2018年02月06日
磐戸の巻 第16帖
世の元からの生Θが揃うて現れたら、皆腰抜かして、目パチクリさして、物言えんようになるのざぞ。
神徳貰うた臣民でないとなかなか越せん峠ざぞ、神徳はいくらでも背負いきれんまでにやるぞ、大き器持ちて御座れよ、掃除した大き容れ物いくらでも持って御座れよ、神界にはビクともしぬ仕組出来ているのざから、安心して御用務めてくれよ。今度はマコトのΘの力でないと何も出来はせんぞと申してあろが、Θの国は小さいが、天と地との神力強い、Θのマコトの元の国であるぞ。
洗濯と申すのは何事によらん、人間心捨ててしもうて、智恵や学に頼らずに、Θの申すこと一つも疑わず、生まれ赤子の心の初心(うぶ心)になりて、Θの教え守ることぞ。身魂磨きと申すのは、神から授かっている身魂の命令に従うて、肉体心捨ててしもうて、Θの申すとおり背(そむ)かんようにすることぞ。学や智を力と頼むうちは身魂は磨けんのぞ。学越えた学、智越えた智は、Θの学、Θの智ざということわからんか。今度の岩戸開きは身魂から、根本から変えてゆくのざから、なかなかであるぞ。天災や戦ばかりでは中々埒(らち)あかんぞ、根本の改めざぞ。小さいこと思うているとわからんことになると申してあろがな、この道理よく肚に入れて下されよ、今度は上中下三段に分けてある身魂の因縁によって、それぞれに目鼻つけて、悪も改心さして、善も改心さしての岩戸開きざから、根本から造り変えるよりはどれだけ難しいか、大層な骨折りざぞよ。
叱(しか)るばかりでは改心出来んから、喜ばして改心さすことも守護神にありてはあるのざぞ、聞き分けよい守護神殿少ないぞ、聞き分けよい悪神、早く改心するぞ、聞き分け悪き善の守護神あるぞ。この道の役員は昔からの因縁によって御魂調べて、引き寄せて、御用さしてあるのぞ、滅多に見当狂わんぞ、Θが綱かけたら中々離さんぞ、逃げられるならば逃げてみよれ、くるくるまわってまた初めからお出直しで御用せなならんようになって来るぞ。身魂磨け出したら病神などドンドン逃げ出すぞ。出雲の神様大切申せと知らしてあること忘れるなよ。子の年真中にして前後十年が正念場、世の立替は水と火とざぞ。未(ひつじ)の三月三日、五月五日は結構な日ぞ。
一月十四日、Θの一二のか三。
「世の元からの生Θが揃うて現れたら、皆腰抜かして、目パチクリさして、物言えんようになるのざぞ。」
龍体の勢揃いでしょうか。相当の迫力でしょうね。
「神徳貰うた臣民でないとなかなか越せん峠ざぞ、神徳はいくらでも背負いきれんまでにやるぞ、大き器持ちて御座れよ、掃除した大き容れ物いくらでも持って御座れよ、神界にはビクともしぬ仕組出来ているのざから、安心して御用務めてくれよ」
「今度はマコトのΘの力でないと何も出来はせんぞと申してあろが、Θの国は小さいが、天と地との神力強い、Θのマコトの元の国であるぞ。」
日本は小さい国ですが、天地の神のご神力の強い真の元の神国だそうです。真(誠)の神の力でないと「大峠」は越せないそうです。
「洗濯と申すのは何事によらん、人間心捨ててしもうて、智恵や学に頼らずに、Θの申すこと一つも疑わず、生まれ赤子の心の初心(うぶ心)になりて、Θの教え守ることぞ。」
「身魂磨きと申すのは、神から授かっている身魂の命令に従うて、肉体心捨ててしもうて、Θの申すとおり背(そむ)かんようにすることぞ。学や智を力と頼むうちは身魂は磨けんのぞ。学越えた学、智越えた智は、Θの学、Θの智ざということわからんか。」
洗濯と身魂磨きは厳密には別のことのようですね。まとめると、洗濯とは「人間心を捨てて素直な心で神に従うこと」、身魂磨きとは「神のご意思に身をまかせて従うこと」のようです。
「今度の岩戸開きは身魂から、根本から変えてゆくのざから、なかなかであるぞ。天災や戦ばかりでは中々埒(らち)あかんぞ、根本の改めざぞ。小さいこと思うているとわからんことになると申してあろがな、この道理よく肚に入れて下されよ」
戦の主戦場は、人の心の中にこそあるということです。
「今度は上中下三段に分けてある身魂の因縁によって、それぞれに目鼻つけて、悪も改心さして、善も改心さしての岩戸開きざから、根本から造り変えるよりはどれだけ難しいか、大層な骨折りざぞよ。」
神様からすればひとまとめに潰してしまえば簡単なことですが、人間一人一人の改心を待っての立て替えなので大変だということのようです。
「叱(しか)るばかりでは改心出来んから、喜ばして改心さすことも守護神にありてはあるのざぞ、聞き分けよい守護神殿少ないぞ、聞き分けよい悪神、早く改心するぞ、聞き分け悪き善の守護神あるぞ。」
善の守護神でさえ聞き分けが悪いこともあるようです。「何もそこまで」という現状肯定・慎重派の神々でしょうか。
「この道の役員は昔からの因縁によって御魂調べて、引き寄せて、御用さしてあるのぞ、滅多に見当狂わんぞ、Θが綱かけたら中々離さんぞ、逃げられるならば逃げてみよれ、くるくるまわってまた初めからお出直しで御用せなならんようになって来るぞ。」
終戦時には「立て替え」が無かったので、「くるくるまわってまた初めからお出直し」の御用となりますね。お疲れ様です。
「身魂磨け出したら病神などドンドン逃げ出すぞ。出雲の神様大切申せと知らしてあること忘れるなよ。」
この「出雲の神様」とは大国主命のことでしょうね。ただ、「大国主命」というのは役職名ですから広義で言えば「大穴牟遅神(おおなむぢ)」の他に「須佐鳴之大神」も含まれるのかもしれません。また、国津神ということであれば、さらに多くの神様がその対象になりそうです。
「子の年真中にして前後十年が正念場、世の立替は水と火とざぞ。未(ひつじ)の三月三日、五月五日は結構な日ぞ。」
三月三日、五月五日が未年または未日に限定されました。未年であれば1955、1967、1979、1991、2003、2015年ですが、特にこれといった出来事はありませんでした。残るは、2027、2039年です。
未の日については、全部調べたわけではありませんが、平成12年(西暦2000年)の三月三日(4月7日)、五月五日(6月6日)が未の日に該当していました(両方共乙未)。両方共に特にこれといった出来事はありませんでしたが、もしかするとこの日生まれの現在17才が鍵を握っているのかもしれません。因みにこの年は辰年です。
神徳貰うた臣民でないとなかなか越せん峠ざぞ、神徳はいくらでも背負いきれんまでにやるぞ、大き器持ちて御座れよ、掃除した大き容れ物いくらでも持って御座れよ、神界にはビクともしぬ仕組出来ているのざから、安心して御用務めてくれよ。今度はマコトのΘの力でないと何も出来はせんぞと申してあろが、Θの国は小さいが、天と地との神力強い、Θのマコトの元の国であるぞ。
洗濯と申すのは何事によらん、人間心捨ててしもうて、智恵や学に頼らずに、Θの申すこと一つも疑わず、生まれ赤子の心の初心(うぶ心)になりて、Θの教え守ることぞ。身魂磨きと申すのは、神から授かっている身魂の命令に従うて、肉体心捨ててしもうて、Θの申すとおり背(そむ)かんようにすることぞ。学や智を力と頼むうちは身魂は磨けんのぞ。学越えた学、智越えた智は、Θの学、Θの智ざということわからんか。今度の岩戸開きは身魂から、根本から変えてゆくのざから、なかなかであるぞ。天災や戦ばかりでは中々埒(らち)あかんぞ、根本の改めざぞ。小さいこと思うているとわからんことになると申してあろがな、この道理よく肚に入れて下されよ、今度は上中下三段に分けてある身魂の因縁によって、それぞれに目鼻つけて、悪も改心さして、善も改心さしての岩戸開きざから、根本から造り変えるよりはどれだけ難しいか、大層な骨折りざぞよ。
叱(しか)るばかりでは改心出来んから、喜ばして改心さすことも守護神にありてはあるのざぞ、聞き分けよい守護神殿少ないぞ、聞き分けよい悪神、早く改心するぞ、聞き分け悪き善の守護神あるぞ。この道の役員は昔からの因縁によって御魂調べて、引き寄せて、御用さしてあるのぞ、滅多に見当狂わんぞ、Θが綱かけたら中々離さんぞ、逃げられるならば逃げてみよれ、くるくるまわってまた初めからお出直しで御用せなならんようになって来るぞ。身魂磨け出したら病神などドンドン逃げ出すぞ。出雲の神様大切申せと知らしてあること忘れるなよ。子の年真中にして前後十年が正念場、世の立替は水と火とざぞ。未(ひつじ)の三月三日、五月五日は結構な日ぞ。
一月十四日、Θの一二のか三。
「世の元からの生Θが揃うて現れたら、皆腰抜かして、目パチクリさして、物言えんようになるのざぞ。」
龍体の勢揃いでしょうか。相当の迫力でしょうね。
「神徳貰うた臣民でないとなかなか越せん峠ざぞ、神徳はいくらでも背負いきれんまでにやるぞ、大き器持ちて御座れよ、掃除した大き容れ物いくらでも持って御座れよ、神界にはビクともしぬ仕組出来ているのざから、安心して御用務めてくれよ」
「今度はマコトのΘの力でないと何も出来はせんぞと申してあろが、Θの国は小さいが、天と地との神力強い、Θのマコトの元の国であるぞ。」
日本は小さい国ですが、天地の神のご神力の強い真の元の神国だそうです。真(誠)の神の力でないと「大峠」は越せないそうです。
「洗濯と申すのは何事によらん、人間心捨ててしもうて、智恵や学に頼らずに、Θの申すこと一つも疑わず、生まれ赤子の心の初心(うぶ心)になりて、Θの教え守ることぞ。」
「身魂磨きと申すのは、神から授かっている身魂の命令に従うて、肉体心捨ててしもうて、Θの申すとおり背(そむ)かんようにすることぞ。学や智を力と頼むうちは身魂は磨けんのぞ。学越えた学、智越えた智は、Θの学、Θの智ざということわからんか。」
洗濯と身魂磨きは厳密には別のことのようですね。まとめると、洗濯とは「人間心を捨てて素直な心で神に従うこと」、身魂磨きとは「神のご意思に身をまかせて従うこと」のようです。
「今度の岩戸開きは身魂から、根本から変えてゆくのざから、なかなかであるぞ。天災や戦ばかりでは中々埒(らち)あかんぞ、根本の改めざぞ。小さいこと思うているとわからんことになると申してあろがな、この道理よく肚に入れて下されよ」
戦の主戦場は、人の心の中にこそあるということです。
「今度は上中下三段に分けてある身魂の因縁によって、それぞれに目鼻つけて、悪も改心さして、善も改心さしての岩戸開きざから、根本から造り変えるよりはどれだけ難しいか、大層な骨折りざぞよ。」
神様からすればひとまとめに潰してしまえば簡単なことですが、人間一人一人の改心を待っての立て替えなので大変だということのようです。
「叱(しか)るばかりでは改心出来んから、喜ばして改心さすことも守護神にありてはあるのざぞ、聞き分けよい守護神殿少ないぞ、聞き分けよい悪神、早く改心するぞ、聞き分け悪き善の守護神あるぞ。」
善の守護神でさえ聞き分けが悪いこともあるようです。「何もそこまで」という現状肯定・慎重派の神々でしょうか。
「この道の役員は昔からの因縁によって御魂調べて、引き寄せて、御用さしてあるのぞ、滅多に見当狂わんぞ、Θが綱かけたら中々離さんぞ、逃げられるならば逃げてみよれ、くるくるまわってまた初めからお出直しで御用せなならんようになって来るぞ。」
終戦時には「立て替え」が無かったので、「くるくるまわってまた初めからお出直し」の御用となりますね。お疲れ様です。
「身魂磨け出したら病神などドンドン逃げ出すぞ。出雲の神様大切申せと知らしてあること忘れるなよ。」
この「出雲の神様」とは大国主命のことでしょうね。ただ、「大国主命」というのは役職名ですから広義で言えば「大穴牟遅神(おおなむぢ)」の他に「須佐鳴之大神」も含まれるのかもしれません。また、国津神ということであれば、さらに多くの神様がその対象になりそうです。
「子の年真中にして前後十年が正念場、世の立替は水と火とざぞ。未(ひつじ)の三月三日、五月五日は結構な日ぞ。」
三月三日、五月五日が未年または未日に限定されました。未年であれば1955、1967、1979、1991、2003、2015年ですが、特にこれといった出来事はありませんでした。残るは、2027、2039年です。
未の日については、全部調べたわけではありませんが、平成12年(西暦2000年)の三月三日(4月7日)、五月五日(6月6日)が未の日に該当していました(両方共乙未)。両方共に特にこれといった出来事はありませんでしたが、もしかするとこの日生まれの現在17才が鍵を握っているのかもしれません。因みにこの年は辰年です。
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