誰でもがつくれる売れる。
例えば、自分は絵を描いている。
だから他人の描いた絵を単にみて良いねっと
言うかもしれないが
それを買って家に飾ろうとかは思わない。
なぜか。
自分が描けばよいことで
わざわざ他人の絵を買うまでして飾ろうとか思わない。
だから、自分が他人の絵を見ていいねとか言っているのは
購入対象とは別の心理だ。
それは自分の所有物にしたいという気持ちとは別だ。
このいいねといっている気持ちは
そらの青さとか夕日の風景とかに
いいねっといっている感覚に似ていて
自分の中では買えないものみたいな
線引きをしているかもしれない。
もちろん対象によって買ったとしても
家の中でどうやって飾るの?という作品もあるので
物理的な無理さはあるかもしれないが
通常なにげなく見ている作品にはお金とは結びついていない。
まず欲しいという心理で見てないといったらよいだろうか、
そうなるとそういった作品には
作品としてのそもそもの価値といったものが
存在しないのだろうか。
たまたま見た日常の街の風景と
それを撮った写真をとおして見ている風景の違いは
と問うた場合、
その場合にいるかいないかの違いとか物理的な違いとか
平面立体の違いなど別として
単にいいねといった風景として捉えた場合、
そこにいいねといった気持ちの共有という
かそういった気持ちの交流的な動きはあるとしても
金銭の動きがそこにあるかどうかは別の話になってしまう。
写真にしても絵にしてもそれを作り出した人がいるわけである。
写真の場合はその場面を選んだことになるか。
その人の一つのアイデアだったり気持ちみたいな
その人の何かが付加されているわけです。
それに単に共感するか欲しいと思うか
その気持ちの境界線がどこなのか。
何によってそれがなされるのか。
そう思ったことはないですか。
例えば一つの商品は材料費と人件費と利益を含めて
金額を出すが絵の場合でも材料の費用もあるし
作家の時給による人件費もある。
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