2021年11月27日
居酒屋店主が見て来た 新橋サラリーマンの或る変化 「昭和には根拠の無い希望があった」
「昭和には根拠の無い希望が在った」
居酒屋店主が見て来た 新橋サラリーマンの或る変化
11/27(土) 12:16配信
※写真はイメージです 写真 iStock.com Peeter Viisimaa 11-27-3
2020年3月、東京・新橋で75年続いた居酒屋が閉店した。『蛇の新』2代目店主・山田幸一さんは「失われた30年でこの街は大きく変わった」と云う。街にドンな変化が在ったのか。ノンフィクションライターの石戸諭さんが描く・・・
※本稿は、石戸諭『東京ルポルタージュ 疫病とオリンピックの街で』(毎日新聞出版)の一部を再編集したものです。11-27-6
【写真】東京・新橋の居酒屋「蛇の新」界隈 11-27-4
■75年の歴史に幕を降ろした新橋の居酒屋
此処はJR新橋駅で在る。周辺も含めてビジネスパーソン達の憩いの場としても知られた街だ。私達が新橋と呼んで居る駅は、開業当初は「烏森駅・からすもりえき」と呼ばれて居た。誰が何時、そう命名したかと云うのはハッキリと判って居無いらしい。
新橋の一角にヒッソリと佇(たたず)む烏森神社に依れば、過つての江戸湾の砂浜で一帯には松林が広がり「枯州(かれす)の森」或いは「空州(からす)の森」と言われて居た。この松林には、烏が多く集まって巣を掛けて居た為、後には「烏の森」とも呼ばれる様に為ったと云う。
今は「森」の代わりにビルが林立し「烏」の代わりに働く人々が街を闊歩し、夜に為れば軒を連ねる飲み屋に足を運ぶ。1946年から彼(か)の地に75年続いた店が、その歴史に幕を閉じた。名前を「蛇(じゃ)の新(しん)」と云う。2020年3月27日・・・暖簾(のれん)を掲げる最後の日も、店主・山田幸一は何時もと変わらぬ仕込みを始めて居た。
カウンターの一角に目を遣るとザルが在る。アジに強めの塩を振りザルに並べて余分な水分を抜く。塩を水で洗い流し酢で締める。コウして刺身の盛り合わせに並ぶ一品が出来上がる。寿司屋では在るが、居酒屋としても利用出来るメニューが並ぶ店でも在り、会社帰りの客で賑わう。
■「失われた30年」で起きた変化
彼は東京に生まれ東京で育った。コノ街の変化も見続けて来た。会社員の街・新橋は平成で大きく変化したと云う。
「失われた平成の30年ですかネ。一番大きかったのは・・・先輩が後輩を連れて来て、後輩が又来て呉れるって云うサイクルが無く為ったヨ。此処の暖簾を守るだけで精一杯に為ってしまってね。元気な内に、常連の皆さんにサヨウナラが言いたかったんですよ。ズッと可愛がって貰って、有難うって」
生来、職人気質で在る幸一は、時々、へへへッと照れ隠しの様な笑いを挟みながらポツリ、又ポツリと語った。彼が体感から語った平成の変化は恐らくその通りで在る。
今からホンの30余年前・平成が始まったばかりの頃、会社員の所得は増えるのが当たり前だった。1990年、会社員の平均給与は425万円⇒翌91年は446万円⇒92年は455万円(民間給与実態統計調査)と信じられ無い幅で伸びて行く。
バブルが弾(はじ)け長期不況が始まった時でも、直ぐに下がる事は無かった。処が最新、2020年は433万円で止まって居る。幸一の言葉を聞きながら、私は或る大学教授から教えて貰ったエピソードを思い出していた。彼が教鞭を執るのは東京の名門私立大学で在る。平成も終わろうと云う時、就職活動を終えたゼミ生が言った。
「来年からサラリーマンです。新橋とかで酔っ払う事に為るんだろうナ」
恐らくゼミ生の頭に在ったのは、週末の情報番組でカメラに向かって管を巻くサラリーマンの姿だ。それを聞いた彼は冷たく言い放った。
「今の時代、新橋で飲めるだけで結構な勝ち組だよ!」
外から見れば勝ち組の街でも冷たい風が吹く。私も又、この停滞する時代しか知ら無い。私が知って居るリアルは、所得が伸び無ければ人に構う余裕は生まれ無いと云う事だ。
■戦後の新橋は闇市から始まった
戦後の新橋は未来を担う若者達が集う街でも在った。「蛇の新」は、新橋に立ち並んだ戦後の闇市から始まった。先代鐘幸は愛知・一宮市出身で、戦前に両親と死に別れ単身で東京に出て来た。彼も又未来を夢見た少年の一人だった。先代は八丁堀に在った魚屋「蛇の新」で自立の一歩を踏み出した。
この魚屋は、簡単な寿司も出して居たらしく鐘幸はソコで修業を積み、今の日本橋島屋の周辺で屋台の寿司屋を開く。仕入れは「蛇の新」で、魚に付加価値を着けるべく寿司を握った。商売の才覚も在った先代は、結婚をして八丁堀に家も構えた。ソコに生まれたのが幸一だった。
1945年3月10日の東京大空襲で家は焼けてしまったが、徴兵から帰って来た鐘幸は又商売を始める。新橋で露店を開いたのだ。転んでも只では起き無い男である。
終戦から間も無く、今も駅前に在るニュー新橋ビルを経営する新橋商事がバラックを建てると宣言し新橋周辺の整備計画に乗り出した。抽選で当たった露天商達を集めて、商店が並ぶエリアを作ると云う。鐘幸も申し込んだが外れてしまった。
処が、隣に居た露天商が本業に戻るからと言って入居の権利を譲って呉れた。1946年、新生「蛇の新」が誕生する。
「3坪位の小さな店でしたよ。親父(おやじ)は何でも作って居ましたネ。寿司屋って言っても、お米が手に入ら無かった時代ですからネ」
■夢を語り合う希望の場
当時、NHKが内幸町に在り近隣には東京新聞も在った。失明の危険性が在るメチルアルコールを平然と出す店もある中「蛇の新」では真面な酒が飲めると云う口コミが広がった。インフルエンサーに為ったのは、東京新聞で当時の人気小説家・富田常雄(代表作『姿三四郎』)を担当して居た記者だった。
富田が遣って来ると、評判を聞き着けた太宰治や坂口安吾が遣って来た。新聞小説で挿絵を担当する画家達も遣って来た。当時の活況をエッセイストの矢口純が記した文章を幸一が見せて呉れた。何かの雑誌に書いたものらしい。
1948年、婦人画報社に入社したばかりの回想・・・
「粗末な酒場に行くと、駆け出し記者の私にも一目で判る著名な作家・画家・写真家・音楽家・ジャーナリストが、それコソ目白押しに為って酒を飲んで居た。誠に壮観で在った!」
コノ「粗末な酒場」コソが「蛇の新」で、写真家の土門拳・江戸川乱歩に吉行淳之介と云った作家達が何故か同じ時間帯に居た夜を矢口は懐かしそうに書いて居る。画家達のネットワークに連為って若き日の岡本太郎も遣って来た。
鐘幸は若い表現者達に優しく、色紙を書いて貰う代わりに酒を一杯ご馳走した。店内に1952年11月6日に撮影したと云う写真と「TARO」のサインが入った絵画が並んで飾られて居る。
常連達と一緒に納まって居る岡本太郎と、彼がチョット紙を貸してと言ってササっと書いた「作品」だ。彼等に取って「蛇の新」は、夢を語り合う希望の場だった。
■右肩上がりの時代、人は大いに飲んだ
新橋駅前開発で駅前にビルが建つ事に為り、仮店舗として現在の烏森神社沿いの店がオープンする。1968年、幸一が店の従業員として働いて居た清子と結婚した年だ。清子は大阪・河内の商人の子供で、今の羽曳野市で育った。
「商売は嫌じゃ無かったネ。カウンターでお客さんの話を聞くのも、私は好きだったよ」
清子は、最後の一日も何時もと同じ様に、幸一とは対照的に大きな声で笑いながらカウンター越しにセイロで鶏シューマイを蒸し、フライパンで炒め物を仕上げて居た。続々と訪れる客の応対も手馴れて居る。
「昔の思い出?丁度結婚したばかりの頃かナ、三島由紀夫が来てたね。私が『アノ人、三島さんに似て居るね』って言ってたら本人だったの。お店に『三島先生はいらっしゃいますか?』って電話来てビックリしちゃったよ!」
店の並びには三島が常連だった料亭「末(すえ)げん」が在る。そこに行く前に立ち寄ったのだろうか。店の歴史が昭和史とリンクする。
「好く僕が思うのは」と、仕込み中の幸一が口を開く。「新橋は或る時迄、霞が関の城下町だったんです。国鉄と銀座線が通って居て、官庁が在る虎ノ門から新橋迄来易かったんですよ。官庁が在れば、営業だ何だでソコに民間の人達も通う様に為る」
人が集えば、オフィスが出来飲みに出る人々も増える。時代は右肩上がりで在る。彼等は大いに飲んだ。1980年代に入り、女性の社会進出が本格化すると女性をターゲットに「酎ハイ」が売り出され「蛇の新」にも女性が遣って来る様に為った。
■過つての新橋に存在した「無根拠な希望」
閉店が近付いて来た3月の或る日、隣に居た常連客がコンな話をして呉れた。2016年に勤めて居た印刷会社で60歳の定年を迎え、リタイア生活を謳歌して居ると云う男性で在る。新橋の思い出を聞くと、良くぞ聞いて呉れたとばかりに滔々と語って呉れた。
「バブルの時代は、此処でお腹を満たしてから別の店に行ったんですよ。ソコは旧大蔵省の官僚と銀行の担当者が来る店です。彼等の言葉に耳を済ますと景気動向が判る。此処で先を見極めて僕は株を買いましたネ。新橋で景気良く飲んで居る会社の株は当たり株。結構、儲(もう)けさせて貰ったナ。アノ感じ判ら無いでしょう?」
私はその話を苦笑交じりに聞く事しか出来無かった。2011年の東日本大震災と福島第一原発事故、そして2020年を直撃したコロナ禍でも痛感したが、人が財布の紐を緩める時は、未来への希望が何と無くでも在る時だ。ソコに確かな根拠は必要無い。
前の時代より、今の方が良くて、未来は更に良く為る・・・無根拠な希望がソコに在る時、人は大いに飲み、街に出て語り合う。1995年の阪神大震災とオウム真理教事件、2008年のリーマン・ショック、2011年そして2020年・・・賃金は上がらず数年毎に「歴史的な危機」が訪れる。その度に希望が見え無く為る時代には沈黙が蔓延(はびこ)って行く。
「誇りは『蛇の新』の暖簾を守ったと云う事です。三代目に継がせる事は出来無かったけど、僕は守りました。後は女房に感謝です。2人で喜びも悲しみも共有出来た」
幸一がシミジミとそんな話をして居た、と清子に告げると、彼女はクルリと幸一の方を向き「モッと感謝しろ!」と腰に手を当てて胸を張った。
■もうこんな日々は戻って来ない
最後の日、親子2代で常連だったと云う客は、父親の遺影と共に遣って来た。或る人は花束を持参し或る人は夫婦と記念写真を撮った。店が終わる午後11時を過ぎても、リタイア世代中心の常連達は別れを惜しむ様に残って居た。ソコに存在して居たのは、タイムスリップしたかの様な「昭和」だったのかも知れ無い。
彼等の笑い声を聞きながら思う。停滞の中で「昭和」への憧憬(しょうけい)だけが強まる時代を自分は生きて居たなと。会計を済ませて店を後にした。モウこんな日々は戻って来ない。
外は2020年・・・本来なら令和に元号が変わり華々しく1964年以来のオリンピックが開催される予定だった年・・・コロナ禍の新橋の夜で在る。マスク姿の人々が家路を急ぐ。人通りは普段の半分も無く、会話も無い。
SL広場には客引きの声だけが響き、酔客のコメントを取ろうとして居たテレビクルーはスマートフォンを眺めながら暇を持て余して居た。
石戸 諭(いしど・さとる) 記者・ノンフィクションライター 1984年東京都生まれ 立命館大学卒業後毎日新聞社に入社 2016年BuzzFeed Japanに移籍 2018年に独立しフリーランスのノンフィクションライターとして雑誌・ウェブ媒体に寄稿 11-27-5
2020年「ニューズウィーク日本版」の特集「百田尚樹現象」にて第26回「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」作品賞を受賞した 2021年「『自粛警察』の正体」(「文藝春秋」)で、第1回PEP ジャーナリズム大賞を受賞 著書に『リスクと生きる、死者と生きる』(亜紀書房) 『ルポ 百田尚樹現象』(小学館)『ニュースの未来』(光文社)『視えない線を歩く』(講談社)がある
記者・ノンフィクションライター 石戸 諭
〜管理人のひとこと〜
管理人が東京時代、新橋には数店の得意先が在った。夜が更けるのを待つ迄も無く、駅周辺の縄暖簾街は煌々と灯りが灯り人々が連れ立って暖簾を潜る。新橋は山手線と銀座線の駅が在る便利な盛り場だった。得意先から、偶には飲もうと車を置いて出掛けると、焼き鳥にホッピーと鍋物で腹を満たせ、次に綺麗な女性の居るバーへと勤しむ。筆者の石戸 諭(いしど・さとる)氏が表現した通りの昔の新橋の日常が繰り拡がる。
初任給が3万円の時代から始まり、5万・10万・20万・・・と直ぐに30万を超えるのが昭和の時代・・・世界第2位の経済大国と為って久しい。仕事が終わると近くの酒場で飲むのが当たり前で、確かに、確実な夢や希望が在った訳では無かったが、何と無く将来への不安は皆無だっから仲間と共に飲む酒は楽しかった。
もうソンな時代は来ないと多くの人は云うのだが、次の世代の夢や希望を作ら無いで何の〔政治〕が成り立つのだろうか。真面に飯の食え無い時代を作るとは・・・令和の時代は、そんな政治が許されて居るのだろう。
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