アフィリエイト広告を利用しています
ファン
検索
<< 2022年02月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28          
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
ヨリちゃんさんの画像
ヨリちゃん
プロフィール

広告

posted by fanblog

2020年01月10日

「山本太郎氏が都知事選出馬」を警戒する小池百合子氏&二階俊博氏の思惑




  「山本太郎氏が都知事選出馬」を警戒する小池百合子氏&二階俊博氏の思惑

             〜文春オンライン 1/10(金) 6:12配信〜

             1-10-8.jpg

 東京五輪イヤーの幕が開いたが、小池百合子東京都知事(67)が精力的だ。「最近の小池知事はドンな団体の会合にも必ず出席する。スケジュールがキツクても挨拶回りを欠かさ無い」(都政担当記者)視線の先は勿論、今年7月5日投開票の知事選。正に「再選ファースト」だ。
 連合・創価学会等集票が見込める組織の要望は全て聞き入れる構え。その甲斐あってか、公明党の山口那津男代表は1月2日、新宿で行った街頭演説で知事選に触れ「都政が継続性をもって、都民第一で進んで行く様にし無ければ為ら無い」と強調、小池氏支持を滲ませた。

 小池氏は自民党にも布石を打つ。昨年のクリスマスイブに、予てから昵懇(じつこん)の二階俊博幹事長を党本部に訪問。記者団から「二階幹事長からどう云う話があったのか」と問われ「東京として好く遣って呉れてるね、と励ましを頂いた」と披露。
 一方の二階氏も常々「(小池氏に勝てる候補は)居ない。当たり前じゃ無いか」と漏らして居る。「わざわざイブに会いに行く事で、蜜月関係を強調した」(政治部記者)との見方が専らだ。

              1-10-9.jpg

 丁度同じ頃、都内各地に自動音声の電話が鳴り響いた。「都知事には誰を選びますか」選択肢は小池氏・丸川珠代元環境相・「れいわ新選組」の山本太郎代表。小池氏と対決姿勢を取る自民党都連の一部には、丸川氏擁立論が燻り、山本氏は都知事選に着いて「選択肢として排除しない」と色気を見せて居る。

       1-10-7.jpg

 山本氏の知事選出馬は「合理的」である理由

 都連関係者が声を潜める。「実は、山本氏が6月にも知事選への電撃出馬を宣言するとの説が駆け巡った。それを受けて二階氏が仕掛けた調査だろう」仮に調査で小池氏がトップ為らば党が小池氏に乗るべきだと云う材料と為り、山本氏がトップ為らば「保守分裂の選挙では山本氏が漁夫の利を得るぞ」と丸川氏擁立論を牽制出来ると云う訳だ。

 政治部デスクも「山本氏の知事選出馬は合理的だ」と語る。山本氏は最近、衆院選で立憲民主、国民民主、共産等との野党共闘路線に乗るかどうか悩んで居るが「衆院選で共闘すれば、山本氏とれいわの存在感が一気に失われる。山本氏自身がそれを好く分かって居る」(野党幹部)
 一方、立憲の枝野幸男代表は、昨夏の参院選で「野党のカリスマ」の座を山本氏に奪われ、ライバル心を隠さ無い。「山本氏が知事選の野党統一候補に為って呉れれば、山本氏も埋没せずに済、枝野氏にも利がある」(前出・デスク)桜を見る会やカジノ疑惑で与野党の激突が予想される通常国会。その裏では、都知事選を巡る駆け引きも激しさを増しそうだ。


      「週刊文春」編集部 週刊文春 2020年1月16日号   以上









 【関連報道】議員在職50年 小沢一郎「出世とキャリア」 〈1〉

               〜JBpress 1/10(金) 6:00配信〜


        1-10-10.jpg

           衆院在職50年を迎えた小沢一郎氏(写真 AP アフロ)

 国民民主党の小沢一郎(77)が衆院在職50年を迎えた。尾崎行雄、三木武夫、原健三郎、中曽根康弘、桜内義雄(衆参通算で51年半)に次いで憲政史上6人目と為る。小沢は1969(昭和44)年12月27日の衆院選で初当選し、現在迄17回連続当選を誇る。小沢は今も野党随一の実力者であり、その現役感は半端では無い。 
 一方でそのキャリアは極めて特徴的だ。一貫して党のポストに就いて来た為、党首経験は通算17年8カ月に及ぶものの、意外にも閣僚経験は自治相の1回だけ、その期間も僅か7カ月余である。官房副長官として首相官邸を経験して居るが、これも1年半に過ぎ無い。

 にも掛からず、首相を凌駕する絶大な権力を握り続け、自民党を2度に渉って下野させた。昭和末期から平成後期に至るまで、日本政治の中心は常に小沢だった。小沢は如何にしてその政治力を高めて行ったのだろうか? 

 27歳で政界デビューした二世議員とは言え、出世が最初から約束されて居た訳では無い。寧ろ、若い頃は可成り地味である。目立たぬ若手政治家の一人に過ぎなかった小沢は、どの様にして権力の階段を駆け上がって行ったのか。自民で23年半、非自民で26年半過ごした議員生活を「出世とキャリア」の観点から振り返る。(敬称略 出典は逐次明記)



 二世議員

 小沢は、吉田茂内閣で郵政相や建設相、池田内閣で行政管理庁長官を務めた父・佐重喜(さえき)の長男として1942年5月24日に生まれた。中学2年迄岩手県水沢市(現・奥州市)で過ごし、中学3年時に父親が居住する東京都文京区に引っ越した。
 都立の有力校・小石川高校へ進学し、東大を志したが願いは叶わず、2浪の末、慶応大学経済学部に入った。1967年4月から日本大学大学院に進学し、司法試験を目指して勉強をして居た。

 転機は父の急逝だった。佐重喜は1968年5月に死去(享年70歳)し、息子の小沢が後継に収まる。佐重喜は藤山愛一郎派であったが、関係者の助言等もあり、当時自民党幹事長として辣腕を振るっていた佐藤派の実力者・田中角栄と接点を持つ。
 小沢本人へのインタビューは勿論、家族や関係者が実名で登場する大下英治の『一を以って貫く 人間小沢一郎』(講談社文庫)によると、小沢が田中に初めて会ったのは1969年4月中旬だと云う。面会場所は田中の私邸・目白御殿だった。

 田中は小沢の前で「好し、思い切って遣ってみろ。親の七光りは当てにしては行けない。戸別訪問は3万軒だ。何処の神社の階段が何段まであるか迄、一木一草を知れ。選挙区の人間を、トコトン知り尽くさねばいかん」「辻説法は5万回だ。3分でも5分でも辻立ちをして、自分の信念を喋れ」と捲し立てた。
 この戸別訪問と辻説法の徹底は、後に小沢が若手や新人候補を指導する時にも、口グセの様に繰り返し主張した方法論である。
 小沢番を長く務めた全国紙の政治部記者は「小沢の教えに影響を受け、それを応用して選挙に強く為った議員は多い。例えば2000年から選挙区で勝利し続けて居る細野豪志(無所属・自民党二階派)は、小沢流選挙を上手く取り入れて居る」と指摘する。

 小沢は1969年12月の衆院選に27歳で出馬しトップ当選を果たす。この時点でも、未だ大学院に籍があり、社会人経験は皆無である。小沢は現在に至る迄政治家の仕事しかして居ない。

 吐くまで飲む
 
 1970年1月14日、国会に初登院した小沢は挨拶の為、再び田中の事務所を訪れる。田中は小沢に向かって「一郎は大学院生だ。他の同期生と同じ気持ちで日々を過ごすなよ。ドンな部会であろうと、必ず出て勉強しろ」(『一を以って貫く』)と言い放った。
 当選同期には、福島県議出身の渡部恒三(後に衆院副議長)茨城県議会議長を務めた梶山静六(後に官房長官)等が犇(ひし)めいて居た。当時の最年少代議士だった小沢の注目度は低く、四世議員である小泉進次郎が2009年に28歳で初当選した際のメディアの注目振りとは雲泥の差だった。

        1-10-1.jpg 渡部恒三氏

 社会人経験も政治経験も無い小沢は、田中の助言に従い、真面目に自民党本部の部会に出席し、国会閉会中は只管地元を回った。田中が言った通り、七光りは通用しない。父親の地盤を継いだとは言え、支持者がスンナリと応援して呉れる程甘い世界では無かった。

 小沢は自著の中でこう述べて居る。「二世だからと言って、それに胡坐をかいて居たら、一回は当選出来ても、その後はどう為るか分から無い」「選挙区の人達は、僕が果たして国会に行くに相応しい男かジッと観察して居る。だから、徹底的に選挙区を回る事にした」『小沢主義 志を持て、日本人』集英社文庫)

        1-10-2.jpg 石川知裕氏

 若い時代の苦労を物語る印象的なエピソードがある。小沢の秘書出身で、陸山会事件で有罪判決を受けた石川知裕元衆院議員の『悪党 小沢一郎に仕えて』(朝日新聞出版)にこんな件(くだり)がある。

 「岩手では日本酒が飲め無いと政治家は務まら無い。会合と云う会合で酒を勧められる事に為る。集まった一人ひとりからお猪口に並々と酒を注がれ、一気に空けるのが礼儀だ(中略)。会合を梯子する小沢の車には、必ず用意し無ければ為ら無いものがあったと云う。塩水を入れた薬缶(やかん)だ。
 一つの会合を終え、小沢を車に乗せると、沢山の人が外まで見送って呉れる。手を振る人が見え無く為った途端、小沢はこう指示する。『ここで止めろ』」
 「小沢はドアを開け、その薬缶の塩水を口へ一気に流し込む。すると、先程支援者から頂いた酒が口から全部出て来るのだ。吐くのである。『口から弧を描くように綺麗な線に為って出てくんだ』と、(住み込み書生第1号の)藤原(良信元参院議員)先生は得意気に話していた」


 小沢は徹底的に地元に張り付いた。地元に戻ると、1日100軒以上の戸別訪問、100以上の後援会支部でのミニ集会を徹底的に熟すスタイルを貫いた。田中の教えを忠実に実践したと云える。「言いたい事を言い、自分が信じている事を実行する為には、選挙に強いと云う事が大前提と為る」(小沢主義)と強調して居る。









 国会質問は嫌い

 小沢は若い頃から、地元受けを狙ったスタンドプレーを好ま無かった。1970年4月17日、衆院文教委員会で初めての質問に立った。私学振興財団に関する法案に着いての質疑だった。
 憲法論をベースにした質問で、原理原則論を好む小沢らしさが感じられる。当選間も無い政治家は大抵、国会質問で有権者にアピールしようとするが、小沢はそう云った活動には新人時代から興味が無かった。試しに筆者が「国会会議録検索システム」で検索を掛けた処、小沢の初当選から10年間の国会での発言は僅か33回。当選同期の羽田孜(後に首相)が87回、渡部が71回である事を考えると半分以下である。

 『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』(五百旗頭真ら編 朝日新聞社)で、小沢は国会質問に付いてこう答えている。

 ・・・小沢さんは、国会の委員会での質問等は余り好きじゃ無いんですか。

 小沢 嫌いですね。僕は国会で余り質問をした事が無い。35年間の議員生活で質問は合計でも30分位しかした事が無い。質問をしても、答弁に立つ役人の話を聞くだけだから、何の意味も無い。意味の無い事は遣りたく無い。
 
 小沢は国会質問では無く、先輩や実力者達と過ごす事を優先した。常に小沢は「誘われたら断ら無い」姿勢で可愛がられて行く。師匠である田中とは将棋を指し、姻戚関係を結ぶ竹下登・後ろ盾と為る金丸信のマージャンにも最後迄付き合った。会合や宴席の幹事役は何時も小沢が引き受けた。朴訥で口数が少無く万事控え目だが、酒は飲めるし付き合いが好い。古い日本社会で出世する条件を備えて居た。

             1-10-3.jpg 野中広務氏

 目上や先輩に対する態度に関しては、野中広務が興味深い見方をして居る。野中は1992年の竹下派(経世会)分裂時に小沢と激しく対立する一方、1998年の自自連立政権で再び手を組む事に為る因縁の深い人物だ。1985年頃の話である。

 「竹下派の七奉行は、テレビが映して居る正面に座る訳です。処が、七奉行の1人である小沢一郎さんは居ら無いんですよ。小沢さん、何処に居るのかなと思ったら、秘書が座って居る柱の陰に座って居る訳。嫌、小沢一郎と云うのは偉い奴だ(中略)。年が若いけれど、そう云う事を心得た政治家が居るな、と云う感じを受けた事を今も忘れません」(『聞き書 野中広務回顧録』御厨貴・牧原出編、岩波現代文庫)

 科学技術政務次官

 1975年12月、三木内閣の科学技術政務次官に就任する。当選2回の33歳であるが抜擢では無い。政務次官は当選2・3回生であれば手にする事が出来るポストだった。小泉進次郎が内閣府兼復興政務官に就いたのは当選2回の32歳。小沢の初期のキャリアは進次郎と共通して居る部分がある。

 政務次官時代の小沢には大仕事が待って居た。難航して居た原子力船「むつ」の母港探しである。小沢は長崎県佐世保市入りし対話を重ねた。在職期間は僅か10カ月だったが、同市が修理港と為る道筋を着けた。一定の成果を出したのだ。小沢は後に党政務調査会の科学技術部会長も経験して居り、科学技術は得意分野だった。
 1976年9月に政務次官を退任すると、自民党には猛烈な逆風が吹いて居た。そんな中で行われた1976年12月の衆院選、所謂「ロッキード選挙」で小沢は生き残る。この選挙では、当選同期で終生の友にも敵にも為る梶山が落選して居る。この選挙に勝った小沢は、ライバルだらけの当選同期の中でヤヤ優位に立ち始める。

 同年12月、福田赳夫内閣で建設政務次官に就いた。当選3回、2度目の政務次官である。田中派の影響力が強い建設省に敢て送り込まれたであろう事は想像に難く無い。派閥内で「使える建設族若手」として存在感を放ち始めた時期である。
 丁度この頃から、建設相だった父・佐重喜の薫陶を受けた若手官僚が幹部クラスに為って居り、小沢は官界との関係を深めて行く。東京府立五中時代を含む小石川高校出身のキャリア官僚の会合にも名を連ねる様に為った。先輩議員にくっ付いてばかりの小沢だったが、霞が関人脈の構築は怠ら無かった訳だ。後年、野党生活が長期化しても、政府内の事情に精通して居たのは官僚人脈が大きい。2世議員としての遺産をこう云う場面で活用して居るのは抜け目が無い。

 地味な30代

 時期は前後するが、小沢は1973年、田中を支援して居た新潟県内の建設会社の娘と結婚して居る。時の首相・田中が父親代わりとして結婚式に出席したエピソードは有名だ。お見合いから挙式まで僅か3カ月。事実上の政略結婚である。
 小沢の妻の妹が、竹下登の実弟・亘と結婚し、竹下とも姻戚関係と為る。上司から可愛がられて姻戚関係を結ぶパターンは出世の観点から見れば王道中の王道である。

 1979年3月、自民党岩手県連会長に就任した。36歳の若さである。県連のベテラン達が統一地方選を巡る面倒な地元調整を小沢に押し着けた事情もあったが、期待に応えて同年4月の統一選を乗り切る。「ベテランの顔を立て、若手の自分が泥を被る」スタイルは何時の時代でも好まれるのは言う迄も無い。
 同年10月の衆院選後、自民党は分裂寸前と迄言われた熾烈な党内抗争「四十日抗争」を繰り広げ、派閥間対立が頂点に達した。浜田幸一が自民党本部内のバリケードを撤去する等したテレビ的にも派手な政局だったが、当選4回の小沢には出番は無い。

 1980年6月、大平正芳首相の急逝により、自民党は史上初の衆参同日選で圧勝した。小沢は38歳、既に当選5回を数えて居たが、未だ目ぼしいポストには就いて居ない。小沢の30代は非常に地味だった。例えば、竹下登、海部俊樹、麻生太郎、安倍晋三、岸田文雄、小泉進次郎等「若手ホープ」が経験して来た重要ポスト・青年局長も経験して居ない。70年代は正に「雌伏」と表現出来る。小沢が表舞台に出るのは1982年迄待た無ければ為ら無い。


     続く 紀尾井 啓孟









 【管理人のひとこと】

 山本太郎氏の都知事立候補・・・この解説には「合理性」があると解説する。確かに、現在交渉中の野党大連合は頓挫しそうな雲行きであり、立憲の吸収合併を否定する人達が新たに分派する・・・益々弱小野党化が加速されそうな・・・有っては為らない最悪の結果へと雪崩れ込みそうだ。
 ソモソモ国民側の存在は、維新に似た「湯党」的体質が抜け切れず・・・敢て云う為らば、安倍氏のヤル気の無い掛け声だけの「憲法改正」の餌に飛び付き、与党に組し利権の一端を貰いたい・・・かの様な印象を多くの国民に与えて居るからで、イッソ維新と合流した方がスッキリする。
 立憲もこの様な体質が混在すれば、それこそ立党の具現化に少しも利せず負の印象が強く為り、互いにダメージを受けるだけでは無かろうか。国民の分裂劇を加速させ、この話は立憲側にも多少の傷を残すことで落ち着くだろう。
 サテ、山本太郎氏の立場だが、確かに実に難しい。野党大連合が為っても為ら無くても彼が、オール野党のキャスチングボードを握れるか? それは、何かの大きな出来事でも起き無ければ無理な様だ。幾ら人気があり大衆を動員する魅力があるとしても、政党としての組織力は到底及ば無い。彼が主張する消費税廃止や奨学金徳政令・政府の大型経済対策等は国政としての仕事。
 彼が都知事として何がしたいのか・・・現在無職の彼が単なる「次の仕事」として「腰掛」としての意味でしか無いと受け止められてしまう。親分の小沢氏とヨクヨク相談して次の「奇跡的」な一手を考えて欲しい。山本氏の政治に於いての才能がどの様に開花するのか、彼を無くすのは国家的損失だ、頑張れ「たろう!」







=★==★==★==★==★==★==★==★==★=
 今おすすめの旅。 JALパック 国内ツアー
 https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=356SUZ+4YM29E+2CHE+6B70J
=★==★==★==★==★==★==★==★==★=















 

この記事へのコメント
コメントを書く

お名前:

メールアドレス:


ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/9548590
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。