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2019年11月10日

「板金機械の王者」に育て上げたカリスマ経営者退任




 「板金機械の王者」に育て上げたカリスマ経営者退任


           〜日刊工業新聞電子版 11/9(土) 14:33配信〜

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     新型レーザー加工機を披露する岡本会長(左)と磯部社長(2019年5月)





 アマダHD、体制一新で次なる商機へ
 
 アマダホールディングス(HD)が、2020年4月に経営体制を刷新する。2003年から2017年に渡り同社を率いた岡本満夫会長兼最高経営責任者(CEO)が3月末で退任し、経営の第一線から退く。
 更に、アマダHDと主力事業会社のアマダ(神奈川県伊勢原市)が統合し、4月から新生アマダとして再始動する。岡本会長は経営危機の旧アマダを世界最大級の板金機械メーカーに発展させた。板金のカリスマが去った後の舵取りは、ホボ一新される新しい経営陣が担う。

 アマダHDは、板金機械で世界最大級の規模の会社だ。生産財専業メーカーで売上高が3000億円を超える企業は世界に数える程しか無い。7日公表した業績も、世界経済の停滞が指摘される中、4〜9月期で過去最高の売上高に伸ばした。
 そうした同社もバブル経済の崩壊で大幅な連続赤字を計上した時期がある。2003年にそうした惨状を打開するべく経営トップに立ったのが岡本会長だ。

 岡本会長は非創業家初の社長として、日本経済の失われた20年の最中に就任した。バブル崩壊は、大量生産の時代の終焉(しゅうえん)であり、多品種少量・変種変量生産の時代への急速な変化を意味した。
 顧客の工場にトラックで見本の機械を持ち込んだり、景品着きの派手な商談会を開いたりと云う、独特の営業手法で知られた「営業のアマダ」のビジネスモデルは時代に合わ無いものに為った。

 社長就任間も無い岡本会長は、大量生産から変種変量への変化に反応し、最先端の加工機と周辺装置を組み合わせ、顧客が儲ける為の加工技術を合わせて提案する「エンジニアリングのアマダ」への脱皮を指揮した。工程集約、省人化対策と云う現在の機械メーカーが選択すべき事業モデルを2000年代初めに築いた事に為る。
 これがアマダの第2創業と為った。この様な戦略転換が功を奏し、売上高は2003年度から2018年度に倍増、営業利益は19倍に跳ね上がった。

 板金加工は、板金を曲げたり切ったりして任意の形状にするものだ。従来、材料の切断に金型を使って居たが、今はレーザーにホボ置き換わった。アマダは2007年にレーザー専用工場を立ち上げ、この流れに先手を打って主導した。
 2010年にはファイバーレーザー加工機を製品化した。ファイバーレーザー加工機は、高生産性・省エネルギー性が評価され、現在の板金加工の核と為る技術だ。

 板金機械メーカーとして同加工機のエンジンである発振器を開発したのは世界初とされ、業界の新常識を作る事に成功した。同社レーザー加工機の2018年度売上高は、2003年度比3・7倍の約900億円と飛躍的成長を遂げた。




 
 加工業の新常識を確立

 事業のグローバル化も推進した。日本、北米、欧州、中国の工場を拡充し、地産地消の供給体制を整備した。特に強化したのが米国だ。2008年10月にイリノイ州シカゴ近郊のシャンバーグにソリューションセンター、2012年6月にはカリフォルニア州ブエナバーグにテクニカルセンターを相次いで開設。更に13年2月、同州ブレアに約40億円を投じて新工場を稼働させた。
 米国での新工場建設は実に40年振りだった。これにより、米国中西部、東部の営業体制を構築。2012年にはレーザー加工機の販売が米国で初めて首位と為った。

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 岡本会長はアマダHDの再生ばかりでは無く、業界に取っても板金加工を新種のファイバーレーザーで行うと云う加工業の新常識を確立した功績がある。岡本会長は、頭、言葉のキレは今でも鋭い。頭脳、身体共に健康体の今だからこそ、事業の安定成長に向けたスムーズな事業承継を図ったと見られる。


           日刊工業新聞・六笠友和    以上

 



 【参考資料】アマダとは・・・お客さまと共に成長を続けて来た70年の軌跡

 1946年 焼け残った旋盤1台からの創業焼け残った旋盤1台からの創業

 当時32歳の天田 勇は、終戦後の軍需工場に残った旋盤を用いて、個人経営の囁かな機械修理工場を開設しました。これがアマダグループの創業であり、全ては焼け残った旋盤1台から始まったのです。

 1955年 国産1号機の開発に成功し、機械メーカーとしての第一歩を

 欧米では既に普及して居たバンドソー(帯鋸盤)の国産化に挑戦。設計開始から3カ月で完成させた第1号機は、輸入品に劣らぬ性能で好評を博しました。これが、アマダグループの機械メーカーとしての第一歩と為りました。

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             縦型帯鋸盤「コンターマシン」

 1960年 業界初のデモ・カー販売により事業が急拡大

 お客さまの元に機械を運んで実演するデモ・カー販売を開始。この独創的な営業手法は、後に展示場販売に変遷し、今日のテクニカルセンターを活用した「エンジニアリング提案」へと発展しました。

 1971年 世界的ベストセラーが誕生
 板金加工の先端技術を吸収する為、米国にU.S.アマダを設立。同社が開発したNCタレットパンチプレスは、当時最大の課題とされた穴あけ加工の精度向上に寄与する画期的な商品として、世界各地で好評を博しました。

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            NCタレットパンチプレス「LYLA-555」

 1980年 レーザ加工を実用化し、今日のレーザ技術の礎を築く

 未だレーザが普及して居なかった当時、金型を使用しない革新的な板金加工技術としてレーザに着目し、切断用途のレーザマシンの実用化に成功。この時期からの蓄積が、今日のレーザ技術の礎に為って居るのです。

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             レーザマシン「LASMAC-644」

 1990年 売上高2,000億円突破

 1980年代はアメリカやフランス等欧米に生産会社を設立する等海外生産が進みました。業容の拡大と共に1982年に1,000億円だった売上高は1990年には2,000億円を突破しました。又、1990年代は中国に販売会社、生産会社を立て続けに設立する等、アジアへの進出を本格化させ、グローバル企業への歩みを強めました。

 2003年 「金属加工機械の総合メーカー」へ

 グループ再編により製販一体と為った体制へ変革。金属加工に対応する商品群を、ソフトウエアや周辺装置、保守サービスと併せて提供する「金属加工機械の総合メーカー」としての基盤を確立しました。

 2010年 ファイバーレーザ発振器を世界で初めて自社開発

 機械メーカーとしては世界で初めてファイバーレーザ発振器の自社開発に成功。CO2レーザに代わる次世代技術であるファイバーレーザを搭載した事で、難加工素材への対応や、高いエネルギー効率を生かした省エネ提案が可能に為り、トータルソリューションが更に充実しました。


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              ファイバーレーザ発振器

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        ファイバーレーザマシン「FOL-3015AJ」

                  以上





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