2014年04月01日
442. 水谷豊 夢・力士・「相棒」・岸田今日子 「徹子の部屋」
花束を渡してからハグ。「ハグ友で…」と黒柳さん。
正午への「お引越し」のお祝いというとこで、黒柳さんへ大・中・小と3つのプレゼント。
大きな箱には、花でできた帽子。これが似合うのは黒柳さんだけかもしれません。大変お似合いで、大喜びの黒柳さん。
小さな箱には、黒柳さんの大好きなマカロン。黒柳さんは黄色がお好きですね。
中の箱には今年の干支、馬の置き物。雌雄2頭の馬で、大きさは15pくらい?大変お洒落で、全身に模様が描かれたものです。これはスタジオのどこかに記念として置かれるようです。
子どものころの夢
「私、知らなかったんでけど、あなたは北海道生まれだって?」と黒柳さん。
「そうです…。北海道ですね」と水谷さん。
「なりたいものが…びっくりした。あなた、ぜひどうぞ」
「…おすもうさんになりたかったんですよ。(笑)」
「すごいでしょ、みなさん、おすもうさんになりたかったんですって…」と黒柳さん。
「おすもうさんか、絵を描くのが好きで、漫画家になるのが…」「大鵬が大好きで…。あの声もとても好きだった…。で、大鵬の土俵入りというのは、ぼく、当時、全部真似して…」と水谷さん。
「今もできる?」
「全部は覚えてないですけど…。こんなにきれいなおすもうさんはいないと…」
大鵬の土俵入りをぜひやってほしいという黒柳さん。「やるんですか、今?」と言いながら大鵬の土俵入りを真似する水谷さん。他の力士との違いを解説してくれました。所作がとても美しかったそうです。
「スポーツが好きでしたからね…。相撲をとるのも好きでした」
7歳で東京に引っ越しました。
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デビューのきっかけ
水谷さんに芸能界入りを勧めたのは近所のおばさん。児童劇団のパンフレットを持ってきて、水谷さんに入団を勧めたそうです。12歳のときでした。
「面白いですね…。近所のおばさんがあなたを見て、『こういうところに入ったら』って…」と黒柳さん。
当時はテレビの全盛期。テレビドラマに興味を持つ年頃の水谷さんは入団しました。
「そのおばさんがパンフレットをくれなかったら、違う職業の人に…」と黒柳さん。
「可能性はありますね」と水谷さん。
岸田今日子さんに可愛がられて…
その劇団で山崎努さんや岸田今日子さんたちと知り合ったのが14歳のとき。
「山崎努さんが初めて主役をやった舞台、それに呼ばれて、1か月東京、1か月地方公演して…」
ある時、水谷さんは岸田今日子さんから「男の部屋にいると悪くなる…。私たちの部屋にいなさい」と言われました。
「本当によくしていただいて、いろんな話を聞かせていただいて…」
寒いときには布団の中でトランプをしたそうです。
3つの作品
水谷さんの転機となった作品を3つ語ってくれました。
@「傷だらけの天使」 児童劇団をやめていた水谷さんに知り合いのプロデューサーからドラマ出演の打診がありました。当時大学受験に失敗し、アルバイトを考えていた水谷さん。「アルバイトのつもりで」引き受けたそうです。
当時体調がよくなく、寝不足だったのが功を奏してあの独特な演技を生んだのだとか。
A「熱中時代」
独特の喋り方には2人のモデルがいたそうです。
1人は高校1年のときの担任の先生。もう1人は高校2年のときの担任の先生だそうです。2人とも水谷さんの大好きな先生で、その2人の先生の喋り方をミックスさせたのだとか。
「何かを作ろう」という話になった水谷さんたち。脚本家の軸となる輿水泰弘さんが大変忙しく、1年以上待たないといけないという状況だったそうです。
待つことを決め、届けられたのが「相棒」でした。
「待ったかいがあって…。素晴らしい脚本」と水谷さん。
「刑事ものってたくさんあるじゃないですか?独特ですもんね」と黒柳さん。
「こういう刑事もの、警察ものって無かったのでは…」と水谷さん。「ものすごい感激したのを覚えてます」
一緒に取り組んできたのが監督の和泉聖治さん。その和泉さんからの手紙を黒柳さんが読みますが、私(よしろう)が驚いたのは次の箇所。
「いつも不思議に思うのは、どうやってセリフを覚えられているのでしょうか?毎年ツークール、7か月にも及ぶ撮影の中で、杉下右京の推理する長台詞は半端なものではありません。
私は豊さんが現場で台本を手にしているところを見たことがありません。すごいの一言です。天才としか思えません…」
現場でも優しい人柄の水谷さん。
この日も、黒柳さんへのリスペクトの言葉が随所に聞かれ、本当に爽やかなトークでした。
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