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2019年12月12日

ヤマダ電機が大塚家具を子会社化 40億円超で第三者割当増資を引き受けへ




 ヤマダ電機が大塚家具を子会社化 40億円超で第三者割当増資を引き受けへ


            〜ダイヤモンド・オンライン 12/12(木) 12:20配信〜


 ヤマダ電機が、経営再建中の大塚家具を子会社化する方向で最終調整に入ったことが12日、分かった。大塚家具の第三者割当増資を40億円超で引き受ける方針で調整を進目手織り、週内にも発表する。
 大塚は売り上げの減少が止まらず、最終赤字が続いて来たが、ヤマダの傘下に入る事で、経営再建を進める事に為る。(ダイヤモンド編集部副編集長 布施太郎)

 大塚の既存株主は希薄化に直面  それでも背に腹は変えられ無い

 ヤマダ電機は大塚家具の第三者割当増資を引き受け、出資比率50%超を確保し子会社化する。取得金額は40億円超と為る見込みだ。年内の払い込み完了を目指す。
 大塚は発行済み株式数のホボ倍を新規発行する為、既存株主は大規模な希薄化に直面する事に為る。しかし、このママ売り上げの減少が続けば経営破綻も視野に入って来る為、ヤマダからの資金を受け入れ、子会社化を決断した。大塚は単独での生き残りを目指して来たが、事実上の身売りによって経営再建を図る。大塚久美子社長は続投する見通しだ。

 両社は今年2月に業務提携を締結し、大塚の商品をヤマダの店舗に供給して来た。ヤマダは家具やインテリア商品に品揃えを増やす事で、シナジー効果が得られると判断したとみられる。
 大塚家具が11月に発表した2019年第3四半期(1〜9月期)決算は、売上高が前年同期比23.2%減の210億0300万円、営業損益は29億1800万円の赤字(前年同期は48億6300万円の赤字)、純損益は30億6200万円の赤字(同30億5300万円の赤字)と為り、売上高は5年連続の減収、営業赤字も6年連続と為り、危機的な状況が続いて来た。

 昨年以降、資本・業務提携している貸し会議室大手のティーケーピーを初め、ヨドバシカメラやヤマダ電機等の家電量販店にも増資引き受けを求めたが、出資比率等で折り合わずに頓挫。今回、ヤマダの子会社化の条件を飲んだ為に纏まったとみられる。


           ダイヤモンド編集部 布施太郎    以上







 【関連報道1】匠大塚会長が父娘喧嘩を経て語る「事業承継ここを誤った」

         〜今月の主筆 匠大塚会長 大塚勝久[1] 2018.1.9 5:00〜

 〜大塚家具を創業、過つて「家具業界の風雲児」と呼ばれた大塚勝久氏。創業者である父と長女の経営権を巡る争いは記憶に新しいが、大塚家具を去った2015年に新会社「匠大塚」を立ち上げ、70歳を過ぎての「第2の創業」に挑んで居る。
 その大塚勝久氏が、第2の創業に掛ける意気込みと、多くの同族経営企業が抱える事業承継の難しさに付いて、自身の経験を踏まえて語った〜


 70歳過ぎての創業 経営の集大成

 私が「大塚家具」から身を退いて2年半「匠大塚」東京日本橋(2016年4月)春日部本店(2016年6月)の開業で家具小売業に復帰して1年半経った。匠大塚は、70を過ぎての第2創業であり、私がこれ迄家具の小売業界で学び培って来た経営の集大成と為るものだ。
 私を慕って大塚家具から匠大塚に移って来て呉れた社員達の為にも絶対に成功させ無ければ為ら無いプロジェクトである。

 一方、長女の久美子が社長を務める大塚家具は、2016年末決算では売上高を対前年比で20%も減らす等苦戦を強いられて居ると聞く。今は袂を分かってしまったが、経営者としてはこれからが本当の勝負である。
 「家具が売れ無い時代」「最早高級家具は必要とされ無い時代」等と言われて久しい。ニトリやIKEA等の低価格な家具と日用製品を売る店が注目される一方で、高・中級家具を軸とする路線を取るのは匠大塚と大塚家具だけである。ドチラが世の中に受け入れられるのか、74歳の身にファイトが湧いて来る。これから又楽しく為るのだ。

 2015年の創業以来、大塚家具との争いに為ら無い様、匠大塚は専らホテルの家具やオフィスの応接家具等のコントラクト関連と百貨店への納品に力を注ぎ、小売りには大きな力を注いでは来なかった。大塚家具時代のお取引先からお声掛け頂いても仕入れを急がず、価格帯でブツから無い様にして来た。
 その一方で、仕入商品を徐々に増やし、私達なりの売り方で売れる体制を整えて来た。2017年12月には春日部本店や東京・日本橋のショールームで扱っている約1万7000アイテムの一斉値下げを行なったのだが、これは、言ってみれば匠大塚の反撃の号砲だ。社員達には「競争をするのだから勝ちなさい」と発破を掛けて居る。

 私自身、創業会社を追われた身である。二度と失敗は出来無い。親子なのだから久美子の健康も業績も心配だが、ナカナカ浮上の兆しが見え無い大塚家具の状況を見るに着け、此処で私達匠大塚が頑張ら無ければ、日本の家具文化が完全に消えてしまうと感じて居る。
 ソモソモ日本の家具業界が衰退した訳を肌で知る身には、第2創業は何としても成功させ無ければ為ら無いものだ。







 大塚家具の事業承継は何が問題だったのか

 この連載では私のこれ迄の経営、これからの経営に付いて述べようと思っているが、先ずは大塚家具の経営権を巡る争いに付いて触れて置きたいと思う。それは、私が経営者として身を以て難しさを感じた「事業承継」に付いて、少しでも皆さんのお役に立てればと思うからだ。

 大塚家具における事業承継での最大の失敗と反省点は、私自身が「私の時代認識や事業観、経営観等を子供達が分かって呉れて居る」と過信して居た事にある。と云うよりも「言うまでも無い事」と云う感覚があった。それは私の甘さでもあった。
 私達夫婦には5人の子供が居り、何れもが自慢の子だった。仕事の忙しさにカマケテ家庭を顧み無い父親であったのに反発する事も無く、学校も自由に選び、父親の仕事を手伝いたいと皆が思って居て呉れた。それは子供達が大学で専攻した学部を見ると好く判る。長女は経済、長男(匠大塚の勝之社長)は彫刻科、二女は法律、三女が芸術学部、次男が建築であり、誰もが「大塚家具の為に役に立つだろう」と考えての選択だった様だ。

 子供達が夫々に「自分を認めて貰おう」と思って遣って居た事であるが、私はそれを積極に認めて挙げ様として居無かった。その気遣いの無さは責められて然るべきものだったかも知れない。
 子供達が大塚家具の仕事と関わる様に為っても、それは基本的に同じだった。「親子だから」と云う帝王学を施す訳では無いし、飽く迄も一社員として他の社員と同様に叱ったり褒めたりして居ただけだ。それでもなお私には「見て居れば分かるだろう」と云う期待があったのだ。

 私は心の中では、長女と長男が協力して遣って行くのが一番だと思っていた。2人で遣ったら、絶対に何処にも負け無い会社に為ると思っていた。子供達の大学での専攻が異為る様に、夫々が得意な分野で力を発揮して貰う。長男の勝之が営業を担うなら、長女の久美子は財務を担うと云った具合だ。
 その上で、将来的には大塚家が大塚家具の経営から身を退き、所謂「資本と経営の分離」の体制を作る事が望ましいと考えて居た。実際、その為の準備も始めて居た。

 例えば、普通ならば「長男が跡を取るのだろう」と云う事で、長男には資産管理会社の株の半分を持たせていた。しかし資本と経営の分離を考えればこうした状態が好い訳では無く、実際、他の子供達からも異論が出たので株を均等に分ける事にした。長男は不満だったかも知れないが、将来の事業経営を考えれば均等に持つ事が大塚家や大塚家具に取って最良の方策なのだと納得して貰った。
 その際、妻には株を配分し無かった。詰まり5人の子供達が19%位ずつ株を持つ形にした。私は「これで好いのだ」とホッとした気持ちで居た。

 しかし、この均等に分け与えた事が、後に私や長男の役員解任に繋がるものに為ったのは何とも皮肉だ。妻にも同じ様に株を持たせて居れば対抗が出来たかもしれないが、今さらそれを言っても始まら無い。もう一つの反省点は、これは私の欠点でもあるのだろうが「経営を楽しく見せ無かった」と云うことだ。

 私は小学生の頃から、桐だんすの職人であった父の仕事を手伝い、お店で家具を売って居たから、家具を見る目は誰にも負け無い自負があった。だから商品仕入も全て私一人で判断して来た。それは全責任を私自身が引き受けると云う覚悟なのだが、そこで経験して居た苦悩によって「経営は楽しいものでは無い」と云うムードを周囲に発して居たのかも知れない。
 それでも久美子は、「経営を遣りたい」と言って来た。当初私は、それは私に対する彼女なりの応援だと思って居た。







 「社長を遣らせてみよう」と思ったが

 長女の久美子は1994年に大塚家具に入社した。当時、バブル崩壊後に大規模小売店舗法が改正され、更にバブル期に計画された建物が完成はするものの借りるテナントが無く家賃は下がり続けて居た。この2つの流れを追い風に、大塚家具は全国に店舗網を拡大、急速に社員が増えたりして組織体制の構築が急務に為って居た。
 そこで私は、当時、富士銀行(現みずほフィナンシャルグループ)に初の女性総合職として入行し融資業務や国際広報等を担当して居た久美子に、人材育成等の内部体制作りを任せたいと思い大塚家具に入社させた。先にも書いた様に、子供達が夫々の能力を発揮して会社を育てて行く最初の一歩とする考えもあった。
 結局、久美子はプロジェクトを終える形で2004年に一度、取締役を辞任した。経営会議等では異論があれば遠慮無く意見を言って居た。今でも思い出すのは、九州地区初出店と為る1999年の「小倉ショールーム」の開設を巡る議論だ。

 「九州地区への初出店であれば、小倉では無く先ずは博多を目指すべきだ」と久美子が説くのに対して私は「それは十分に分かっている。小倉よりも博多が好いのは言うまでも無い。しかし初出店に、より難しい場所で成功させれば好条件の勧誘が必ず出て来るものなのだ」と諭したのである。
 本人が納得して居たかどうかは兎も角、異論をブツケテ来るのは私への応援であり、私への「諫言役」を担って呉れて居るのだと頼もしくさえ感じて居た。そこで「それ程遣りたいのならば遣らせてみよう。何しろ長女で、5人姉弟の一番上だし、長男は営業部門で頑張って居るから大丈夫だろう」と考え、2009年、社長を譲ると決めた。

 その決断をした際、私は痛み始めて居た大塚家具の財務体質を一掃した。2008年はリーマンショックの影響で、どの企業も減収減益の決算を余儀無くされた。大塚家具も同様だった。2008年12月期決算は、売上高が8%減、営業利益が73%減、経常利益が70%減で、当期赤字に為る惨憺たるものだった。
 そうした決算の中で敢えて私は、投資有価証券や固定資産の減損を決め、それが当期利益の赤字に繋がって居た。しかし言葉を換えれば、これは身綺麗にして次の決算に負担をかけ無い為の措置でもある。

 私としては次期社長に負担をかけ無い為の決断だった。「社長が代わったら好く為った」と言って貰える基盤と云うか前提を用意した積りだったのだが、周囲から聞こえて来たのは「社長交代は、先代が経営不振の責任を取って辞めた」と云うものだった。こうした捉え方をされた事は非常に残念だと思って居る。
 減損処理に付いての言われ方は、私に取っては大変不愉快なものであったが、会長として社長を育て、会社の業績も徐々にだがリーマンショックから抜け出して行く中で「私も我慢と云うものを学ば無ければ為ら無い歳に為ったな」等と思って居た。

 しかし、久美子の強い意志に気付かされたのは2013年だった。私が、会社を離れて居た長男の復帰を求めたのに対して、或る社外取締役の就任を提案したのである。それは自分の思う経営路線、詰まり、私とは違う経営方針を推し進める為の準備であったのだろう。しかも「その選任案が認められ無いのであれば、私は社長を辞める」と云う条件まで付いて居た。
 それ迄は「次の世代の人達の事だから」と若い人達の人事にも賛成して来たのだが「就任案を認められ無ければ辞める」と云うのは経営責任としても許されるものでは無い。「辞めたければ辞めれば好い」と反論したものの、彼女の意図をハッキリと実感させられたのである。

 以後は、皆三もご承知の様な久美子の社長解任と私の社長復帰、そして2015年の私の解任へと争いが続いてしまった。







 大塚家具には早く立ち直って欲しい

 私の商売の鉄則は「良い物の価値を、十分な説明でご納得頂いて、値引き無しで売る」と云うことだ。家具業界に大きな反発を受けながらも取り組んで来た改革であり、大塚家具は消費者に支持されて来た。その考え方は、今後この連載で詳しく述べさせて貰おうと思って居る。

 振り返れば、売上高が数百億円から1000億円を狙える迄に急成長を遂げて居る過程で久美子は入社し、内部体制の整備に力を注いで呉れた。しかし一方で、彼女は物を売る現場で私の鉄則を学び、身に着けて来た訳では無い。会社を離れて居た時には法科大学院にも学び、コンサルティングの会社を設立した様に、キチンと理屈立てて考えるのが好きだし、それが正しいと思って居るのだろう。
 それ自体を間違って居るとは思わ無い。だが、創業者がどの様な環境の中で、或る意味でワンマンで理屈に合わ無い様な鉄則を駆使しながらも企業を成長させて来たかを、後継者として学ばせる必要があった様に思う。そして「姉弟の役割分担」を学ばせ無かった事を深く反省する気持ちもある。

 匠大塚の社長を務める長男の勝之は、既に四半世紀に渉って私の側で私の経営を見て居る。久美子とは逆に、私の感性や営業への姿勢等は十二分に学んで来た。
 一体「私と長男」「久美子」のドチラが今後の家具販売の潮流を作れるのか。今後、匠大塚は大塚家具の一番のライバルに為るだろう。只、その勝負の行方よりも、私は、大塚家具には早く立ち直って貰いたいと思って居る。


           匠大塚会長 大塚勝久   以上









 【関連報道2】匠大塚会長がそれでも家具販売に「説明と接客」を貫く理由

              今月の主筆 匠大塚会長 大塚勝久【2】


    〜経営・戦略 今月の主筆 匠大塚会長 大塚勝久  2018.1.15 5:00 〜


 桐箪笥職人だった父の下で商売を学ぶ

 私が生まれ育ち、大塚家具の創業の地でもあるのが埼玉県春日部市だ。ここは家具と共に生きて来た町だと思う。江戸時代の初期に、日光東照宮の造営に関わった腕の好い宮大工達が、日光街道の宿場町であった「粕壁」に住み着いたのが今の春日部の始まりと言われる。
 彼等は、作った長持や指物を船に乗せ、現在の大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)を下って江戸に向かい、着物を沢山持って居た江戸の富裕層に売って居た。昭和の初期には、春日部一帯で数百軒もの桐箪笥職人が集まる一大産地と為る。

 大塚家具も、桐箪笥職人だった私の父、大塚千代三が1928年(昭和3年)に開いた工房に創業のルーツがある。自宅と工房は、現在の春日部駅前にあった。私は、11歳年上の兄と5歳年下の弟の3人兄弟の真ん中だ。兄は父の技術を受け継ぐべく桐箪笥職人に為った。
 父は、職人仲間からは「名人」と言われる程の腕の好い職人だった。幼かった頃は、工房で父の仕事を眺めて居るのが本当に好きで、飽きる事が無かった。鉋で桐の板が薄く削られる不思議さ、その木目の美しさ、香しい香り、そして何と言っても名人と呼ばれるだけのキビキビとした無駄の無い動き。家具に纏わる知識は、全て父を見て居て覚えたものである。

 小学生に為ると父の仕事への関心は一層に強く為った。良い材料とは何か、それを見極めるにはどんな眼力が必要なのか、良い材料を安く買うにはどうしたら好いか等々、子供乍ら一つひとつ英才教育を受けて居る様なものだった。
 小学校の高学年に為ると、既に工房を訪ねて来たお客さまの相手をして居た。生意気にもお客様に桐箪笥に付いて蘊蓄(うんちく)を垂れ商品を説明する。そんな私を父が嬉しそうに見て居るので、こちらも又調子に乗って遣る気を見せた。

 兄が職人に為って居たので、自然と「私は店の方の担当だな。兄弟が力を合わせて行けば父の工房はもっと繁盛するだろう」と思う様に為って居た。そして父も又、私には職人としての才能は無いと見抜いて居た様で、お客さまの対応等、営業や経営に目を向かせるようにして居た様だった。
 学校の勉強をして居たのは中学校の1年生位までだ。既に商売が中心の生活で、それが又楽しかった。店の経理も任される様に為り、中学2年生の時には初めて決算書を作ったのを憶えて居る。簿記の貸方・借方の分類など分から無いが、元帳と実際の製品やお金の流れを突き合わせて行くと、自然と貸方・借方の考えが理解出来た。

 中学生の頃には理解して居た「お金の心配をしない商売のあり方」

 私が中学生でありながら工房の経理を任される様に為った1956年は、経済白書が「最早戦後では無い」と宣言し、これが流行語にも為った年だった。前年の1955年には、1人当たりの実質国民所得が、戦前の好況期の水準を抜き、同時に戦後最大の好況期と為る神武景気が始まって居たからだ。

 同時に日本では、猛烈な耐久消費財ブームが沸き起こった。桐箪笥を中心とする婚礼家具は、真っ先に揃えられるもので、面白い様に売れて行った。
 日本橋や銀座の百貨店でも家具は稼ぎ頭で、春日部から桐箪笥をリヤカーに積んで日本橋の三越などに運んで居た。通称「バタバタ」と呼ばれる三輪車が使われるのは1955年頃からだが、大塚の工房では未だリヤカーでの搬送だった。

 工房の経理を任されて遣り繰りに格闘して居ると、子供ながらに色々な事が分かり、又疑問に感じる要にも為る。先ず感じたのは「お金の心配をして居無いと商売は続か無い」と云う素朴なものだった。それは「お金の心配をしないで商売が出来る様に為ら無いとダメだ」と云う思いにも繋がった。
 大塚家具も、創業からリーマンショック迄の約40年間は一度も赤字にしなかった。お金の流れをキッチリと管理して赤字にせず、内部留保を厚くする事に専念した。第2創業と為った匠大塚は、規模はマダマダだが、準備した資金の範囲内で想定通りに進捗して居る。

 「お金の心配をしないで商売をしよう」と云うのは、私が経営して居た当時の大塚家具の出店戦略にも直結していて「コストを抑えた出店方法」を模索し、それが高収益に繋がるビジネスモデルに結実した。その詳細は次回に述べようと思う。
 もう一つ、経理を見て居てツクヅク考えさせられたのは「良い品を安く売るのは何と難しい事か」と云うことだった。

 桐箪笥は実は、一人の職人の手によって造り上げられるものでは無い。例えば最終工程には「塗り」があり、これは専門の職人が担って居る。
 父の様な名人の職人の仕事には、同じく名人と呼ばれる仕上師が付く。名人同士の仕事であるし、しかも材料は最高の桐を使って居る。だから価格が高く為るのは当然なのだが、子供心には「良い家具をもっと安く売る事が出来れば、お客様がもっと増える筈」と思えた。
 純朴な誠実さとでも言うべきか、良いから高いのでは無く、良いものだからコソ安く届けるべきだと考えてしまう。

 これも結局は、後の商売の大きな鉄則に為って行く。現在の匠大塚でも、真っ先に掲げて居るスローガンが「確かな価値との出会い」だ。品質の良い製品を、お客さまが納得出来る価格で提供するには、どんな仕組みを作るべきなのか。ズッと考え続けて来た事だった。
 当時は答えが分から無かったものの、父の作業をジッと見て「箪笥の部位によっては、その部材は使わ無くても品質に問題は無いのではないか」とか、製材工場に出掛けて行って「半端な材料でも使い様があるし、場所によってはコチラの部材を使った方が安く且つ品質も好く為る」等と、一人で仮説を立てては父や兄に話して居た。







 良いものの価値を納得して頂く為の「説明」が必要

 もう一つ、小学校以来の接客経験から私の商売鉄則の一つに為ったのが「商品説明」だった。小学生がお客様相手に「良い桐箪笥とは」等と蘊蓄を傾けるが、それを「生意気だ」等と叱責される事は無かった。丁稚と呼ばれる子供達が居た時代でもあり、お客様も説明を聞いて呉れた。
 そして、キチンと説明して納得して貰えれば買って下さった。名人の父が作る桐箪笥がどれ程良いもので「だからコソ、この価格なのです」と胸を張れば、お客さまも納得して買い喜んで呉れた。「価値を伝える為には十分な説明が居る」と、この時に学んだ。

 だが、それは考えてみれば当然の事なのだ。お客さまは、家具と云う耐久消費財の象徴の様な製品を買おうとして居る。しかも決して安くは無い出費である。だからコソ納得して買いたいし、その為には自分で調べるかお店で聞くしか無い。だから、大塚家具を創業してからも従業員の説明能力を高める事に力を注いで来た。
 当時の店長会議では「例えば比較的安価な豆腐も納豆も卵も、キチンとその価値を説明すれば、競合より高価でも選んで貰える」と口を酸っぱくして言った。

 実際、最近の消費者の動きを見てみれば、私の言って居る事が分かって頂けるだろう。「有機栽培で育てた豆を使い、これだけの手間暇を掛けて作って居る豆腐です、納豆です」とアピールし、その真価を消費者に納得して貰えれば、200円も300円もする豆腐や納豆でもキチンと売れて居る。
 増してや価格の高い家具である。先ず自分の店にしか無い良い製品を用意し、それを全部説明出来無ければ為ら無い。お客様に納得頂ける情報をお伝えし、悔いの無い判断をして頂けるようにする。それが伝わら無い時は、製品の何処を好くしたら良いのか、又自分の説明の何処を改めればお客さまに納得して頂けるのか。それを考え続ける。

 又、私達は家具を売る事によって給料を得ているが、それは「説明を含めて、その家具の価値をご納得頂けたから」と云うことだ。心底、そう考えられる様に為ら無いと「売りたい、儲けが欲しい」と云う思いが表に出てしまい、決して実績には繋がら無い。
 余談に為るが大塚家具時代には、お客様や、お客様のご家族と結婚する社員が沢山居た。詰まりお客様が気に入って下さるのだ。それ位心を込めてご案内をし無ければ、良いものの価値は伝わら無い。

 家具屋に取って「在庫は悪」と言われたが・・・

 私が20歳に為った1963年頃は高度成長期の真っ只中で、婚礼家具も本当に好く売れた。その後、18人の仲間と共に独立したのは25歳、1969年の事だ。この年の3月に会社「大塚家具センター」を設立し、4月に春日部駅の西側に1号店を開店した。
 だが、西側には駅の出入口が無く、店は人通りも殆ど無い畑のど真ん中。営業車を持つ余裕が無くて、沿線駅に自転車を駐輪して朝に為るとそこから外商を行い、お客様をお店までご案内して居た。兎に角好く働いた。朝6時には起きて店の掃除から始まり、夜中の12時頃まで。車を持つ様に為ると、深夜迄いらっしゃったお客様をお送りした。

 独立する前からの事だが、婚礼家具が売れるのは春と秋だけだった。夏は全く商売に為ら無い。するとメーカーさんは、どうしても在庫を抱えてしまう事に為るから、私は父の許しを得て夏に為ると、良い家具であればメーカーさんからドンドン仕入れた。製品を持って居れば秋には必ず売れたからだ。
 又、当時、春日部の信用金庫が地場産業発展の為に大変有難い取り組みをして呉れて居た。家具の町の信用金庫なので、貸金の担保と為った家具を置いて置く自前の倉庫を持って居たのだ。その倉庫に家具を持って行くと、相場の6割位の評価でカネを貸して呉れた。その融資金で又在庫を買い集めて行く。そして秋に為ると全て売り切り、借金も返すのである。

 今から考えれば、父親は好く許して呉れたものだと思う。「預けて借りる」「借りて預ける」何か分かった様な分から無い様な仕組みだが、独立後もこの仕組みは商売のバネに為って行った。
 その頃「家具屋は在庫を持つな」と云うのが業界の常識だった。身軽にして置いてお客様の注文に応じて良いものを提供すれば生き残って行けると考えられて居たのだ。しかし私の遣って居る事は真逆だった。在庫を買い上げるのはメーカーに取っては有難い事だろうが、そうした行為自体が競争の激しい春日部の家具業界の中では、余り好ましい商売手法とは見られて居無かったのである。

 だが、商売の理で考えれば、売れるのだから在庫は持って居た方が好いのは自明だ。実は、現代においても同じだと云うのが私の考えだ。「在庫は悪」として効率的な管理をすべきだとする意見が強いが、こと高級家具においては今日注文して明日出来上がるものでは無い。寧ろ在庫を持ち、それだけの事が出来る資金が無ければ、ライバルには勝て無い。
 大手ネット通販会社を見ても、彼等の強大な競争力の一因には「在庫を正しく持って居る」事があるだろう。在庫を持って居るからコソ即日発送と云う満足度の高いサービスを提供出来、早い決済も可能にして居る。増して専門店として、彼等に負けないサービスを提供しようとすれば在庫を持つ事コソが競争力の源泉に為る。

 勿論何度も書くが、それが出来る資金管理と余裕が前提に為る。結局、商売は、商品作りも営業力も資金管理も全てが関連した中で競争力が生まれるのだ。そんな考えで商売を続けて居たら更に地盤を広げたいと感じる様に為って居た。
 「もっとお客様を増やせる東京で勝負したい」そう思って私が東京進出を決意したのは1978年、35歳の時の事だった。


      匠大塚会長 大塚勝久   つづきは次ページへ



























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