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2021年01月12日
高千穂ノ峯の傳説地 その1
第三章 天孫降臨
第三節 高千穂ノ峯の傳説地
高千穂峯の所在の關する諸説
天孫瓊瓊杵尊の降臨し給へりと傳へらるる高千穂峯に就きては、古來數説あり。
或は之を日向にありとし、或は之を豊前にありとし、或は之を薩摩にありとす。
又同じく日向國にありとする説に就いても、或は諸縣郡なる霧島山を以て之に擬し、或は臼杵郡なる高千穂地方を以て之に當つ。
其の豊前と云ひ、薩摩と云ふものは、殆ど文獻の徴すべきなきのみならず、古事記、日本紀等、古書の記事とも矛盾する所あり、今や之を唱道するもの多からざれば論及せず。
之を諸縣郡の霧島山なりといひ、臼杵郡の高千穂なりとするものは、共に頗る徴證ありて、古來學者の取捨に迷ふ所なりとす。
されば鴨祐之の如きは、其の大八洲記に、「襲は今大隅國の郡名囎唹に作る。千穂は地名、日向國臼杵郡にあり。智保に作る」と云ひて、地理の實際に拘らず此の兩説を保存し、又本居宣長は其の古事記傳に於て、「何(いづ)れを其れと一方には決(さだ)め難し」として、
斯くて平田篤胤に至りては、其の古史成文に、直ちに古文を改めて、初め臼杵の高千穂ノ二山峯天降り給ひ、既にして襲之高千穂ノ槵日ノ二上峯に移り幸(いで)ましきとさへ記述するに至れり。
乃ち聊か左に其の兩説の據る所を詳にして、孰れが果して古傳説地なるべきかを辨ぜん。
第三節 高千穂ノ峯の傳説地
高千穂峯の所在の關する諸説
天孫瓊瓊杵尊の降臨し給へりと傳へらるる高千穂峯に就きては、古來數説あり。
或は之を日向にありとし、或は之を豊前にありとし、或は之を薩摩にありとす。
又同じく日向國にありとする説に就いても、或は諸縣郡なる霧島山を以て之に擬し、或は臼杵郡なる高千穂地方を以て之に當つ。
其の豊前と云ひ、薩摩と云ふものは、殆ど文獻の徴すべきなきのみならず、古事記、日本紀等、古書の記事とも矛盾する所あり、今や之を唱道するもの多からざれば論及せず。
之を諸縣郡の霧島山なりといひ、臼杵郡の高千穂なりとするものは、共に頗る徴證ありて、古來學者の取捨に迷ふ所なりとす。
されば鴨祐之の如きは、其の大八洲記に、「襲は今大隅國の郡名囎唹に作る。千穂は地名、日向國臼杵郡にあり。智保に作る」と云ひて、地理の實際に拘らず此の兩説を保存し、又本居宣長は其の古事記傳に於て、「何(いづ)れを其れと一方には決(さだ)め難し」として、
つらつら思ふに、~代の御典に高千穂峯とあるは二處にて、同名にて、かの臼杵郡なるも、又霧島山も、共に其の山なるべし。とするの窮説を述べたり。
其は皇孫命初めて天降(あもり)坐(ま)しし時、先づ二つの内の一方の高千穂峯に下り着き賜ひて、それより今一方の高千穂に移幸(うつりいで)まししなるべし。
其の次序(ついで)は何れが先、何れが後なりけん、知るべきにあらざれど、終に笠沙御崎(かささのみさき)に留り賜へりし路次を以て思へば、初めに先づ降り着き賜ひしは臼杵郡なる高千穂山にて、それより霧島山に遷りまして、さて其の山を下りて空國(からくに)を行去(とほり)て、笠沙御崎には到り坐ししなるべし。
斯くて平田篤胤に至りては、其の古史成文に、直ちに古文を改めて、初め臼杵の高千穂ノ二山峯天降り給ひ、既にして襲之高千穂ノ槵日ノ二上峯に移り幸(いで)ましきとさへ記述するに至れり。
乃ち聊か左に其の兩説の據る所を詳にして、孰れが果して古傳説地なるべきかを辨ぜん。
タグ:高千穂の峰
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