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2021年05月10日

731部隊の元少年兵が激白 「残虐な人体実験が我々の日常だった」



 731部隊の元少年兵が激白 「残虐な人体実験が我々の日常だった」

 2つの「日常」が重なった 少年兵の記憶


 現代ビジネス編集部

 731部隊に居た10代の少年兵たち

 「任務が終わった夜に同期の友人と会うと、お互いの業務内容を話して居ました。『今日は人体解剖をした』『軍用犬に細菌兵器を運ばせる訓練をしている』ナンて人も居ましたね。未だ10代でしたけど、当然施設内で生物兵器を作って居る事も知ってましたよ」

 足った14歳で731部隊に入隊した元少年兵の須永鬼久太氏(92)はこう語る。関東軍防疫給水部本部・通称「731部隊」満州のハルビン市近郊に拠点を構え、表向きには兵士の感染症予防や安全な給水システムに関する研究を行って居た。しかし秘密裏に非人道的な人体実験を繰り返し、実戦での使用を目指して生物兵器を開発して居たとされる。


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    中国ハルビン市に残る、731部隊が使っていた施設[Photo by gettyimages]4-17-10

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    中国ハルビン市に残る、731部隊が使っていた施設[Photo by gettyimages]4-17-11

 14歳から17歳と云う多感な青春時代を、須永は「日本陸軍史上もっとも残虐」とされる部隊で過ごした。戦後75年が経ち、731部隊の実情を証言出来る元隊員は少ない。満州の地で、彼は一体何を見たのだろうか。節目の年に改めて話を聞いた。

 惨(むご)たらしい人体実験の実情

 731部隊の任務の一つが、敵兵を重篤(じゅうとく)な伝染病に感染させる「細菌爆弾」を製造することだった。部隊内で開発されていた「ペスト菌爆弾」は、病原菌を媒介するノミを爆発によってバラ撒き相手をペストに感染させる。
 長野県の高等小学校を卒業して731部隊へと入隊し、1年間の教育期間を終えた須永は、1943年頃からそのプロジェクト内の「焼成班」に所属して居た。

 「私の仕事は、ペスト菌爆弾の容器を焼き上げる事でした。少量の火薬でペスト爆弾が爆発した後、粉々に飛び散って中身の細菌が生きたままバラ撒かれる様に、陶器製の容器が使用されていました。細菌兵器を作って居る事に付いても説明を受けて居ましたよ」

 彼等が製造した爆弾の威力は、残虐な人体実験によって検証された。実験台として惨たらしく殺害されたのが、中国人やロシア人の捕虜達であった。彼等は「丸太」に等しい存在とされて居た為「マルタ」と呼ばれ、文字通りの非人道的な扱いを受けたとされる。

 「実験施設から屋外の実験場にマルタを連行して、抵抗出来無い様杭に括り付け、数メートル間隔で並べるんですよ。彼等の直ぐ近くで細菌爆弾を炸裂させ、強制的にペストに感染させた上で、身体がどの様に変化するのか経過を記録するんですね」

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     731部隊の人体実験で使われた器具[Photo by gettyimages]4-17-12

 このペスト菌爆弾の検証実験では、一度に10人以上の捕虜が実験台にされた。爆弾の感染力と効果範囲を測定する為、捕虜と爆発地点間の距離や火薬の量などを変化させて何度も何度も実験が行われ、その度に罪の無い捕虜達がペストに感染させられた。
 実験終了後、感染した捕虜が治療される筈も無く、全員が数週間以内に死亡した。しかし彼等は死んでも尚「実験台」として扱われて居る。爆弾の性能向上に繋げる為、死亡した感染者の遺体は解剖されて、臓器へのダメージを徹底的に調べられた。驚くべきことに、須永の様な10代の隊員達も、この事実を知りながら平然と軍隊生活を送っていた。

 2つの「日常」が重なり合う

 「部隊内で人体実験が行われて居る事は、焼成班に配属された頃から知って居ました。本部施設3階の窓から、中庭に居るマルタを見た事があります。何処の国の女性かは分かりませんが、遠目に女性のマルタを見たこともありました」

 初めて実験台である「マルタ」を見た時の記憶を、彼はこの様に振り返って居る。残虐な実験が基地内で行われ、しかも捕虜が実験台にされる事に対して、特段の驚きは無かったと云う。当時の心境を須永はこう話す。

 「人体実験に使われるマルタは捕らえられたスパイで、死刑囚だと教育されて居ました。だから良心の呵責みたいな感情もありませんでしたね。14歳で入隊した当時の我々は、本心からお国の為だと思い、滅私奉公の積りで任務に当たって居ました。『この細菌爆弾が完成すれば戦局を変える事が出来る』と上官から言われて居ましたから」

 須永以外の少年兵たちも同様だ。前述の証言の通り「人体解剖を行った」「軍用犬に細菌爆弾を運ばせた」と云った会話は、部隊の少年兵達にとって有触れた世間話だった。基地内で非人道的な生物兵器が製造されて居る事は周知の事実であり、10代の少年兵達はその環境に慣れ切って居たのだ。その一方で彼等は普通の青年と同じ様な生活も楽しんでいた。

 「私たちの班はハルビン市街地に近い建物で生活して居た事もあり、他班に比べると自由度が高かったんじゃないですかね。休日は外出許可を得て、基地から市街地へ繰り出すこともありました。
 そうそう、ハルビンの市街地で生まれて初めて水餃子を食べたんです。餃子自体、当時の日本にはありませんでしたからね。『アソコの店の水餃子は美味いよな』なんて、仲間と言い合ったものです。映画館に行ったりもしましたね」


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       1943年ごろのハルビンの街並み[Photo by gettyimages]4-17-13

 しかし帰りに通る基地の入り口には「何人たりとも関東軍司令官の許可なくして構内に入った者は銃殺に処す」と書かれた警告文が張られている。「初めて見た時は、ものものしい場所に来てしまったと思った」と須永は話す。
 残虐な人体実験が当たり前の様に行われて居た基地の中と、美味しい水餃子や映画館がある外の世界。どちらも少年兵達に取っての「日常」だった。

 彼等少年兵の経験を学ぶ意味

 ソ連が国境を越えて満州に侵攻して来た1945年8月8日、須永が所属する少年隊は、機密保持の為施設内の研究室を破壊する様命じられた。その後工兵隊が本部の建物を爆破し証拠を隠滅した上で撤退した。
 須永が後で聞いた処によると、一部の少年兵は不必要に為った捕虜を直接「処分」させられたらしい。須永らが研究室を破壊している間、施設の一角からズッと黒い煙が上がって居た。少年兵達が捕虜を殺害し、死体にガソリンを掛けて燃やして居たのだった。

 その後、須永らは朝鮮を経て日本へと戻った。帰国直後に感じた恐怖についてこう振り返っている。

 「何とか内地に戻ったものの、我々の部隊に所属して居た者は『そのうちGHQに捕まって殺されるんじゃないか』と云う不安が強かったですね。731部隊で非人道的な人体実験を繰り返し細菌爆弾を開発して居た訳ですから。
 でもそのうち、石井四郎部隊長が、実験データと引き換えに隊員を免責する様アメリカと取引したと聞いて、安心しました。率直に、上手く遣って呉れたなと思いましたね」


 戦後暫く沈黙を貫いた須永は「部隊内で見聞きしたことは話しては為らぬと徹底的に教育されて居たから、終戦後も731部隊のことは家族にすら話さ無かった」と語る。しかし7〜8年前から取材に応じる様に為った。

 「731部隊のことが報道でこれだけ世に知られたので『もう全てオープンにしてしまった方が好いだろう』と生きて居る隊員達で話し合い、数年前からメディアに出る様に為ったのです。
 非人道的な実験によって細菌兵器を研究して居たのですから、今考えれば間違ったことだったと思いますよ。でも、当時はそれが当たり前でした」


 軍上層部からの教育や環境への適応の結果、彼等少年兵に取って非人道的な人体実験は「美味しい水餃子」と同じ「日常生活」と為った。異常な環境も戦時には「日常」と為り得る。戦後75年を迎えても尚、我々は須永の証言から引き出されたこの事実を見詰続けなければ為ら無い。

                     以上





















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