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2021年01月29日

高千穂ノ峯の傳説地 その18

臼杵郡高千穂説 その2
此の文仙覺の萬葉抄にも引きて、明かに鎌倉時代に存せし風土記の古文なり。
論者或は言はん、風土記録する所の天孫投稻の故事、嘗て記、紀等の言はざる所、蓋し類似の地名に基づき、史實を之に附會せるもにて、信ずるに足らざるべしと。
或は然らん。
其の千穂の語の起源を解する如きは、固より必ずしも信ずべきにあらず。
然れども、天孫降臨の際天地暗く、土蜘蛛の奏に基づき稻千穂を散じ給ひし故事が、史實として信じ難しとするも、少くも此の記事ある風土記の編纂奏上せられし時代に於ては、日向の民衆が古傳説上の天孫降臨の故地を以て、此の臼杵郡なる智鋪クなりとなすの説を有せしものにして、國郡の當局者が之を採用せし事實、亦最も明白なりと謂はざるべからず。
叉平安朝に於て、霧島~と高千穂~と別個に存在して、位階を授けられ、更に鎌倉時代に於て、日本紀天孫降臨の條を説明すべく、釋日本紀及び萬葉抄の著者が、風土記の此の文を引用せしことなどを合せ考ふれば、少くも當時京師の當局者、又は學者間に於て、臼杵高千穂説が認められたりしことは疑を容れざるなり。
之を智鋪といふは、高千穂を略せるなり。
和同の制、國郡ク里の名必ず漢字二字たるべしと定めらる。
ここに於て近淡海(ちかつあふみ)國を縮めて近江國とし、都ク(とのがう)を延ばして都於ク(とおのがう)となす。
高千穂の智舗と成る亦此の例なり。
さればク名には之を智保と稱するも、其の他の場合には依然として「高」字を添ふるを例とせり。
前記高智保皇~の如きは更なり、中世に此の地方一の莊園となり、なほ高智尾の號を稱せしこと、鎌倉時代以後の記録、文書に往々散見して、周ねく世の知る所なり。
高智尾莊は西臼杵郡高千穂の地方より、廣く肥後、豊後の境上に及ぶ。
石清水社所藏寶龜四年豊前國司文書に、八幡大~の託宣を記したる中にも、
豊後、日向、肥後三箇國乃中、廣太野在リ。
其野ヲ~吾レ點定云云。
件地等、號野ク、北野、高千穂。
の語あり。
此の書固より寶龜の公文書として疑問なきにあらねど、亦以て古く此等の地方に、高千穂の稱ありしことを知るに足るべし。


posted by うさぎ at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 高千穂
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