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2015年06月10日

自分を鍛える

我今度の御勘気は世間の失一分もなし偏に先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべし
佐渡御書 958頁

日蓮は、佐渡に流罪となり、その佐渡の地において、この御書を認めています。

流罪ということですから、追放刑ということですね。

追放刑になるぐらいですから、相当に悪いことをしたと思われるところ、日蓮が言うには「世間の失一分もなし」ということで悪いことをしていないというのですね。

追放刑にあった理由は、「先業の重罪」にあるといいます。

極めて宗教的な理由により、流罪となったわけですね。

日蓮を気取って「難に遭っている」と言っている人がいましたが、それは、その人の普段の行いが悪いからであって、宗教的な理由など一分もありませんでした。

人に対する態度がなっておらず、金は返さず、やるべきことはせず、いいかっこばかり吹聴する人間ですから、その他の人々から疎んじられるだけだったのですが、本人は「難に遭っている」と言うのですね。

このように日蓮を悪用する人間がいますので、注意が必要です。

あくまで真摯な態度で日蓮を読むべきですね。

自分自身に当てはめて考えてみますと、少なくとも「世間の失一分もなし」といえるほどの人間にはなっておきたいですね。

常日頃からの行いにおいて、信仰者として恥じない振る舞いでありたいと思います。

無理することなく、真っ当な所作ができることが大切です。無理に正しくあろうとして四角四面な人間になっているようでは話になりません。余裕が必要ですね。

そうはいっても、若い時分は、上手く行きませんでしたね。なにせ、人生経験が少ないわけですから、大した振る舞いができるわけでもなく、物事に対する的確な判断能力があるわけでもなく、あっちこっちにぶつかりながら、試行錯誤の人生でしたね。

そうこうしているうちに、年輪を重ね、現在があるのであって、「世間の失一分もなし」となるには、それなりの年齢にならないと、そうならないようですね。

ただ、気を付けておかなければならないのは、今度は、年を取り過ぎると、判断能力が落ちてきますから、落ちないように、日々、自身を鍛えておくことですね。

何をもって鍛えるか。信仰をしているわけですから、御書、法華経で鍛えればよいですね。特に、今回、引用した佐渡御書など自分自身を鍛えるのに最適の書といってよいでしょう。
posted by lawful at 19:15| 御書

2015年06月08日

正しい言葉遣い

創価学会では、部活動者会というのがあるそうです。部活というようですが、学校の部活とは全く違います。

ある人に「部活、部活と仰っていますが、何をされているのですか」と聞いたところ、その人は、「新聞を読む」と仰いました。

私は、「ああ、日本経済新聞ですか」と言ってみました。

その方は、「違う、違う」と大慌ての風情であり、ちょっと滑稽でしたね。

もちろん、創価学会で新聞といえば、聖教新聞なのですが、新聞とは即ち聖教新聞というその雰囲気が馴染めなく、「日本経済新聞ですか」などと言ってみたわけです。

とにかく、創価学会の中では、新聞は聖教新聞のみというほどの圧があります。

また、他の人で「選挙、選挙」という人がいましたので、私は、「立候補されるのですか」と聞いてみました。

その人は、同じく「違う、違う」と大慌ての風情でした。

創価学会で選挙といえば、公明党の票集めのことです。

選挙即ち公明党の票集めというその感覚が私には合わないのですね。

会員の方は、新聞、選挙という単語だけで会話が成り立っており、独特な空間を形作っています。

特殊な団体、閉鎖的な団体には、世間一般とは違う感覚で言葉を使います。

やれ「折伏」だ、「新聞啓蒙」だと言っていますが、正しくは「勧誘」でしょう。

「財務」と言っていますが、正しくは、「寄付」「献金」でしょう。

「F」だ「Z」だと言っているようですが、正しくは、「票」でしょう。

このような言葉遣いになれることは好ましくないと思いますね。

思考が歪に硬直する危険性があります。私が創価学会に違和感を持つのは、このような言葉遣いをするからですね。

正しく言葉を使う習慣を身に付けるべきですね。
posted by lawful at 07:14| 新宗教

2015年06月07日

「如我等無異」の観点から人物を見る

今日蓮等の類は題目の法音を信受する故に疑網更に無し、如我等無異とて釈迦同等の仏にやすやすとならん事疑無きなり
御講聞書 817頁

仏の目的は、衆生を仏にすることです。法華経方便品には「如我等無異」という言葉が出てきます。

「我が如く等しくして異なること無からしめん」と書き下しますが、仏の意図が明快にあらわされています。

「等しく」というところがポイントですね。

指導的な立場にいる人間は、得てして、指導されている人間が自分と同等になることを妨げるものです。

最初、師匠は、指導をすることにより、弟子の能力を引き出していくのですが、弟子が自分と同等、若しくは、自分を越えようとするまでに成長しそうになると、その成長の邪魔をし始めるのですね。

要は、指導的立場の人間でもなんでもなく、師匠でもなんでもないということですが、とにかく、邪魔をします。

結局、仏の次元での振る舞いができていないということですね。

仏は、「如我等無異」ですから、弟子が自分と同等の仏の境涯になることを欲します。

仏以上のものはないわけですから、追い越される心配はしなくてもいいわけです。

しかし、実のところ師匠でもなんでもない人間は、弟子が同等になることを嫌います。

といいますか、師匠でもなんでもない人間は、仏の境涯でないわけで、それ以下の境涯です。よって、追い越されるのが嫌なのでしょうね。

まずは、自分が仏の境涯を得るよう精進すればよいのですが、それは面倒なようでしないのですね。

単に偉そうにしたいという欲望だけがあるのです。

そこで、弟子の中にまともな仏の境涯を目指す人間がいると困るのですね。

そして、弟子に嫌がらせをするというわけです。みっともないですね。

いずれにしても、法華経方便品の「如我等無異」を基準に人物を見ていけば、本物と偽物との区別がつくというものです。

我々としては、法華経の精髄である題目を軸に仏の境涯を得ていきたいものです。

もちろん、実際は「やすやすと」とはいかないでしょうが、あまり、難しく考え、困難な道であると強調しすぎるのも価値的ではありません。ある意味、「やすやすと」仏の境涯を得るというリラックスした状態が好ましいのかもしれませんね。

posted by lawful at 13:08| 御書

2015年06月06日

正しいから信仰?それとも、価値があるから信仰?

ある人と信仰の話をしている時に、その人から「日蓮仏法が正しいと思って信仰されているのですか」ということを聞かれたことがあります。その人も日蓮仏法を信仰している人なのですが、気になっていたのでしょうね。

なかなかストレートな質問であり、同じ信仰の人からこのような質問が飛んでくるとは想定していませんでしたが、自分自身の信仰のあり様を思い返しながら、私は、「正しいから信仰しているというよりも、日蓮仏法には価値があると思って信仰しています」ということを言いました。

正しいか正しくないかは認識の次元のことと思います。調査、研究、検証することによって、正しいものを見つければよいということですね。

しかし、宗教や信仰というものは、調査、研究、検証でどうにかなるというものではありません。正直なところ、よく分からないという側面があるものです。

正しいか正しくないかを検証してからであると、いつまでたっても信仰はできません。

所詮、信仰といっても、その人の持っている縁によるのだろうと思います。

そもそも、縁がなければ信仰はできません。

私には、日蓮仏法という縁があったというわけです。

ただ、鰯の頭も信心というレベルでは話になりませんので、「御書」「法華経」の研鑽は当然のことながら行います。その中で、信仰を深めるということになりますね。

「正しいから信仰するではなく、価値があるから信仰する」という回答は、思わず出てきた回答ですが、まんざら悪くない回答だと思います。

日蓮の書を読んでいるわけですから、法華経第一という考え方になり、正しいから信仰しているという側面があるとはいえますが、なぜ、法華経第一なのかという問いは常に持っておきたいと思っています。

日蓮仏法が正しい、法華経が第一、で止まってしまい、まさしく、思考停止してしまうならば、日蓮的とはいえませんからね。

日蓮的姿勢というのは、以下の御文にあるとおりの姿勢ですね。

先法華経につけて御不審をたてて其趣を御尋ね候事ありがたき大善根にて候
妙法尼御前御返事 1402頁

やはり、日蓮と同じく、常に信仰に対して問いを持ちながら、深めていくという姿勢がいいでしょう。

日蓮仏法の信仰から、価値を見出し、その価値を膨らましていくというイメージがよいでしょうね。
posted by lawful at 19:03| 御書

本当の信仰と狂信との違い

日蓮は、四条金吾に対して、以下の言葉を送っています。

ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候
四条金吾殿御返事 1193頁

信仰心を深めていきなさいと言っています。また、臆病であれば祈りは叶いませんよと言っています。

深い信心であればよいのですが、狂信になる人がいます。

なぜなのかと思っていますと、上記の御文にヒントとなる言葉があったのですね。

ホッファーの指摘を見てみましょう。

われわれが臆病であることを正当化するためには、狂信的な信仰が必要なのである。
エリック・ホッファー『大衆運動』高根正昭訳 紀伊国屋書店 122頁

キーワードは「臆病」ですね。

狂信は、臆病を隠すために発生するものなのですね。

日蓮は、臆病であってはならないと指摘しているのですが、狂信者は日蓮の言葉を無視し、狂信的な信仰でごまかしているというわけです。

所詮は、ごまかしということですね。

道理で、何も叶わないわけです。

いくら臆病を正当化するために狂信的な信仰を見せつけても、日蓮を読み、ホッファーを読んでいる人には、通用しません。

それ故、狂信者は、御書を読まず、本を読まない人を好むのですね。ごまかせますからね。

狂信者はよく「御書はいらない」と言いますね。なるほどと思いますよ。
posted by lawful at 15:50| 御書

創価学会の日蓮正宗に対する態度

最近は、「聖教新聞」紙上で日蓮正宗(創価学会では「日顕宗」と言っていますが、「日顕宗」という宗教法人はありません)に対する熱烈な憎悪に基づく悪口が影をひそめましたが、一時は、強烈でしたね。

なぜ、このようになるのだろうかと思っていましたが、それなりの理由があったのですね。

ホッファーの言葉を参考にして考えてみましょう。

熱烈な憎悪は、空虚な人生に意味と目的とを与えることができる。
エリック・ホッファー『大衆運動』高根正昭訳 紀伊国屋書店 112頁

平成に入ってから、創価学会と日蓮正宗との対立が激しくなるわけですが、その中で、創価学会は、日蓮正宗に対して、これでもかというぐらいの悪口を投げかけました。

通常であれば、しらけるだろうと思われるところ、しらけるどころか、より一層、悪口がひどくなり、盛り上がっていましたね。

つまり、創価学会員自身の人生が空虚であったということでしょう。

熱烈な憎悪を掻き立てることにより、自分自身のつまらない人生をごまかし、意味と目的とを得ようと必死だったのでしょう。

思い返しますと、痛々しいですね。

そこで人生の目的を失って悩んでいる人びとは、自分自身を神聖な大義に献げるだけでなく、狂信的な不満を育てて新しい満足を見出そうとする。
同書 同頁

狂信的というところが、言い得て妙ですね。

単に、空虚な人生に意味と目的とを見出すだけでなく、不満に基づいた歪な感情を育み、新しい満足を得ようとするのですから、気持ち悪いですね。

確かに、この通りでしたね。

ホッファーの指摘を自分自身に当てはめ、至らぬ点を改善することですね。

また、劣等な創価学会員の振る舞いを他山の石としておくことですね。
posted by lawful at 15:28| 新宗教

子供のいじめの問題は親の欲求不満の問題

子供のいじめの報道が多くなされています。報道になっているのは、ほんの一握りであり、多くのいじめ事案があるのでしょう。

子供がいじめをするといっても、その原因が子供から発しているとは思えないですね。

子供スタートでいじめがあるのではなく、親がスタートでしょうね。

親は、仕事等でストレスを抱え、ままならない人生を歩み、欲求不満になっています。その欲求不満の状態で子供と接すると、虐待に近いことをしてしまうものです。

子供は、親に対して、対抗することができず、欲求不満を抱えてしまいます。

どこかで、この欲求不満を解消したいと思う時、学校というちょうどいい場所を見つけるのですね。

ここで欲求不満を解消しようとするわけです。相手は誰でもいいのですね。

ホッファーの言葉でより深く考えてみましょう。

ある人間に虐待されたとき、われわれはしばしば、まったく関係のない人物あるいは集団に憎悪を転じるものである。(中略)ヴェルサイユ条約によって、苦しめられたドイツ人は、ユダヤ人を絶滅して復讐をとげた。(中略)アメリカの南部派民主党員 Dixiecrats によって搾取された南部の無知で貧しい白人は、黒人に私刑を加えるのである。
エリック・ホッファー『大衆運動』高根正昭訳 紀伊国屋書店 108頁

いじめをする人間は、欲求不満をもたらしたその当人と対決することはありません。「まったく関係のない人間」に矛先を転じるのですね。

この「まったく関係のない人間」に絡んでくるという点が恐ろしいですね。予期できず、予測できないのですから、どうすればよいのでしょうね。まずは、逃げるしかないでしょう。相手をしてはいけません。

いじめは、いじめる方が悪いのであって、いじめられる方は悪くありません。

なぜなら、もともと「まったく関係のない人間」なのですから。

いじめている人間の親の欲求不満が悪いのであり、もっと言えば、その親に欲求不満を抱かせるその他の人々が悪いといえます。

いずれにしても、子供のいじめが多いということは、親の欲求不満が尋常でないほど溜まっているということです。

社会全体が欲求不満ということです。

結局は、我々の問題といえるでしょう。
posted by lawful at 14:56| 雑感

創価学会の評価が低い理由

社会における創価学会の評価は芳しくありません。

教団自身は、平和、文化、教育に貢献していると訴えていますが、貢献しているようには見受けられません。

もちろん、それなりの貢献はあるでしょうが、教団が強調するほどの貢献はないですね。

それよりも、問題点の方が多く、評価されない点が、多々、見受けられます。

なぜ、このようになってしまうのでしょうか。

ホッファーの言葉から考えてみましょう。

民族や国家、あるいはどのようなものであれ、明瞭な輪郭をもった集団は、そのもっとも劣等な成員によって評価される傾向がある。明らかに不当ではあるけれども、この傾向には、若干の理由がないわけではない。というのは、一つの集団の性格と運命は、その構成分子の中でも劣等なものによって決定される場合が多いからである。
エリック・ホッファー『大衆運動』高根正昭訳 紀伊国屋書店 27頁

ホッファーの言う通り、劣等な構成員によって教団の性格と運命が決定づけられている側面があり、教団の悪いところは、悉く、劣等な構成員による振る舞いが原因となっています。

創価学会の中にも、優れた人がいるにしても、劣等な構成員の影響力の方が強くなってしまい、その影響が社会に反映し、低い評価につながるわけです。

また、創価学会の構成員の中で、劣等な構成員が幅を利かせているという現実があり、まともな人が離れていっています。

当初はさほどひどくはなかったものが、劣等な構成員の割合が増えることにより、教団が劣化しています。

御書で指摘すると以下の通りですね。

南岳大師の四安楽行に云く「若し菩薩有りて悪人を将護して治罰すること能わず、其れをして悪を長ぜしめ善人を悩乱し正法を敗壊せば此の人は実に菩薩に非ず、外には詐侮を現じ常に是の言を作さん、我は忍辱を行ずと、其の人命終して諸の悪人と倶に地獄に堕ちなん」
南部六郎殿御書 1374頁

劣等な構成員をそのままにして、逆に守ってしまい、懲らしめることをせず、より一層、劣等な状態にして、まともな人、優れた人を困らせ、肝心の法門を捨てておく人は仏法者などではないということですね。

仏法者でない状態でありながら、外面だけ整えて中身がなく、信仰心がそもそもないにもかかわらず、人には「信心で捉えてくれ」などと言って、現状のままでよいという姿勢をとります。彼らにとっては、それが忍辱ということなのでしょう。

まさに、劣等な構成員だらけですが、南岳によると、その他の悪人と共に地獄行きということですから、放置しておきましょう。相手にするだけ時間の無駄というものです。

教団として、組織はしっかりしていますから、当面、今のままでしょうが、劣等な構成員をそのままにしていては、上記の御文の通りとなるでしょう。

ただ、教団の規模が大きいので、時間はかかるでしょうね。
posted by lawful at 14:19| 新宗教

ユートピア、楽園、お花畑

なぜ、新宗教が発展したのでしょうか。

さまざまな要因がある中で、一つの理由として、教団は、自らの教団がユートピアであり、楽園であり、お花畑であると演出し、その演出に人々が魅せられたということがあげられるでしょう。

現実の世の中は厳しい世界であり、苦しく、貧困な状態ですが、教団は、うちの教団は違いますよとアピールします。

まだ、教団に入っていない人からすると、その教団が怪しく見えるのですが、その人の気持ちとしては、現在の自分の生活はままならず、取るに足りない人生であるところ、もしかするとユートピア、楽園、お花畑があるのではないかと夢想し、そのような世界があるならば、そこに入りたいと思っているのですね。

冷静に考えれば分かることも、分からなくなってしまうのですね。

最初は教団に対して、怪しいと感じていながらも、自身の持っている夢想の方が強く出てしまい、結局、教団に入ってしまうわけです。

教団に入って、自分の人生が好転すればよいのですが、そうでない人々がほとんどです。

そうしますと、教団をすぐ辞めるのかと思いきや、辞めないのですね。

教団の中で、この教団はユートピアであり、楽園であり、お花畑であるというふりをし始めるのですね。そして、教団の言う通り、勧誘します。同じような人が一定数いますから、その人たちが教団に加入します。

ただ、一定数の人だけですから、定数に達するともう増えません。

また、時代が変わると人も変わりますから、教団の構成員の数も減ってきます。

それでも、教団で熱心に活動する人がいますが、これは、現実を見るのが辛く、夢を見続けたいから、活動を続けるのですね。

この教団にいれば大丈夫と思いたいのですね。実際に大丈夫かといいますと、大丈夫ではないのですが、一旦、足を踏み入れてしまうと、なかなか、抜け出せないようです。

教団にユートピアを見て、楽園を見て、お花畑を見て、現実にそのユートピア、楽園、お花畑があればよいのですが、そのようなものはありません。

ないと言っても、全くないのかと言いますとそうでもないようです。つまり、その人の心の中に、ユートピアを見たい、楽園を見たい、お花畑を見たいという欲望が厳然と存在するのですね。

存在するのは欲望、仏教的な言い方をすれば、貪欲です。

結局、新宗教の発展の原動力は、信者の貪欲ということです。

根本とすべきは、自分の心の中にある仏界です。

教団に救済を求めている段階で仏教的ではありません。

何も得るところはないでしょう。日蓮の言葉をみてみましょう。

若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し
一生成仏抄 383頁

この御文通りで済むならば、ゼロで済みますが、実際は、教団に多額の寄付をしていますから、マイナスになっています。

少なくとも一生成仏抄通りでいて欲しいところですが、教団に熱心な人は「御書」を大切にしませんので、「御書」で指摘されている以上の損失を被るのですね。
posted by lawful at 08:21| 新宗教

2015年06月05日

業を活かす

経文を見候へば烏の黒きも鷺の白きも先業のつよくそみけるなるべし
佐渡御書 959頁

人間には、先天的な業というものがあり、その業によって人生の方向性が決まってしまうといえます。

業によって全てが決まってしまうわけではなくとも、50パーセントは決まっていると考えておくのがよいでしょう。

残りの50パーセントは、後天的な努力によるものと思われます。

烏は黒く、白くなるわけではありません。逆に、鷺は白く、黒くなることはありません。

それと同様に、人それぞれにその人ならではの特質があり、その特質は変わらないということですね。変わる必要もないといえましょう。

その人の特質を伸ばし、展開し、成仏への道に連なればよいのであって、違うものになることを目指してはいけません。

信仰をして祈りが叶うという話をした際、悪態をつく人はこのようなことを言います。

「祈りが叶うというならば、100メートルを10秒未満で走ることができるのか」

これは、烏が白くなるのか、鷺が黒くなるのかと言っているのと同様の愚かさがあります。

オリンピック選手でもない一般人が100メートルを10秒未満で走ることができるわけもなく、また、その必要性は、正直なところ、全くありません。

祈りが叶うということは、その人の特質が伸びる、開かれるという形で顕現化することであり、その人の特質に適わないことは現実化しないわけです。

宗教、信仰という話になると、何でも叶うと勝手に早合点してしまう人がいます。

そして、何も叶わないという現実にぶち当たり、宗教、信仰に意味はないと短絡的に判断してしまいます。

それはそうでしょう。何でも叶うと考えている時点で、気違いじみているわけですから、そのような人の祈りが叶うはずはありません。

そもそも、宗教、信仰というものを何もわかっていない無知な人というだけのことです。

我々としては、自らの業を否定することなく、その業を活かしながら、未来に向かって努力を続け、境涯を上げていけばよいですね。
posted by lawful at 08:19| 御書

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