2020年04月09日
江戸時代 どれだけ厳しい取り締まりでも無く為ら無かった或る職業
江戸時代 どれだけ厳しい取り締まりでも
無く為ら無かった 或る職業
〜プレジデントオンライン 河合敦 4/8(水) 11:16配信〜
※写真はイメージです 写真 iStock.com/rudiuks
〜江戸時代、女性の髪を扱う理美容師の仕事は禁止されて居た。歴史研究家の河合敦氏は「それでも庶民の間では大流行して居た。厳しい禁令も、美しい髪型で居たいと云う女性の願いには敵わ無かった」と云う〜
※本稿は、河合敦『禁断の江戸史 教科書に載らない江戸の事件簿』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。
女性が髪を結う様に為ったのは江戸時代から
「女髪結(かみゆい)」の話をしたい。女性の髪を結う、今で云えば理容師・美容師の事だ。女性が皆髪を結う様に為ったのは江戸時代に入ってから。それ迄は、貴族や武士の間でも垂髪(すべらかし)が一般的だった。それが次第に髪の毛を束ね始める。
当初は自分で結髪したり友人や知人で結い合ったりして居たが、次第に金を出して他人の手でオシャレな髪型にして貰う様に為った。こうして女髪結と云う職業が成立して来る訳だ。
ちなみに私が子供の頃に通って居た近所の床屋は、行くと必ず天国か地獄か、ドチラかの気分を味わされた。ドチラかに為るかは順番が来る迄判らない。店は父と娘で営業して居たが、娘さんは超美人だった。襟足(えりあし)を剃って貰う時彼女の顔が間近に迫って来たり、散髪の途中、体が一瞬だけ私に触れたりする。増せガキだったので天にも昇る気持ちだった。一方父親の方は、平気でゲップやオナラをする嫌なオヤジだった。
だから女髪結と聞くと、私の脳裏には、アノ美人理容師の顔が思い浮かんで来る。只最初の女髪結は、山下金作と云う男性だったと云うのが定説に為って居る。山東京山が随筆『蜘蛛の糸巻』で語ったものだ。
歌舞伎役者のカツラのセットから始まった
京山は云う・・・安永年間(1772〜1781)、上方歌舞伎の女形で有る山下金作は江戸に下って深川に住み始めたのだが、自分が芝居で着けるカツラを美しく結い上げて居た。それを目にした深川の或る芸妓が感激し、「私の髪もヤットクレ?」と頼み込んだ。
そこで銭二百文で結い上げた処、何とも見事な仕上がり。これが噂(うわさ)に為って客が殺到、遂に金作は女性専門の髪結を渡世(とせい)とする様に為ったのである。
そんな金作に弟子入りしたのが甚吉と云う若者だった。彼はその技を修得すると、半額の百文で料理屋の仲居達の髪迄結い初め、以後「百」さんと呼ばれ、アチコチを回って大いに稼いだと云う。
弟子達も大勢出来たのだが、彼等の多くも自立して更に半額以下で仕事を請け負い、寛政年間(1789〜1801)に入ると、手頃な値段の女髪結は大流行。誰もが髪を髪結に任せたので、女性は自分で髪を結う事が出来無く為る程だった。
松平定信が「風俗を乱して居る」と禁止令
老中松平定信 寛政の改革
処が丁度この頃、老中松平定信が主導する幕府の寛政の改革が始まった。そして改革の一環として、何と女髪結を禁止したのである。寛政七年(1795)十月の事だ。その理由に着いて、禁令の内容を意訳して理解して頂こう。
「以前は女髪結は居なかったし、金を出して髪を結って貰う女も居なかった。処が近頃、女髪結がアチコチに現れ、遊女や歌舞伎の女形風に髪を結い立て、衣服も華美なものを着て風俗を乱して居る。飛んでも無い事だし、そんな娘を持つ両親は何と心得て居るのか。女は万事、分相応の身嗜みをすべきだ。
近年は、身分軽き者の妻や娘達迄もが髪を自分で結わ無いと云うではないか。ソコで女髪結は、今後は一切禁止する。それを生業(なりわい)とする娘達は職業を変え、仕立て屋や洗濯等をして生計を立てる様に」
質素倹約を改革の主眼として居た幕府は、近年の庶民女性の風俗は華美に流れて居り、その責任の一端は女髪結に有ると判断したのだ。尚、この文面から、当時の女髪結は既に女性中心の職業だった事が分かる。
ホトボリが冷めると平気で復活する
ちなみに『蜘蛛の糸巻』を著した山東京山は、コノ女髪結禁止令に賛成だった様で「彼(か)の百(金作の弟子・甚助)が妖風の毒を残しゝなり。然(し)かるに。維新の御時(寛政の改革)に遇(あ)ひて。此妖風一時に止まるは。忝かたじけなき事にぞ有りける」と述べて 。
しかしながら、この改革では京山の兄である京伝が、遊里の事を書いた洒落(しゃれ)本『仕懸(しかけ)文庫』を問題視され、手鎖(手錠をして生活する)五十日の刑に処せられて居る。
老中水野忠邦に依る天保の改革
さて、江戸時代の面白さは、ホトボリが冷めたら法令は平気で破られる事である。寛政の改革が終わり、将軍家斉の文化・文政時代(1804〜1830)に為ると、風俗は大いに緩んで庶民の暮らしは贅沢(ぜいたく)に為った。勿論、またぞろ女髪結も現れた。処が、である。
老中水野忠邦に依る天保の改革(1841〜1843年)が始まると、庶民の娯楽は徹底的に取り締まられ、再び女髪結も廃業を迫られた。天保十三年(1842)十月に出された禁令を見ると、
「髪を結渡世(とせい)同様ニいたし候(そうろう)女・・・(女髪結)は〔重敲(じゅうたたき)〕の罪に相当するとして〔百日過怠(かたい)牢舎〕(入牢)を申しつけ、その両親や夫も罰金〔三貫文〕相当の罪にあたるとして〔三十日手鎖〕更に家主も同様。又、髪を結って貰った客も三十日の手鎖とし、客の親や夫は〔過料三貫文〕とする」と書かれて居る。
再度禁止されても何故か髪結は増えるばかり
それにしてもお金を貰って女性の髪を結っただけで、百日間も牢獄にブチ込まれ、客のみ為らず女髪結の両親や家主迄処罰されると云うのは尋常では無い。天保の改革が二年間で失敗に終わると、庶民が水野忠邦の屋敷を取り囲み、石を投げたり屋敷の一部を破壊したのは心情として好く判る。ちなみにこの時は、アノ曲亭馬琴が『著作堂雑記』の中で、
「天保十二年春頃から女髪結を禁止され、今年十三年に為って、それでも止ま無いので、女髪結だけで無くその客も召し捕られ手鎖を掛けられる様に為った。又町中に『女髪ゆい入べからず』と云う札が貼られる様に為った。この女髪結と云うものは、文化年間から始まって次第に増え、貧しい裏長屋の女房や娘、或いは下女迄もが女髪結に髪を結わせる様に為った。今は自分で髪を結わ無い者ばかりだ。当初は客が髪を結う為の油を出し、百文の代金を取って居たが、最近は女髪結が増え、安いのに為ると二十四文で髪を結って呉れる」
と記し、最後に「是らの御停止は、恐れながら最も御善政にて有り難き御事なり」と讃(たた)えて居る。その認識は、寛政の改革時の山東京山と同様である。只、本当に女髪結を生業にしたからと云って、処罰された人が居たのだろうか?
「小遣い銭にも事欠く程生活が苦しく…」
実は、存在したのである。『長崎奉行所記録 口書集 上巻』(森永種夫編 犯科帳刊行会)にその事例が採録されて居る。長崎奉行所に残る裁判記録をマトメたもので、口書と云うのは江戸時代の供述調書であり、最後に嘘偽りが無い事を証明する為拇印を押した書類だ。弘化元年(1844)四月の記録に「女髪結」みつ(二十九歳)の口書があるので、その供述を意訳して紹介しよう。
「私は新橋町茂兵衛の娘です。先年、父が亡く為ったので困窮し、寄合町の遊女屋忠三郎方で家事手伝いをして居りました。東浜町七郎太方には好く出入りして居るのですが、同家の娘もん(二十歳)やその下女かや(二十四歳)から髪を結って欲しいと云われ、鼻紙代として銭二十文を受け取り結髪致しました。
女髪結が禁止されて居る事は重々承知して居りますが、小遣い銭にも事欠く程生活が苦しく、遂法を犯しました。逮捕されてお役人様から他所へも出入りして結髪で金を稼いで居るだろうと再三聞かれましたが、そんな事はございません。右の事に着いては一切、偽りはございません・・・クスン」
この様に貧窮の余り、結髪に手を出した様だ。なお、みつは手鎖の刑に処せられた。又、客と為った「もん」と「かや」も取り調べられて居る。
もんが云うには「両親が先年死去したので造り酒屋を継承したが、持病の癪(しゃく)が長引いて自分で髪を結え無く為ったので、元女髪結で在ったみつに仕事を依頼したが、それ以外、他の女髪結を用いた事は無い」と誓って居る。どうやら密告者が有った様で、みつがもんの髪を結って居る最中に長崎奉行所の役人が乗り込んで来て居る。
「髪結いの亭主」は明治時代に成立した慣用句
さて、この様な摘発を行ったにも関わらず、一向に女髪結は姿を消さ無かった。江戸の町奉行所は、嘉永六年(1853)五月三日、町の名主達に「女髪結之儀ニ付御教諭」と云う通達を発した。ソコには次の様な事が記されて居る。
「過つて女髪結は厳禁されて居たが、密(ひそか)に調べた処千四百人余りも居る事が分かった。そのママにして置け無いので直ぐに捕まえるべきだが、この度は特別な計らいで吟味の沙汰には及ば無い。とは家、そのママ放置出来ないし、女髪結が居ると女子の風儀が奢侈(しゃし)に流れてしまう。
只、貧しさ故に髪結渡世を営んで居るのだから、急に仕事を取り上げてしまうと困る者があるだろう。そこで今後は、毎月初旬に町の家主達を集め、町内に女髪結が居ないかを問い質し、もし居たら説諭を加えて商売替えをする様説得せよ。それでも云う事を聞か無ければ、捕まえて連れて来い。放置する事の無い様に」
如何であろうか。天保の改革の十年前と比べて、規制が驚く程甘く為って居る。それはそうだろう。だって千四百人も女髪結が居るのだから。詰り幕府の禁令も美しい髪型をして町を練り歩きたいと云う女性の願いには敵(かな)わ無かったのである。
尚、明治時代に為ると、女髪結は専ら芸妓達の髪を扱う様に為り、その稼ぎも男顔負けに為って行く。妻の稼ぎで生きて居る夫の事を「髪結いの亭主」と云うが、実はこれ、明治時代に為ってから成立した慣用句なのである。
イタリア版 髪結いの亭主
河合 敦(かわい・あつし) 歴史家 1965年 東京都生まれ 早稲田大学大学院卒業 高校教師として27年間教壇に立つ。著書に『もうすぐ変わる日本史の教科書』『逆転した日本史』など
歴史家 河合 敦 以上
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