2014年04月09日
449. 高橋英樹 怖い人・浅丘家の手料理・モノマネ 「徹子の部屋」
「世の中で一番怖い人ですから…」と高橋さん。(笑)
4歳上ですから芸能界でのお姉さんのような存在?
「口が悪いね、君は」と浅丘さん。
「…いろんな、行儀だとか作法、ちょっとしたことでも、すぐ指導されましたから、若いころ」と高橋さん。
「怒りましたから、私…」と浅丘さん。
高橋さんが映画会社・「日活」に入ったのは17歳のとき。浅丘さんはすでに大スター。
高橋さんは泊まるところもなく、持ち物すべてをボストンバッグに詰め込んでウロウロしていたそうなのです。
「そうなんですよ、『本当にこの子、どうなることやら』と思って…」と浅丘さん。「たまたま私のいとこと同じ学校で、『それじゃあ、私が面倒見なきゃ』と思って…」「何かあったら、『うちに来なさい』、遅いときは『うちに泊まりなさい』」
「とにかく、たくさん食べさせていただきました…」と高橋さん。
浅丘母の手料理
当時の浅丘家は日活撮影所から5分のところにあり、若い俳優さんたちにとっての憩いの場になっていたそうです。
浅丘さんは4姉妹。女ばかりの家庭に若い男優が来ると、お父さんはともに酒を飲み、料理上手のお母さんはおいしい手料理を振舞ったのだとか。
若き高橋さんは、なんと浅丘さんがいないときでも浅丘家を訪ねて、「すいません、ご飯、お願いします」と頼んだそうで…。(笑)
「(母は)英樹のことは大好きでしたから…」と浅丘さん。「可愛くて仕方がなかったんです。うちは男の子がいなかったから…」
「料理がお上手で…。ほんとにおいしかったですね…」と高橋さん。
「料理は付いてるんです」と浅丘さん。「今は妹がしてくれる。結婚してたときは石坂(浩二)さんでしょ?」「私は『やらない人』です。みんなやってくれますから…」「すごくおいしかったんです」
今も大スターの香り・貫禄を存分に纏う浅丘さん。
モノマネで芸能界へ
意外なことに高橋さんはモノマネが大変お上手だそうです。
「この人、いろんなモノマネをして、みんなをすごく喜ばせていたんです」と浅丘さん。
日活に入るためのニューフェースの試験でもモノマネをしたそうです。レパートリーは宍戸錠、市川歌右衛門、片岡千恵蔵…。日活の先輩や時代劇のスターたちですね。
「『人の真似をすることが大事なのかな』と…」片岡千恵蔵さんの前でやったら「殴られた」そうですが。(笑)
懐かしい味
スタジオに、浅丘さんのお母さんの料理で、高橋さんが大好きだった「コロット」が用意されました。
懐かしい味を浅丘さんの妹さんが再現したようです。
豚のバラ肉を2日間煮込み、にんにくと醤油、レモンで味付けをしたもの。見た感じがコロッとしているから「コロット」。
「50年ぶりくらいかな…。うまい!」と高橋さん。「おいしいですよ…。これでご飯3杯は食べられる」
当時浅丘家ではご飯を2升炊いていたそうです。
浅丘さんは恩人
浅丘さんから電話があると「何を怒られるのかな?」と高橋さんは怯えていたそうです。「でもそれが有難くて…」
日活時代は遅刻をすると「部屋にいらっしゃい」「何人の人があなたのことを待っていたの?」と浅丘さんの小言…。
「それから私は一切遅刻をしなくなった」と高橋さん。
「この人は一番先に言うことを聞くんです。そして、こういうものを食べて、一番恩義を感じてくれるんです」「とってもいい子なんです」
「ほんとに若いころに…。成長期のころにお世話になったことは忘れられないですね…」と高橋さん。
「お父さん、お母さん、お姉ちゃん、みんな喜んでいると思うよ…。上で…」と浅丘さん。
浅丘さんは、石原裕次郎さんであっても遅刻をすると叱っていたそうです。
「とにかく早いですから…」と高橋さん。
「私たちは早いんです」と浅丘さん。「そして待ってるんです」
2人が活躍していた昭和30年代は日本映画の黄金期。テレビが無かったころです。
高橋さんが日活時代に「100本弱…」、浅丘さんは「130本」もの映画に出演したのだとか。
「1年に15本くらい…」と高橋さん。プログラムピクチャーの時代ですねえ…。
「姉弟」の強い絆が感じられたトークでした。
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