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2021年01月23日

「痴人の愛」本文 角川文庫刊vol,21


「痴人の愛」本文 角川文庫刊vol,21





「おい、どうしたの、どこを打ったんだか見せてごらん」

と、私がそう言って抱き起すと、彼女はそれでもしくしくと鼻を鳴らしつつ、袂をまくって見せましたが、落ちる拍子に釘か何かに触ったのでしょう。丁度右腕の肱の所の皮が破れて、血がにじみ出ているのでした。



「何だい、これっぽちの事で泣くなんて!さ、絆創膏を貼ってあげるからこっちへおいで」

そして膏薬を貼ってやり、手拭いを裂いて包帯をしてやる間も、ナオミは一杯涙をためて、ぽたぽた洟(はな)を滴(た)たらしながら、しゃくり上げる顔つきが、まるで頑是(がんぜ)ない子供の様でした。



傷はそれから運悪く膿を持って、五六日直りませんでしたが、毎日包帯を取り換えてやる度ごとに、彼女はきっと泣かないことは無かったのです。



しかし、私は既にそのころナオミを恋していたかどうか、それは自分にはよくわかりません。

そう、確かに恋してはいたのでしょうが、自分自身のつもりでは寧ろ彼女を育ててやり、立派な夫人に仕込んでやるのが楽しみなので、ただそれだけでも満足できるように思っていたのです。



が、その年の夏、会社の方から二週間の休暇が出たので、毎年の礼で私は規制することになり、ナオミを浅草の実家へ預け、大森の家に戸締りをして、さて田舎に行ってみると、その二週間という者が、たまらなく私には単調で、寂しく感ぜられたものです。



あの児(こ)が居ないとこんなにも詰まらないものか知らん、これが恋愛の始まり始まりなのではないか知らん、と、その時初めて考えました。



そして母親の前を好い加減に言い繕って、予定を早めて東京に着くと、もう夜の十時過ぎでしたけれど、いきなり上野の停車場からナオミの家までタクシーを走らせました。





引用書籍

谷崎潤一郎「痴人の愛」

角川文庫刊



次回に続く。


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