2018年10月10日
私が就職した映像会社
私はカメラマンになりたく映像学校を卒業見込みとして、私を含む同期の学生3人で大手のテレビ番組制作会社に面接に行った。
そこで、「君達には局の報道部に出向し助手をしてもらいたい。」だった。
1人は、映画のフィルムの業界に行きたっかったらしく、報道と聞いただけで嫌がった。
結果、私ともう1人が残り、同じ局に出向した。
現場実習ということもあり、3カ月経ったころ、別のテレビ局のスタッフが不足し、私が行くことになった。
さて、この会社は、元々、ニュースの原稿(フィルム素材)を現場から放送局にバイク便で運ぶ会社であり、スタッフを運ぶ四輪のドライバーもいた。
なので、私の上司はカメラマン経験者ではなく、現役のドライバーだった。
つまり、カメラマンになりたい助手の気持ちなど分かるわけがないのです。
しかし、本社には映画会社出身の名キャメラマンがおり、ある日、本社が中継カメラマンが不足しているので出来るスタッフを貸して欲しいという話が持ち上がった。
そんな時、二つある労働組合が揉めている時でもあり、入社して間もない私と、本社よりの組合員と、4人がカメラテストをさせて貰える事になった。結果、上司から「君が一番上手い。」ということになり、本社に上げてもらえるようになったが、
その時に上司から「しかし、年功序列で待って欲しい。」と宣告された。
それでも、ちょくちょく、本社に上げてもらえるようになり、実績を積み重ねていった。
そして、5年半も辛抱し、やっと正式に本社に上げて貰った。
しかし、そこでも、また、ヘッドハンティングされて来た上司(他社の局内報道カメラマンで、私も助手をしていた。)は、昔のフィルムカメラマンであり、
テレビ中継スタッフに馴染めず嫌われて、自分にあった報道の部署を設けられ、そこで、カメラマン修行をすることになったが、当初は仕事がなく、私は中継スタッフ部門に身をおく事になった。
その時に上司の悪行を聞いてしまつたのだ。そこでも、実績を積み重ねる中、本社に戻って来いになった。
しかし、仕事は、超ローカルテレビ局の報道カメラマンがベースであり、大した仕事はなかった。
そんな中、テレビ局もネットワーク化がはかれ、東京の系列の関西のテレビ局の紹介で「取材するのでカメラマンスタッフを貸して欲しい。」ということになり、私が抜擢された。
もちろん、実績を積み重ねる中、皮肉にもドライバー上りの別の上司が仕事を取って来て、人気番組のコーナーENG取材(ミニドキュメンタリー)で奄美大島にロケに行った。
ちなみに、ルポライターが宿に向かう途中、取材先を見つけて「下見をしたい。」と言った。
私は、直感的にカメラを持って撮影しながら助手と一緒に後を追いかけた。
ルポライターの目線となる撮影を続け、誰もいない小屋を覗くルポライターを撮り、私も窓越しに見たものを撮った。
それは、画家の田中一村が晩年住んでいた家であり、、筆とコップが転がっていたので、そのアップと部屋の雰囲気を撮影した。
そして、ビール箱の踏み台から降り振り替えると、ルポライターが我々に背を向けて佇んでいた。
これは、泣いているなと思ったので、無理に顔を撮るのではなく、背中姿をあえて広角で撮り我慢していると、ルポライターが振り返ったのでバストショットを撮ると「悲しいーね。」と言った。
これを撮影したことで、ディレクターが、「もう撮れた。作品になる。」と喜んでくれたのだ。
つまり、「起承転結」の「転」が撮れた事で、明日からのロケは、これに続ける取材を淡々とこなしていった。
オンエアーでは、スタジオのメインキャスターが、「凄く良い取材、されましたね。」と言うとルポライターが照れて、「筆とコップ、カメラマンが良く撮ってくれました。」と言って頂いた。
この時の助手君も、私の背中を見てくれていたのか、良いドキュメンタリーカメラマンへと育っているようだ。
これで、報道局長に褒められフリーになる決断を致しました。
そこで、「君達には局の報道部に出向し助手をしてもらいたい。」だった。
1人は、映画のフィルムの業界に行きたっかったらしく、報道と聞いただけで嫌がった。
結果、私ともう1人が残り、同じ局に出向した。
現場実習ということもあり、3カ月経ったころ、別のテレビ局のスタッフが不足し、私が行くことになった。
さて、この会社は、元々、ニュースの原稿(フィルム素材)を現場から放送局にバイク便で運ぶ会社であり、スタッフを運ぶ四輪のドライバーもいた。
なので、私の上司はカメラマン経験者ではなく、現役のドライバーだった。
つまり、カメラマンになりたい助手の気持ちなど分かるわけがないのです。
しかし、本社には映画会社出身の名キャメラマンがおり、ある日、本社が中継カメラマンが不足しているので出来るスタッフを貸して欲しいという話が持ち上がった。
そんな時、二つある労働組合が揉めている時でもあり、入社して間もない私と、本社よりの組合員と、4人がカメラテストをさせて貰える事になった。結果、上司から「君が一番上手い。」ということになり、本社に上げてもらえるようになったが、
その時に上司から「しかし、年功序列で待って欲しい。」と宣告された。
それでも、ちょくちょく、本社に上げてもらえるようになり、実績を積み重ねていった。
そして、5年半も辛抱し、やっと正式に本社に上げて貰った。
しかし、そこでも、また、ヘッドハンティングされて来た上司(他社の局内報道カメラマンで、私も助手をしていた。)は、昔のフィルムカメラマンであり、
テレビ中継スタッフに馴染めず嫌われて、自分にあった報道の部署を設けられ、そこで、カメラマン修行をすることになったが、当初は仕事がなく、私は中継スタッフ部門に身をおく事になった。
その時に上司の悪行を聞いてしまつたのだ。そこでも、実績を積み重ねる中、本社に戻って来いになった。
しかし、仕事は、超ローカルテレビ局の報道カメラマンがベースであり、大した仕事はなかった。
そんな中、テレビ局もネットワーク化がはかれ、東京の系列の関西のテレビ局の紹介で「取材するのでカメラマンスタッフを貸して欲しい。」ということになり、私が抜擢された。
もちろん、実績を積み重ねる中、皮肉にもドライバー上りの別の上司が仕事を取って来て、人気番組のコーナーENG取材(ミニドキュメンタリー)で奄美大島にロケに行った。
ちなみに、ルポライターが宿に向かう途中、取材先を見つけて「下見をしたい。」と言った。
私は、直感的にカメラを持って撮影しながら助手と一緒に後を追いかけた。
ルポライターの目線となる撮影を続け、誰もいない小屋を覗くルポライターを撮り、私も窓越しに見たものを撮った。
それは、画家の田中一村が晩年住んでいた家であり、、筆とコップが転がっていたので、そのアップと部屋の雰囲気を撮影した。
そして、ビール箱の踏み台から降り振り替えると、ルポライターが我々に背を向けて佇んでいた。
これは、泣いているなと思ったので、無理に顔を撮るのではなく、背中姿をあえて広角で撮り我慢していると、ルポライターが振り返ったのでバストショットを撮ると「悲しいーね。」と言った。
これを撮影したことで、ディレクターが、「もう撮れた。作品になる。」と喜んでくれたのだ。
つまり、「起承転結」の「転」が撮れた事で、明日からのロケは、これに続ける取材を淡々とこなしていった。
オンエアーでは、スタジオのメインキャスターが、「凄く良い取材、されましたね。」と言うとルポライターが照れて、「筆とコップ、カメラマンが良く撮ってくれました。」と言って頂いた。
この時の助手君も、私の背中を見てくれていたのか、良いドキュメンタリーカメラマンへと育っているようだ。
これで、報道局長に褒められフリーになる決断を致しました。
タグ:ドキュメンタリー
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