アフィリエイト広告を利用しています
検索
最新記事
カテゴリアーカイブ
DMM FX

広告

posted by fanblog

2014年09月09日

昭和天皇実録公開 激動の時代歩んだ生涯詳細に




宮内庁が24年余りかけて編さんした昭和天皇の活動記録「昭和天皇実録」が9日公開されました。
新たに見つかった日記など膨大な資料に基づく初めての公式記録集で、戦前から戦後の激動の時代を歩んだ昭和天皇の生涯が詳細に描かれています。

昭和天皇実録は昭和天皇の活動を後世に伝えるため、宮内庁が公文書や側近の日記など3000件余りの資料を基に24年5か月かけて編さんした61巻、1万2000ページ余りにおよぶ記録集で、9日、その内容が公開されました。
NHKが多くの専門家の協力を得て分析した結果、日本が戦争へと向かう中で外交による解決を模索した昭和天皇の姿や、戦後の新憲法の下で象徴となってからも外交や安全保障に強い関心を示し、政府関係者などからたびたび説明を受けていた様子が浮き彫りになりました。
また、昭和46年に実現したアメリカ大統領との初めての会見の内容が明かされ、昭和天皇が沖縄返還などに対する感謝のことばを述べていたことが分かるなど、これまで知られていなかった昭和天皇の発言も記されています。
さらに、終戦の前年まで8年近く侍従長を務めた百武三郎の日記など、新たに見つかったおよそ40件の資料のほか、昭和天皇が運動会の感想をつづった作文や陸軍の演習を初めて見た日の日記など幼少期の未公開資料も引用されていて、ふだんの生活ぶりや素顔をかいま見ることができます。
公開にあたっては、開戦や終戦を決めた御前会議やGHQ=連合国軍総司令部のマッカーサー元帥との会見など、昭和史の重要局面での昭和天皇の発言内容などが注目されましたが、これまでの研究の内容が大きく見直されるような記述はありませんでした。
近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は、「教科書が変わるような新事実はないが、実録によって、これまでの研究成果が改めて裏付けられた。昭和天皇の日々の行動が詳しく分かる年表のようなもので、今後研究を深めるうえでの手がかりとなるだろう」と話しています。
昭和天皇実録は情報公開請求に応じて近く、一般にも公開され、来年の春から5年をかけて順次、書籍として出版される予定です。
「百武三郎日記」とは

今回の実録の編さんにあたっては昭和史を知るうえで重要な資料も見つかりました。
研究者の間で特に注目されたのは「百武三郎日記」です。
百武三郎は元海軍大将で、日中戦争開戦の前年昭和11年の秋から終戦の前年昭和19年の夏まで8年近くにわたって侍従長を務めました。
関係者によりますと、この間1日1ページ年間1冊のペースでつけていた日記に加え、日々の行動を書き留めていた手帳やメモなどが残されていて、遺族の申し出によってこうした資料の存在が分かったということです。
当時、宮内庁職員としてこの日記の調査に当たった岩壁義光さんは「ほかの資料では分からない事実や、側近として耳にした昭和天皇の肉声と思われることばが書かれていて、大変貴重な資料だということが見た瞬間に分かった」と話しています。
昭和天皇実録では、この日記や手帳は百武侍従長の在任期間のおよそ80%に当たる2233日にわたって出典として挙げられています。
このうち、満州事変のあと軍部が中国への進出を強め緊張が高まっていた昭和12年1月25日、内閣の総辞職を受けて陸軍大将の宇垣一成に組閣を命じた際の記述には、昭和天皇が宇垣に対して「侵略的行動との誤解を生じないようにして東洋平和に努力するように」などと述べたと書かれています。
また、昭和14年には、昭和天皇が「歴史研究者の皇室に関して何も批評しない講義は聴講しても何の役にも立たない」などと当時の社会風潮を反映した学問について批判的な意見を率直に述べる様子が記されています。
こうした発言は今回、初めて明らかになったもので百武侍従長の日記などが元になっているとみられます。
戦前から戦中の宮中と政治の関係に詳しい明治大学の茶谷誠一兼任講師は「この時期は天皇や側近の動きを知るうえで核となる人物の日記などがほとんど残されていない資料の空白期なので、百武の日記が残っていたこと自体が大きなニュースだ。内容が公開されれば宮中の動きだけでなく日中戦争期の政治外交史の新事実が出てくる可能性が高い」と話しています。
重要局面 注目の記述は

昭和天皇実録の公開にあたっては、先の大戦の重要局面での昭和天皇の発言内容や戦争責任の認識などについての記述が注目されていました。
このうち太平洋戦争を巡っては、開戦の方針が事実上決まった昭和16年9月6日の御前会議の前日、昭和天皇が戦争準備よりも外交による解決を優先すべきだとして閣議決定の修正を求めたことが記されています。
そして、翌日の御前会議でも、昭和天皇が明治天皇が平和を祈って詠んだ和歌を読み上げ、陸海軍の作戦責任者に考えを問いただしたことが描かれていますが、これまで知られていないような発言は記されませんでした。
終戦の直後から昭和26年まで11回にわたって行われたGHQ=連合国軍総司令部のマッカーサー元帥との会見については、すでに公開されている1回目の会見の記録の会話部分が全文引用され、昭和天皇の「この戦争については、自分としては極力これを避けたい考えでありましたが、戦争となるの結果を見ましたことは自分の最も遺憾とする所であります」という発言などが記されています。
戦争の責任を認めたとされる「すべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身を連合国の裁決に委ねる」という発言も、マッカーサーの回顧録などに記載されていることを紹介するというかたちで記されました。
一方、2回目以降については会見が行われたことや会話の要旨などがこれまで明らかになっている範囲で書かれるにとどまりました。
また、昭和天皇が先の大戦に関する出来事を回想し、側近が書き取ったいわゆる「拝聴録」については、どのように記載されるかが注目されていました。
宮内庁によりますと拝聴録そのものは見つからなかったということですが、終戦直後の昭和21年から晩年の昭和60年まで断続的に拝聴が行われていたことが記されました。
これにより、拝聴の時期やそのときのテーマなど全体像が初めて明らかになりました。
2・26事件当日の動静も明らかに

昭和天皇実録は侍従日誌など未公開の内部文書を数多く使い、いつ、どこで、何をしたのかという昭和天皇の日々の動静を時系列に沿って詳細に記しているのが特徴です。
このうち、昭和11年に陸軍の青年将校らが総理大臣官邸などを襲撃し政府の要人を殺害した2・26事件では、昭和天皇は事件発生の報告を受けたあと陸軍大臣に反乱軍の鎮圧を命じましたが、この時間はこれまで当時の側近の日記などから午前9時ごろだとされていました。
しかし、昭和天皇実録では陸軍大臣と会ったのは午前11時13分と時間を特定し、およそ2時間遅かったことが明らかにされました。
先の大戦についても、昭和20年8月9日の深夜に始まったとされていたポツダム宣言の受諾を巡る御前会議が午前0時を回って10日になってから始まっていたことなど、終戦に至るまでの経過が詳しく記されていて、今後昭和史の研究を深めていくうえでの手がかりになると期待されています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140909/k10014451991000.html








人気ブログランキングへ
この記事へのコメント
コメントを書く

お名前:

メールアドレス:


ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/2754829

この記事へのトラックバック
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。