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2018年07月25日

「ガダルカナル撤収作戦」秘話


 又もや戦争体験記に戻ってしまうのをお許し頂きたい。ガダルカナル島戦で上陸した日本軍の総兵力は31,404名 内撤退出来たのは10,652名とされる。この悲劇は、数ある玉砕戦の中でも永く記憶に留め置かなくては為らぬ程の大きな犠牲を払ったものだった。
 余りにも多い犠牲の為、遂に大本営での撤退が決定された。果たして、制海・制空を奪われた熱帯雨林の中、食料も無く病に侵された将兵の撤退が可能だろうか?

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 「ガダルカナル撤収作戦」秘話

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 撤退作戦の企画は大本営作戦参謀・瀬島隆三氏とされるが、成功の陰には二つの「捨て石作戦」があった事を紹介したい。(※長文です。ガ島戦に関心ある方だけ読んで下さい)

 先ず、124連隊は悲運の連隊と言われた。

 約4000人がガ島戦に参戦したが、撤退時は300人居なかった。
 ガ島上陸作戦時、約70名を無人島に取り残す残留部隊が発生した。※後に横井庄一氏が生還した際に注目され、捜索するも全員死亡が確認。
 川口少将が攻撃直前に異例の解任劇が起きた。
 辻参謀が「泥棒部隊」と呼んだ。他部隊からも「ゴロツキ部隊」等と敬遠された。
 米軍パイロットをスープにした『人肉試食事件』がある。
 岡明之助大佐(聯隊長)指揮による「軍旗奉還作戦」で2月1日岡大佐戦死した。

  

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 等、数々の悲劇に遭遇し話題が多い。しかし、ガダルカナル島から10,652名を撤退させた最大の功労は、ガ島に残留して最後まで戦った124連隊「宮野隊」128人である事は余り知られて居ない。ほぼ全滅したが何人かは米軍の捕虜に為り戦後帰国した人も居ると云う・・・  

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 ガダルカナル島撤退の御聖断は昭和17年大晦日で、ガ島17軍司令部に伝達されたのは昭和18年1月17日とされる。太平洋戦争の作戦の内「真珠湾奇襲作戦」に次いで成功したのは「ガダルカナル撤収作戦」と言われ、後は「遣る事為す事誤算ばかり」と酷評される。「ガ島撤収作戦」を計画したのは大本営作戦参謀・瀬島隆三氏とされるが、その成功の陰には「捨て石作戦」があった。本当はこちらに光を当てるべきなのに余り知られて居ない。
 その「捨て石」に為ったのが124連隊「宮野隊」128名と臨時編成された38師団「矢野大隊」750名だった。 撤退作戦投入の為に名古屋で臨時編成された矢野大隊長以下約750名は、昭和18年1月14日全滅覚悟でガ島に送り込まれた。

 戦国の昔から敗色が色濃く退く際は殿(しんがり)部隊が一番危険とされる。殿(しんがり)は後備(あとぞな)えとも言われ、有名な戦では「金ヶ崎の戦い」で豊臣秀吉が殿を引き受けて信長を逃がし、自らも命からがら戦場を脱出し信長に認められる結果に為った。 
 尚、ガダルカナル撤収作戦で一番最初に船に積んだものがあった。ガ島の砂を入れた米俵を数10俵だったと云う。それを何に使ったのか?遺族の元に届ける白木の箱に入れる砂だった。これも秘話の一つであろう。以下は124連隊遺族会「ホニアラ会」事務局・上村清一郎氏のコメントと、遺族会機関誌「つくし」に掲載された防衛研修員・近藤新治氏の文章を紹介したい。

  

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 「ガダルカナル撤収作戦」の最大の功績者は124連隊「宮野隊」であると紹介されて居ます。宮野隊の宮野政治中尉は福岡県朝倉郡夜須町出身、ご遺族は福岡ホニアラ会会員の義弟・宮野正明様です。この様な貴重な記録は、聯隊史等に記載されて居ないので皆様にご報告申し上げたい。(事務局・上村清一郎)
 

 「ガダルカナル撤収殿軍の最期」
                        防衛研修員 近藤新治
 

 ・・・餓え衰えた日本軍の撤収作戦は成功したが、その陰には撤退を支えた尊い犠牲があった。

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 挟み撃ちを企図した米軍
 
 日本本土を離れる5千キロ、南太平洋のガダルカナル島で行われた作戦は、結果を知り尽くした今と為っては日本軍の作戦指揮の失敗と云う枠を一歩も出るものでは無い。だが、勝利の女神が日米何れに微笑むか判ら無い交戦途中の軍隊に取っては、一つ一つの戦況が杞憂(きゆう)の元であった。どちらが勝つか判ら無い、今一押しすれば上手く行くかも知れ無い。そんな気持が常に付き纏って居たのが実相である。
 
 結果的には勝った米軍も昭和17年10月〜11月は、日本軍の攻撃に対して頑強な防禦線を保持する事を主とし、時々局地的な反撃を行った時期であり、12月は増援部隊派遣の途中で攻撃態勢整備時と云う事が言える。翌18年1月上旬、米軍のガ島(ガダルカナル島)の軍は三個師団に為った。海兵一個師団等で、海空の直接支揺蔀隊を入れると5万人を超えた。
 尚、日本軍は約1万5千人で、その第一線では餓死者が出る程補給が切迫して居た。

 元より米軍はその細部等知る由も無く、この段階で新しい大規模な攻勢を執る事に為り、大要次の様な作戦計画を建てた。
 先ず、速やかにアウステン山を攻撃し占領する。次いで一個師団(アメリカ師団)を飛行場の守備に充当し、二個師団(第二海兵・第25師団)で西進攻撃を行う。西進攻撃の要領は、先ず二個師団を海岸からアウステン山の間に並べて配置し日本軍の外翼を席捲する様に攻撃。マタニカウ川西方3千ヤードに第一線を拡張。次いで、2個師団で日本軍を補捉撃滅する為西方への攻撃を続行する、と云うものであった。計画段階で在ガ島米軍指揮官のバッチ将軍が発言した。

   

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 「日本軍は正面攻撃に対しては頑強に抵抗して始末が悪い。歩兵一個連隊程をこの辺に上陸させて敵の増援路を遮断し、併せて背面から攻撃させたらどうだ?」 

 バッチは、拡げられた地図の上のガ島西端を指揮棒で叩きながら言った。半年余りも戦争して居ると云うのに、ガ島の西端の状況を米軍は掴んで居なかった。そこで大事を取って一個大隊が北岸のコカンボナから西南方向に真っ直ぐ島の中央山系を横切り南岸に出る路を偵察の為先遣された。 
 四隻の駆逐艦に護衛された迂回隊の主力が、人員・資材・食糧・弾薬を一隻の駆逐艦と五隻の戦車揚陸艇に満載して北岸のククムから出航したのは2月1日午前4時の事であった。

 日本軍の主要揚陸点エスペランス岬を遥か左手に眺め乍ら、目的地ヴェラヒュー海岸に上陸したのは午前11時を過ぎて居た。揚陸艇は帰途、日本軍急降下爆撃機14機の攻撃を受け一隻が沈没した。駆逐艦も至近弾で操舵装置が破壊され乗員2名が戦死した。引き続いて午後早く「20隻の日本駆逐艦がヴェララ・ヴェラ島北方を高速力で南下中」と云う報告が入った。 
 米軍司令部は、増援の為の陸上部隊の輸送艦隊と判断した。午後6時20分、南下を阻止する為41機がへンダーソン飛行場を離陸した。日本側は零戦18機が上空警戒に当たって居た。この戦闘で駆逐艦「巻波」を航行不能にした。
 夜に為って米側は四段の阻止手段を講じた。機雷と駆逐艦と魚雷艇と航空機による攻撃である。米軍のこの手を換え品を換えての阻止行動の中に日本の艦隊はズカズカと入って来た。
 
 米側の四つの手段は何れも効果無く魚雷艇が砲戦で二隻沈没した。米軍はその結果、一日夜は日本軍の増援輸送を成功させてしまったと判断した。二日の日中、東部の第一線タファサロング付近で放棄された無線通信機と割合い大きな機械工場跡で十組の砲の部品を米軍は入手した。だが米軍はこれ等の事は再開される攻勢の為の態勢整理の徴候と見た。
 日本軍の母艦航空機がブーゲンビルの飛行場から飛来したり、ガ島とラッセル島間の絶え間無い船の往来は北に向かっての撤退では無く、去年の11月半ばの頃と同様、増強が未だ進行中であるとの推定を強める以外の何物でも無かった。
 
 2月4日午後も同じ様に米軍の増援阻止作戦が行われた。戦爆連合64機による爆撃により駆逐艦「舞風」を航行不能にしたが、他の19隻の駆逐艦は何物かに憑かれた様に南下を続けた。7日も同じ様に18隻の駆逐艦がガ島に向かうのを偵察機が発見した。二隻に命中弾を与えたが編隊から落伍し無かった。 
 一方米軍は、ヴェラヒュー海岸から行動を起こし日本軍に決定的な強圧を加える為、2月7日にはエスペランス岬から約五キロの地点迄進出した。この日米軍連隊長が負傷し交代した。東から海岸通りを進んだ部隊はタファサロング西方1.5キロに達して居た。明日は愈々日本軍を東西両正面から挟撃出来る。バッチ将軍はルンガ岬の司令部でホクソ笑んで居た。
 
 だがその2月8日の朝、エスペランス岬に達した米軍第一線は、空の舟艇と放棄された補給品の他は何も見出され無かった。「何が起こったのだ?」恐る恐る進む東西両方向の米軍が接触したのは翌9日午後4時25分の事であった。
 バッチ将軍は腹立ち紛れにハルゼイ提督に打電した。「ガダルカナルに於ける日本軍全員の完全な撤退は本日16時25分に確認された。(中略)東京急行(日本本土からガ島への補給)は、最早ガダルカナルに終着駅を持って居ない」

  

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 矢野大隊の奮戦
 
 日本側の撤収について何故この様な奇跡が起きたのであろうか?原因は色々考えられるが、この時ばかりは日本側は作戦計画も見事であった。陸軍も海軍も撤退を成功させる為に捨身に為って居た。戦争の後半期に見られる様な軍紀の弛緩は無かった。戦争開始以来負けた事の無い軍隊である。今は具合が悪いが次の段階では必ず勝つと思って居た。等々各種の条件が重なって居る。
 だが、これ等の原因を列挙してみても一抹の物足り無さが残る。それは、相手方の米軍が戦術原則に忠実に何故猛烈果敢に追撃して来無かったのか?米軍が積極的に行動しさえすれば栄養失調で朽木の様に為って居た日本軍であるから一溜りも無い筈だが、と云う疑問が消え無いのだ。

 前段で述べた様に米軍は、日本軍の撤退行動を増援行動と誤判して居た。評者はこれを天佑と言い神助と言うが、史実を細かく調べると、前に触れた米軍が誤判した色々の戦術的徴候の他に明らかに「増援」と見るのが当然と思われる処置を日本軍は撤収作戦を成功させる為に発令して居たのだった。言わば「捨て石」である。捨て石は二目あった。一つは矢野大隊である。以下簡単にその概要を述べよう。

 二進も三進も(にっちもさっちも)行か無く為ったガ島の作戦を打ち切る為に、部隊を撤収せよと云う大本営命令がラバウルに伝達されたのは昭和18年1月4日の事である。前年8月から始まった戦闘で日本軍は既にガ島周辺の制空・制海権を失って居たので、命令だから撤退するとしても艦船と人員の半数は撤退し得まいと関係者の誰もが判断した。
 奇跡的に潜水艦で脱出して来た者の話では、ガ島ではマラリアと飢餓で満足に戦闘行動が出来る兵隊は居ないのでは無いかと云う。攻撃・防禦・追撃・退却・偵察・警戒等と云う地上作戦の戦術行動の中で、古来一番難しいと言われて居る退却作戦をそんな病人の兵隊でどうして実施出来様か。特に昔から最後に退る後衛部隊、これを殿軍(シンガリ)と云うが一番難しいとされて居る。病人部隊では殿軍は勤まるまい。

  

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 そこで、将(まさ)かの時には在ガ島部隊と一緒に斬り死させる積りで矢野大隊が選ばれた。矢野大隊は、第38師団(名古屋編成)の補充員で臨時に編成され、大隊長以下約750名、小銃三中隊・機関銃一中隊・山砲一中隊と云う編成である。
 出発の為の軍装検査に立会った井本等参謀が「全般の企図は何も知らぬ彼等、之(これ)を一人残らず殺すのだと思って見た時は感極まるの外は無かった」と、手記を書いて居る。当時、矢野少佐は「重大任務と云うだけで、撤退の事は知らされて居なかった」
 1月14日午後10時、折りからの猛烈なスコールの中を矢野大隊はガ島エスペランス岬に上陸した。新品の軍服に身を固めた750名の部隊の出現は、半年間風雨に晒され乞食の様な姿の者も居るガ島の日本軍に取っては驚異であった。「愈々攻勢だ!」飛行機と砲兵で叩かれ続けて居る将兵を勇気付けた。

 大隊は米軍機の空襲を避ける為夜間行軍を繰り返し1月17日朝には勇川の線に進出した。任務は一時歩兵第228連隊(長・田中大佐)に配属であった。やっと探した連隊本部で「好く来て呉れた。もう、うちの連隊には大隊長は一人も残って居らん。最後には俺と一緒に斬り込んで呉よ」田中大佐は、矢野大隊長の手を取らんばかりに真剣な表情で言った。
 連隊の属する第38師団の第一線は米軍の強圧の間隙を見て続々と勇川河谷に後退して居た。矢野は翌日の夕刻その集合場所に行ってみて驚いた。

  

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 「ヤッと歩ける兵だけが着の身着のままでフラフラと来る。そのフラフラの兵が病人を肩に担いで居るのだ。歩兵連隊の集団では無く野戦病院の移動と言った方が好い。それでも各兵は、兵器は確りと持って居る。
 中には病気の上に疲労が重なったのだろう、後方に退った安心感から集結地に辿り着き乍ら息を引き執る兵も居た。看護する人も無く薬も無く皆が病人なのだ。この状態で好くも今まで頑張って居たものだ。人員は一個連隊と言っても百名程しか居なかった」


 と述懐して居る。19日朝から矢野大隊は勇川東岸に陣地占領した。この日から第38師団が後退行動を起こしたので大隊は文字通り第一線と為り米軍主力と接触する事に為る。

 この頃の米軍の戦法は、

 4〜50人で横隊と為り、辺り構わず射撃し乍ら前進する。日本軍が一人でも陣地に居て射撃でもすれば直ちに後退する。
 30分か1時間程して、その日本兵の位置に物凄い迫撃砲と砲兵の射撃を集中する。
 それが終ると最初の要領で歩兵部隊が攻撃前進して来る。

 このパ夕ーンの繰り返しであった。米軍としても、勇川の線で今迄と違った新しい服装の敏捷に動く日本兵の姿を見てこれは変だと思った。そして矢野少佐自身もこの時点では、ハッキリと撤退援護の為の後衛部隊とは聞いて居無かったので、日本軍増援部隊の第一陣と漠然と考えて居たと云うから、相手の米軍が「増援」と判断しても少しも可笑しく無い状況であった。

 矢野は、前記米軍の戦法を巧みに逆用して、後衛部隊として最大限に時間を稼いだ。即ち、
 夜間の内に陣地占領する。
 米軍を最大限引き付けて不意に射撃。
 米軍の集中射撃間、第二線に後退。
 射撃が止めば第一線に復帰。
  5 絶対優勢な米軍が、ジャングル等を利用して包囲態勢を整え、大隊の陣地保持が困難に為れば、夜間を利用し次の陣地に後退する。

 この遣り方で、五線の陣地で実に14日間の時間を稼いだ。一陣地平均三日間と云う遅滞日数である。軍主力の後退時期・距離等から矢野大隊の捨て身の援護振りが偲ばれる。

  

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 宮野隊の最期
 
 戦術的に見て勇川以西の撤退地域の要点はタファサロングとセギローである。エスペランス岬とカミンボと云う上船地点を援護出来る地点はこの二つしか無い。只セギローはエスペランス岬との距離が5〜6キロしか無く、重砲の射程を考慮すると如何にも近過ぎる。
 一方、引揚艦艇の手配が第一次撤収(第38師団乗艦予定)まで10日も掛かる。最前線の拠点は米軍の強圧に耐えかね一つずつ玉砕して行く危殆に瀕して居る。崩壊寸前だ。そこで軍は、先ず第二師団をタファサロング付近に陣地を占領させ第38師団が離島する迄援護させる事にした。矢野大隊は、その第二師団の陣地の前面で時間を稼いだ。サテ、その第二師団も2月2日乗船地に向った。後は矢野大隊だけである。
 
 その頃に為ると米軍も戦車を繰り出して来たので、矢野も「最早、これまで」と何度か観念した。が、何とか2月4日まで陣地線を維持した。この日、第二師団が第二次撤収部隊として離島した。命令により後退した最後の陣地がセギローであった。
 ここのジャングル地帯は軍の野戦病院と師団の患者収容所があった所だ。これ等の施設は名ばかりで、ジャングルの湿地に樹の枝を並べた程度である。泥津路(どろつじ)の両側は屍(しかばね)を埋めた土盛りが畝(うね)を為している。
 
 2月4日、ここに撤収作戦第二の捨て石が置かれた。総後衛部隊作戦命令の第四項がそれだ。
 「宮野中尉は残留患者を指揮し、現在地を確保し敵の前進を拒止すべし」
 一見何の変哲も無い退却作戦命令の定型文句であるが、それは後刻、撤退が命令されると云う前提があっての表現だ。だがこの場合はその前提は無い。三日後に予定される第三次撤収で、矢野大隊を主力とする約2千名のガ島残留者は全部引き揚げてしまうのだ。

 殿軍の総後衛部隊長(松田教寛大佐)は、その日(4日)の朝、計画通り矢野に「将校の指揮する約70名を残置、主力は日没後乗船点へ転進」と命令した。矢野は、即座に「大隊全力で残留」させて呉れと言った。70名だけの部下をどうして残せるか、死なば諸共である。問答をして居る間も米軍の砲声が反復する。
 矢野は「命令は命令として、大隊全員が残ろう」と腹を決めて指揮所を飛び出した。その様子を見て居た松田は「何とかこの男とその精鋭な部下を生かしてやりたい」と思った。

  

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 今回の撤退命令が出た時、現地第17軍司令部が反対した理由の一つに、
「もし撤収出来たとしても、それは後方部隊や足腰の立つ者が主であって、勇敢に飽く迄戦闘し栄養失調で動け無く為った将兵の殆ど全部は遺棄死体として残置する事に為る。それは統率上忍び難い」
 と云うのがあった。だがどの様な理由があれ、大命遊奉、撤収作戦実施と云う事に為ったのだ。そこで軍司令部の心配が現実の問題と為った。「撤退計画」に感情を押さえて冷たく表現した次の文句がある。

 「単独歩行不可能者ハ 各隊共最後迄現陣地ニ残置シ 射撃可能者ハ射撃ヲ以テ敵ヲ拒止シ 敵至近距離ニ進撃セバ 自決スル如ク 各人昇示錠二錠宛ヲ分配ス」

 松田は、矢野が前線に飛んで帰った後、セギロー付近の歩行困難な兵隊の数を調べさせた。「128名であります」椰子の根元に天幕を敷いて座っている松田に本部の書記が報告した。誰に指揮させるべきか松田は迷った。「私が残ります」宮野政治と云う予備役の中尉が松田の心を見透かす様に足を引き摺りながら寄って来た。歩兵第124連隊の将校だ。
 松田は矢野に対する命令を取り消して前掲第四項の宮野に対する文章を入れた。総後衛部隊は乗艦地カミンボに集結した。
 
 今日は2月7日、宮野達と別れてから3日に為る。午後4時、後数時間で最後の駆逐艦が迎えに来る。全ての手配を終わった松田の耳に、遠雷の様な米軍の砲声が聞こえて来る。心の中で手を合わせる想いで、松田は手帳に書いた。

 「敵の砲撃は猛烈為るも、セギロー陣地は依然確保しあるものの如し。今尚、残置してある将兵はもう再び会う事は出来無い。又生きる事も出来無い。真に断腸の思いである。然し如何とも致し難い」 

 「総後衛部隊戦闘詳報」宮野隊の欄外余白に、二重丸して「殊勲甲」と朱書きしてある。

 以上


 この悲劇の成り立ちはどの様なものであったか・・・次に解説する・・・

  

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