2019年09月02日
山口組兄弟分が明かす 横山やすし「吉本解雇後」最後の7年間
山口組兄弟分が明かす 横山やすし「吉本解雇後」最後の7年間
〜デイリー新潮 9/2(月) 11:01配信〜
(左から)竹垣悟、横山やすし
「山口組」兄弟分が明かす「それからの『やすし』」(1/2)
〜『それからの武蔵』は巌流島後、晩年迄の剣豪を描いた名著である。他方、今から30年前に吉本興業をクビに為った横山やすしは、亡く為る迄の7年弱、金策に奔走し当時の山口組幹部と兄弟の盃まで交わして居た。その兄貴分が明かす「それからの『やすし』」〜
「何とは無しにヤッさんの顔見たら、歯茎から血が滲んで歯が所々染まって居ましてね。〈師匠、口から血ぃ出ヨン、お絞りで拭かなアカン〉と言うたんです。本人? 全然それに気付いて変化った。後で聞いたら、肝臓が悪ぅ為るとそう云う症状が出る事があるらしいんですワ」
と、その日を振り返るのは、師匠、或はヤッさん殊横山やすし(享年51)の最後のスポンサーであり、晩年に盃を交わした元山口組中野会若頭補佐の竹垣悟(68)である。その日とは、1995年12月25日の事であり、写真の様に、竹垣がマイクを握って居る。
やすしは酒が回ったか、聴き惚れて居るのかその両方なのか。多年の鯨飲で肝臓は絶叫して居る筈なのに、気持ち好さそうだ。
「肝硬変で亡く為ったんは、1996年の1月21日やったから、この忘年会が最後に為ってしまいました。第一報を奥さんの啓子さん(2008年没)から聞いて、胡蝶蘭を持って弔問に行ったんです。テレビに映るから思て、結構目立つヤツを持って行ったんやけど、ヤッパリ映らへんかったですね」
20世紀の末で在っても、現役暴力団幹部の名が記された供花だとブラウン管に映るのは都合が悪かったか。駆け足に為るが、ここで竹垣の経歴を紹介して置こう。
山一抗争』30年前の山口組分裂事件
兵庫県姫路市出身の竹垣は、東映東京撮影所の大部屋時代に端役として映画に数本出演したり、若山富三郎の付き人を経験した後に、竹中正久組長率いる竹中組の直系下部組織に身を置いた。正久4代目が射殺された血で血を洗う山一抗争を経て、竹中組当代と為って居た竹中武(4代目の実弟)組長が山口組を脱退する1989年、竹垣は中野会に移籍。
当時の古川雅章組長は、先頃手記を出版した許永中氏と親しい間柄で知られて居る人物だ。後に触れる中野太郎会長は、5代目山口組若頭補佐の重鎮である。
1997年に起きた宅見勝・5代目山口組若頭射殺事件を機に、竹垣は古川組へ移籍。2005年にカタギと為り、現在は暴力団員の更生を支援するNPO法人「五仁會」を故郷の姫路で営む。
「やすし」を使ったって呉れへんか
竹垣の話に戻ろう。2人の出会いに付いては、
「1992年の終わりから93年に掛けての頃ですね。当時、私の親分やった中野太郎・山口組若頭補佐が〈一寸竹垣、家の方へ来て呉れへんか〉と言うんです。家と云うのは京都の八幡市。中野会長が1996年7月、4代目会津小鉄傘下の組員に銃撃された散髪屋の近くです。
その家で〈竹垣、やすしって知っとるか?〉と聞かれて〈知ってるも何も、私、大ファンです〉と答えました。天才漫才師で、雲の上の芸人やと思て見てましたね。私が東映の大部屋に居る時、高倉健、鶴田浩二、若山富三郎・・・それこそ綺羅星の如く映画人が並んで居りました。芸人でそれに比肩するのは誰かと問われたら、横山やすし・西川きよしを措いて他に無い。それ位オーラがある人やと思てたんです」
そんな憧れを口にした竹垣に対し、中野会長は、
「〈そうか、お前一辺、やすしと会うてみるか? 会うて、もし良かったら、色々姫路でディナーショーとか何やかんや遣っとるから、やすしを使ったって呉れへんか〉と言いましてね。ヤッさんの家の電話番号聞きまして、こちらから電話したら『横山です』って出まして。
〈親分から聞いたんやけど〉と言うと〈そうですか〉と。〈もし時間有ったら姫路の方へ飯でも食いにけぇへんか〉と言うたのが最初ですわ。親分が誰に頼まれたとかそう云う事情は一切聞かされ無かったんです。ヤッさんが中野会と何処で接点が出来たのかハッキリしませんね」
とは言え、竹垣の頭を過(よぎ)るのは、例えばこんな想像だ。
「1992年、ヤッさんは野村秋介代表の『風の会』から参院選に出ましたよネ。風の会の事は菅原文太等が応援してました。文太が山口組とベッタリなんは有名な話で、その関係の筋やと思わんでも無いけど・・・正直判りませんわ。落ちブレタ言うても天下の漫才師やから大阪やと目立つし、その点、姫路やったら田舎やし好いかなと云う会長の判断も有ったのかも知れません。当時私は中野会の若頭補佐で、執行部の一員でバリバリ頑張っとったんです」
お金が苦しく為ったら
現役を既に退いた中野太郎は目下、竹垣の言葉を借りれば「満足にコミュニケート出来無い」体調で、やすしの世話を誰が頼んだかに付いては、歴史の闇に消えて行く他無い様だ。
一方でやすしは、1989年の4月に吉本興業から解雇を通告されて居た。その直前に起こした飲酒人身事故が直接のキッカケだが、それ迄に積み重なって居た20近い不祥事こそやすしのクビをジワジワ締め上げたし、不世出の芸人を庇い続けた吉本をボディブローで攻め立てて居たのは間違い無い。
そして、漫才を辞めた寂しさを慰めて呉れるのは、これ迄以上に自宅での酒しか無かった。竹垣の電話に「横山です」と、飛び着く様に出たのも無理は無い。
「ヤッさんは大阪の摂津の家から、新幹線やのうて(じゃ無くて)普通の快速に乗って姫路の私の家に来ました。初対面の時点で既に酒飲んでましたね。勢いが着いてて調子良かったもんね。食事して韓国クラブへ飲みに行って・・・5万か10万円か渡して、帰りは電車が無いから摂津迄クルマで送って行きました。若い衆は喜んでました、あのヤッさんやから」
摂津〜姫路は往復で3時間も掛から無いから、竹垣が同乗する事もママ有った。
「約束とかは無くてね、ヤッさんから〈姫路行ってええか?〉って電話か駆って来るんですわ。摂津の家で啓子さんと、その後に漫才師に為る娘のひかりちゃんと一緒に暮らしてました。ひかりちゃんが未だ小さい頃やったし、お金が苦しく為ったらウチへ来れば小遣いは貰えるから、そこは必死やったんでしょう」
口にするのは、いいちこ等の焼酎の水割り。それこそ水の様に飲み続けるのだと云う。
「大抵は〈アイアイサー〉言うて楽しそうにしてるんですがね。ヤッさんはタバコがエライ嫌いで。何時も行く韓国クラブの店長と〈俺の前でタバコ吸うな言うとるやろ〉〈やかましワイ、ここはワシの店や、気に入らんねんやったら帰れ〉って口論に為ってました。
だから若い衆も含めて、ヤッさんの前ではタバコ吸わん様にと言うてました。落ちブレても芯は崩れてへんかったんでしょう。その強さは息子の木村一八への期待と繋がってたのかナぁ。夢を託してた印象ですね。〈一八に賭けとんねん。一か八かのイッパチや。一八はこれからもっと大き為るで〉と。そんな一八と私は今度Vシネマで共演するんですよ。セリフは二言、三言と少ないですが……」
過つてと違って、存在感の有る暴力団組長役だと云う。処で、やすしが自棄に為り悪い酒に頼るように為ったのは「きよしが1986年の参院選に出馬したから」と云うのが定説に為って居るのだが、
「〈キー坊とはズッと一緒に遣って来たんや〉と言うだけで恨み節とかは一切無かったです。吉本興業への不満も全く言わへんかったですね。私も血の気が多いから〈吉本カチコもか、師匠〉って言うたら〈嫌、そんなんせんでもエエ〉と。押し並べて、過去を振り返ってどうのこうのって感じじゃ無かったね」
又或る時は、
「〈漫談でも何でも一つ〉と客から無礼なリクエストがあっても〈キー坊あってのワシやから〉と殊勝な答えで応じず、代わりにと言うてはナンやけど、十八番を歌うだけやったね。曲は『俺は浪花の漫才師』。チップはもろて無かったです」
〈十八番を一つ歌うだけ 妻には涙を見せ無いで 子供に愚痴を聞かせずに 男の嘆きはほろ酔いで……〉と、酒量を除けば恰も河島英五の歌の世界である。(文中一部敬称略)
(2)へつづく 「週刊新潮」2019年8月29日号 掲載 新潮社
【管理人のひとこと】
管理人が横山やすし氏とスレ違ったのは、大阪キタに在る大きなサウナだった。当時の大阪のサウナ風呂は、表の派手な電飾に飾られた何百人も入れる超豪華なホテルの様な拵(こしら)えで、中のラウンジは豪華なホテルの様に明るい照明に溢れて居た。
サウナやお風呂に入り身ギレイにし、サービスのアルコールや飲み物を飲んで女性からマッサージを受けるもので、東京の性サービスのトルコ風呂とは異なり、単に豪華な気分で風呂に入りマッサージを受けるだけのものだ。
当時の大阪には、飛田新地や松島等の、売春防止法以前と変わらぬ普通の遊郭が残って居り、タクシーンが走る道路の両側に何十軒もの店から女性が表に並び客を曳く・・・目に留まった好い子に会えば店に上がり条件や料金を決めて遊ぶ。手軽に遊べたので、大阪のサウナとはマッサージ止まりのサービスしか無かった。
女性も中年以上の年増が多く、ショートパンツにブラを着けた格好で、マッサージ専門と云う雰囲気しか出して無い。時タマフザケテ胸やお尻を触る事は有ろうが、明るい照明の中のズラーット並んだベッドでマッサージされるのだから、健康的?なものが売りだった。
当時のやすし氏は、何度目かの処分を受け謹慎中の身で一人でサウナに来て居た。無論、酒を飲み酔った状態で色々な女性をカラカって居た。
「何やアノ人気色悪いわ・・・」「アレが横山やすしヤ」「偉そうに・・・好かんわ」「又テンゴウな事して舞台に上がれんのや」「そやろそやろ、適わんワ」
と女性には散々悪態を着かれて居たのだが、楽しそうに酔って居た。無論、彼等の漫才は面白くテンポが速く捲し立てる。新しい漫才で人気を博して居たが、やすし氏は何度も小さな事件を起こしては世間を賑わして居た。大阪の芸人は庶民の中に入り混然として居たが「やすしきよし」のコンビは、一歩離れたテレビの中のスターだった訳だ。
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