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2019年10月25日

特攻機の盾と為った戦闘機乗りが、目の当たりにした「司令部の無策」




 特攻機の盾と為った戦闘機乗りが、目の当たりにした「司令部の無策」


            〜現代ビジネス 10/25(金) 9:01配信〜

 75年前の今日、1944年10月25日、最初の特攻隊である「敷島隊」が米海軍機動部隊に突入した。この爆弾を抱いた航空機で敵艦に体当たりする搭乗員必死の戦法は、戦局が圧倒的に不利に為ってから採用された作戦である。
 だが、実はこの2年前、日本艦隊が最後に米艦隊と互角に渡り合った「南太平洋海戦」では、生還不能としか思われ無い戦場へ搭乗員達が死を決して出撃して行くと云う状況に為って居たと云う。

 この海戦で艦上爆撃機搭乗員だった兄を失い、自らも戦闘機隊の飛行隊長として何度も特攻機の護衛に出撃した岩下邦雄さんは、特攻と云う作戦に非があるとすれば、作戦を運用した司令部の余りの無策振りにあると云う。

      10-25-10.jpg

 〜昭和19年10月20日 特攻隊編成の日。バンバン川の河原で敷島隊・大和隊の別杯。
 手前の後ろ姿は大西瀧治郎中将 向かって左から、門司親徳主計大尉・玉井浅一中佐(何れも後ろ姿)・関行男大尉・中野盤雄一飛曹・山下憲行一飛曹・谷暢夫一飛曹・塩田寛一飛曹〜


 「兄貴の出撃は、特攻に近かった」

 昭和19(1944)年10月25日、フィリピン・レイテ島沖で「神風特別攻撃隊(特攻隊)」が、初めて米護衛空母に突入。250キロ爆弾を搭載した延べ10機の零戦による体当り攻撃で、護衛空母1隻を撃沈・5隻に損傷を与えた。今から丁度75年前の事である。
 これ等特攻隊の目的は、レイテ湾に押し寄せる敵上陸部隊を粉砕する為、総力を挙げて出撃した戦艦「大和」以下の主力艦隊が無事に目的地に辿り着ける様、脅威と為る敵空母の飛行甲板を破壊し、暫くの間、使用不能にする事だった。

 この日、突入に成功した特攻隊は、満23歳の関行男大尉を指揮官とする「敷島隊」「大和隊」「菊水隊」「朝日隊」の四隊で、爆弾を搭載した爆装機と、爆装機の突入を自ら盾に為って掩護し戦果を見届ける直掩(ちょくえん)機、夫々数機で一隊を編成して居た。
 「比島沖海戦」と呼ばれるこの戦いで、日本艦隊によるレイテ湾突入は、結局、失敗に終わり、壊滅に近い惨敗を喫する。だが、戦法としての「特攻」は、その後も終戦迄続けられ、空に海に多くの若い命が失われた。

 戦後、10月25日には幾つもの慰霊祭や慰霊法要が執り行われ、関大尉(戦死後、二階級進級で中佐)の故郷・愛媛県西条市の楢本神社に昭和50(1975)年に建てられた慰霊碑の前では、今も盛大な慰霊祭が挙行されて居る。
 一切公開される事無く、当事者だけでヒッソリと営まれた慰霊行事もあった。東京・芝の寺に過つての軍令部総長や司令長官、司令部職員や元特攻隊員が集った「神風忌・しんぷうき」と称する慰霊法要も、その一つである。

 「神風忌」の法要は昭和21(1946)年から平成17(2005)年迄、60回に渉って続けられた。参列者名簿には、及川古志郎大将・福留繁中将・寺岡謹平中将・猪口力平大佐を初め、特攻に関わった指揮官達の名前が、夫々生を終える直前まで残されて居て「命じる側」の良心の呵責を垣間見る事が出来る。私は許しを得て、この慰霊法要に最後の4年間、参列する事が出来た。
 「神風忌」に欠かさず参列して居た人の中に、フィリピンや沖縄の戦いで特攻機を護衛し、激戦を潜り抜けた戦闘機乗り・岩下邦雄(大尉 1921-2013 戦後 会社経営)が居た。

 岩下は、昭和13(1938)年、海軍兵学校(海兵)に六十九期生として入校、卒業後は巡洋艦「羽黒」「青葉」を経て飛行学生と為り、戦闘機搭乗員と為った。兄・豊も同じく海兵(六十六期)卒業後、艦上爆撃機(艦爆 急降下爆撃機)のパイロットに為って居る。兄弟共に飛行学生を一番の成績で修了、恩賜の銀時計を授与された。
 兄弟で飛行学生トップと云うのは日本海軍でも唯一の例だが、邦雄に取っては豊と云う目標があればコソの事だった。

 兄・豊は昭和17(1942)年5月27日、結婚して姓が石丸と変わるが、同年10月26日、空母「瑞鶴」艦爆隊分隊長として日米機動部隊が激突した「南太平洋海戦」に参加。米空母「ホーネット」に爆弾を命中させたものの、自らも被弾し重傷を負う。
 辛うじて味方艦隊上空へ辿り着いたが、力尽きて不時着水、救助された駆逐艦の艦上で「ズイカク……」と一言発してこと切れたと伝えられて居る。新婚僅か5ヵ月の出来事だった。

 「神風忌」の慰霊法要の時、岩下は「今日は海兵で一期後輩の関君達の命日。明日は兄貴の命日。尊敬出来る自慢の兄でした。この両日は、私に取っては特別な日です」と、挨拶するのが常だった。 「兄貴の出撃も、或る意味、特攻に近かったと思うんですよ」
 「十死零生」の特攻隊と、生きて再び戦う余地が残された他の部隊とで、隊員の精神状態を比較する事は難しい。だが、今から77年前の昭和17(1942)年10月26日に戦われた「南太平洋海戦」は、その2年後に始まった「特攻」と比較して、岩下がそう回想しても可笑しく無い程に凄絶な戦いだった。

 



 足った一度の攻撃で戦力の8割を失う
 
 南太平洋海戦の経過を、生還者へのインタビューから振り返ってみる。

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      空母「瑞鳳」零戦隊を率いた日高盛康大尉(右写真撮影 神立尚紀)
 
 昭和17(1942)年10月26日、日米機動部隊がホボ同時に相手を発見し、双方共、直ちに攻撃隊を発進させた。空母「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」の第一航空戦隊から出た第一次攻撃隊は零戦21機・九九式艦上爆撃機21機・九七式艦上攻撃機(艦攻・雷撃・水平爆撃兼用)20機の計62機
 攻撃隊が発艦した直後「瑞鳳」は、索敵に飛来した敵艦上爆撃機・ダグラスSBDドーントレスの投下した爆弾を飛行甲板に受けた。

 第一次攻撃隊が高度3000メートルで米機動部隊に向け進撃する途中、米空母「ホーネット」より発進したSBD艦爆15機とスレ違った。敵は右前方、高度2000メートル。発艦してから間も無いと見えて、未だ編隊も組めずにバラバラに飛んで居た。
 高度差1000メートル、日頃の射撃訓練の形をそのママ持って来た様な絶好の条件である。が「瑞鳳」零戦隊9機を率いる日高盛康大尉(後少佐 1917-2010 戦後、航空自衛隊〜富士重工テストパイロット)は「任務は攻撃隊の直掩」と、その敵機をヤリ過ごした。

 更に10分後、今度は「エンタープライズ」から発艦したグラマンF4F戦闘機・グラマンTBFアベンジャー艦攻各8機・SBD艦爆3機と遭遇した。敵機は右前方からコチラに向かって来る。先程と全く同じ条件である。日高隊は丁度太陽を背にして優位な態勢にあった。日高の脳裏を、4ヵ月前のミッドウェー海戦の悲劇が過ぎった。「今ならこの敵をヤッツケても攻撃隊に追い付ける」
 そう思った次の瞬間には、日高は攻撃開始のバンクを振って、訓練通り、敵機が自機の右主翼前縁、先端から3分の1に見える位置に差し掛かった処で切り返し、敵編隊に突入して行った。

 「太陽の方向から奇襲を受けた敵機は、次々と火を噴いて墜ちて行く。敵戦闘機は、クルクルと旋回するばかりで何故か反撃して来ませんでした。一撃の後、高度を取って全体を見渡すと、墜落した敵機が、海面にピシャン、ピシャンと水飛沫を上げるのが幾つも見えました」  

 と、日高は回想する。米側記録には、この空戦でF4F 3機が撃墜され1機が損傷、TBF 4機も撃墜されたとある。F4Fの戦意の無さに比べて、TBFの後部旋回機銃は意外に命中精度が好く侮れ無いものだった。零戦2機が旋回機銃に撃墜され、もう1機も被弾し大破した。しかも思いの他空戦に時間を盗られ、一段落した時には味方攻撃隊の姿は最早視界からは消えて居た。
 日高が上空で列機を集合させると、日高機は増槽(落下式燃料タンク)を着けたママだったが、列機のうち5機は増槽を落として居て、しかも殆どの機が機銃弾を撃ち尽くして居た。日高は、味方攻撃隊を追う事を諦めざるを得無かった。

 この時の日高隊には、更に追い打ちを掛ける様な、隠れた出撃時の不手際があった。通常、空母から発進する際には、艦の現在位置と予定針路をプロットしたチャート(航空図)を、航海士が指揮官に渡すものだが、急な出撃にチャートが間に合わず、日高はチャートが受け取れ無いまま発艦して居たのである。「瑞鳳」の艦橋は飛行甲板の下にあり、飛行甲板上との連携が執り辛い欠点があった。
 空戦には勝利したが、戻るべき母艦の位置が判ら無い。クルシー(無線帰投装置)のスイッチを入れてみたが、空戦時に掛かった荷重の所為か、故障して居て何も聞こえ無い。無線も通じず、進退窮まった日高は、列機を小隊毎に解散させ、各々の小隊長の航法に任せて母艦に帰投を試みる事にしたが、2機が機位を失して行方不明に為った。

 日高隊の空戦で、味方空母に向かう敵攻撃隊を蹴散らし、それによる損害を未然に防ぐ事が出来たが、この為に、只でさえ少ない攻撃隊掩護の零戦が12機とホボ半減し、敵空母上空に待ち構えて居た38機のグラマンF4Fとの交戦で苦戦を強いられた。
 艦攻・艦爆隊はグラマンからの攻撃と敵艦隊の撃ち上げる対空砲火を掻い潜って、空母「ホーネット」に魚雷と爆弾を命中させたが、艦攻16機・艦爆17機・零戦4機を失った。生還した艦攻、艦爆は夫々4機のみである。8割を超える艦爆・艦攻を、足った一度の攻撃で、搭乗員と共に失ったのだ。

 「瑞鶴」九九艦爆隊を率いた岩下邦雄の兄・石丸豊大尉が、偵察員(2人乗りの後席)・東藤一飛曹長と共に戦死したのはこの時の事だった。

 ・・・日高大尉が率いる「瑞鳳」零戦隊が命令通り、攻撃隊の護衛に付いて居れば味方攻撃隊の犠牲を少なく出来たかも知れない。しかし、そうするとミスミス敵機による味方機動部隊への攻撃を許す事に為り、ミッドウェー海戦の二の舞に為った可能性もゼロでは無い。
 今日の目で日高の判断の是非を論じるのは難しい。だが、現場指揮官が遭遇し瞬時の判断を求められた究極の局面として、戦後、航空自衛隊でも「自分が日高大尉の立場ならどの様に行動するか」を考えさせる、幹部教育の教材に使われた程の教訓をこの戦いは残した。

 



 戦死した皆とのチームプレー

 機動部隊は第一次攻撃隊を発進させた後、直ちに第二次攻撃隊の準備に掛かり「翔鶴」から零戦5機・九九艦爆19機、「瑞鶴」から零戦4機・艦攻16機を発進させた。
 第二次攻撃隊もグラマンF4F 10数機の邀撃を受け、更に対空砲火を浴びて、艦爆12機・艦攻10機・零戦2機を失った。米空母「エンタープライズ」と戦艦「サウスダコタ」に新たに装備された新型のエリコン20ミリ、ボフォース40ミリ対空機銃の威力には凄まじいものがあった。

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       空母「翔鶴」零戦隊・佐々木原正夫二飛曹(右写真撮影 神立尚紀)

 そんな中、第二次攻撃隊に参加した「翔鶴」零戦隊の佐々木原正夫二飛曹(後少尉 1921-2005 戦後、森永製菓勤務)は、被弾し、気息奄々として居る敵空母「ホーネット」を上空から見て、機上でバンザイを叫んだと云う。佐々木原は、日記に次の様に記して居る。

 ・・・クルシーを入れてみると、味方の母艦群より連続信号を発信して来るのが受信された。然し未だ母艦は見えず、又その位置も判ら無ければ測定も出来ぬ。クルシーが破壊されてゐるのだ。諦めて電話に切り換えたが感度無く、電信にダイヤルを切り換えると間も無く感度あり、総戦闘機(サクラ)及び制空隊(ツバメ)に呼び掛けて居るのが聞こえた。
 シメタ!と受信に掛る。右手の操縦桿を左手に持ち、レシーバーを完全に装着して、ダイヤルを調節して聞こえるのを右膝の上の記録板に書き留める。『サクラサクラ我の位置、出発点よりの方位二十八度 九十五浬 速力三十ノット、針路三十三度。一三三五(注:午後1時35分)』次いでサクラサクラと連送して来る。直ちに母艦の位置を計算、会合点時間を計測する・・・

 
 「翔鶴」より索敵に発進して居た吉野治男一飛曹(後少尉 1920-2011 戦後 東京電力勤務)は、途中、敵艦上機と遭遇した他は敵影を見ず、午前9時頃、母艦上空に帰って来た。吉野は語る「着艦セヨの信号で着艦コースに入り、艦尾近くに達してまさに着艦寸前、母艦の着艦用誘導灯が消え、飛行甲板が大きく左に傾きました」
 上空では、敵急降下爆撃機が、まさに攻撃態勢に入って居た。「翔鶴」はそれを回避する為に右に転舵したのである。吉野の目前で「翔鶴」は忽ち夥しい水柱と煙に覆われた。

 「翔鶴」には爆弾3発が命中、幸い、攻撃隊を出した後でミッドウェーの時の様な誘爆は起さずに済んだが「瑞鳳」に続いて発着艦が不可能に為った。吉野機を初め、攻撃や上空直衛から生還した飛行機は、全て「瑞鶴」に着艦せざるを得無く為る。同じ頃、艦隊前衛の重巡「筑摩」も敵の爆弾4発を受けた。
 一方、機動部隊本隊の西方に居た前進部隊の空母「隼鷹」は、敵との距離280浬(約520キロ)の位置から、志賀淑雄大尉(後少佐 1914-2005 戦後、会社経営)が指揮する零戦12機・九九艦爆17機の第一次攻撃隊を発進させて居る。

 志賀の回想「断雲の間から、行き成り1隻の空母が現われ、飛行甲板からグラマンが2機、発艦するのが見えました。『ア、好いぞ、アレに行くんだな』と、艦爆が単縦陣に為って降下して行く上を、戦闘機の方がスピードが速いのでツンノメラ無い様にエンジンを絞って蛇行運動しながら付いて行きました。
 兎に角、艦爆はドッチに行く?敵戦闘機は?と考えながら、対空砲火なんか全然目に入りませんでしたね。そして、幾つかの断雲を抜けて、アッと思ったら戦艦の真上に出てしまったんです。『アレ、戦艦だ』と思う間も無く高度70メートル位にまで下がったと思います。
 大きな煙突が目の前に現われて、天辺に金網が張ってあるのがハッキリと見えましたよ。艦爆の三浦尚彦大尉機に付いて行った筈だったんですが、雲の中で逸れたんでしょう、三浦機が何時火を噴いたのかも判りませんでした」

 
 志賀は意識しなかったが敵の防御砲火は此処でも衰えを見せず、艦爆隊17機の内9機が撃墜されて居る。

 「隼鷹」では更に、第二次攻撃隊として、臨時に着艦して居た「瑞鶴」の九七艦攻7機に魚雷を積んで、零戦8機と共に発進させる。雷撃隊は、敵空母に魚雷3本・巡洋艦に1本を命中させたと報告したが、2機が撃墜され、艦攻隊の全機が被弾した。
 空母「飛龍」雷撃隊の一員として真珠湾攻撃で戦艦「オクラホマ」、ミッドウェー海戦で空母「ヨークタウン」に魚雷を命中させた「隼鷹」艦攻隊の丸山泰輔一飛曹(後少尉 1922-2010 戦後、木材会社勤務)は、この攻撃でも「ホーネット」に魚雷を命中させて居る。

 「雷撃と云うのは、サッカーと同じで、チームプレーです。アッチから攻めコッチから攻めして初めてゴール出来る。私の魚雷が命中したと言っても、単機で攻撃したのでは上手く行く筈がありません。これは、敵戦闘機や対空砲火を引き付けて呉れて戦死した皆の力なんですよ」

 と、丸山は回想して居る。

 



 戦死者数が日米逆転した海戦

 「瑞鳳」と「翔鶴」が被弾し、空母が「瑞鶴」だけに為った第一航空戦隊は残存機を描き集め、零戦5機・九九艦爆2機・九七艦攻6機の第三次攻撃隊を発進させる。ここまで来ると、最早敵の反撃も疎らに為って居た。
 「隼鷹」も、帰って来たばかりの第一次攻撃隊の生き残りの中から使用可能な飛行機を集め、零戦6機・九九艦爆4機から為る第三次攻撃隊を編成した。零戦隊指揮官は志賀大尉、艦爆隊は、第一次攻撃で分隊長クラスが戦死したので、初陣の加藤瞬孝中尉が指揮を執る事に為った。

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      岩下邦雄(左)と日高盛康(右)平成14年9月靖国神社にて(撮影 神立尚紀)

 初めての戦闘で、凄まじい防御砲火を潜り抜けてヤット生還した加藤中尉は、報告の声もシドロモドロで、未だショックから立ち直って居なかった。搭乗員待機室で参謀・奥宮正武中佐から「加藤中尉、もう一度願います。今度は君が指揮官を遣って貰いたい」と伝えられた加藤中尉は「エッ!又行くんですか」と、驚いた顔をして立ち上がった。

 志賀は語る「加藤中尉はトンちゃんの愛称で親しまれて居る可愛い男でした。蒼ざめて居る彼に『トンちゃん、戦争だぞ。敵を最後までヤッツケ無いと勝ったとは言え無いぞ。俺が付いてるから、攻撃が済んだら戦闘機を誘導せずに真っ直ぐに帰れば好いから』と励まして出撃したんです」

 「隼鷹」第三次攻撃隊は「ホーネット」に全弾を命中させ、艦爆隊は志賀に言われた通り一目散に母艦へ帰って行った。既に夕闇が迫って居た。
 志賀は列機を取り纏め、クルシーのスイッチを入れた。すると、母艦からの電波が入り、クルシーの航路計の針がピクンと動いた。発艦前、志賀は海軍兵学校で一期先輩の「隼鷹」通信長・佐伯洋大尉に「もし、無線封止だナンて言って電波を出さ無かったら、帰って来たらブッ飛ばすぞ」と言い置いて出て来たが、通信長の律儀さが有難かった。故障し易いクルシーが生きて居たのも幸運だった。

 翼端の編隊灯を点け、逸れ無い様ガッチリと編隊は組んだママ、針が指し示す方向に飛ぶ事1時間余り、周囲は既に暗闇に包まれて居る。突然、針がパタッと倒れた。志賀が下を見ると、真暗な海面に、パッと母艦の中心線のランプが縦一線に灯った。「隼鷹」であった。

 この海戦で、日本側は米空母「ホーネット」と駆逐艦1隻を撃沈「エンタープライズ」に損傷を与え、飛行機74機を失わせたが、空母「翔鶴」と「瑞鳳」他2隻が被弾。空母の喪失は無かったものの、飛行機92機と搭乗員148名に艦船乗組員約300名を失った。
 これは結果的に、日本海軍機動部隊が米機動部隊に対し、互角以上に戦った最後の機会と為ったが、搭乗員の戦死者数で見ると、空母4隻を失い大敗したミッドウェー海戦(同年6月5日〜6日)の121名をも上回る。特に、真珠湾攻撃以来、実戦の経験を積んで来た艦上爆撃機・艦上攻撃機の主要指揮官の大部分と練達の搭乗員を失った事は、以後の作戦にも大きく影響する、取り返しの着か無い痛手だった。

 米軍パイロットの戦死者は、ミッドウェー海戦では日本側の倍近い210名だったのに対し、南太平洋海戦では遥かに少ない26名(別に艦船乗組員約240名)だったとされて居る。艦船の得失では日本側の勝利とも取れるが、人的損失とそれによって受けたダメージは、日本側の方が遥かに大きかったのだ。
 岩下邦雄は、この海戦で兄・石丸豊大尉が戦死したのは、日高大尉が率いる「瑞鳳」零戦隊が、進撃途中で編隊を離れ、味方の攻撃に向かう敵機と戦った為に、艦爆・艦攻隊の護衛が手薄に為った一面は否定出来無いが、自身の経験と照らせば責められ無いと言う。

 「自分が後にフィリピンや沖縄で、艦爆隊や特攻機の護衛をした経験から言えば、どう遣ったら効果的な掩護が出来たのか、どうすればベストだったのか、最後迄答えが出無いママでした。今も時々自問自答しますが、本当に判ら無い。
 攻撃隊を護衛した事のある戦闘機乗りなら皆そうだったと思います。だから、兄貴が戦死した事で、日高さんの判断をトヤカク言う気は全く無い。兄貴と日高さんは海兵同期なんですよ。クラスメートを護衛出来無かった日高さんも、可なり辛い思いをされたんじゃないでしょうか」


 



 1度は却下された「生還不能の新兵器」

 南太平洋での日本軍の敗勢が明らかに為った昭和18(1943)年6月末頃から、海軍部内では飛行機に爆弾を搭載したママ敵艦に突入すると云う、捨て身の作戦が議論に上って居る。

 昭和18年6月29日、侍従武官・城英一郎大佐は、艦攻・艦爆に爆弾を積み、志願した操縦員1名のみを乗せて体当り攻撃をさせる特殊部隊を編成し、自身をその指揮官とする様、当時、航空本部総務部長だった大西瀧治郎中将に意見具申した。大西は「搭乗員が100パーセント死亡する様な攻撃方法は未だ採用すべき時期では無い」としてこの意見を却下した。
 同年10月には、黒木博司大尉・仁科関夫中尉が共同研究した「人間魚雷」の設計図と意見書を軍令部に提出したがこれも却下された。

 だが、昭和19(1944)年2月17日、中部太平洋における日本海軍の一大拠点・トラック島が大空襲を受け、壊滅的な打撃を受けた事で潮目が変わった。
 2月26日、先の「人間魚雷」の着想が見直される事に為り、呉海軍工廠魚雷実験部で極秘裏に試作が始められる。これは後に「回天」と名付けられる水中特攻兵器で、魚雷に操縦装置を着け、人間の操縦で敵艦に体当りするものだった。

 昭和19年4月4日、軍令部第二部長(軍備)・黒島亀人少将は、第一部長(作戦)・中澤佑少将に「体当り戦闘機」「装甲爆破艇」を初めとする新兵器を開発する事を提案し、その案を元に軍令部は、9種類の特殊兵器の緊急実験を行なう様海軍省に要望した。
 昭和19年5月には、一〇八一空の大田正一少尉が、大型爆弾に翼と操縦席を取り着け、操縦可能にした「人間爆弾」を着想、同隊司令・菅原英雄中佐を通じて空技廠長和田操中将に進言、航空本部と軍令部で研究を重ねる事に為った。

 6月19日には第三四一海軍航空隊司令・岡村基春大佐が、第二航空艦隊司令長官・福留繁中将に「体当り機300機を以て特殊部隊を編成し、その指揮官として私を任命されたい」と意見具申。岡村は更に、軍需省航空兵器総務局長に為って居た大西瀧治郎中将の元へも赴き、体当り戦法に適した航空機の開発を要望して居る。
 昭和19年8月に入ると、航空本部は大田少尉の「人間爆弾」案を元に、空技廠に試作を命じた。後の「桜花」である。

 特攻兵器の試作が決まったのを受け、昭和19年8月上旬から下旬に掛け、第一線部隊を除く日本全国の航空隊で「生還不能の新兵器」の搭乗員希望者を募集した。但し、その「新兵器」がどんなものであるか、その時点では明らかにされて居ない。
 昭和19年9月13日付で、海軍省に「海軍特攻部」が新設され、大森仙太郎中将が特攻部長に就任した。「特攻」は、既に海軍の既定路線だった。

 体当たり攻撃隊の編成開始と並行して、海軍軍令部は、来るべき日米決戦で敵機動部隊を撃滅する為の新たな作戦を練って居た。全海軍から選抜した精鋭部隊と、臨時に海軍の指揮下に入る陸軍重爆撃機隊で編成された「T攻撃部隊」による航空総攻撃である。
 「T」はTyphoonの頭文字を採ったもので、敵戦闘機の発着艦が困難な悪天候を利用して、敵機動部隊を攻撃すると云うものである。只、精鋭部隊と言っても、南太平洋海戦の頃とは状況が違う。飛行機の性能・機数が敵より劣り、実戦経験の無い搭乗員が多くを占める現状から、真面に考えれば敵機が飛べ無い程の荒天下で有効な攻撃が出来る筈が無い。

 コチラの都合のみを好い様に考えたこの作戦を発案したのは、軍令部第一部第一課の部員・源田實中佐、採択したのは軍令部第一部長・中澤佑少将である。案の定、と云うべきか、台湾沖に出現した敵機動部隊を攻撃に向かった日本の航空部隊は、昭和19年10月12日から16日に掛けて戦われた「台湾沖航空戦」で、敵空母を一隻も沈める事が出来ずに約400機を失い惨敗した。
 敵機動部隊は、ホボ無傷のままフィリピンに向かい、10月17日には米上陸部隊がレイテ湾沖に浮かぶスルアン島への上陸を開始して居る。処が、フィリピンに展開する日本海軍の基地航空部隊(第一航空艦隊)も、その戦力は約40機しか無い。

 フィリピンにおける日本海軍の航空兵力がこれ程弱体だったのは、台湾沖航空戦での損失と共に、前月に起きた二度の不祥事が原因だった。

 9月9日から10日に掛け、第一航空艦隊(一航艦)が司令部を置いて居たダバオが、米機動部隊艦上機による大空襲を受けた。10日早朝、見張所から「敵水陸両用戦車200隻陸岸に向かう」との報告が入り、浮き足立った根拠地隊司令部が「ダバオに敵上陸」を報じ、玉砕戦に備えて通信設備を破壊、重要書類を焼却し自ら司令部機能を失ってしまう。
 飛行機は空襲被害を避ける為、フィリピン各地に分散して居て、ダバオには飛べる飛行機が1機も無く、報告の真偽を確かめられ無かったのだ。

 夕方に為って、美濃部正少佐が、修理した零戦で現地上空を偵察飛行して見た処、敵上陸は全くの誤報である事が判った。見張員が、暁闇の海面の白波を、敵の水陸両用戦車と見間違えたのだ。これは、昔、平氏の軍勢が水鳥の羽ばたく音を源氏の軍勢と間違えて壊走した「富士川の合戦」を思わせる事から「ダバオ水鳥事件」と呼ばれる。
 敵機動部隊は9月12日、今度はセブ基地を急襲する。ダバオに敵上陸の誤報を受け、敵攻略部隊に備えてセブ基地に集められたママに為って居た第二〇一海軍航空隊(二〇一空)の零戦隊は、この空襲で壊滅的な損害を被った。基地指揮官・中島正少佐の発進命令が遅れ、離陸直後の不利な態勢で敵戦闘機に襲われたのだ。フィリピンでの決戦に向けて用意されて居た虎の子の零戦は、こうして戦力を失った「セブ事件」と呼ばれる。

 この一連の不祥事で、一航艦司令長官・寺岡謹平中将は在任僅か2ヵ月で更迭され、後任の長官には大西瀧治郎中将が親補された。この司令長官交代劇は、周到に準備されて居たものでは無く、飽く迄寺岡長官が責任を取らされた偶発的なものである。

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      大西瀧治郎中将の副官を務めた門司親徳主計大尉(右写真撮影 神立尚紀)

 大西中将の副官を務めた門司親徳主計大尉(後主計少佐 1917-2008 戦後、丸三証券社長)によると、米軍のスルアン島上陸を受け、大西は門司を伴って10月17日午後、第一航空艦隊司令部のあるマニラに到着する。その日の内に、前任の寺岡中将と大西との間で、実質的な引継ぎが行われた。辞令上は、大西の長官就任は20日付だが、この時点で指揮権は大西に移ったと考えて差し支え無い。

 



 「惰性で人の命を奪ってはいけ無い」
 
 聯合艦隊司令部は、敵のスルアン島上陸を米軍による本格的なフィリピン侵攻の前ブレと捉えて、それを迎え撃つべく、10月18日夕刻「捷一号作戦」を発動する。
 これは、栗田健男中将率いる戦艦「大和」以下の大口径砲による砲撃で敵上陸部隊を殲滅する事を柱とし、それを成功させる為、敵機動部隊を引き着ける陽動の空母部隊や、レイテ湾を南北から挟み撃ちにする別働隊等を配する、日本海軍の総力を注ぎ込んだ大作戦だった。

 新たに着任した大西中将は、配下に有る足った40機の飛行機で、主力艦隊のレイテ湾突入を支援し無ければ為ら無かった。門司は「海軍では『特攻』は既定路線だったんでしょうが、大西中将がフィリピンで、本当に特攻隊を出す決心をしたのは18日の夕刻、即ち『捷一号作戦』発動の時だったと思います」と語って居る。

 大西は、翌10月19日朝、現地航空隊の司令・飛行長に、マニラの司令部への参集を命じた。処が、戦闘機隊の二〇一空本部の在るマバラカット基地はこの日、間断の無い空襲を受け、司令・山本栄大佐と飛行長・中島正少佐は午後に為っても到着しなかった。業を煮やした大西は、門司副官を伴い車でマバラカットへ向かった。その道中、右前方にアラヤット山を望む辺りで、門司は「決死隊を作りに行くのだ」と云う、大西の呟きを聞いて居る。
 二〇一空に特攻隊の編成を指示したのはその夜の事だった。少数の航空兵力で、栗田艦隊のレイテ湾突入を成功させる為に出来る事は、例え沈め無いまでも、敵空母の飛行甲板を一時的に使え無くする事しか無い。それと共に、大西が特攻隊編成を決意したのは「敵に本土上陸を許せば、未来永劫日本は滅びる。特攻は、フィリピンを最後の戦場にし、天皇陛下に戦争終結のご聖断を仰ぎ、講和を結ぶ為の最後の手段である」と云う思いがあったからだった。

 この事は、昭和天皇の弟宮として大きな影響力を持つ海軍大佐・高松宮宣仁親王、米内光政海軍大臣の内諾を得て居たと云う。詰まりこれは、表に出さざる「海軍の総意」だったと見て差し支得無い。

 大西の要請を受けて、二〇一空副長・玉井浅一中佐が人選し「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」と名付けられた最初の特攻隊が編成されたのは10月20日、第1回の出撃は21日の事である。22日に若桜隊、23日に菊水隊が新たに編成される。
 特攻隊は、味方索敵機が報告する敵情に従って出撃するが、予定海面に達した時には既に敵艦隊が移動して居て見当たらず、帰投する事を繰り返した。その間、突入が確認され無いまま未帰還に為った隊員も居る。10月25日、関大尉が突入したのは4度めの出撃の時だった。

 だが、特攻隊の、文字通り命を爆弾に代えた犠牲も空しく、栗田中将はレイテ湾突入を断念「決戦」は又も日本側の大敗に終わる。それでも、米軍の更なる侵攻を食い止めようと、特攻隊は次々と編成され飛び立って行った。
 栗田艦隊の失敗で敵の勢いを止められ無く為った今「敵空母の飛行甲板を一時的に使用不能にする」と云う当初の限定的な目的が、変容せざるを得無く為ったのだ。

 南太平洋海戦で兄を失った岩下邦雄大尉は、局地戦闘機「紫電」で編成された第三四一海軍航空隊戦闘第四〇一飛行隊長として、フィリピンで、連日の様に出撃を重ねて居た。

 「12月16日、ミンドロ島の米攻略部隊攻撃に、艦爆隊を護衛して出撃した時の事です。ボツボツ予定地点かな、と思った時、断雲の下に敵攻略部隊を発見しました。驚いたのは上陸用舟艇の数です。マルでバケツ一杯の羽根を撒き散らした様に無数の船が航行して居て、私は、コレは味方が全弾命中させてもカスリ傷にも為るまいと、力が抜ける様な気がしました」
 
 岩下はその後、主戦場が沖縄に移ってからは、横須賀海軍航空隊笠之原派遣隊指揮官として、九州から沖縄方面への出撃を繰り返す事に為るが、その間、戦場で感じた「特攻」の意味の変化に付いて、次の様に語って居る。

 「フィリピンでの最初の特攻は、それ迄通常攻撃でさえ、出撃した飛行機の殆どが未帰還に為り、しかも戦果を挙げられ無い様な場面が多かったから、搭乗員の側にも仕方が無いと云う空気はありました。我々皆、遅かれ早かれこの戦争で死ぬものだと思ってましたからね。関君達が、足った10機で栗田艦隊を上回る戦果を挙げた事も大きかった。
 しかし、フィリピンを取られ沖縄も占領され、もうどうにも為ら無く為っても続けた事に付いては、大いに疑問に感じて居ます。死を覚悟した軍人であっても、惰性で人の命を奪ってはいけ無い。海軍の身内を悪く言いたくはありませんが、司令部の怠慢と取られても仕方が無い様に思います」
 

 特攻隊に付いては、これまで様々な論考が為されて居るが、先ず否定ありきの偏った考察によるものが少なく無い。それらに対する反証は、昨年(2018)4月15日に寄稿した拙稿「日本人なら知っておくべき特攻の真実〜右でもなく、左でもなく…」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55270で述べた。
 中でも「海軍兵学校出身者が温存され、予備士官や下士官兵ばかりが特攻に出された」とか、結果論で「特攻は、1隻沈めるのに〇人の命が失われた非効率な作戦」と言った、俗耳に入り易い言説には、そうでは無い具体的な根拠を挙げた積りである。敵艦1隻を沈めるのに失われた搭乗員の数は「南太平洋海戦」も「特攻」も大差無い。

 失われた人命に比しての戦果と云う見方をすれば、3.948名の犠牲で8.064名の敵の命を奪い、10.000名以上に傷を負わせた「特攻」は、大戦中期、ガダルカナル戦以降のどの航空作戦よりも効果的に戦果を挙げた。だから特攻は優れた戦法だった、と肯定する気は無い。問題はそこでは無いのだ。

 折しも、特攻戦没者を愚弄する様なオブジェが「芸術作品」と称して展示され話題を呼んだ。特攻隊員を初め戦没者の死を「無駄死に」で在ったとする声も一定の割合で必ず聞こえて来る。だが、歴史は大きな流れの中で段階を踏んで進んで居る。
 好むと好まざるとに関わらず、現在は、アノ忌まわしい戦争をも含めた歴史の上に成り立って居る。どんな時代であれ、自分の生きた世界を懸命に生き、そして死んだ人達の事を、嘲る資格等誰にも無い筈だ。取り分け、戦没者を侮辱する事は、世界の何処でも許される事では無い。

 今の時代が、例えば70数年後、どの様に評価される事に為るのかは判ら無いが、先のオブジェが優れた美術作品と評価されるとは考え難い。現代を生きる我々は、過去を嘲るのでは無く、そこから何事かを虚心に学ぶべきだろう。
 特攻に付いても、今後、更に事実が解明され、幅広い考察が為される事を期待したい。只一点、危惧するとすれば、これからの世代は当事者の声を生で聞け無く為る事だ。

 本稿執筆中、特攻隊員として4度の出撃を重ねて生還し、戦後は神奈川県警刑事と為った長田利平氏(「4度の特攻から生還した男が『刑事』として生きた激動の戦後」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56662参照)が、93歳で亡く為ったとの知らせが届いた。砂時計の砂は、無情に落ち続けて居る。


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              神立 尚紀   以上


 




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