2020年01月20日
秀吉か森蘭丸か 明智光秀「信長殺し」8人の真犯人
秀吉か森蘭丸か 明智光秀「信長殺し」8人の真犯人
〜SmartFLASH 1/19(日) 6:31配信〜
今日から放送されるNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公は明智光秀。ドラマのクライマックスとなるのが、アノ「本能寺の変」だ。1582年6月2日、天下統一を目前にして居た織田信長が、家臣の明智光秀の謀反により本能寺で自害。
だが光秀は「中国大返し」で戻った豊臣秀吉に敗れ、その天下は僅か11日で終わった。「戦国時代、最後にして最大の下剋上」と云われる。主君・信長にパワハラを受け続けた結果の謀反・・・詰まり「光秀の 私怨 が原因」というのが、人々が持つ本能寺の変のイメージだろう。だが近年、これを覆す「新説」が次々と発表されて居る。
今回、紹介するのは、黒幕や共謀者と囁かれる8人の真犯人 。荒唐無稽な説もあるが、思わず膝を打つ説も。歴史上の大事件にも関わらず、未だ「信長殺し」の謎が解明され無いのは何故か。
「信頼性の高い1次史料が、限られて居る為です。学者や作家は、自説の補完材料として、2次史料・3次史料を恣意的に利用する為、基本的な事実すら定まらず論旨が噛み合わ無いのです」
歴史アナリストで『明智光秀の生涯』(三笠書房)の著者 外川淳氏(56)はそう語る。
「黒幕が居ると云う説を提起する人は、真実を解明したい訳では無く、歴史エンタテインメントとして支持を得られれば好いのでしょう。歴史学での研究成果を論拠としながら、ソコにフィクションを追加することで、真実を解明した幻想 を与え続けて居るだけとも云えます。
私自身は『光秀は、黒幕に操られて謀反へ追い込まれたのでは無く、自らの意思で天下簒奪(さんだつ)を決めた』と考えて居ます。『共謀者も居た』と考えますが、山崎合戦で光秀が秀吉に敗北した事で、共謀者自身が証拠を消し去った筈です」(外川氏、以下同)
大河ドラマでは、光秀の「謎めいた前半生」に光が当たる。
「光秀は謀反人と見做され、秀吉の時代には、血縁者や関係者は、その事実を隠さざるを得無かった。その為、光秀に関して信頼に足る史料の殆どが失われ、生年月日や生まれた場所、父の名前さえ不明なのです。
しかし生涯を辿ると、知性と行動力で逆境を克服した優れた武将だった事が判ります。精神状態が不安定で、突発的に謀反した様に語られますが、それは類まれなる名将に対する名誉毀損。天下人と為ることを夢見て、チャンスを逃さ無かった。僅かでも天下を奪い獲った成功者だったと思います」
以下では、8人の “真犯人” についての新説を、外川氏に解説してもらう。あなたの知らない光秀がくる。
真犯人(1)豊臣秀吉
天下統一を目前にして居た信長に取って代わり、自らが覇者と為る為に、秀吉が光秀を謀反へと導いた・・・と云う説。最終的に、本能寺の変で最大の利益を受けたのが秀吉だった事や「中国大返し」の不自然な迄の動きの早さ等が根拠とされる。
「黒幕と迄は云えませんが『光秀との共謀があった』とする事は否定し切れ無い有力な仮説。信長に対する不信感・警戒心は、光秀も秀吉も持って居た筈です。共謀の証拠は、勝者・秀吉により抹消されたとも考えられます」(外川氏の見解・以下同)
真犯人(2)徳川家康
「家康は『信長が自身(家康)の殺害を光秀に命じた』と察知し、光秀と共謀して返り討ちにした」と云う説。信長と徳川家康は同盟関係にあった。しかし、家康は嫡男と妻を信長の命により死に追い遣られて居た。「本能寺の変」直前、家康が光秀から持て成しを受けて居たことも根拠だ。
「光秀と家康の接点は、それ程無かった筈ですが、この両者に仕えた武将が存在します。『この武将が、両者の間を繋ぐスパイ、或は連絡役の様な役割を演じ、謀議を交わした・・・』と想像する事も可能でしょう」
真犯人(3)濃姫
斎藤道三の娘で、後に信長に嫁いだ濃姫を『本能寺の変』の中心人物だと疑う説。『光秀と濃姫は、従妹であり幼馴染み、更に恋仲でもあった』と云う見解を前提として居る。信長を含めたこの3人の三角関係が変を引き起こしたとする筋立てだ。
「ドラマとしては面白いのですが、光秀の出自自体が謎であり濃姫と血縁関係の可能性は低い。とは云え、血縁関係が事実なら、光秀は主君・信長と、濃姫は出世街道を走るエリート・光秀と縁戚に為り・・・互いに好都合です」
真犯人(4)足利義昭
「信長の後ろ盾で将軍と為りながら、後に京を追放された足利義昭が光秀を決起させた」とする説。義昭は京を追放後、毛利氏等の庇護を受けながら、反織田の有力武将と連絡を取り、打倒信長の策謀を続けて居たことは、幾つもの書状等から確認されて居る。
「光秀は、義昭に仕えて居た時期が有り、彼の軽薄な人間性を知り尽くして居た。義昭は『本能寺の変』の頃には既にその価値に見切りを着けられて居り、仮に関与して居たとしても黒幕程の影響力は無かったとみる」
真犯人(5)長宗我部元親
「目前に迫った四国征伐を回避する為、長宗我部元親が光秀と共謀した」とする説。光秀と元親は、近年再検証された「石谷家文書」により、密接に関係して居たことが裏付けられている。光秀は信長を倒した後、元親の協力を得られる事を期待して居た。
「『石谷家文書』からは、光秀と元親の深い関係を知る事が出来る上に、この文書が、光秀に謀反を決意させた可能性迄もある。とは云え『共謀の証拠』と迄は言い切れません」
真犯人(6)正親町(おおぎまち)天皇
「朝廷が信長を京へ誘き寄せ、光秀に襲撃させた」とする説。「本能寺の変」が起きる直前の5月、朝廷(当時は正親町天皇)は、信長に「関白」「太政大臣」「征夷大将軍」の何れかへの就任を打診した。根底には、光秀が朝廷と築いて居た密接な人脈の存在がある。
「『本能寺の変』前後の状況から、光秀と朝廷で謀議する事は可能。仮にその様な事実があっても、光秀が秀吉に敗れた時点で、証拠は抹消されたでしょう。否定は出来ませんが、実証する事も不可能」
真犯人(7)森蘭丸
石原慎太郎の著書『信長記』で示された説。信長に対する森蘭丸の愛を主軸に描いた戯曲作品で、最終的には「信長の愛情を独占し心中する為に、蘭丸が光秀を唆(そそのか)し『本能寺の変』を起こさせた」とする。所謂、BL・ボーイッシュラブ的なストーリー。
「『本能寺の変』を大胆に推理する為に、提起されたひとつ。史実としては齟齬(そご)が生じます。但し、蘭丸の小姓(秘書)としての役割を再評価すると、謎解明の為の新しい方向性と為る可能性も秘められて居る」
真犯人(8)イエズス会
信長は、海外の勢力とも密接な関係を築いて居たが・・・「自らを神格化して、余りに大きな野望を持つ信長を、イエズス会が危険視し光秀を唆し謀反に導いた」とする説だ。だが論拠には、資料の誤読や論理の破綻があり否定的な意見が多い。
「戦国時代の日本は、スペインやポルトガル等、南蛮国からの侵略の危機に脅える様な、不安定な国家ではありません。その為、外国人宣教師の政治的影響力は皆無に等しく黒幕等には、為り様がありません」
週刊FLASH 2020年1月28日号 以上
「関連記事」文章で紐解く 明智光秀が信長討った真の狙い
〜東洋経済オンライン 加来 耕三 1/19(日) 5:20配信〜
織田家一の出世頭、明智光秀は何故「本能寺の変」を起こしたのでしょうか?
日本史の大い為る謎と称されるものの中に、明智光秀が織田信長を弑逆(しいぎゃく)した「本能寺の変」が挙げられます。
次に挙げたのは、その光秀が謀叛(むほん)に及ぶ1年前に、自らの家臣団に宛てて述べた「家中軍法」の一節を現代語訳したものです。内容自体は、明智の兵としての心構えや軍編成に付いての記述なので、詳細は省略しますが、最後の締めの部分は興味深い文章です。
「家中軍法」のポイントは?
「右の通り軍法を定め置く上は、実戦経験者は尚精進を怠らず未熟の者は好く理解せよ。私は瓦礫沈淪(がれきちんりん・瓦や小石の如く沈んで居た境遇)の様な低い身分から、信長様に取り立てられて、この様な莫大な軍勢を任される迄に為った。
軍律も好く弁(わきま)えず、武勇も功績も挙げ無い者は、国家(織田家)の穀潰しで、公のものを掠〈かす〉め取るにも等しい。日々精進して居る者からは軽蔑・嘲笑の対象にもされるであろう。奮起して抜群の功績を挙げた為らば、必ず信長様に報告し、重く取り立てるであろうから、この家中軍法を好く守って欲しい。
天正九年六月二日 日向守光秀」
この時、光秀は主君である信長に、我が身の出世を感謝して居ます。これは「本能寺の変」の1年前。光秀本人が「瓦礫」(価値の無い者)と表現して居る様に、彼の前半生は、21世紀の令和の時代に居たっても尚、悉くが謎に包まれたママです。
「本能寺の変」の動機も、光秀その人も全て不詳・・・好く美濃源氏の土岐氏の系譜に連なって居たとか、明智城の城主の息子であったとの話を耳にしますが、これ等は悉く、江戸時代中期に編纂された『明智軍記』の記す処であり、この書籍は「史料的価値には乏しいが類書も少無いので便宜使用されて居る」(国史大辞典)に過ぎ無い「軍記物」であり、全体が「物語」で、内容に史実では無い記述も多い、根拠の確認出来ないものでしかありません。
只、明らかな事は、この人物が歴史の表舞台に登場してから「本能寺の変」迄、足った14年しか無かったことです。永禄12年(1569年)正月、光秀は確かな記録『信長公記』(太田牛一著)の中で、信長が京を留守にした機会を捉えて、三好三人衆が信長の後押しをする15代将軍・足利義昭を京の六条・本圀寺(ほんこくじ)に攻めた折、立て籠って奮戦した多くの人数の一人に数えられて居ました。
それが僅か2年後、元亀2年(1571年)9月には、織田家筆頭家老の柴田勝家・信長のお気に入りの羽柴(後の豊臣)秀吉等を差し置いて、織田家中で最初の「城持ち」(城将では無く領地着き城主)の身分と為りました。
拙著『心をつかむ文章は日本史に学べ』でも詳しく解説して居ますが、何故光秀は「中途採用」でありながら、織田家においてこの様な異例のスピード出世を遂げる事が出来たのでしょうか。
言葉の問題が大きかった
取っ掛かりは、意外にも「コミュニケーション能力」でした。この時代には、我々が考える以上に「言葉の問題」がありました。室町時代の後期から戦国時代には、ソモソモ明治に創られた標準語が存在しませんでした。信長は丸出しの尾張弁を話し、光秀が仮に美濃出身者為らば、彼はどうにか隣国の信長の言葉が理解出来た筈です。
九州の人と関東・東北の人が京の都で出会ったとしても、恐らく会話は成立し無かったでしょう。江戸時代に入っても、コミュニケーションの基本であるこの言葉の問題は、ナカナカ解決しませんでした。筆談「文章」にして相手にそれを見せ、相手も「文章」で応ずるか、さも無ければ謡(うたい・能の声楽部分)の節を着け、言葉を発して理解を乞うかで、他に方法はありませんでした。
江戸時代「火事と喧嘩は江戸の華」と云われましたが、何故、喧嘩が頻繁に起きたのか? 筆者は「言葉が互いに通じ無かったから」だと考えて来ました。これでは諸事に困ると云うことで、武士の世界では、諸藩は藩士を代々江戸に住まわせて「江戸っ子」を作り、標準語に近い共通の言語を要約持つ事に成功しました。
戦国時代は大変です。こうした方言に加えて「男言葉」と「女言葉」が分かれて居たのです。平安中期に書かれた随筆『枕草子』には、聞いて違った感じを受けるものとして、清少納言は、法師の言葉と男の言葉・女の言葉・下衆(げす・身分の低い人)の言葉を挙げています。
例えば、味の好い事を男性は「うまい」と云い、女性は「いしい」と云いました。これに接頭語が付いて、今日の「おいしい」が誕生したのです。
戦国時代の日本では、この様に男性言葉と女性言葉が峻別されて居り、更には身分上の独特の言い回しがこれに重なり、その上での地方の乱雑な言葉が入り乱れた時勢でもありました。到底、何れも同じ日本語とは思え無いし聞こえません。
言葉すらがこの調子です。礼儀・仕来(しきたり)の煩雑さは相当なものであり、室町風の武家が操る礼式言語「外交」には、専門職が成立して居ました。
室町幕府が成立した折、殿中作法が定まって居らず、諸大名は雑然と屯(たむろ)し喧騒するだけで、何れが上位者か下位の者かそれすら明確化されて居ませんでした。貴人をそれなりに迎え、応ずる作法が無ければ、将軍と云えども尊重される筈がありません。
慌てた幕府は、行儀作法に弓馬術・・・詰まり武芸の作法に、禅の「清規」(修行上の約束事)を加えた礼法を小笠原貞宗に創らせました。これが小笠原流礼法です。これを当時の流行語では別に「行儀」と云いました。狭くは振る舞い・仕業(しわざ)の事であり、広くは立ち居振る舞いの全てを指しました。
筆者は、明智光秀が織田信長に最初に認められたのは、この「外交」の専門職としてでは無かったかと推察して来ました。加えて、行政官も出来れば、合戦の采配を振らせても光秀は抜群の才を発揮しました。信長の「天下布武」を助け、王手迄持って行った最大の功労者は光秀であった・・・と筆者は考えて居ます。
その織田家一の出世頭、ナンバーツーとも云うべき彼が、では何故「本能寺の変」を起こしたのでしょうか?
光秀を「本能寺の変」に向かわせた理由
筆者は、信長とのコミュニケーション不足・・・本来、筆も文章も得意の筈の光秀が、心身の疲労から、敢えてコミュケーションを自ら断つ方向へ向かった事が、何よりも大きかった様に思います。
光秀は諸文献上、信長より6歳以上〜18歳以下の年上と為ります。その光秀が、天正4年(1576年)11月に、糟糠(そうこう)の妻を病で亡くし、自らも病床に伏してしまいます。同じ頃、光秀の同僚であり織田家の最高幹部・方面軍司令官の一人であった佐久間信盛が、大坂本願寺攻めの長期化・不首尾を理由にクビに為り、高野山へ追い遣られる事件が起きました。
同様に、信長の幼少期から仕えた老臣・林秀貞や美濃併合に活躍した安藤守就(もりなり)等が、それコソ取るに足ら無い様な理由でクビに為る事件もありました。光秀は心身共に疲れ切った頭で、自分の行く末を考えた事でしょう。
九州縁の「惟任(これとう)」の姓と「日向守」の官名を、彼は信長から授けられて居ます。好敵手である羽柴秀吉の中国方面軍の次は、自らが九州征伐に臨まねば為りません。この時、光秀は、自らの未来を悲観したのではないでしょうか。既に、何でも相談出来る唯一の妻もこの世には在りません。疲労した頭でフト魔が指した様に「今なら信長を亡き者に出来る」と。
光秀は「空白地帯」の京の都へ、信長が少数の供だけを連れて入って来る事を、誰よりも詳しく知って居ました。信長の盟友・徳川家康も上洛中で、堺に居る事も、光秀は当然熟知して居ます。
天生10年6月2日・・・
天正10年(1582年)6月2日、光秀は本能寺を急襲して、信長を滅ぼしました。6月5日には秀吉の属城・長浜城と丹羽長秀の居城・佐和山城を陥落させて居ます。しかし、最も頼みとする親戚である細川藤孝・忠興父子への相談は後回しにしてしまい、その為「三日天下」は決定的と為りました。
結局、光秀は「中国大返し」で畿内へ駆け着けた秀吉の軍勢と山崎に戦い、一敗地に塗(まみ)れて、最後は落武者狩りの農民の手に掛かってその生涯を閉じました。
光秀が何故、得意の文章力・コミュニケーション能力を駆使して「三日天下」を「不朽の天下」にする努力をし無かったのか。云え、それ以前に、主君・信長との溝をどうして埋め様とし無かったのか。それを筆者も理解出来ずにいるのが正直な処です。
妻を失った時、病後の体調の優れ無かった段階で、光秀が得意の文章力・コミュニケーション能力を発揮して、自らの隠退を信長に認めさせて居れば、日本の歴史は大きく方向を変えた様にも思われるのですが。光秀の悲劇は、現代でも形を変えて起こり得るものです。我々は、先人の知恵・言動に学ぶべきかも知れません。
加来 耕三 歴史家・作家 以上
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