2018年01月31日
日の出の巻 第13帖
これまでの仕組や信仰は方便のものでありたぞ。
今度は正味(しょうまつ)の信仰であるぞ、Θに真っ直ぐに向うのざぞ。
Θ向(ひむか)と申してあろがな。真上に真っ直ぐにΘを戴いてくれよ、斜めにΘ戴いても光は戴けるのであるが、横からでもお光は戴けるのであるが、道は真っ直ぐに、Θは真上に戴くのがΘ国の真の御道であるぞ。
方便の世は済みたと申してあろがな、理屈は悪ざと申して聞かしてあろが、今度はどうしても失敗(しくじ)ること出来んのざぞ。
Θの経綸(しくみ)には狂い無いなれど、臣民失敗ると経綸遅れて、臣民いよいよ苦しまなならんのざぞ、泥海に臣民のたうちまわらなならんのざぞ、Θも泥海にのたうつのざぞ、甲斐ある御苦労ならいくらでも苦労甲斐あるなれど、泥海のたうちは臣民には堪(こば)られんから、早う掃除してΘの申すこと真っ直ぐに肚に入れてくれよ。
斜めや横から戴くと、光だけ影さすのざぞ、影させば闇となるのざぞ、大きものには大き影がさすと臣民申して、やむを得ぬことのように思うているが、それは真のΘの道知らぬからぞ、影さしてはならんのざぞ、影はあるが、それは影でないような影であるぞ、悪でない悪なると知らせてあろが。
真上に真っ直ぐにΘに向えば、影はあれど、影無いのざぞ、闇ではないのざぞ。
この道理わかるであろがな、Θの真道(まみち)は影無いのざぞ、いくら大きな樹でも真上に真っ直ぐに光戴けば影無いのざぞ、失敗無いのざぞ、それで洗濯せよ掃除せよと申しているのぞ、Θの真道わかりたか。
天にあるもの、地にも必ずあるのざぞ、天地合わせ鏡と聞かしてあろがな、天にお日様あるように、地にもお日様あるのざぞ、天にお月様あるように地にもお月様あるのざぞ。
天にお星様あるように地にもお星様あるのざぞ。
天から息吹けば、地からも息吹くのざぞ、天に悪神あれば、地にも悪神あるのざぞ。
足元気つけと申してあろがな。
今の臣民、上ばかり見て頭ばかりに登っているからわからなくなるのざぞ、地に足つけよと申してあろが、地拝(おろが)めと、地にまつろえと申してあろが、地の神様忘れているぞ。
下と申しても位(くらい)の低いΘ様のことでないぞ、地の神様ぞ、地にも天照皇大神様、天照大神様、月読大神様、須佐鳴之大神様あるのざぞ、知らしてあること、神示よく読んで下されよ、国土のこと、国土の真のΘを無いものにしているから世が治まらんのざぞ。
ΘΘ祀れと申してあろがな、改心第一と申してあろがな、七人に伝えと申してあろがな、我れ善しはチョンんぞ。
十二月十四日、ひつ九のか三。
「これまでの仕組や信仰は方便のものでありたぞ。今度は正味(しょうまつ)の信仰であるぞ」
世の中にはさまざまな社会の仕組や信仰がありましたが、それらは謂わば仮のもので、この日月神示こそ真実の信仰だそうです。
「Θに真っ直ぐに向うのざぞ。Θ向(ひむか)と申してあろがな。真上に真っ直ぐにΘを戴いてくれよ、斜めにΘ戴いても光は戴けるのであるが、横からでもお光は戴けるのであるが、道は真っ直ぐに、Θは真上に戴くのがΘ国の真の御道であるぞ。」
このΘは「神(霊)」です。太陽(ヒ)ではありません。それが何故分かるかというと、太陽であれば「真上に真っ直ぐにΘを戴く」ことはできません(赤道直下なら別ですが)。以前、1m上に神界があると書いてありました。つまり、私たちの真上そう遠くない所に神がいるということです。その神から、真っ直ぐに光を戴けよということです。
「方便の世は済みたと申してあろがな、理屈は悪ざと申して聞かしてあろが、今度はどうしても失敗(しくじ)ること出来んのざぞ。」
「Θの経綸(しくみ)には狂い無いなれど、臣民失敗ると経綸遅れて、臣民いよいよ苦しまなならんのざぞ、泥海に臣民のたうちまわらなならんのざぞ、Θも泥海にのたうつのざぞ、甲斐ある御苦労ならいくらでも苦労甲斐あるなれど、泥海のたうちは臣民には堪(こば)られんから、早う掃除してΘの申すこと真っ直ぐに肚に入れてくれよ。」
「斜めや横から戴くと、光だけ影さすのざぞ、影させば闇となるのざぞ、大きものには大き影がさすと臣民申して、やむを得ぬことのように思うているが、それは真のΘの道知らぬからぞ、影さしてはならんのざぞ、影はあるが、それは影でないような影であるぞ、悪でない悪なると知らせてあろが。」
「真上に真っ直ぐにΘに向えば、影はあれど、影無いのざぞ、闇ではないのざぞ。この道理わかるであろがな、Θの真道(まみち)は影無いのざぞ、いくら大きな樹でも真上に真っ直ぐに光戴けば影無いのざぞ、失敗無いのざぞ、それで洗濯せよ掃除せよと申しているのぞ、Θの真道わかりたか。」
悪でない悪、善でない善の極意は、頭上に神を感じ、真っ直ぐに光を受け取ることにより、影=闇を作らないようにするということでした。神の意思に反した行いは、神の光を横や斜めから受け取ることになるのです。
「天にあるもの、地にも必ずあるのざぞ、天地合わせ鏡と聞かしてあろがな、天にお日様あるように、地にもお日様あるのざぞ、天にお月様あるように地にもお月様あるのざぞ。天にお星様あるように地にもお星様あるのざぞ。天から息吹けば、地からも息吹くのざぞ、天に悪神あれば、地にも悪神あるのざぞ。足元気つけと申してあろがな。」
なるほど、影に気をつけろということですね。地の悪心の棲みかにならないように。
「今の臣民、上ばかり見て頭ばかりに登っているからわからなくなるのざぞ、地に足つけよと申してあろが、地拝(おろが)めと、地にまつろえと申してあろが、地の神様忘れているぞ。」
そうか〜上ばかり見てました。太陽の光を浴びていれば良いと思っていました。
「下と申しても位(くらい)の低いΘ様のことでないぞ、地の神様ぞ、地にも天照皇大神様、天照大神様、月読大神様、須佐鳴之大神様あるのざぞ、知らしてあること、神示よく読んで下されよ、国土のこと、国土の真のΘを無いものにしているから世が治まらんのざぞ。」
素戔嗚尊が「須佐鳴之大神」と初めて本名が出て来ましたね。これまで「須佐之男大神」と書いてきましたが、今後は「須佐鳴之大神」に統一させて頂きます。
「ΘΘ祀れと申してあろがな、改心第一と申してあろがな、七人に伝えと申してあろがな、我れ善しはチョンんぞ。」
今度は正味(しょうまつ)の信仰であるぞ、Θに真っ直ぐに向うのざぞ。
Θ向(ひむか)と申してあろがな。真上に真っ直ぐにΘを戴いてくれよ、斜めにΘ戴いても光は戴けるのであるが、横からでもお光は戴けるのであるが、道は真っ直ぐに、Θは真上に戴くのがΘ国の真の御道であるぞ。
方便の世は済みたと申してあろがな、理屈は悪ざと申して聞かしてあろが、今度はどうしても失敗(しくじ)ること出来んのざぞ。
Θの経綸(しくみ)には狂い無いなれど、臣民失敗ると経綸遅れて、臣民いよいよ苦しまなならんのざぞ、泥海に臣民のたうちまわらなならんのざぞ、Θも泥海にのたうつのざぞ、甲斐ある御苦労ならいくらでも苦労甲斐あるなれど、泥海のたうちは臣民には堪(こば)られんから、早う掃除してΘの申すこと真っ直ぐに肚に入れてくれよ。
斜めや横から戴くと、光だけ影さすのざぞ、影させば闇となるのざぞ、大きものには大き影がさすと臣民申して、やむを得ぬことのように思うているが、それは真のΘの道知らぬからぞ、影さしてはならんのざぞ、影はあるが、それは影でないような影であるぞ、悪でない悪なると知らせてあろが。
真上に真っ直ぐにΘに向えば、影はあれど、影無いのざぞ、闇ではないのざぞ。
この道理わかるであろがな、Θの真道(まみち)は影無いのざぞ、いくら大きな樹でも真上に真っ直ぐに光戴けば影無いのざぞ、失敗無いのざぞ、それで洗濯せよ掃除せよと申しているのぞ、Θの真道わかりたか。
天にあるもの、地にも必ずあるのざぞ、天地合わせ鏡と聞かしてあろがな、天にお日様あるように、地にもお日様あるのざぞ、天にお月様あるように地にもお月様あるのざぞ。
天にお星様あるように地にもお星様あるのざぞ。
天から息吹けば、地からも息吹くのざぞ、天に悪神あれば、地にも悪神あるのざぞ。
足元気つけと申してあろがな。
今の臣民、上ばかり見て頭ばかりに登っているからわからなくなるのざぞ、地に足つけよと申してあろが、地拝(おろが)めと、地にまつろえと申してあろが、地の神様忘れているぞ。
下と申しても位(くらい)の低いΘ様のことでないぞ、地の神様ぞ、地にも天照皇大神様、天照大神様、月読大神様、須佐鳴之大神様あるのざぞ、知らしてあること、神示よく読んで下されよ、国土のこと、国土の真のΘを無いものにしているから世が治まらんのざぞ。
ΘΘ祀れと申してあろがな、改心第一と申してあろがな、七人に伝えと申してあろがな、我れ善しはチョンんぞ。
十二月十四日、ひつ九のか三。
「これまでの仕組や信仰は方便のものでありたぞ。今度は正味(しょうまつ)の信仰であるぞ」
世の中にはさまざまな社会の仕組や信仰がありましたが、それらは謂わば仮のもので、この日月神示こそ真実の信仰だそうです。
「Θに真っ直ぐに向うのざぞ。Θ向(ひむか)と申してあろがな。真上に真っ直ぐにΘを戴いてくれよ、斜めにΘ戴いても光は戴けるのであるが、横からでもお光は戴けるのであるが、道は真っ直ぐに、Θは真上に戴くのがΘ国の真の御道であるぞ。」
このΘは「神(霊)」です。太陽(ヒ)ではありません。それが何故分かるかというと、太陽であれば「真上に真っ直ぐにΘを戴く」ことはできません(赤道直下なら別ですが)。以前、1m上に神界があると書いてありました。つまり、私たちの真上そう遠くない所に神がいるということです。その神から、真っ直ぐに光を戴けよということです。
「方便の世は済みたと申してあろがな、理屈は悪ざと申して聞かしてあろが、今度はどうしても失敗(しくじ)ること出来んのざぞ。」
「Θの経綸(しくみ)には狂い無いなれど、臣民失敗ると経綸遅れて、臣民いよいよ苦しまなならんのざぞ、泥海に臣民のたうちまわらなならんのざぞ、Θも泥海にのたうつのざぞ、甲斐ある御苦労ならいくらでも苦労甲斐あるなれど、泥海のたうちは臣民には堪(こば)られんから、早う掃除してΘの申すこと真っ直ぐに肚に入れてくれよ。」
「斜めや横から戴くと、光だけ影さすのざぞ、影させば闇となるのざぞ、大きものには大き影がさすと臣民申して、やむを得ぬことのように思うているが、それは真のΘの道知らぬからぞ、影さしてはならんのざぞ、影はあるが、それは影でないような影であるぞ、悪でない悪なると知らせてあろが。」
「真上に真っ直ぐにΘに向えば、影はあれど、影無いのざぞ、闇ではないのざぞ。この道理わかるであろがな、Θの真道(まみち)は影無いのざぞ、いくら大きな樹でも真上に真っ直ぐに光戴けば影無いのざぞ、失敗無いのざぞ、それで洗濯せよ掃除せよと申しているのぞ、Θの真道わかりたか。」
悪でない悪、善でない善の極意は、頭上に神を感じ、真っ直ぐに光を受け取ることにより、影=闇を作らないようにするということでした。神の意思に反した行いは、神の光を横や斜めから受け取ることになるのです。
「天にあるもの、地にも必ずあるのざぞ、天地合わせ鏡と聞かしてあろがな、天にお日様あるように、地にもお日様あるのざぞ、天にお月様あるように地にもお月様あるのざぞ。天にお星様あるように地にもお星様あるのざぞ。天から息吹けば、地からも息吹くのざぞ、天に悪神あれば、地にも悪神あるのざぞ。足元気つけと申してあろがな。」
なるほど、影に気をつけろということですね。地の悪心の棲みかにならないように。
「今の臣民、上ばかり見て頭ばかりに登っているからわからなくなるのざぞ、地に足つけよと申してあろが、地拝(おろが)めと、地にまつろえと申してあろが、地の神様忘れているぞ。」
そうか〜上ばかり見てました。太陽の光を浴びていれば良いと思っていました。
「下と申しても位(くらい)の低いΘ様のことでないぞ、地の神様ぞ、地にも天照皇大神様、天照大神様、月読大神様、須佐鳴之大神様あるのざぞ、知らしてあること、神示よく読んで下されよ、国土のこと、国土の真のΘを無いものにしているから世が治まらんのざぞ。」
素戔嗚尊が「須佐鳴之大神」と初めて本名が出て来ましたね。これまで「須佐之男大神」と書いてきましたが、今後は「須佐鳴之大神」に統一させて頂きます。
「ΘΘ祀れと申してあろがな、改心第一と申してあろがな、七人に伝えと申してあろがな、我れ善しはチョンんぞ。」
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