これが第一ソロモン海戦である。
 当初の目的は、ガ島に揚陸中の輸送船団を砲撃する事だったが、思わぬ海戦で手間取り、敵空母からの航空攻撃を避ける為に、海戦が終わると直ちに戦場を離れラバウルに帰港した。

  

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 偶然、戦いに参加した一木支隊

 ガ島奪回の為海軍から相談を受けた陸軍は、ガダルカナルとは何処にあるのかさえ知らなかった。しかし、大した事はあるまいと、一木支隊(旭川第7師団第28連隊の一個大隊を中心に約2400人)を上陸させる事に為った。
 支隊はミッドウェー島へ上陸する為編成されたが、海戦に負けて用済みと為り旭川へ帰る途中を呼び戻されたたのである。8月18日、支隊長・一木清直大佐ら約900名の先遣隊は駆逐艦9隻に分乗してタイポ岬(米軍陣地から30キロ)に上陸、20日夜に飛行場へ突撃した。

 が、猛烈な火砲の前に21日昼頃までにはほぼ全滅、一木支隊長はピストルで自決した。一木支隊の敗因としては、米軍の兵力を2000人(実際の1/10)と推定した事、戦車がある事が分かっていながら速射砲を持って行かなかった事、重火器としては僅か2門の歩兵砲と機関銃8挺位だった事、中国の戦場と同様に銃剣突撃すれば鎧袖一触、敵は忽ち降参するか逃げて行くと軽く考えていた事等が指摘されている。

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           一木支隊の鎮魂碑

  

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 第二次ソロモン海戦

 一方、ニューギニアのポートモレスビーを目指す海南支隊は8月19日ブナに上陸、先遣隊の後を追って23日にはスタンレー山脈の入り口ともいうべきココダに進出した。
 8月24日、ミッドウェー敗北の後再建された新編機動部隊(南雲忠一中将指揮)は第二艦隊(近藤信竹中将指揮)を伴ってガ島へ向け南下中、米機動隊(フレッチャー中将指揮・第61任務部隊)を発見、互いに攻撃機を飛ばしての海戦が始まった。第二次ソロモン海戦である。
  結果は日本軍は空母「エンタープライズ」に大損害を与えたが、日本軍も軽空母「龍驤(りゅうじょう)」を撃沈された。その海戦中、一木支隊の後続部隊が輸送船3隻に分乗してガ島上陸を何回も試みたが、活発な艦爆機の空襲で果たせなかった。

 ガダルカナル島攻防戦の始まり

 ガダルカナル島を巡る日米の陸海軍挙げての攻防戦が始まったのである。そして、一方ではポートモレスビー攻略の為の山越え作戦も進行しつつあり、二正面に大きな戦いを挑んで太平洋戦争は一つの分岐点を迎えつつあった。

 川口支隊の派遣と総攻撃の失敗

 陸軍は一木支隊先遣隊の全滅に驚きながらも、8月末、川口支隊(第18師団の第35旅団司令部と第124連隊基幹、旅団長・川口清健少将指揮、約6500名)をガダルカナル島へ派遣した。 岡明之介連隊長と第2大隊はタサファロングに、川口旅団長と残り二個大隊はタイポ岬に上陸した。 実兵力は約3000人であったが、両者で挟み撃ちの様にして飛行場を奪い返そうとした。

  

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 米軍の火力に、常に圧倒される日本軍

 9月13日夜(日本軍の陣地攻撃は大抵夜襲である)、各部隊は暗闇の中をソロリソロリと進んで行くうちに、米軍の最前線に接触、忽ち十字砲火を浴びてしまう。ここでも米軍部隊との火力の差が歴然だった。しかし、今回は速射砲の部隊も居り、この部隊は攻めて来る14両の戦車部隊の内10両を仕留めた。一木支隊の様にやられっパナシでも無かったわけだ。
 しかし、川口支隊の総攻撃は完全に失敗に終わった。飛行場の真南から進んだ支隊主力2000名は、飛行場突入直前に阻止され、700名以上の戦死者を出している。 米軍は戦死者60名、負傷400名を出したこの戦場は、「血染めの丘」と呼ばれる。

 食糧不足が顕著だった日本軍

 川口支隊はその後、タサファロング付近に集結するが、僅か一週間分と云う携行食糧も底を突いた。食糧は飛行場を占領して米軍から頂くと云う想定だったのだ。 中国での戦いが全てそうだったからだ。

 飢餓とマラリアに苦しむ日本軍

 飢餓が忍び寄りつつあったのがガ島だけでは無かった。ポートモレスビー攻略部隊も食糧不足とマラリアに悩み始めていた。 先遣隊と本隊は8月20日過ぎ、イスラバの手前で合流した。そこにはオーストラリア軍(一個大隊と二個中隊)が強固な陣地を敷いていた。

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           ガ島の山岳地帯

 ジャングルの劣悪な環境から体力を奪われる

 しかし、敵はオーストラリア軍ばかりでは無い。 昼なお暗いジャングルと、一度食いついたらなかなか離れ無い山ヒルと、既に始まっていた雨季のスコールとそれが止んだ後の凄まじい湿気、朝晩の寒気(既に標高2000mに近い)と、アノフェレス蚊が媒介するマラリアに疲労困憊していた。
 細々と人力で補給される食糧は、階級が上の者から取っていく為、初年兵に行きつく時は更に少無くなっていた。

 食糧を与えられる日本軍?

 イスラバ守備隊との力闘一週間、迂回して偶然にも敵の刃異母に回り込んだ部隊に驚いたオーストラリア軍は、アッサリ抵抗を辞め、大量の弾薬と食糧を残して撤退した。 南海支隊は残されたバターやチーズ、ハム、ソーセージなどで久し振りに腹を満たした。

 ガ島、第2師団の総攻撃も大敗北 米軍の強さを思い知った日本軍

 二回にわたる反撃が完全に失敗した陸軍は、ガ島の米軍が侮れ無い敵であると云う事を要約理解した。そこで、メンツにかけても、本腰を入れてガ島を奪回を図る事になった。

  

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 総力を結集し、戦いに臨む日本軍

 ジャワ島の警備に当たっていた第2師団全てを急いで(約一ヶ月半かけ)上陸させ、更にスマトラ島の警備に当たっていた第38師団をもガ島へ急がせた。
 これらの部隊を指揮する第17軍司令部もラバウルからガ島へ進出、更に東京の大本営からも辻正信中佐参謀が指導に遣って来ると云う、形の上では一大決戦に相応しい態勢をとったのだった。
  第2師団の三個歩兵連隊と第38師団の一個連隊、更に、それまでに上陸していた将兵全てを合わせた約15.000人がヘンダーソン飛行場への突撃態勢を執ったのは、昭和17年10月24日だった。

 米軍の奇襲によって、戦力を失う

 当初の計画では、大軍を持って海岸沿いにマタニカウ川を渡り、更にルンガ川を越え、雪崩を打って飛行場に殺到すると云う作戦が立てられた。処が、その準備をしている内に米軍は先手を打って攻撃し、準備中の日本軍の一個連隊(第4連隊約3000名)をほぼ壊滅させ、マタニカウ川の対岸に強固な陣地を敷いてしまった。

 即席道路「丸山道」

 日本軍は仕方無く、飛行場の裏手に聳える標高500m程のアウンステン山を大きく迂回する道路(第2師団長の名前をとて丸山道と云う)をジャングルの中に切り開き、飛行場の背後から突撃する事になった。

  

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 常に食糧不足が続く

 攻撃隊は左翼と右翼に分かれ、24日午前5時一斉に前進を開始した。丁度雷鳴轟く豪雨と為った。 将兵は丸3日間殆ど食事を取っていなかった。 携行して来た一週間分の食糧が切れていたのである。かと言って、前線には全く補給は無かった。

 米軍の合理的な戦略

 左翼隊の場合を見ていると、土砂降りの中、漆黒のジャングルの中をユックリ前進しつつ、兎も角も飛行場の突入地点に到着したが、突入の頃に為って雨はスッカリ上がった。ふと気が付くと、マイクロフォンがあちこちに仕掛けれられていた。米軍側は日本軍の行動を音によって知り待ち構えていたのだ。

 戦いらしい戦いも出来なかった日本軍

 要約鉄条網にぶち当たり、その一部を破壊して突入が始まったが、それは文字通り弾雨の中に身を晒すようなものだった。 最後は連隊長(歩兵第29)自ら、軍旗と共に突撃し、それっ切り行方不明と為った。 後方の師団司令部とは勿論連絡は取れない。
 丸山正男師団長は翌朝早く、何事も無かった様に米軍機が飛び立ち、前夜の戦場付近をユックリ旋回しているのを望見して攻撃の失敗を悟ったという。 右翼隊は米軍の先制攻撃で突撃すら出来なかった。 翌日、予備の部隊を繰り出して同じような攻撃を実施したが、前日にも増した惨憺たる敗北となった。

  

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 南太平洋海戦

 翌26日から27日に掛けてガ島北方海上では、日本の機動部隊と米機動部隊が一戦を交え、米空母「ホーネット」を沈めるという戦火を上げた。

 ポートモレスビー攻略部隊の撤退 南海支隊への撤退命令

 食糧の補給が殆ど無く、マラリアに罹りながらも戦いを続けなければ為らなかったのは、ポートモレスビー攻略部隊(南海支隊)も同じだった。 腹を空かしマラリア熱でだるい身体を鞭打ち、途中に待ち構えるオーストラリア軍の小部隊と戦い、約1000名の犠牲を出しながらポートモレスビーの街が見える地点に達したのは9月半ばである。イオリバイオであった。
 しかし、そこまで進出した南海支隊に対して第17軍は撤退を命令した。ガ島への手当てに忙殺されていて、南海支隊への補給に自信を失っていたのだ。

 連合軍のニューギニア奪回作戦

 退却を始めた南海支隊をオーストラリア軍は追撃を開始する。それはマッカーサーの指揮のもとに開始された、東部ニューギニアの奪回作戦の一環だったのだ。 連合軍は東経159度から西、詰まりオーストラリア・ニューギニア・フィリピン・ソロモン諸島を含む南西太平洋をマッカーサーに、東側、詰まりガダルカナル島・ツラギ・フロリダ諸島をニミッツに夫々指揮させたのである。

 ブナ地区で新たな戦いが起こる

 11月16日ブナ南方オロ湾に米軍1000人が上陸した。 周辺は東からブナ、ギルワ、バサブアに日本陣地がありブナ地区と総称されていた。オーストラリア軍に追われて退却中の南海支隊は、その地域を目指していたのだが、米軍に先回りされてしまった。

  

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 日本軍 総兵力11000

 こうして、辛うじて辿り着いた南海支隊も含めてブナ地区で新たな戦いが始まった。支隊長堀井富太郎少将はブナ到着前に戦死していた。ブナ地区には陸海軍の小部隊が混在して守備していたが、米軍上陸後、第21旅団が他の増援部隊と共に派遣され、旅団長山県栗花生(つゆお)少将が統一指揮する事になった。 総兵力11000である。

 しかし、太刀打ち出来ない日本軍

 米軍は爆撃機で陣地を叩き、歩兵部隊が少しずつ前進して陣地を崩すと云う戦法に徹した。航空攻撃に全く無力な日本軍陣地は次第に追い詰められ、12月中旬にはバサブア陣地が、1月初旬(1943年)にはブナ陣地が全滅した。

 戦力を7割も失った日本軍

 残るギルワ陣地はバサブアとブナの東西から挟み撃ちされるように圧迫され、遂に1月中旬ブナ地区を退いてラエ、サラモア方面に退却した。 退却時に約5000まで減っていた兵力は退却途中で更に失われ3400人がブナの戦場から要約脱出した。

 多くの犠牲を出した南海支隊

 歩け無い傷病兵は置いて行かれたが、その命令を出した新任の南海支隊長小田健作少将は責任を取ってピストル自決した。南海支隊はポートモレスビー攻略の途上とブナ地区の戦闘で、編成当初の人数とほぼ同数の約5500名が戦死した。

  

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 ガダルカナル島からの撤退 ガ島奪回をまだ諦めていない日本軍

 第2師団による10月24日・25日の総攻撃は完全に失敗したが、大本営も第17軍もガ島の奪回を諦めた訳ではなかった。しかし、駆逐艦で細々と補給される食糧と弾薬では攻撃の方法が無かった。

 援軍空しく、補給物資は海の藻屑へ

 11月14日、新しい兵力として第38師団主力約5000人が11隻の輸送船に分乗してガ島へ到着しようとしていた。しかし、米軍は接岸寸前にこの輸送船団を空襲して7隻を沈没させた。 将兵は大部分が駆逐艦に救助されたが、兵器弾薬、食料は全て沈んでしまった。
  残りの4隻は岸に乗り上げたが、陸揚げされた物資は食糧1500俵と野砲・山砲弾薬260箱に過ぎなかった。
5000人の大部隊が殆ど丸腰で上陸してしまったのだ。

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        岸に乗り上げた「鬼怒川丸」

  

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 悲惨な戦場の行く末

 この第38師団の上陸直前に、第17軍司令部が推定した所では、ガ島にはそれまで27000人が上陸し、19000人が生きていると推定された。しかし、戦闘に耐えられる兵士は約800人程度だった。 丸腰のまま上陸した第38師団も一か月後には同じ運命を辿る事になるのだ。
 そういう中にあっても、当然、米軍の掃討作戦は続けられる。ジャングル内のある患者収容所では患者と守備部隊の計488名が戦死した。11月30日の事だという。

 食糧を巡って、同士討ちまで起こっていた

 細々と続けられていた駆逐艦による食糧補給も潜水艦に切り替えられた。その僅かな食糧を受け取る為に、ガ島西端のカミンボまで、各部隊は比較的元気な者を選んで派遣したが、帰りには遊兵、棄兵と為った日本兵に襲われる者が続出した。

 ガダルカナル奪回作戦は失敗

 12月31日、御前会議はガ島からの撤退を正式に決定した。 昭和18年(1943年)2月2日から8日に掛けて3回の撤退作戦が実施され、約10.000人がガ島を離れた。ガダルカナル奪回作戦は失敗のうちに幕を閉じた。ガ島戦没者は20.000名、この内戦闘で死亡した者は約5000〜6000名で、他は餓死と病死だとされている。

  

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 第三次ソロモン海戦 第一夜戦

 第三次ソロモン海戦は第38師団を11隻の輸送船に乗せてガ島へ急いでいた11月12日から14日にかけて起こった。連合艦隊はこの輸送を側面支援する為、第11戦隊の戦艦「比叡」「霧島」をガ島飛行場の砲撃に派遣したが、12日真夜中に米艦隊と遭遇、近接戦となり、混乱のまま両者互いに撃ち合い「比叡」と駆逐艦「夕立」「暁」が沈没した。
 米軍側は防空巡洋艦「アトランタ」「ジュノー」の他、駆逐艦4隻を失った。 海軍作戦部戦争計画部長リッチモンド・k・ターナー提督は「海戦史上最も過酷な戦闘」と評した。

 日本軍の飛行場砲撃

 次いで13日真夜中、密かにガ島に近づいた重巡洋艦「摩耶」「鈴谷」はガ島飛行場に合計約1000発の20cm砲弾を撃ち込んだ。ガ島飛行場の混乱に乗じて第38師団の輸送船団を接岸させようとしたのだが、船団は14日朝、空母「エンタープライズ」から発進した艦載機の集中攻撃を受け7隻が沈没した。 前夜、ガ島飛行場を砲撃した艦隊も攻撃され重巡洋艦「衣笠」が沈没した。

 軍事施設の再建・復旧でもアメリカが優れていた

 1000発の砲弾を撃ち込まれたヘンダーソン飛行場だったが、ブルトーザー(日本軍はガ島で初めて見た)でならし、鉄板を敷きなおして忽ち飛行場を再建、翌日から何事も無かった様に航空機が発着したという。

  

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 「ねずみ輸送」とルンガ沖海戦

 輸送は、ガ島への弾薬食糧を詰めたドラム缶を駆逐艦がタサファロング沖合まで運び、そこで海上投下して陸上部隊が小舟に拾い上げるという方式によった。米軍はこの輸送駆逐艦隊(第二水雷戦隊。田中頼三少将指揮)を「トウキョウエキスプレス」と呼び、海軍は自嘲気味に「ねずみ輸送」(敵の目を盗んでコソコソとやるから)と呼んだ。
 11月30日、海上投下中に米艦隊と遭遇し忽ち海戦となった。 結果は、駆逐艦一隻を撃沈されたものの、重巡洋艦「ノーザンプトン」を沈め、他の2隻の重巡洋艦に大被害を与え日本の勝利とされている。

 潜水艦によるモグラ輸送

 この海戦後まも無く駆逐艦輸送も中止され、補給は潜水艦に頼る「もぐら輸送」に変わった。ガ島の陸軍部隊は益々飢えて行ったと云う。

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       ガ島上空で撃ち落とされた「零戦」

 以上

  

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 頬に風・・・颯爽とサイクリング!!






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