2020年01月22日
大河ドラマを先取り!明智光秀「本能寺の変」の真相とは
大河ドラマを先取り! 明智光秀「本能寺の変」の真相とは
〜webマガジン mi-mollet 1/22(水) 8:00配信〜
光秀を取り巻く人物の相関図
パワハラ上司にブチ切れた! 「本能寺の変」の真相
苦難を乗り越え、何人もの主人に仕えた後、遂に時の人・織田信長(おだ・のぶなが)の家臣と為った明智光秀。現代に例えれば、転職を繰り返し、遣っとカリスマ性溢れる上司に巡り会えた!と云う処でしょうか。
デキる男であった光秀は、信長の下で次々と武勲を打ちたてたます。そして、信長の部下では秀吉(ひでよし)と並び、一二を争う武将と為りました。しかし、栄光の日々は、突然終わりを告げます。
或る日、信長に安土城へ呼び出され、行き成りこう言い渡されたのです。「光秀、高松城へ行き、秀吉を助けよ」有ろうことか、ライバルの秀吉を助けよ、と云う命令。これだけなら未だしも、更に衝撃的な事を言い渡されます。「坂本城と丹波を召し挙げる。代わりに出雲と石見を切り取り放題にせよ」
これは、天正10年(1582年)、5月17日の事です。そして、アノ有名な「本能寺の変」が起きたのは、それから足った15日後のことでした。
どうして光秀は信長を討ったのか? 信長の忠実な部下として働き続けて来た光秀が、この命令を受けた後、半月の間に「本能寺の変」を計画し実行した・・・その最大にして直接の理由は、正にこの「在り得ない命令」に有ったと言えるでしょう。
信長の命令で次々と戦に駆り出される光秀。比叡山・延暦寺攻めは、僧兵ばかりか女子供も全て焼き討ちにせよ、と云う過酷なものでした。
飛んでも無い上司とブラックな職場!?
信長の下で、休む暇も無く働き続け、戦に勝ち続けて来た光秀。信長はそんな光秀を、従順で賢い猟犬の様に、存分に利用し続けました。
「光秀は、俺の命令には決して逆らわ無い、無類の忠実もの」と考えて居た信長は、光秀を次々と戦いに向かわせるだけで無く、朝廷との交渉役も任せます。光秀を評価して居る事をアピールしつつ、バンバン仕事を振ったのです。そして遂に「お前に与えて居た領地を全て取り上げる。お前は、ゼロから出発しろ。敵地へ行って、領土を奪い取れ」と、無理難題を言い渡しました。光秀なら黙って従う筈、と思っての事だったのでしょう。
近畿の地を治める重要なポジションを光秀が
当時、都をグルリと囲む、近畿の地を治める重要なポジションを与えられて居た光秀。織田の家臣で、これ程の待遇を受けて居た武将は居らず、自他共に認める「出世頭」でした。
そして、光秀に取っての坂本城は、自ら設計した愛着のある城です。しかも、主人である信長が、安土城を築くに当たって参考にした、と云われる程の名城だったのです。その坂本城と、更に亀山城も明け渡し、ライバルである秀吉の加勢に行け、その後は、敵地である出雲と石見へ攻め込んで来い・・・。
今まで忠実に仕えて来た信長から、これ程迄に過酷な命令を下された光秀は、ドンなに落胆し、動揺したことでしょう。しかしこれも、信長に取っては「天下を制する為に、部下をどう効率的に動かすか」と云う戦略で命じだけに過ぎません。
念願の「天下人」の座を前にして、部下への配慮が足りなかったのか、それとも「何を遣らせても巧みな光秀なら、上手く遣るだろう」と信頼し切って居たのか・・・
信長は、デキる男であった光秀を「更に必死で戦わせる為に、領地を全て取り上げてしまえ」と目論んだのでしょうが、正かこの15日後に、その信頼して居た部下から自分が討たれるとは、思いも依ら無かったのでしょう。
しかし光秀に取っては、天国から地獄へ突き落とされる様な命令だったに違いありません。敵地で勝てれば好いものの、もし負けたら、自分だけの事では済ま無いのです。大切に育てて来た一万三千の兵士達を、城無しで路頭に彷徨わせる事に為ります。
到底、こんな理不尽な命令に従う事は出来ません。そして、遂に光秀は心を決めました。
「為らば、信長を討つ」
と。冒頭で、光秀の人生を現代のビジネスマンに例えました。「転職の苦労を重ね、遂にカリスマ性溢れる上司に巡り合えた!」と、可成りブラックな職場環境では有りつつも、休みも取らず必死に耐えて働き続け、出世した光秀。
しかし信長の無謀な命令が切っ掛けと為り「カリスマ上司と忠実な部下」の関係は、完全に決裂してしまいました。54年の波乱の生涯は、僅か13日の天下を最後に、竹やりの一撃で幕を閉じた。
十三日天下の果てに
「本能寺の変」の後、光秀はどう為ったのでしょう?皆さんご存知の通り、光秀は「本能寺の変」で、信長を討つ事に成功します。しかしその後は、頼みにしていた細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)や高山右近(たかやま・うこん)等を味方に得る事が出来ず、秀吉との戦に破れてしまいました。そして、敗走の最中、落ち武者狩りをして居た農民の竹槍によって、命を落としてしまったのです。「本能寺の変」から、足った13日後の事でした。
パワハラ上司・信長に反旗を翻す事には成功したけれど、味方は殆どライバルである秀吉に着き、そして、思いも依ら無い農民の一撃で人生を閉じた光秀。
光秀の最後を考えると、どんなに無念だった事だろうと胸が痛みますが、彼の行動が、歴史に大きな転機をもたらした事は間違いありません。「本能寺の変」によって「秀吉の天下」そして「家康の江戸幕府」への道が切り開かれたのですから。
いかがでしょう。 光秀のドラマティックな人生からは、今を生きる私達にとっても、教訓として学べる事が、色々とあるのではないでしょうか?
明智光秀が生涯拘った「美しい生き方」とは?
「本能寺の変」で、天下人・織田信長を討った明智光秀。激動の戦国時代、一度は城を焼かれても再起し、何人もの主君に仕えながら、遂に時の人である信長の家臣に。優れた戦闘能力と、文化人としての側面を併せ持つ光秀は、出世の階段を駆け上がって行くが・・・謎の多い最後の戦国武将、波乱の生涯!(小学中級から)
イラスト kaworu『戦国武将物語 明智光秀 美しき知将』より 構成 北澤智子
この記事、現代ビジネス「本能寺の変」は、上司信長の「パワハラ」が原因か? 歴史を解くを元に、青い鳥文庫編集部で加筆・再構成をしたものです 以上
【管理人のひとこと】
明智光秀がどの様な事情があって、成算の少ない信長誅殺を計画し実行したのか・・・そして、彼の忠実な家臣団がそれを留めず主人に忠実に従い、そして共に滅ぼされる運命に従ったのか・・・これは、幾ら下剋上の戦国時代とは云え、今から考えても余りにも想像も着かない突飛な出来事だったでしょう。原因・手段・目的・結果・・・が、一直線に繋がら無いモドカシサガ残ります。
原因・手段は、彼の家臣団を納得させ実行させた・・・光秀が家臣達に説いた道理が受け入れられた事です。殆どの皆が納得し光秀に付き従った事実があり、光秀の決意を家臣団が理解する程のものだった訳です。
しかし、その目的がハッキリしない為、結果と結び付かないのです。信長に代わって「光秀が天下を捕る」事に在ったとしたら、余りにも下準備が足りず未熟な決起であり、そんな事を家臣団が許すのが理解出来ません。主人の光秀を思い、必死の覚悟で押し留めてこそ立派な家臣と呼ばれましょう。
それとも、目的が単なる「信長に対する腹いせ」の為だとしたら、そして「それに家臣団が同意した」としたら、家臣達も納得する程の酷い仕打ちを信長から受けて居たと想像出来ます。「例え数日でも天下を捕らせたかった」それ程の家臣団の悔しい気持ちだったのでしょうか・・・
まかせて!BOCCO(ボッコ)は、家族をつなぐコミュニケーションロボットです。
公式サイトはこちらからチェック⇒https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=35SIQS+F4RNAQ+4D9O+5YZ77
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