2021年09月15日
ロケットおじさん(OωO; )金正恩(キム・ジョンウン)の経歴(幼少期〜北朝鮮帰国まで)
2021年9月15日午後0時32分頃と同37分頃、北朝鮮内陸部から東方向の日本海に向けて少なくとも2発の弾道ミサイルを発射したと、日本政府から発表がありました。
飛行距離は約750キkm、最高高度は約50kmで、日本の排他的経済水域内に落下したとみられています。
7月末に、北朝鮮国内で正規軍以外の部隊で行われていた軍事パレードの金正恩は、以前より痩せていましたね。
一説によると、元々140kgだった体重からダイエットして120〜130kgになったとのことです。
その金正恩が第一書記になってから、弾道ミサイル実験で日本領内への着弾が増えているように思います。
あまりに、ロケットを打ち込んでくるので、金正恩を『ロケットおじさん』と勝手に呼んでますが、今回は、ロケットおじさんの幼少期〜北朝鮮帰国までの経歴をウキペディアを参考にまとめてみました。
金正恩の経歴を知ることで、見えてくるものもあると思いますので、参考にして下さい。
【幼少期】
金正恩は北朝鮮の第2代最高指導者である金正日総書記の三男として生まれました。
母は北朝鮮帰国事業で北朝鮮に渡った日本人の母と朝鮮人の父を持つ大阪出身の元在日朝鮮人であり、金正日から日本風に「あゆみ」と呼ばれていた高容姫です。
金正日の長男の金正男は異母兄、次男の金正哲は同母兄となります。
祖父は北朝鮮の初代最高指導者である金日成主席です。
母方の祖父は日本軍の縫製工場である広田軍服工場で働いていたことから日本軍協力者と呼ばれた高京澤 になります。
祖父・日成は結婚を認めなかったことから母子ともに首都の平壌ではなく、元山市で生活していました。
済州島に出自を持つ大阪出身の在日朝鮮人の母親を持ち、幼少期から日本人の専属料理人、藤本健二が作った寿司を好んで食べ、当人自身も東京タワーに興味を持つなど日本文化に囲まれた状況で育ちました。
【スイスへの留学】
1996年9月よりスイスに留学し、ベルンの国際学校で「パク・ウン」という偽名を使用しながら教育を受けました。
現地教育当局の記録には、金正恩は1985年10月1日生まれで、父親はパク・ヨンスという北朝鮮大使館員だと記載されています。
その後、3人の両親役は、叔母に当たる高容淑とその夫である李剛が担っていたことが判明しました。
高容淑と李剛は1998年に、子供たちを連れてベルリンから米国へ亡命しました。
当時、米国政府は金正恩が誰であるかすら知らなかったといわれています。
国際学校には数か月しか在籍せず、隣接する公立小学校でドイツ語を学びました。
当時も数学教師として在籍していた公立中のペーター・ブリ校長らの証言によると、金正恩は自宅から300メートルほどの学校まで一人で歩いて通っていたそうです。
在籍していた学校については諸説あり、リーベフェルト(英語版)市の公立学校で金正恩と知り合いであったと主張する人物の情報もあります。
1998年9月、ベルンの自宅近くの公立中学校に編入し、スイス滞在中は北朝鮮の在スイス大使が目付け役として身辺の管理を行っていたほか、親戚の寄り合いがインターラーケンやレマン湖の別邸で行われることもあったそうです。
金正恩は普段からブランドものの高価なスニーカをはいていたとのことです。
自宅は3階建ての低層マンションで、一階から三階まで階段の両脇にある6部屋すべてを自由に使っており、サウナも備えらていたそうです。
2000年8月、夏期休暇が終わると公立中学校を退学して帰国しました。
留学の経験から母国語の朝鮮語のほかに英語、中国語、ロシア語、ドイツ語、フランス語 など数ヶ国語を話せるとする報道もあります。
日本語についても漢字の書き取りなどをしていたとされ、来日経験もあるとのことです。
日本については国力差を認識する発言を残しています。
以上が、金正恩の幼少期〜北朝鮮帰国までの経歴になります。
【最後に】
金正恩は、北朝鮮以外の国を知り、外国語も複数操る頭の良い方に思います。
金正恩の頭の良さを生かして、周辺の国々と協調することも出来ると思いますが、なぜ彼が、これまでより、さらに、軍事力を誇示して、諸外国と対立する姿勢を見せるのは不思議です。
今の北朝鮮の体制を維持しなければいけない北朝鮮の内情を知りたいように感じました。
皆さんは、今回の弾道ミサイル実験での日本への挑発や北朝鮮について、どう思われますか?
今回のブログは、以上です。
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