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2018年05月07日

江戸時代を知ろう  その3

 

 江戸時代を詳しく知りたい その3


 ・徳川家(いえ)斉(なり)が俗物将軍と言われた本当の理由〜子供の数は53人

 側室の多さや子供の数では歴代将軍でも群を抜いて居た徳川家斉・江戸の11代将軍である徳川家斉は、歴代将軍の中でも側室の多さやその子供の数は他の将軍を圧倒して居ます。
 側室に産ませた子供の数が53人等と聞くと俄かには信じられませんが、どうやら真実の様です。俗物将軍と呼ばれた彼の散財により、江戸幕府の財政は年々傾く一方でした。只の女性好きとしか思え無い徳川家斉ですが、一体彼はどの様な政治を行ったのでしょうか?ここでは、徳川歴代将軍の中でも異色中の異色である、徳川家斉の真実について見て行きたいと思います。

 在位50年で子供の数は何と53人!?

 家斉は、10代将軍家治に子供が居なかった為一橋家から養子に為ります。その後家治が急死した為、15歳と云う若さで将軍に為りその後50年にわたって将軍として在位します。
 その間に40人の側室を持ち、名前が判って居るだけでも16人に子供を生ませて居る様です。その子供の数は、の男の子23人と女の子27人の合計53人と言われて居ます。その子作りの為の体力には本当に驚かされます。 生んだ後も、その子供達の面倒を見無ければ為ら無かった周囲の人間はさぞかし大変だった事でしょう。
 この頃の幕府は、吉宗の質素倹約の時代とは掛け離れ、贅沢三昧の生活を送って居た様です。これだけの子供に贅沢三昧をさせて居たら、幕府の財政も大変だったに違いありません。事実、この頃の幕府の財政は火の車だった様です。 

 沢山の子供は一橋家で将軍家を固める狙い?

 では徳川家斉は、何故これ程まで多くの子供を作ったのでしょうか?元々江戸幕府に於いて将軍が選ばれる血筋と云うのは尾張・紀州・水戸の御三家と決まって居ました。しかし、紀州から選ばれた八代将軍の吉宗が新たに御三卿を設けました。詰り、将来の将軍職を紀州の血筋で固めてしまおうと思った訳です。吉宗の次男田安家・四男一橋家・長男家重の次男清水家と云う取り決めです。

 吉宗以降9代目と10代目が続けて長男の家重の家系でしたが、11代目に為ってやっと一橋家(家斉)にチャンスが回って来た訳です。その為家斉は、今後は一橋家で将軍職を固め様と云う狙いがあった様です。
 その為日頃から欠かさず「しょうが汁」を飲み、オットセイの陰茎の粉末を飲み精力増強に励んで居た様です。その甲斐あって50年と云う長きに渡って将軍職に就く事が出来、53人と云う沢山の子宝に恵まれた訳です。その子宝のお陰か,家斉以降は12代・13代・14代と3代続けて家斉の家系から将軍が生まれる事に為りました。将に、家斉の思惑通りだったかどうかは定かではありませんが、何れにしても彼が無類の女好きだった事は間違い無さそうです。

 何故徳川家斉は松平定信を老中首座から解任したのか?

 徳川家斉が将軍に就任すると、手始めに家春の時代に幕府の政治を思い通りにして居た田沼意次を罷免します。当時、田沼意次は他の家臣からの評判は最悪の状態でした。しかし、将軍に就任したばかりの徳川家斉未だ15歳と若かった為、政治を取り仕切る事は難しく御三家からの推薦もあり松平定信を老中として取り立てて幕府の運営に当たらせる事にしました。
 この松平定信は、実はあの名君と言われた徳川吉宗の孫に当たる人物です。その祖父の影響からか、田沼政治により腐敗して居た幕政を何とかしようと、吉宗の改革に習って幕政を行う事に為りました。厳しい倹約生活は元より、賄賂による人事等を徹底して排除します。飢饉対策を徹底して行ったり、旗本への学問を奨励する事などにより、徐々にその効果が見られる様に為って行きました。祖父の吉宗と同様の厳しい政治を断行した訳です。

 吉宗は将軍と云う立場でその力を発揮した訳ですが、松平定信は吉宗の孫とは言え立場は飽く迄老中ですので、他の老中達から徐々に窮屈がられ、彼等から不満を持たれる様に為ります。
 その頃徳川家斉は、自分の父親である徳川治斉を江戸城に呼び大御所と呼んで将軍と同等の待遇を与え様とします。これに松平定信は大反対した様です。定信にしてみれば、それを認めてしまうと自分の立場が弱く為ってしまうので反対するのは当然の事でしょう。これ等の様々な事が切っ掛けと為って、松平定信は罷免される事に為ります。

 家斉の女好きを定信が気にして居た?

 何処までが史実か判りませんが、家斉は可成りの女好きで毎日の様に側室と夜を共にして居た訳ですが、その事を定信が気にして体に差し支えるからと宥めた事もあった様です。
 俗物将軍と呼ばれ自由奔放な徳川家斉と堅物の松平定信の間に徐々に亀裂が生じる様に為ったのは、ある意味必然だったかも知れません。その結果、松平定信が主導した堅実な幕府の政治は僅か6年で終わりを告げる事に為ります。煩い目の上のタンコブである定信が居なく為ったからこそ、徳川家斉は53人もの子宝に恵まれたのかも知れませんね。

 ・徳川家定は暗殺されたと云う噂の真相を考えてみる
 
 徳川家定は本当に暗殺されてしまったのだろうか?江戸時代に暗愚(道理に暗く愚かな事)と云う理由で、殿様が家臣に殺されると云う事は好く在った様です。幕府には内々に病死として届けられ、公に為ら無い様にされて居た様です。では、江戸幕府13代将軍だった徳川家定が実は暗殺されて居たと云う噂は、本当なのでしょうか?

 徳川家定の命とされる一橋派一掃の翌日と云う絶妙なタイミングで徳川家定は亡く為りました。タイミングがタイミングだけに、暗殺の噂が亡く為った直後から実しやかに大奥で囁かれる様に為った様です。
 更に、最近見つかった徳川家定の歯形を注意深く調べた結果も大変興味深いものでした。異常な程に歯形が脆く崩れて居ると云う事からヒ素による毒殺の可能性も無きにしも非ずとの事です。定の亡く為った状態に付いて、当時の担当医が「医学的見地から見て、毒殺の可能性が高い」と書き残して居る事も、家定暗殺の説を裏付けて居ます。
 一体誰が何の目的で暗殺を?と多くの人が疑問を抱くに違いありません。ここでは、徳川家定の死の舞台背景と為った、当時の状況に付いて詳しく考えてみたいと思います。

 徳川家定の死の直前に於ける社会的状況

 徳川家定は二人の正室に先立たれ、三人目の正室である篤姫や側室との間に子宝に恵まれる事はありませんでした。又、黒船来航の直後に将軍と為りますが、幼少から身体が弱く、一説では脳性麻痺だったとも言われて居ます。
 黒船来航後、日本は日米和親条約締結を余儀無くされる危機的な状況でしたが、定家は真面に将軍職が務まら無い様な状況に為って居ました。そう言った状況を憂慮した大名達の間で、在命中から次期将軍を巡っての争いがありました。

 一橋派と南紀派による激しい世継ぎ争いと篤姫

 島津斉彬や徳川斉昭等一橋派は、斉昭の実子の一橋慶喜(徳川慶喜)の擁立に動き老中である阿部正弘もこれに加わります。井伊直弼など保守的な大名や大奥と言った南紀派は、家定の血筋が近い従弟である紀州藩主の徳川慶福(後の徳川家茂)を推し激しく争って居ました。
 この状況に加えて、薩摩藩から輿入れした篤姫は、養父の島津成彬(なりあきら)から慶喜の将軍擁立に向けて努力して欲しいと頼まれて居た事も興味深い点です。そして、篤姫には毎月高額の「御化粧料」が薩摩から支給されて居ます。御台所として、不自由の無い生活が保障されて居た筈なのに、何故この様な高額な支給があったのでしょうか。この魔訶不可思議な資金の流れは、将軍家を転覆させる為の工作資金だったとの見方もあります。

 井伊直弼が大老職に就任と直後の家定の死

 そんな折、松平忠固や紀州藩付家老である水野忠央ら南紀派の政治工作により、安政4年老中阿部正弘の死後、井伊直弼が大老職に就任しました。
 更に、それまで表舞台に殆ど出無かった徳川家定が、安政5年6月25日(1858年)に諸大名を招集して「慶福を将軍継嗣にする」と伝え、続いて7月5日、一橋派の諸大名の処分を発表すると云う異例の行動を見せます。
これは、徳川家定が将軍らしい行動を見せた最初で最後の機会と為ってしまいました。そして、その翌日である7月6日に徳川家定は35歳の若さで急死してしまったのです。

 水戸藩主である徳川斉昭による恨み説

 余りの家定の絶妙なタイミングでの死に、一橋派が奥医師・岡櫟仙院を使って家定を毒殺したのでは無いかと直ぐに噂が流れました。その証拠として、奥女中の藤波が「水戸・尾張・一橋・越前松平家等の共謀によって将軍が毒殺された」と家定の亡く為った翌日に書かれたとされる手紙があると云う。
 慶喜の父である徳川斉昭が、将軍継嗣に彼の七男であり聡明さで知られた慶喜では無く、慶福を指名した家定に恨みを持ったとも言われて居ます。しかしその一方で、徳川斉昭が大奥で嫌われて居た為に、そうした噂を流されたと云う見方もあります。

 本当の黒幕は井伊直弼だった!?

 又、井伊直弼など南紀派の人の意見に流され易い家定に、意見を覆され無い様に家定を消したと云う見方もあります。そして、慶喜派の粛清が始まります。豪腕で知られる直弼は、目的を達成する為には手段を選ばず、家定よりも僅か13歳に過ぎ無い慶福の方が利用し易いと考えたのかも知れません。井伊直弼ら幕府は家定の死をひた隠しにして発表したのは1ヵ月後の8月8日でした。更に直弼の疑惑が深まる状況です。
 『徳川実紀』の8月8日の条では、「公方様御不例。御養生叶えられず、今巳の上刻、崩御遊ばされ候」と書かれて居ます。前後の出来事やそれを実行出来る立場と云う点でも、井伊直弼は一番疑わしい人物とも言えるかも知れません。

  篤姫が夫の家定を毒殺したと云う噂の真相

 篤姫は養父の密命である「次期将軍に、一橋派の慶喜公の推挙を家定公に進言する」に従って、多大の努力をした事でしょう。輿入れそのものの目的が慶喜の将軍擁立だったのかも知れ無いと云う見方もあります。しかし、家定は紀伊派の慶福を次期将軍に推挙してしまいました。篤姫派は自らの密命が成就し無かったので、最早用無しの夫を毒殺したのではないかと云う、篤姫による将軍毒殺説も浮上して居ます。

 家定暗殺の真相は結局は闇の中

 徳川家定暗殺計画の黒幕は井伊直弼や徳川斉昭だったと云う説は、一橋派と南紀派の中傷合戦の延長だったのではないかと云う見方もあります。又、篤姫による暗殺説に関しても、その後の篤姫の生涯や人物像を見ると信憑性に掛けるものがあります。もし、彼女が将軍の暗殺を実行するにしても、敢えて自らの危険を冒して迄実行に移すだけの利益に欠ける部分も否めません。

 現に徳川軍が官軍との戦いに連敗して、徳川家の存続も危ぶまれた際、実家の島津家から天璋院(篤姫)を引き取りたいと申し出がありました。しかし、これを彼女はキッパリと断って居ます。
 1年7か月足らずの短い結婚生活でしたが、「自分は徳川の人間である」という毅然とした態度から、徳川に骨を埋めるつもりで嫁入りしたと云う気構えが見て取れます。そんな彼女が夫である家定を暗殺するでしょうか?篤姫が暗殺に関与したと云う説は矢張り説得力に欠ける様です。
 表向きでは、徳川家定の死因は持病の脚気の悪化や当時流行して居たコレラによるものとされて居ます。とは言え、様々な状況証拠や当時の幕府の状況を考えると、将軍家定は暗殺されたのでは無いかと云う疑惑が残るのは事実です。しかし、暗殺だとする決定的な証拠に欠けるのも又事実です。今と為っては「真実は闇の中」と言わざる得無いのかも知れません。


  ・徳川慶喜〜将軍職に就く事を何度も拒んだ江戸幕府最後の男の素顔

 徳川慶喜が将軍に為りたく無かった本当の理由

 徳川家茂が亡く為った後、徳川慶喜がスンナリ将軍に為った様に思われて居ますが、実は慶喜は将軍職に就く事を拒み続け、その結果として将軍職が4ヶ月空位と為った期間があります。
 老中の板倉勝静や小笠原長行等が、次期将軍の後継にと慶喜を推しましたが、彼は頑なにんで居たのです。何度かの要請の後、要約8月20日に徳川宗家だけは相続する事には為りました。しかし、その際にも将軍就任だけはずっと固辞して居たのです。
 一体何故ここまでして慶喜は将軍に為りたく無かったのでしょうか?その思惑や真相について探ってみたいと思います。

 拒んだのは将軍就任反対意見を抑える為の政略?

 先ずは、当時の状況を考えてみましょう。徳川慶喜の将軍就任に関して、実は出身藩である水戸藩の反対意見が強くありました。更に幕府内では大奥が田安亀之助を推挙し、多くの幕臣迄も慶喜後継に反対して居たと云う事実があります。
 こうした徳川慶喜の将軍就任に対する反対意見の多い中、もしそのままアッサリと将軍就任を受けいれて居たら、その後の舵取りが難しかったであろう事は容易に想像が着きます。その為、諸侯の推薦によって将軍に就任する事によって、将軍としての権威を高め、この難局を乗り切ろうとそう言った「政略」を用いたのかも知れません。

 慶喜の思惑はともあれ、周囲が粘り強く説得を続け、言わば恩を売った形で徳川慶喜は要約12月5日に将軍宣下と為り、第15代将軍に就任する事に為りました。こうした形で徳川慶喜は将軍就任と為り、会津藩・桑名藩の支持の下、朝廷と密接な連携を行う事に為りました。
 その為、徳川慶喜は将軍在職中一度も畿内を離れず、多くの幕臣も上京させて実質的に畿内にて幕府政権運営を行いました。そうして、長く対立関係にあった小栗忠順ら改革派幕閣とも和解し「慶応の改革」を推進する事に為ります。

 大政奉還の裏にあった慶喜の強かな策略

 薩摩藩と長州藩が武力討幕を行う事を予期した徳川慶喜は、土佐脱藩浪士の坂本龍馬や後藤象二郎が提唱した大政奉還の建白書を受け取り、1867年10月13日に大政奉還を発表しました。そうして1867年10月14日明治天皇に政権返上を勅許されます。
 慶喜は当時の幕府に行政能力が無いと考え、大政奉還後も将軍職そのものは辞任して居ません。討幕派の機先を制し討幕の名目を奪う狙いがあった事が伺えます。しかしその後、武力による討幕を目論む薩摩藩と長州藩は10月14日に秘密裏に討幕の密勅を受け大規模な軍事動員を開始し始めます。

 慶喜はこの動きを制する為に、征夷大将軍の辞職を10月24日に朝廷に申し出る事に為ります。当時の幕府は朝廷に力が無い事を見抜いて居ました。形式的に政権返上を行っても、公家衆や諸藩を圧倒する力を持った徳川家が天皇の下の新政府に参画し政治的な実権を保ち続けられると考えて居たのかも知れません。
 現に朝廷からは条件付きながらも、緊急政務の処理が徳川慶喜に引き続き委任され、将軍職も一時的に従来通りとされて居ます。実質的に慶喜による政権掌握が続く事に為り幕府の思惑通りと為ったのです。
 慶喜が将軍職に就いたのは慶応2年12月5日の事です。その後慶応3年10月14日(勅許は翌日)に大政奉還したので、15代将軍の中で在位期間は1年足らずと最も短いものでした。

  王政復古のクーデター

 大政奉還により武力発動の口実を奪われた討幕派は、12月9日に「王政復古」のクーデターを起こします。王政復古により将軍職・京都守護職と所司代・摂政と関白の廃止、国事御用掛・議奏・武家伝奏と言った旧体制が廃止と為り、新政府には総裁・議定・参与の三職が置かれる事に為りました。
 徳川慶喜は内大臣の職にありましたが「小御所会議」によって辞官と納地が決定される事に為りました。こうして慶喜の将軍在位僅か1年で、江戸幕府が崩壊した事に為ります。

 江戸幕府が終わった後の徳川慶喜の人生

 慶喜は、その後も明治、大正時代と生き続けました。将軍職を辞した後の彼の人生とは一体どんなものだったのでしょうか?

 徳川慶喜は多彩な趣味を持って居ました。その一つが写真です。当時の屋外の様子を多くの写真に収めて居ます。その熱心さから当時の人気写真雑誌「華影」に投稿する程でした。しかし、元将軍と云えども、度々の投稿にも関わらず採用は難しかった様です。
 今も残る徳川慶喜の写真から、頻繁に屋外に撮影に出かけて居た事が伺い知れます。又、慶喜は油絵も上手でした。静岡県立美術館に彼によって書かれた油絵が所蔵されて居ます。 将軍と云うイメージとは掛け離れた、写真や油絵と言った美的なセンスがあったのでしょう。慶喜の趣味は、将に多種多様でした。
 写真や油絵の他にも弓道を毎日行って居ましたし、狩猟や当時珍しかった自転車でのサイクリングも好きだったそうです。慶喜はダルマ型自転車(オーディナリー型自転車)に乗って居て、市内を運動の為に乗り回して居た事が当時の新聞に書かれて居ます。また、その時に美人に気を取られ、看板に激突したと云う笑えるエピソードもあります。
 更にこれ以外にも、慶喜は手芸や碁、能楽、釣り、将棋、放鷹、打毬、飯盒での飯炊き等も好んで遣って居たと云う話が残って居ます。江戸幕府最後の将軍として波乱に富んだ時代を過ごした慶喜ですが、その後は悠々自適に趣味に生き、余生を幸せに送ったに違いありません。


 ・江戸時代の嘘の様な本当の話あれこれ

 江戸時代に売買された糞尿にはランクやブランドがあった!?

 江戸時代は好く出来たリサイクル社会でした。現代では何の価値も無い処か、処分の為に大きなコストを掛けて居る糞尿でさえも、有効に再利用されて居たのです。それ処か、糞尿にも様々な条件によってランク分けがあり、仕入先によってブランド物の糞尿まであったと云うのですから驚きです。ここでは、江戸時代のリサイクルの象徴とも言える糞尿の再利用について詳しく見て行きたいと思います。

 特上から下等まであった糞尿のランク分け

 現代の様に化学肥料等無かった江戸時代において、糞尿は貴重な肥料と為りました。その為、糞尿は高く売れ、ランク分けやブランドまでありました。
 特上に当たる「きんばん」と呼ばれる糞尿は、幕府や大名屋敷の勤番者のものです。勤番者の糞尿なので「きんばん」と呼ばれたのでしょうが、身分の高さが糞尿の値段に迄反映されるとは驚きです。
 上等に当たる「辻肥」は、街角にある辻便所と呼ばれる、所謂公衆便所から汲み取った糞尿です。中等にあたる「町肥」は、一般の長屋等の町民が使う便所から汲み取られた糞尿にです。下等に当たるのが「たれこみ」と呼ばれるもので、糞の量が少無く尿が多く混じって居る為肥料としての価値の低く為ります。
 又、同じく下等に当たる糞尿に「お屋敷」と呼ばれるものもありました。これは牢獄や留置所から汲み取られたもので、罪を犯した人の糞尿は価値が低いとされました。この様に、同じ人間の体から出た糞尿なのに、様々な理由によりランク分けされて居たと云うのはとても興味深いですね。夫々の身分による食べ物の違いから、肥料としての効き具合も違って居たのかも知れません。

 高いか安いか糞尿の値段

 因みに糞尿はどれ位の値段で売買されたのでしようか。記録によると、中等の「町肥」で、樽一杯当たり25文、船1艘当たり1両と云うのが相場だった様です。現代の貨幣価値で1文を20円、1両を10万円とすると、樽一杯の糞尿の値段が500円程で、船一艘分が10万円程と云う事に為ります。
 これを高いとみるか安いとみるかは価値観によりますが、それにしても糞尿がこの様な金額で売買されて居た事は驚きですね。

 江戸城の汲み取りの権利を有した葛西氏とは?

 江戸時代において、糞尿は立派な商品だった訳ですが、中でも高く売れる江戸城の汲み取りをする権利を持って居たのが、葛飾郡葛西領(東京都江戸川区)の葛西権四郎と云う人物でした。
 葛西氏は、鎌倉時代からの名門でしたが、家康の江戸入国の時に葛飾郡葛西領で土着の農民と為りました。この時に幕府より汲み取りの権利を与えられた様です。江戸城の汲み取りの権利があったと云う事は、当然ながら大奥の糞尿の買取を許されて居た訳ですが、こちらも可成りの値段で売られて居た様です。
 しかし、高い値段とは裏腹に、糞尿の質としては余り好いものでは無かった様です。と言いますのは、大奥の女性達は厚化粧をして居ます。その為、化粧品の成分である鉛や水銀等が糞尿に混入して居た様です。当然、それ等の糞尿を肥料として使えばその畑から取れた野菜にもそれらの重金属が混入する事に為ります。

 江戸の町民が生野菜を食べ無かった理由

 交通手段が余り発達して居なかった江戸時代では、重量のある糞尿を運ぶ為に船を利用する事が多かった様です。船に糞尿をタップリと積んで農家に届けた後、帰りはその同じ船に野菜を積んで運ぶのが一般的であった様です。
 糞尿と食べ物である野菜を同じ船で運ぶ等と云う感覚は、現代人には到底理解出来るものでは無いでしょう。バキュームカーの中に野菜を入れて運ぶ様なものですから。当時は、畑の野菜に肥料として糞尿を掛けて居た訳ですから、野菜に糞尿が着く事にそれ程違和感を覚え無かったのかも知れません。
 とは言え、流石の江戸町民も、糞尿塗れの野菜をそのまま生で食べる事には抵抗があったのか、当時の江戸の町では生野菜を食べると云う習慣は無かった様です。


 ・江戸の町は上下水道が完備でしかも全て無料だった!?

 現代の日本に於いても、地方に行くと上下水道が通って居ない地域は沢山あります。上水道の代わりに井戸の水を使い、排水は家の周りの側溝に垂れ流しだったりします。
 しかし、今から数百年も前の江戸の町では、驚くべき事に上下水道完備だったのです。しかも現代の様に水道代や下水道代等は一切掛からず、長屋に住む江戸の住民達は全て無料で利用出来たのです。何故、江戸の町では上下水道が発達する事に為ったのでしょうか?

 高度な土木技術と測量技術で作られた上下水道

 江戸時代に於いて、江戸の町以外の地域に於いては井戸水を使うのが当然の事でした。しかし、当時の江戸城の周辺は埋め立て地が多かった事もあり、井戸水を飲料水として利用する事は困難でした。勿論場所によっては井戸水を使う事が出来る所もあったのですが、その井戸水だけで百万都市である江戸の住民の飲料水を賄う事は不可能でした。
 その為江戸の町においては、人々が暮らして行く上において上水道は無くては為ら無いものだったのです。結果として、江戸の町中には網の目の如く上水道が張り巡らされる事に為ったのです。

 当時は、江戸城周辺に住む上流階級の人々ばかりでは無く、長屋の住民迄もが上水道の恩恵に預かったのです。しかも、長屋の住民達は無料で利用出来ましたから、高い水道代金に頭を悩ませる現代人にしてみれば何とも羨ましい話です。
 江戸の上水道は、多摩川を水源とする玉川上水と井之頭池を水源とする神田上水が主な水源でした。これ等の水源から、上手く高低差を利用して水を引いて来たのですが、江戸は坂の多い地域ですので、相当な測量技術と土木技術が無ければ上手く水は流れません。江戸の人々は、我々が想像する以上に高度な技術を持って居た様です。

 維持費用は地主と武家屋敷が負担

 下水道も上水道と同様に、高低差を利用して川に汚水を流すシステムでした。現代の様に汚水処理場等ありませんから、汚水をそのまま川に流すだけです。
 しかし、当時は汚水と言っても洗剤や脂分などが殆ど含まれて居ませんでしたので、汚水をそのまま流しても川が汚染されると云う事はありませんでした。寧ろ、汚水の有機物によってプランクトンが繁殖し、結果的に東京湾で魚が良く獲れる様に為った様です。
 下水道と言っても、地面に溝を掘っただけでは、汚水が地中に染みてしまい路地がドロドロに為ってしまいます。そこで、木で作った樋を敷き着けて、地中に汚水が染み込ま無い様にして居ました。そして、それ等の下水道には板で作られた蓋がされて居ました。これが、所謂「ドブ板」と言われるものです。

 何れにしても、これ程大掛かりな下水道が江戸中に張り巡らされて居た訳ですから、当然その維持管理には相当な費用が掛かって居たに違いありません。樋もドブ板も全て木で作られて居ましたから、現代の様なコンクリート製と違って直ぐに腐ってしまった事でしょう。
 当然、それ等の不具合のある箇所を定期的に修繕し無ければ為りません。又、常に汚水を流す訳ですから、頻繁に清掃をし無ければ途中で詰まってしまいます。それなのに、江戸の長屋の住民達はこれ等の上下水道を何故無料で利用する事が出来たのでしょうか?

 実は、上下水道の維持費用として、地主達が自己の所有する間口に応じて分担金を支払って居たのです。長屋の住民には一切水道料金は掛かりませんが、大家さんが確りと支払って居たと云う事に為ります。又、武家屋敷等は石高によって分担金を支払って居た様です。
 この様に、優れた土木技術と武家屋敷や大家達による維持経費の負担があって、百万都市江戸の上下水道は運営されて居た訳です。


 ・三下り半で江戸時代の女性は簡単に離婚されたと云うのはウソ?

 三下り半を書いてもそう簡単には離婚は出来ませんでした。江戸時代の男性は、自分の女房が気に入ら無く為ると、三下り半を書いて簡単に追い出す事が出来たと思って居る人が多い様ですが、どうやらそれは事実では無い様です。
 実際には、男性が三下り半を突き付けても、それに対して女性の方が「返り一礼」と云う受領証を書か無ければ江戸時代の離婚は成立し無かったのです。江戸時代の男尊女卑を象徴するかの様に言われて居る三下り半ですが、その真実は大分捻じ曲げられて伝わってしまって居る様です。

 女性の再婚を前提に書かれた三下り半の文面

 自分の女房に対して三下り半を突き付ける等と云うと、血も涙も無い冷たい男性の様なイメージを持つでしょうが、意外にも文面を読んでみると女性に対する気配りがあった様です。三下り半と云うのは、タイトルや日付、差出人等を省いた部分の本文が三行半で書かれて居た事から、俗にその様に呼ばれて居ました。正式名称は「三下り半」では無く「離縁状」或いは「離別状」と言いました。  
 それら三下り半の文面には「離婚の理由は当方の自分勝手な理由の為、離婚後は誰と結婚をしても良い」と云う様な内容に為って居る事が多かった様です。例え女性の側に問題のあった離婚であったとしても、その様に書くのが礼儀であったと言われて居ます。
 何故ならば、江戸の町においては、女性の離婚は近い将来に再婚をする事が前提であったからです。江戸の男女の人口比率は7:3で圧倒的に女性が少なかった為に、離婚をした女性は何度でも再婚をするのが当たり前だったのです。

 そうしないと、ナカナカ嫁不足が解消出来無かったと云う事情もあったに違いありません。詰り江戸の町では、バツイチ処かバツ2やバツ3の女性が大勢居たと云う事に為ります。三下り半に、女性の側に問題があって離婚をしたと言う様な事が書かれてあっては再婚の際の妨げに為る可能性があります。そう為ら無い様に思い遣りの気持ちから、三下り半は男性側の身勝手な理由での離婚に為ったと言う様な文面に為って居たと言われて居ます。一寸は三下り半のイメージが変わって来ませんか?

 現在の離婚届は、夫婦が揃って捺印をしなければ受理をして貰えません。それに対して江戸時代では、三下り半と云う男性側からの一方的な申し出により離婚が出来たと思われて居ます。しかし、それは真実ではありません。
 実は三下り半を貰った女性は、夫に対して「返り一礼」と云う三下り半の受領証の様なものを書く必要があったのです。三下り半と殆どの辞書に載って居る言葉ですし、知ら無い人は少ないと思います。しかし、返り一礼と云う言葉に関しては、殆どの辞書に掲載されて居らず、知って居る人が寧ろ少ないでしょう。三下り半を渡した男性は、女性の側からこの「返り一礼」を受け取る迄は、再婚出来無い仕組みに為って居たのです。もし女性が男性側からの三下り半に不満があるのであれば、この返り一礼を書か無ければ好かったのです。

 詰り、江戸時代であっても、現代と同様に双方の同意が無い事には離婚は成立し無かった事に為ります。もし男性が、この返り一礼を受け取らずに別の女性と結婚したりすると、重婚の罪で「所払い」と為ってしまいます。所払いと云うのは、読んで字の如く今現在住んで居る所を追い払われてしまうと云う追放刑です。この様に、三下り半と云うのは男性から女性への一方的な離婚宣言の様に思われて居ますが、それは大きな間違いである事が分かると思います。江戸時代においても最低限の女性の意思は尊重した訳です。

 「貞女二夫に見えず」は上級武士の奥方の話

 因みに、江戸時代には「貞女二夫に見えず」と云う言葉があります。貞女は夫が亡く為った後も再婚する事は無いと云う意味ですが、これは飽く迄も上級武士達の奥方の話です。
 夫亡き後も、残された遺産で十分に食べて行く事が出来た為に再婚をする必要が無かった訳です。下級武士や町人の女房であった女性は、食べて行く為にはそんな事は言って居られませんから、サッサと次の夫を見つけて再婚した訳です。圧倒的に女性の少なかった江戸の町では、幾らでも嫁の貰い手は在った訳です。


 ・江戸時代に石鹸や洗剤の代わりに利用されて居た或る物とは

 現在ではお風呂に入ったり洗い物をする時には、石鹸や洗剤を使う事は当たり前に為って居ます。江戸時代に於いて、体を洗ったり洗濯をする時には何を使って居たのでしょうか?
 石鹸そのものは16世紀に日本に入って来て居ます。しかし、一般庶民が石鹸を使う様に為ったのは明治に為ってからの事です。国産の石鹸が発売されたのは明治6年の事ですし、洗濯用の合成洗剤が初めて発売されて居たのはずっと後の昭和31年の事です。ここでは、江戸時代では石鹸や洗剤の代わりに何が使われて居たのかについて解説してみたいと思います。

 石鹸の代わりに米ぬかで体を洗って居た!?

 江戸時代に於いても、ポルトガルから入って来た石鹸はありました。しかし、当時の石鹸(しゃぼん)は超高級品で、一般庶民が体を洗う為に使う事は出来ませんでした。その為、江戸の庶民が銭湯で体を洗う為に使ったのは、お米を精米した時に出来る「米ぬか」だったのです。
 彼等がお風呂に行く時には、自前の米ぬかを袋に入れて持って幾か、袋だけを持って行って銭湯の番台で米ぬかを買って使って居ました。米ぬかを使って体を洗う事で、体の汚れが落ちるだけでは無く、肌をシットリとさせる効果もあった様です。そう云った効果を期待してか、最近では一部の女性の間で米ぬかを使った洗顔が流行して居る様です。

 銭湯で体を洗う人がみんな米ぬかを使う訳ですから、お風呂屋さんには使い終わった米ぬかが大量に集まる事に為ります。実は江戸時代には、これ等の銭湯から出る米ぬかを買い取る商人が居たのです。その米ぬかを農家が買って畑の肥料にして居ました。
 江戸時代は究極のリサイクル社会と言われますが、この様に米ぬかでさえも最後まで有効活用されて居た訳ですね。

 洗剤の代わりにカマドの灰を使って洗濯をして居ました

 お風呂で石鹸の代わりに使われたのは米ぬかですが、洗濯をする時の洗剤の代わりに使われたのがカマドから出る灰です。当時は灰汁桶(あくおけ)と云うものがあり、水を満たした桶の中に灰を入れ、底の部分の栓から灰汁が流れ出る様に為って居ました。江戸時代の女性達は、タライの中にこの灰汁を入れて洗濯物を手揉み洗いして居たのです。
 灰汁では今の洗剤の様な洗浄力はありませんし、江戸時代には洗濯板等と云うものもありませんでしたから、当時の洗濯は可成りの重労働であったに違いありません。洗濯機に衣類と洗剤を入れて、後はスイッチ一つで済んでしまう現代の女性達は、江戸時代の女性達に比べると本当に幸せですね。

 戦国時代までは、川原の岩の上や井戸の近くの石の上に洗濯物を乗せて、足で踏んで汚れを落として居た様です。戦国時代の衣類は麻や木の繊維で作った非常に丈夫なものであった為に、硬くて手で揉むと云うのは困難だったのでしょう。
 しかし、江戸時代に為ると木綿が普及して来た為に、洗濯物を岩に置いて足で踏み着けたりすると破けてしまう為、手揉み洗いが主流に為りました。この灰汁を使った洗濯は、合成洗剤が普及する第二次世界大戦後まで普通に行われて居た様です。
 最も明治中期以降に為ると洗濯板がヨーロッパから伝来した為、江戸時代の頃の洗濯に比べると大分楽には為って居たでしょう。又、意外なものとしては、豆腐を作る時に出る豆腐(とうふ)湯(ゆ)と云うものも洗剤として使われた様です。豆腐湯の中には若干の脂分が含まれて居る為、汚れを落とす効果があったのだと思います。当時は、朝早くに豆腐屋に行くと、この豆腐湯がタダで貰えたそうです。カマドの灰や豆腐を作った後の水を洗濯に使う等、将に江戸は究極のリサイクル社会であった訳ですね。

 江戸時代の入れ歯は仏像を作る職人が作っていた!?

 年を取って歯を失った時にお世話に為るのが入れ歯です。入れ歯と云うとイメージ的に文明が発達した明治以降に登場した様な気がしますが、実は江戸時代にも入れ歯は在ったのです。初代将軍徳川家康も、入れ歯をして居たと云うことが歴史書に書かれて居ます。
 勿論、当時は合成樹脂やセラミック等と言ったものはありませんから、現代の入れ歯の様に使い易いものではありませんでした。果たして、江戸時代の入れ歯とはどの様なものだったのでしょうか?

 江戸時代の入れ歯は木製でした

 現代では入れ歯を作るのは歯科医の仕事です。勿論江戸時代にも歯医者は居ましたが、当時の歯医者の仕事は専ら患者の歯を抜く事でした。江戸時代に入れ歯を作って居たのは、実は仏像を作る職人さんだったのです。
 当時の入れ歯はツゲの木を削って作られて居ました。ツゲの木は非常に硬く、抗菌作用がある為に口の中が不潔に為ら無いと云う理由から、入れ歯には最適な材料だった訳です。前歯の部分には動物の骨や象牙、人間の抜けた歯等を利用して居た様です。
 又、硬いものを噛む為に、奥歯の部分には釘を打ち付けて補強をして居ました。入れ歯は口の中に入れて使うものですから、合わ無ければ痛くてモノを噛む事等出来ません。その為、木の加工技術に優れて居た仏師こそが、入れ歯作りには将に適任だった訳です。
 江戸時代には仏像彫刻の注文そのものが少無く為って居た為に、彼等はやがて「入れ歯師」と呼ばれる専門職に為って行きました。

 十分に実用的だった江戸時代の義歯

 歯を入れる時には、咬合紙と呼ばれる歯のカーボン紙を使って細かな調整をしますが、実は江戸時代においても現代と似た様な方法で入れ歯の調整をして居ました。食紅を口の中に塗って、そこに入れ歯を入れると当たった所に色が着くので、その部分を削る訳です。将に、ここが仏師の腕の見せ所だった訳ですね。
 江戸時代の入れ歯の宣伝チラシには「柔らかいスルメも噛み千切れる」と書かれて居ました。宣伝なので多少の誇張はあったにせよ、想像以上に江戸時代の入れ歯は実用的だった様です。
 香川県に残って居た江戸時代末期に作られた入れ歯には、噛んで擦り減った跡や歯石が着いて居たそうです。この事からも、当時の入れ歯が十分に噛む為の実用に為って居たことが伺えます。因みに、当時の西洋にも入れ歯はありましたが、主に顔の形を整える為のもので、日本の入れ歯の様に物を噛み砕くと云う事は出来無かった様です。

 現在残って居る世界最古の入れ歯は日本製?

 日本に於ける入れ歯の歴史は可成り古く、弥生時代の遺跡の中から石で作られた義歯が発見された事があるそうです。現在残っている入れ歯の中で世界最古と言われて居るのが、1538年に亡く為った紀伊国の願成寺の尼さんである仏姫が使って居たものです。この入れ歯は江戸時代に作られて居たものとは、構造的に異為って居ました。
 江戸時代の入れ歯は、前歯の部分に動物の骨や象牙等を利用し、奥歯は釘で補強してあるのが一般的でした。それに対して、仏姫の入れ歯は全てツゲの木を彫って作られて居ました。しかし、西洋の入れ歯の様に顔の形を整えるだけの美容目的と云う訳でも無かった様で、実際に噛んだ跡があり奥歯の部分が擦り減って居ます。
 現在の入れ歯の様に、上顎に確りと吸い付く様な構造に為って居り、食事をしても落ちる事が無かったものと思われます。当時の日本人の木工技術には本当に驚かされますね。

 江戸時代の人の睡眠時間はどれ位だったのでしょうか?

 江戸時代の人は冬に為ると睡眠時間が長く為った?

 現代人の睡眠時間は、6時間〜8時間程度が一般的です。日の出や日の入りに関係無く生活が可能な今の人に取っては、自分のライフスタイルに合わせて睡眠時間を自由に選択出来る訳です。しかし、電気の無かった江戸時代の人に取っては、睡眠時間は自分で決めると云うよりも日の出と日の入りに合わせて必然的に決まってしまって居た様です。 江戸時代の人は、どれ位の睡眠時間を取って居たのでしょうか?

 江戸の町は日が沈めば外も家の中も真っ暗

 電気の無い江戸時代に於いては、日が沈めば外は真っ暗に為り月の明かりだけが頼りでした。月が完全に見え無く為ってしまう新月の夜等は完全に闇夜と為り危険が伴う為に外出もまま為りませんでした。
 又、家の中に於いても行灯(あんどん)やロウソク等の灯りはありましたが、当時は行灯に使う油もロウソクも高級品で、一般の庶民が毎日の夜更かしの為にそれ等を日常的に使うと云う事は難しかったと思われます。
真っ暗闇の家の中に居ても何もする事がありませんので、選択肢としては寝る以外に無く為ってしまう訳です。

 日の出と共に起きて日の入りと共に寝る?

 夜に為ると真っ暗闇の中で何もする事が出来無い江戸時代の人々は、日の出と共に起きて日の入りには寝ると云うのが基本的な生活パターンだった様です。しかし、日中が長い夏場は兎も角、冬至の頃に為ると非常に夜が長く為ります。
 朝方明るく為るのは6時30分位ですし、夕方は16時30分頃には暗く為ってしまいます。この時期に、単純に日没と共に寝て日の出と共に起きると云う事に為りますと、何と14時間も睡眠時間を取って居た計算に為ります。流石に1日14時間の睡眠時間と云うのは常識的に考え難いので、こう云った夜の長い季節には、高価ではありますが、短時間だけ行灯やロウソクを使って起きて居たのではないかと思われます。
 これが夏至の時期であれば、朝は4時位に明るく為りますし夕方も暗く為るのは19時頃です。この時期であれば、日没と共に寝て夜明けと共に起床をしたとしても睡眠時間は9時間ですから違和感はありません。

 地方の農家や商人等は日没後も遅くまで起きて居た?

 行灯の油やロウソクが高価であった為に、余り夜更かしの出来無かった江戸の庶民ですが、これが武家やお金持ちの商家等では遅く迄起きて居る事もあった様です。
 現在の住友家にあたる長崎の商店の家訓には「朝は六つ時に開き、夜は四つ時に鍵を下す」との記載がある様です。江戸時代では時期に依って実際の時刻が変わりましたので、朝の六つ時は冬至の頃であれば午前6時11分、夏至の頃であれば午前3時49分に為ります。夜の四つ時は、冬至の頃であれば夜の9時29分、夏至の頃であれば夜の10時20分に為ります。
 詰り、朝は今の時間で云う処の4時〜6時頃に店を開けて、夜は9時半〜10時20分位の時間に閉店をすると云う事に為ります。しかし、そんなに長時間店を開けて居ても真っ暗闇の中でお客が来る筈も無いので、実際にどうだったかに着いては疑問の残る処です。
 お客が来無くても、売り上げを勘定したり在庫を整理したりと、何らかの仕事をして居たのかも知れません。又、地方の農家等では、囲炉裏で火を燃やす習慣があったので、その明かりのお陰で比較的夜遅くまで起きて居たと言われています。

 江戸時代は、年貢が厳しく農家の生活は苦しかったので夜遅く迄内職をして居たのかも知れません。ある百姓の日記によると、子の刻(今の夜12時頃)まで働いて、明け六つ(朝4時〜6時頃)には田んぼに出ると云う記述がある様です。これが本当だとすれば、この農民の睡眠時間は僅か4時間〜6時間程度と云う事に為ります。

 江戸幕府ではどんなバカ殿でも政治を行う事が出来た!?
        
 江戸幕府では5つのセリフが言えればバカ殿でも政治が出来た。好く「神輿(みこし)は軽い方が言い」と言われます。上に立つ者が余りにも切れ者だったりすると、周りに居る人間、詰り神輿を担ぐ人が苦労をする事に為るからです。
 徳川歴代将軍の中にバカ殿が居たかどうかは兎も角、実際に江戸幕府の政治は、例えバカ殿が将軍職の座にあったとしても全く問題無く運営出来る様なシステムに為って居た様です。それは一体どの様なシステムだったのでしょうか?

 将軍は足った5つの言葉だけで政治を行えた!?

 江戸時幕府の政治における将軍の役割は殆ど儀式化して居り、実際に将軍の口から出る言葉は5つだけで済んだそうです。それは「それへ」「近う(ちこう)」「好きに計らえ」「そうせい」「大儀」の5つです。

 家来が殿様に会う時には、最初から同じ部屋に入る事は許されて居ませんでした。そこで、先ず初めに隣の部屋から将軍に挨拶をする訳です。すると将軍は決まり文句である「それへ」「近う」と云うセリフを言う訳です。意味としては「隣の部屋からでは話が聞こえ難いから、もっと近くに来なさい」と云った処です。それに対して家来は、畏(かしこ)まって「ははぁ〜」とお辞儀をして、前に進む振りをするのです。
 ここで注意をし無ければいけ無いのが「近う」を真に受けて、本当に将軍の近くに寄ってはいけません。飽く迄も前に進む振りだけをするのです。その事で「余りに恐れ多くて近くに進む事は出来ません」と云う態度を将軍に示す訳です。結局、隣の部屋から遠く離れた状態で家来は話をする訳ですが、距離が遠い為に殆ど話は聞こえません。しかし、それでも全く問題は無かったのです。

 実際には将軍は話を聞く必要は全く無かった

 家来と将軍の間には、側用人や老中と云った側近が控えて居り、家来から聞いた話を要約して将軍に伝えたのです。何でこんな面倒な事をするのかと言えば、将軍と一般の侍が直接話をしてはいけないと云う決まりに為って居たからです。
 しかも、こうした家来の報告や相談事に対しては、事前に老中や御三家達の間で話をまとめてしまって居る事が殆どの為、聞こえ無くても全く問題が無かった訳です。そして、話の内容がどんな内容であれ、将軍は重役達が相談して取り決めをした事に対して形式的了承をすれば好かったのです。その了承の時のセリフが「好きに計らえ」「そうせい」だった訳です。そして、最後に家来に対して慰労の言葉である「大儀」で締め括る訳です。
 詰り、この「それへ」「近う(ちこう)」「好きに計らえ」「そうせい」「大儀」と云う5つのセリフを、順番を間違えずに云う事さえ出来れば、どんなバカ殿でも幼少の将軍であっても政治を行えたと云う事に為ります。

 直接将軍に会え無い家来達の滑稽な風習

 因みに、江戸幕府では同じ家来の中でも直接会う事が出来る人は限られて居ました。会う事の出来る家来を「お目見え以上」と言い、会う事の出来無い家来は「お目見え以下」と呼ばれました。
 所謂旗本より上の家来が「お目見え以上」であり御家人より下の位の家来は「お目見え以下」だった訳です。お目見え以下の家来がどうしても殿様に報告し無ければ為ら無いことがある時には、座敷に上げる事はせずに庭から地面に膝を着いて報告をしました。
 これは、殿様がお目見え以下の家来と会ったと云う事実を認め無い為の儀式であり、飽く迄も家来が庭で独り言を言って居るのを偶々通り掛かった殿様が耳にしたと云う形にする訳です。何とも滑稽な仕来りであると言えます。

 将軍の食事を作る人は毒見役も含めて総勢100人もいた!

 将軍の食事は毒見をする為に20食作られた

 八代将軍吉宗の時代には、将軍に出す食事を台所役人と呼ばれる総勢100人の男達が作って居ました。その100人の男達で作られた食事を食べるのは将軍とその正室の2人だけです。詰り足った二人分の食事を作る為だけに100人もの人間が関わって居たと云う事に為ります。一体、何故将軍の食事を作る為に100人もの人間が必要とされたのでしょうか?

 意外にも質素だった将軍の食事内容

 将軍の食事がどんなに豪勢であったとしても、常識的に足った2人分の食事を作るのに100人の人間は必要ありません。ソモソモ、私達が想像する程に江戸の将軍は贅沢な食事をして居た訳ではありません。将軍の食事は二汁五菜が基本だったと言われて居ます。詰り、汁物が2種類とその他のオカズが5種類と云う事に為ります。
 現代の我々の食事と比べても決して豪勢と云う事は無く、将軍と云う地位を考えた場合寧ろ質素であったと言えるでしょう。現代の一般家庭であれば、奥さんが一人で十分に作れる品数です。足ったこれだけの食事を作る為に、何故100人ものマンパワーが必要だったのでしょうか?

 将軍の食事は何と一度に20人も前作られました

 食事そのものは将軍と正室2人の為に作られて居ますが、実際に作られる食事の数は20膳にも為りました。詰り、将軍と正室夫々に10人前ずつの料理を作ったと云う事に為ります。一体何故それ程の食事を作る必要があったのでしょうか?一番の理由は、将軍の毒殺を防止する為です。
 10人前作った食事の中から、何人かの毒見役がランダムに選んだお膳を食します。又、同様に将軍に献上する食事も10人前の中からランダムに選んだのです。台所役人達は、その様な石橋を叩く様な体制で将軍に出す3度の食事を作って居た訳です。しかし、将軍の食事を一度に20人前作るとしても、それだけの為に100人もの人間が必要に為るでしょうか?

 食事の中に異物が入って居たりしたら切腹もの

 20人前の食事を大勢の人間で作ると為ると、逆にナカナカ目が行き届か無く為り何処で何が行われて居るのかが分から無く為ってしまいます。ドサクサに紛れて何か悪さをする人物が居るかも知れません。その為、料理を作って居る人を監視する人間が必要に為って来る訳です。
 料理を作る人が沢山居れば、当然ながらそれを監視する人も大勢必要に為る訳です。又、料理も食材をそのまま使って簡単に作ると云う訳にはいきません。万が一、将軍に出す料理の中にゴミや虫等の異物が入っていたらそれこそ切腹ものです。その為、実際に料理を作る前には、米粒一つまで丹念にチェックをしたと言われて居ます。
 この様に、将軍の食事を作る為には想像を絶する程の手間暇が掛かって居り、その結果として100人もの人間が関わる事に為ってしまった訳です。

 実際に食事に毒が盛られた事はあるのか?

 将軍の食事に毒が盛られ無い様に、100人もの人間によって20人前もの料理が作られて来た訳ですが、実際に食事に毒が盛られて毒見役が亡く為ったと云う事例はあるのでしょうか?
 少なくとも、徳川将軍家においてはその様な事例は文献として残って居ない様です。仮にその様な事があったとしても、表沙汰に為ると大変なので食中毒などの理由で揉み消されてしまった可能性はあります。何れにしても、将軍家においてその様な記録は残っては居ませんが、4代将軍家綱の時代に仙台の伊達家に於いて事件が起こって居ます。
 伊達騒動の時に、伊達兵部が藩の世子である亀千代の毒殺を図った事件です。結局、毒殺は成功しませんでしたが、毒見役である塩沢丹三郎ら3人が死亡して居ます。亀千代の毒殺は避けられましたがこの事を幕府に知られる事を恐れた藩ではこの事件を食中毒と云う事で処理をして揉み消してしまいました。
 江戸時代のお殿様達は、食事をするだけでも相当に大変だった様ですね。因みに、現代の皇室においても侍医長が同じメニューを別室で食べると云う毒見の風習が残って居る様ですが、主に栄養管理が目的だと言われて居ます。

 江戸時代には本当は正座をする人なんて居なかった!?

 江戸時代では正座と云うのは行儀の悪い座り方だった・・・現代では、洋間や洋式の家具などが普及した事もあり正座をする機会と云うのは殆ど無く為ってしまいました。
 板の間に直接座る事の多かった江戸時代の人達は、日常的に正座をして居たのだろうと思い勝ちですが、実は江戸時代には正座をする習慣は無かったのです。時代劇などで好く見掛ける、女性が正座をして恭しく襖を開けるシーンは実際には無かった様です。それでは、江戸時代の人達はどんな座り方をして居たのでしょうか?

 胡坐(あぐら)こそが江戸時代の礼儀正しい座り方です

 現代では、和室で畳に座る際には正座が一番礼儀正しい座り方で胡坐や立て膝は行儀が悪いとされて居ます。しかし、現代人に比べて遥かに礼儀作法に厳しかったと思われる江戸時代の人達は、胡坐や立て膝が当たり前だったのです。
 胡坐と言っても、私達が普段して居る様な足を組んだ座り方では無く、両膝を大きく開いて目の前で足の裏を合わせる座り方です。歴代将軍の肖像画などを見てみると実際にその様な座り方に為って居る事がお分かりに為るかと思います。しかも、この座り方は男性だけでは無く女性も同じ様に座った様です。   

 実際に、明治維新前の武士たちや女性の肖像画の中で正座をして居るものは殆ど無い様です。江戸時代には正座をする習慣が無く、当然ながら「正座」と云う呼び名も無かった訳ですが、実際にそう云った座り方をするのは寧ろ行儀が悪いとされて居た様です。又、江戸時代において正座は罪人の座り方でもありました。
 時代劇などでも、奉行所でのお裁きの場面で罪人が正座をさせられて居ますが、あれは時代考証的に正しいと言えるでしょう。

 座布団を使うのは病人か老人だけ

 正座が礼儀正しい座り方だとされて居る現代では、畳敷きの和室でお客様を持て成す時には当然ながら座布団の上に座って貰います。しかし、江戸時代の中期頃までは座布団を使うと云う習慣そのものがありませんでした。
 お客様にウッカリ座布団など出そうものなら「人を年寄り扱いするのか」と相手を怒らせてしまう事もあった様です。何故なら、その当時に座布団を使用するのは病人か老人だけだったからです。座布団も敷かずに、板の間に直接座る事を考えたら確かに正座をするのは厳しかったに違いありません。
     
 この様に、正座が礼儀正しい座り方であると云う考え方は、江戸の末期から明治に掛けて作られて行ったものと思われます。

 三つ指を突いた挨拶は吉原の遊女が始めたもの

 男性であれば兎も角、和服を着た江戸時代の女性が正座を殆どせずに、胡坐や立て膝で過ごしたと云うのは何ともイメージし難いものですが、当時の肖像画を見る限りでは事実である様です。しかし、プライベートな場面やリラックスした状態の時などには、所謂「横座り」もして居た様です。現代の女性も好くやる正座を崩した様な座り方ですね。   
 又、時代劇などで好く見掛ける正座をした女性が襖を開けるシーンですが、こう言った場面でも実際には正座では無く立て膝で行って居たものと思われます。

 それでは、こちらも時代劇などで時々見掛ける女性が正座をして三つ指を突いて挨拶をする場面と云うのは実際にはどうだったのでしょうか?
 実は、武家の子女が主人や来客に対して三つ指を着いて挨拶をする等という習慣は無く、三つ指を突いた挨拶は吉原の遊女が始めたとされて居ます。頭を深々と下げて挨拶をしたのでは髷の形が崩れてしまうので、仕方無く頭を上げたまま手だけ畳に着けて挨拶をした当のが三つ指を着いた挨拶の真相の様です。

 赤穂浪士が討ち入り前に蕎麦屋に集合した当のは本当はウソ?

 有名な赤穂浪士の「討ち入りそば」は後世の人の作り話

 赤穂浪士は元禄15年の12月14日に、両国にあるそば屋の2階に集合して、ソバを肴に酒を飲み交わした後、吉良邸に討ち入りに向かったとされて居ます。しかし、どうやらこれは真実では無さそうです。何故なら、元禄時代には所謂「そば屋」と云うものが無かったからです。仮にソバ屋があったとしても、その2階に47人もの大人数が深夜に集合する等とは考え難い事です。一体何故赤穂浪士はそば屋に集合した後に討ち入りに行った事に為ってしまったのでしょうか?   

 元禄時代には蕎麦屋と云う名称の店は無かった

 勿論、赤穂浪士が討ち入りを行った元禄時代にもソバと云う食べ物そのものはありました。江戸時代以前からありましたし、メニューとしてそばを出すお店もありました。しかし、所謂「そば屋」と云う名称の看板を掲げて居るお店は無かったのです。
 「そば屋」と云う看板を掲げたお店が登場したのは厳密には享保年間以降とされて居ます。元禄時代の江戸の町には、そば屋では無く「けんどん屋」と云う「うどん」を出す店が沢山ありました。「けんどん」と云うのは、欲張りでケチと云う意味に為るのですが、うどんを1人前ずつに盛って売って居たので「けんどん屋」と言われる様に為ったそうです。

 集合したのはそば屋で無く同士の家だった?

 赤穂浪士のメンバーで、吉良邸に討ち入った後引き上げ途中で姿を消した寺坂吉衛門が残した文章の中に「集合場所は同士である堀部安兵衛宅、杉野十平次宅、前原伊助宅の三ヵ所で、堀部邸では宴会が催され、その後時間を持て余した数人だけが蕎麦を啜(すす)った」と書かれて居ます。
 又、同じく寺坂吉衛門が残した文章の中には「両国にある亀田屋と云う茶屋に立ち寄った」と云う事も書かれて居ます。ソバ屋では無く茶屋で、しかも集合したのでは無く立ち寄ったと云う事です。どうやらこれが真実の様です。
 後世の人によって書かれた幾つかの書物に、討ち入り前にそば屋に立ち寄ったとの記述がある為にそちらの方の話が有名に為ってしまったのでしょう。

 蕎麦に関連する言葉に「手打ちそば」とか「そば切り」「そばを打つ」と言ったものがあります。「手打ち」とか「切り」とか「打つ」等と、如何にも討ち入り前にピッタリの言葉と結び着きます。後世の人が、この討ち入り事件を語る時に如何にも語呂が好いので、蕎麦屋に集合をして蕎麦を食べた後に討ち入りに向かったと云う事に為ってしまったのでしょう。これが赤穂浪士に纏(まつ)わる有名な「討ち入りそば」の真相と言って好いでしょう。

 江戸時代の「手打ちそば」の本当の意味とは?

 「手打ち蕎麦」と云う言葉が、討ち入り前に食べる食べ物として語呂が好いのは判りますが、そもそも江戸時代においては、蕎麦は手で打つのが当たり前なのに何故「手打ち蕎麦」と云う言葉が存在したのでしょうか?
 現代で「手打ち蕎麦」と言えば、機械を使わ無い手作りの蕎麦と云う意味に使われます。しかし、江戸時代にはそもそも「蕎麦を作る機械」等と云うものがありませんから、基本的には全て「手打ちそば」に為ってしまう筈です。
 一説によると「つなぎ」を使わずに蕎麦粉のみで作られた品質の高い蕎麦を「手打ちそば」と呼んで居たとの事です。江戸の町と言えば「二八そば」が有名ですが、これはそば粉が8割に対してつなぎとしての小麦粉が2割混ざって居るので二八蕎麦と呼ばれたと言われて居ます。
 そうした、小麦粉の混ざった品質の低い二八蕎麦と差別化する為に、そば粉のみで作られた品質の高いものを「手打ちそば」と呼んで居た様です。同じ「手打ち蕎麦」でも、江戸時代と現代とでは全く意味が違うと云う事ですね。

 おしまい


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