2021年09月23日
満州事変から90年 満州国の裏面史
アヘンと共に栄えアヘンと共に滅びた
満州事変から90年 満州国の裏面史
現代ビジネス 9/18(土) 8:33配信
写真 現代ビジネス 9-23-10
丁度90年前の1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃、中華民国奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道線路上で爆発が起きた。これを端として関東軍は〔満州〕を占領・・・「満州事変」で在在る。
当時、夢の国とされて居た〔満州国〕では何が起こって居たのか・・・ノンフィクションライター・魚住昭氏が『週刊現代』2016年7月23・30日号に寄稿した 「アヘンと共に栄え、アヘンと共に滅びた満州国の裏面史」を再録する。
ノンフィクションライター・魚住昭氏 1951年生まれ 一橋大学卒 75年共同通信社入社 検察担当記者時代にリクルート事件で数々のスクープを放つ 96年よりフリーで活躍 2004年『野中広務 差別と権力』 (講談社)で講談社ノンフィクション賞受賞 他に『特捜検察 (岩波新書)』 (岩波新書) 『渡邊恒雄 メディアと権力 (講談社文庫) 』(講談社文庫) 『テロルとクーデターの予感 ラスプーチンかく語りき2』 (朝日新聞出版・佐藤優氏との共著)等の著作が在る
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岸の清濁を知る人物「古海忠之」
引き続き〔昭和の妖怪〕岸信介の事を書く積りだったが、資料を漁る内に面白い本に出食わした。コレを素通りするのは惜しいので今回は一寸寄り道させて貰う。 本の題名は『古海忠之 忘れ得ぬ満州国』(経済往来社刊)だ。
古海忠之 9-23-4
著者の古海は東大卒の大蔵官僚で、1932(昭和7)年に誕生したばかりの満州国政府に派遣された。国務院経済部次長等重要ポストを歴任。実質的には満州国副総理格で敗戦を迎え、戦後はソ連・中国で18年間に渉って拘禁された。
因みに岸が満州経営に携わったのは1936(昭和11)年〜'39(昭和14)年の3年間。古海は岸の忠実な部下で、岸の裏も表も知り尽くして居る。 その古海が語るアヘンの話に耳を傾けて欲しい。
ご承知と思うが、当時の中国はアヘン中毒患者が国中に蔓延して居た。 古海が満州国初の予算を編成して居た1932(昭和7)年の事だ。上司が「満州ではアヘンを断禁すべきだ」と強く主張し、各方面の説得に当たった。
その結果、植民地・台湾の例に倣い、アヘンを一挙に廃絶するのでは無く、徐々に減らす漸禁策(ぜんきんさく)を執る事に為り、ケシ栽培からアヘン製造販売迄全てを国家の管理下に置く事にした。アヘン専売制である。
目論み外れ借金苦に
1940(昭和15)年、古海は経済部の次長に為った。当時は産業開発五ヵ年計画達成の為、華北から輸入する鉄鉱石や石炭が膨大な量に上って居た。これに対し、華北の求める食糧や木材は余り輸出出来ず、関東軍と満州国政府は巨額の支払い超過に悩まされて居た。
それを解消する為関東軍が考えたのが熱河省(満州の西側)工作だ。熱河はアヘンの主産地で、そのアヘンは専売総局で全部買い上げ管理する建前に為って居る。が、実際は、広大な丘陵地帯を取り締まるのは不可能で、年々夥しい量が北京等に密輸されて居た。
関東軍の目論見はこうだった・・・軍と政府が密輸業者の活動を黙認する。その見返りに彼等が密輸で得た連銀券(華北通貨・満州はその不足に悩んで居た)を同額の中央銀行券(満州国通貨)と交換する。或いは業者に資金を与えて密輸アヘンを集め、華北に売り捌いた代金(連銀券)を回収する・・・ 関東軍の要請で古海はこの工作を請け負った。
彼は三井物産から個人的に2,000万円(現在の約200億円)を借り、それを資金に活動したが行き詰まった。密輸業者等が「俺達には関東軍と経済部次長が着いて居るから、警察に捕まる心配も無い」と言い触らしたからだ。
古海の元に熱河省各地から抗議が殺到した。工作は中止され彼が個人で支出した2,000万円も回収不能に為った。借金返済を迫られた古海は当時をこう回想する。
里見甫(さとみはじめ) 9-23-8
〈窮余の一策として、上海に居る私の親友里見甫(さとみはじめ)君に助けを求める事にした。彼は当時、南京政府(日本の傀儡政権)直轄の阿片総元売捌(あへんそうもとうりべつ)を遣って居たので、手持ちの阿片を彼の元に送り着け、出来るだけ高価に買い取って貰い為るべく多額の金を得ようとした。(略)里見甫君は非常に無理をして結局二千万円を払って呉れた〉
里見は〔阿片王〕と呼ばれた男である。上海でペルシャ産や蒙古産の阿片を売り捌き、陸軍の戦費を調達して居た。
奪われたアヘン
古海の回想を続け様。戦況が悪化した1944(昭和19)年 彼は満州のアヘンを上海に運び、満州で不足する生産機器や消費物資を調達する計画を立てた。その為、先ず飛行機で金とアヘン1トンずつを運んで南京政府の中央銀行の金庫に納め、副総理の周仏海に物資買い付けの援助を依頼した。
周は「日本は何も持って来無いで物を取って行くだけなのに、満州国は貴重なものを現送して来て物資が欲しいと云われる。誠に有難い」と言って全面協力を約束したと云う。
上海でのアヘンと物資の物々交換は里見の協力も在って順調だった。満州への大量の物資輸送も、アヘン3トンを出すなら艦隊司令部が責任を持って送り届けると約束した。古海は〈昭和二十年当初からコノ計画を実施し相当の成果を上げたのであるが、八月、大東亜戦争の終結を迎え、時既に遅かったのは致し方無かった〉と振り返る。
敗戦直前の7月、古海は関東軍から新京(現・長春)周辺に在るアヘンを全部引き渡す様要請された。ソ連侵攻に備えて拡充中の通化(朝鮮との国境に近い)の基地に備蓄する為だ。
〈こうして関東軍に引き渡した阿片は莫大なもので在った。関東軍はこの阿片を広く大きい正面玄関に積み上げた。正に異観で在った〉と古海は語る。処が関東軍がこのアヘンをナカナカ通化に運べ無いで居る内に8月9日、ソ連軍の侵攻が始まった。
驚いた司令部はアヘンをトラックに積んで通化に向かわせたが、途中で暴徒の襲撃を受けアヘンを奪い去られた。司令部に残ったアヘンは古海等が無人家屋の床下等に穴を掘って埋めたと云う。
古海の回想は、満州国政府・関東軍とアヘンの繋がりの深さを物語る。岸信介は1939年に東京へ戻る際「満州国の産業開発は私の描いた作品で在る。この作品に対して私は限り無い愛着を覚える」と言い残したが、満州経営の重要な財源と為ったのはアヘンだった。
敗戦直前の1945年8月11日、古海は南新京駅に居た。何時ソ連軍が来るかと云う不安と、敗戦の悲色に覆われた駅で過ごす一刻一刻は心細かった。ヤット出発準備が整った。
その頃、俄かに夕立が在って雷鳴が轟いた。満州国皇帝・溥儀が列車に向かって歩を進めた。続いて、阿片中毒で立て無く為った皇后・婉容が看護人に背負われて行く哀れな姿が、稲妻が走ると一瞬パッと光の中に浮かび上がった。
それを見ながら、満州国最後の総務長官・武部六蔵が「蒙塵(天子の都落ち)と云うのはコレだな」と呟くのを古海は聞いた。 満州国はアヘンと共に栄えアヘンと共に滅びたのである。
最大のタブー
東条英機(前段中央)と岸信介(最後列左)〔PHOTO〕gettyimages 9-22-2
前回(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/87506)の最後にホンの少しだけご披露した文書に付いてもう少し詳しくお話ししたい。 この文書は、終戦翌年の1946年5月、中国の南京高等法院からGHQ(連合国軍総司令部)に送られ、東京裁判の検察側証拠の一つに為ったものだ。
日中戦争の開始以来、日本が中国を占領支配するのにアヘンを如何利用したか。その実態を南京政府(汪兆銘政権・日本の傀儡だった)の元幹部で在る梅思平(同年9月死刑)等の供述等に基づいて告発して居る。その核心部をコレから五紹介しよう。尚、原文の片仮名表記は、読み易くする為に平仮名に変えて在る事を予めお断りして置く。
〈中国に於ける阿片取引は、二つの理由に依って日本政府の系統的政策で在った。第一に、内蒙古占領に続いて日本人により建てられたる傀儡組織で在った処の蒙疆自治政府(もうきょうじちせいふ)は、罌粟の栽培を習慣としてゐる内蒙古で阿片を購ふ事に依つて財政的不足を解決せんと努力した〉
要するに、満州に続いて日本軍が占領支配した蒙疆(もうきょう・現在の内モンゴル自治区)政府の財政は、アヘンの売り上げで賄われて居たと云う事だ。 コレは1980年代、江口圭一・愛知大名誉教授(故人)が発見した日本側資料に依って裏付けられた客観的な事実で在る。
文書は、第二に日本政府自身も〈戦争に依る経済的困難〉を切り抜ける道としてアヘンに頼ったと指摘して居る。 その上で〈阿片購入用として指定せられたる蒙疆傀儡政府の貸附金〉は先ず東京の大蔵省に送られねば為らず〈ソコで全額の幾分かは保留された〉と記して居る。
正直言って、私にはこの〔貸附金〕が具体的に何を指すのか判ら無い。可能性として
(1)蒙疆政府⇒農民がケシから採取したアヘンを集める業者団体への貸付
(2)蒙疆政府⇒南京政府への貸付
(3)南京政府⇒蒙疆政府への貸付
等が考えられるが、何れとも判断が着か無い。しかし〈全額の幾分かは保留された〉と云う件は、アヘン購入資金が融資される段階で東京の大蔵省に利益をピンハネされたと云う意味で在る事は想像出来る。文書は続く。
〈他方では上海並びに中国の都市に於て売られた阿片の売上金の大部分は東条内閣の補助資金、及議員への補助金に割当てられる為東京に送られた。それは公然の秘密で在り、そして幾らかの本国内の日本人も又この東条内閣の名うての政策に反対して居た事は周知の事で在った〉
問題はこの〈東条内閣の補助資金〉や〈議員への補助金〉が何を指すかだが、簿外の内閣機密費や国会議員に配る裏金の類と考えるのが普通だろう。
只、梅思平等〔傀儡南京政府〕旧幹部も金の行く先を特定する資料は持って居無いらしく〈宏済善堂(こうさいぜんどう)の会計簿を捜索すれば、略々其の痕跡を発見し得可し〉と付け加えて居る。
日本と中国との「密約」
宏済善堂(こうさいぜんどう)とは、上海の〔阿片王〕里見甫(さとみはじめ)が運営して居たアヘン取引の為の会社で在る。次に登場する盛文頤は、その里見のアヘン取引の中国側パートナーだ。文書は更に興味深い事実を明らかにして行く。
〈盛文頤の言に依れば、利益支配の状況は極秘にして、東京と直接の来往に依ったので在ると。即ち在華日本側機関も又、其の詳細を知る由が無かった。維新政府(汪兆銘政権が出来る前の日本の傀儡政権)は税款(税金)の極少を得るのみ〉
詰まり文書が言わんとするのは、金の行く先は全て東京で決められ、旧南京政府がアヘンで受けた利益は〈極少〉に過ぎ無かったと云う事だ。
こうして中国のアヘン問題は1943年冬に至る迄全く改善され無かった。が、同年12月、南京・上海・杭州その他の都市で学生達がアヘンを売る店やアヘン窟を打ち壊す示威運動を起こした。それを契機に中国国民の日本のアヘン政策に対する反発も強まった。文書は、この時の日本軍の対応をこう述べて居る。
〈しかし日本の軍隊は敢(あ)へて之に干渉し無かった。結果として、日本政府は、南京政府が、〔阿片の利益は蒙疆自治政府の主なる財源で在る〕と畏怖事実を考慮する条件の下に於ては、もし中国が戦前の阿片禁止法案を回復する事を望む為らば、中国を助けるといふ意思を表示して経済顧問を南京政府へ派した〉
要約すると、アヘンの利益で蒙疆政府の財源分だけ確保出来るなら、中国側がアヘンの取り締まりを厳しくするのをサポートする・・・と云う風に日本側の態度が変わったと云う事だ。 文書はこの〈急変〉に付いて〈三つの事実らしき理由が発見された〉としてこう述べる。
〈第一に、東条内閣は秘密の目的又は政治的目的に阿片の利益を使用した事に付いて、日本国内外の国民に依って攻撃された。第二に、日本政府は中国国民の嫌悪を減少せんとした。第三の最も重要なる事実は当時の日本は中国の物資統制に依って阿片取引の十倍の収入を得てゐた〉
その為政治的・軍事的支出の支払いの為の基金に困る事は無かったと云うのである。以上の様な経過を辿って上海や南京のアヘン禍は次第に収まって行くのだが、此処で留意して置かねば為ら無いのは、主な陳述者で在る梅思平が置かれた立場だ。
彼は当時、日本に中国を売り渡した漢奸として責任を追及されて居た。アヘン問題で東条内閣が行った悪事を強調すればする程彼の責任は軽く為る。そう云う事情が在るから、彼の陳述を何の裏づけも無く全て信用する訳にはいか無い。
細川護貞 9-23-9
そこで東条政権とアヘンの関係に付いて日本側で言及した文献は無いかと探してみたら、在った。近衛文麿元首相の女婿で、秘書官でも在った細川護貞(細川護煕元首相の父)の『細川日記』(中公文庫)で在る。 細川は戦時中、陸海軍や政界の要人らから集めた情報をこの日記に綴って居た。
その記述を追って行くと、東条は無論の事、彼の内閣の一員だった岸信介の金脈に関する極秘情報に遭遇する事に為る。
軍の病理を突いた「日本のユダ」
お浚(さら)いをさせて貰いたい。前回、細川護貞(もりさだ)の『細川日記』(中公文庫)を取り上げたのを覚えておいでだろうか。戦時中、高松宮の情報収集係を務めた細川は、この日記に東条英機のアヘン資金疑惑を書き留めて居る。それを細川に伝えたのは、帝国火災保険の支配人・川崎豊である。
川崎曰く・・・中華航空で〈現金を輸送せるを憲兵隊に挙げられたるも、直に重役以下釈放〉された。これはその金が〈東条のもの〉だったからで〈以前より里見某なるアヘン密売者が、東条に屡々(しばしば)金品を送りたるを知り居るも、恐らく是ならんと〉
この情報はホントだろうか。信憑性を判断する材料を探す内に田中隆吉に突き当たった。田中は日米開戦翌年迄陸軍省の兵務局長、詰まり憲兵隊の総元締めだった男である。
田中隆吉 元陸軍省の兵務局長 9-23-11
陸軍の謀略活動にも深く関わり〔東洋のマタ・ハリ〕と云われた川島芳子の情夫だった事も在るらしい。敗戦後は一転して陸軍の悪行を告発し、旧軍関係者らから〔裏切り者〕〔日本のユダ〕と罵られた。
満洲事変の勃発と共に
が、軍の病理に関する彼の指摘は鋭い。例えば、こんな件(くだり)が彼の著作『日本軍閥暗闘史』(長崎出版刊)に在る。
〈満洲事変の勃発と共に、それ迄僅かに200余万円に過ぎ無かった陸軍の機密費は一躍1千万円に増加した。支那事変の勃発は更にコレを数倍にした。
太平洋戦争への突入の前後に(略)正確な金額は全く表へ現れぬ様に為った。しかし当時の陸軍の機密費が年額2億を超えて居た事は確実で在った〉
2億円は今の1,000億〜2,000億円に相当する。田中は更に〈政治家・思想団体等にバラ撒かれた〉機密費は、彼の知る範囲だけでも相当額に上り、近衛文麿や平沼騏一郎等歴代内閣の機密費の相当額を陸軍が負担して居たとしてこう綴って居る。
〈これ等の、内閣が陸軍の横車に対し敢然と戦い得無かったのは、私は全くこの機密費に原因して居ると信じて居る。それ等の内閣は陸軍の支持を失えば直ちに倒壊した。(略)軍閥政治が実現した素因の一として、私はこの機密費の撒布が極めて大なる効果を挙げた事を否み得無い。東条内閣に到っては半ば公然とこの機密費をバラ撒いた〉
田中は敗戦翌年から30余回に渉ってGHQ国際検察局の尋問を受けて居る。その時、作られた膨大な調書を日本文に訳したのが『東京裁判資料 田中隆吉尋問調書』(粟屋憲太郎ほか編・大月書店刊)で在る。それに依ると、宮中で天皇を補佐する内大臣の木戸幸一は政治活動に多額の金を使った。
金の出所は日産コンツェルンの総帥・鮎川義介(木戸や岸と同じ長州出身)だった。そして鮎川の〈事業提携者〉の岸は東条内閣の商工大臣〈大臣在任中に財閥との有効な取り決めに依って可成りの額の金を儲けた〉
田中に依れば、木戸は内大臣の地位に在った為、1941〜'45年の間日本の政治を支配した。木戸は東条内閣の成立に直接に力を貸したが、'44年4月 木戸と東条の関係は悪化した。木戸が、東条首相では戦争に勝て無いと思い倒閣を策謀し始めたからである。
東条はそれを知ると、元首相等有力者を入れて内閣を改造しようとしたが〈岸は、それ等の何れが彼の後任者と為る事も頑として承知し無かった〉ので、これが東条内閣倒壊の直接的原因に為ったと云う。
沈黙する「阿片王」
田中の見解は、木戸・岸・鮎川の長州連合の寝返りが東条内閣の致命傷に為った事を示唆して居てとても興味深い。田中の第3回尋問のメインテーマはアヘンで在る。
彼は華北のアヘン売買を統括して居た北京の興亜院華北連絡部(占領地の行政機関)の長官心得・塩沢清宣中将に付いてこう語る。
塩沢清宣中将 9-23-12
〈彼は、東条大将の一番のお気に入りの子分でした。彼は、里見の大の親友でも在りました。塩沢は北京から東条へ屡々資金を送って居ました。戦争中で在った為、上海地域で使用された阿片はその量の全てが北支から供給され、その様にして当然多額の金が塩沢の手元に蓄えられました〉
田中の言う北支に、アヘンの主産地で在る蒙疆地区(今の内モンゴル自治区)綏遠省(すいえんしょう)が含まれると解すれば、彼の言に概ね間違いは無い。興亜院華北連絡部がアヘンで巨利を得た事も事実と考えて好いだろう。田中が続ける。
専田盛寿少将 9-23-13
〈塩沢の元で、専田盛寿少将と云う私の友人が働いて居ました。彼は私に、塩沢は屡々飛行機を使って東条の元に金を送ったと語り、その事で酷く腹を立てて居ました。それが原因で専田は、興亜院の職を辞する事を余儀無くされました。昨年九月に大阪で私が専田に会った時、彼は私に再び同じ話をして不満を表明しました〉
GHQ国際検察局は東条のアヘン資金疑惑に強い関心を持ったらしい。それから約1年後の'47年3月21日、里見を召喚して1時間余に渉って事実関係を問い質して居る。取調官は事前に里見が中華航空の顧問だった事や、東条の私設秘書と親密な関係に在った事を確認し、云わば外堀を埋めた上でこう切り出した。
「さて、ズバッと行こう。私は何等かの情報を貴方が呉れるものと期待して居るのだが、上海発東京行きの中華航空機で多額の金が東条に送られた事を知って居るだろう?」
里見の答えは素っ気無かった。「知りません」 「ジャ、中華航空による現金輸送が憲兵に摘発された件は?」 「全く何も知りません」
国際検察局に依る東条のアヘン資金疑惑の捜査は、里見の沈黙の壁に突き当たり思う様に捗(はかど)ら無かった。私も此処等で方向転換して岸と東条の不可解な関係を探る事にした。
満州国首脳だった岸を日本に呼び戻して商工次官にし、その後、商工相に据えたのは東条だった。東条人脈の中心に居た筈の岸が、敗戦約1年前、突如東条に反旗を翻した真の理由は何だったのだろうか。
つづく
ノンフィクションライター 魚住 昭
※参考 『資料 日中戦争期阿片政策』(江口圭一編著・岩波書店刊)
※参考 『新版 昭和の妖怪 岸信介』(岩見隆夫著・朝日ソノラマ刊)
〜管理人のひとこと〜
ノンフィクションライター魚住 昭氏の次のレポートを早く読みたいものだ。氏の綿密で詳細な指摘の疑問に対し、次々と過去の文章が明らかにされ次第に鮮明に為って来る。これコソ、ノンフィクションの醍醐味である。国家・世界的規模の出来事に対し、その全ては個々人の精神的行動(人間性)が如何に関わりを持つかが顕著に為って居る事が我々にも理解出来る。
東条派と観られた岸伸介が、最後には彼を裏切り入閣を拒否した事で東条内閣は倒壊した・・・と魚住 昭氏は指摘する。今で云う処の新自由主義的・・・当時の革新的官僚の代表格で在った岸は、その優れた悪魔的頭脳を駆使しアラユル機会を利用し〔人脈と金脈〕を構築して行った。戦後は、それを巧みに利用し公職追放を逃れ、豊富な人脈と金脈を駆使し政界へと進出、そして首相の座を射止める。
彼の人脈は、アラユル階層・多くの民族・・・全てを飲み込む〔悪の結晶〕と為って戦後の日本を築いて行った・・・安倍晋三が師として仰ぐ天才的国際的犯罪者の〔おじいちゃん〕なのだ。彼は、祖父程の悪人には為れ無かったが、小さな悪事を重ねて批判され〔小悪人〕と国民から冷笑され姿を消す事に為った。
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