2011年09月09日
もうすぐ震災から半年
最近、また結構大きな地震が増えてきました。
あの日から、もうすぐ半年ですね。
ちょっと今回は震災の経験について書いてみようと思います。
もう半年?
いや、まだ半年。
だけど、本当に濃い半年だった気がします。
わたしは仙台在住だったので、地震に遭いました。
転勤族の夫は、年明けから転勤になり、また新たな土地に単身赴任していました。
わたしも、部屋が決まり次第引っ越すということで、少しずつ荷物をまとめながら過ごしていました。
いつもと変わりない1日だけど、ちょっとナーバスになっていたその日。
なんとなく自分が孤独な気がしていた。
それは、とても黒い気持ちだった気がします。
転勤、転勤で、せっかく築いた関係も離れてしまう。
北海道の友人とも疎遠になってしまう気がして。
夫はいつも居ない。
『どうせ私はどこに行っても、結局最終的には独りだ』と、どこか投げやりになっていた
そんな時。
突然、あまり耳にしない大きな携帯の警告音にビックリしたと同時に、地鳴りのような音と揺れがやって来ました。
それはだんだんと強くなり、いつまで経っても止まる事がなく『何か変だ』と思ううちに、激しい揺れと共に、部屋の物がドタンバタンと倒れたり壊れたりする音が聞こえました。
わたしは悲鳴を上げながら、大事なコーヒーカップが入った食器棚を必死で押さえてました。
部屋の電球(シャンデリアのような)がブルンブルンとものすごい勢いで回っていて
『ああ、この電球も落ちるのか?ガラスのテーブルの上に落ちたらどうしよう・・』
と恐怖を感じているうちにようやく揺れが収まってきました。
もう、家の中がグチャグチャでした。
でも、私も愛猫ゴンも無事でした。
気づくと電気も水もガスも使えなくなっていた。
でも、何だかあまり頭が回らなかった。
その後も、何度も何度も大きな揺れがやってきました。
外に出ると、救急車や警察、消防車のサイレンの音。
お店もコンビニもあっという間に行列ができ、真っ暗でグチャグチャな店内の中
水や食料を買い求める人達。
わたしも、気づけば暗くなるまで並んで買い物をしました。
でも水も食品もほとんど品切れで、お腹に溜まりそうなお菓子や飲料などを買いました。
帰宅した頃には辺りが暗くなり、そのうち何にも見えなくなりました。
真っ暗。
孤島に独りになった気がした。
外って、全ての家や外灯が消えると本当に真っ暗闇で何にも見えないものなんですね。
その日は雪。
家の中がすごく寒くて震えた。
スキーにでも行くような格好をしても寒くて。
ゴンにも毛布を何枚もかけて暖めました。
今の状況がわからなくて震えました。
こんな時に限って携帯の充電も無くなり、ガソリンすらエンプティマークになってしまってた。
『まだガソリン入れなくていいや』と放ったらかしてた事をすごく後悔した。
それでも、手探りで家の中を探し見つけたアロマキャンドルを鍋の中に入れて火を灯し
ようやく少しだけ明るくなりました。
でも、きっとわたしは黒い気持ちを抱えたから本当に孤独になってしまったのかな。
そんな事を考えていた。
そんな中、アパートのお隣の奥さんもたまたま1人だったので、真っ暗な中少しお話したり
調達した食べ物などを交換し合ったりして少しホッとした。
ほんの少しだけ今の状況が知りたくて、ガソリン不足の車中でラジオを聴いた。
ラジオでDJが一生懸命今の状況を伝えていた。
自分も大変だろうに。
そして、その時『仙台市だけで、確認できるだけでも200〜300の遺体が・・』
という情報を聴きました。
ショックでした。
ハンドルを握ったまま、震えが止まらなかった。
でも、その時DJの言葉は忘れられない、絶対。
『あきらめないでください。あなたは、独りじゃありませんから』
涙が溢れてきました。
明け方になり、わたしは動き出しました。
なんと、防災袋があった事に気づいてテンションがグッと上がった。
すっかり気が動転してて忘れてたのでした。
防災袋の中には、ラジオ付きの懐中電灯があり大喜びしました。
そして、ペットボトルの水数本や、乾パンなど。
簡易トイレも入っていた為、本当助かりました。
その後は相変わらず電気も水も電話も携帯も繋がらない数日でしたが
明け方から活動を始め続けました。
お店に並んで食糧をゲット。
6時間並んだ末どうにかガソリンを少しだけ入れてもらえたり
給水所に数時間並んでペットボトル数本にお水をもらいに行ったり。
小学校の給水所に1人で水を汲みに行った時はあまりの行列と家族連れに
また泣きそうになった。
やっぱり独りだ・・そう思って情けなくなった。
しかも、水が行き渡るかわからないといった情報を聴き、すごく不安になった。
2時間ほど並んだのに、もう水がないと聞いた時は泣いた。
でも、その時近くのコミュニティセンターで水がもらえると聞いて必死に走った。
リュックサックに空のペットボトルを詰め込んで、両手に給水袋を持って。
そこもものすごい行列で、絶望的になった。
でも、その時コミュニティセンターの上の方から、どこかのおじさんがコッソリと声を
かけてくれた。
『こっちにも水道あるよ』って。
ありがとう!おじさん!
その後数日間サバイバルな体験だったけど、近所の人や並んでる人達と
情報交換などし合ったりしてほんわかとした気持ちになったりしました。
お風呂に入れない為、ようやくゲットできた『赤ちゃんのおしりふき』は
体を拭くのに助かりました。
こういう時必要なんだな〜って思うものが色々ありました。
(それはまた今度の機会に書きたいです)
そして、携帯や電話がようやく繋がるようになって沢山の不在着信メールが
送られてたことがわかった。
何度も両親兄や、友達、疎遠になっていた人までもが電話やメールをくれていた事で
本当に、本当に泣ける思いだった。
『わたしは、孤独だと思ってたけどそうじゃなかったんだ』と。
なんだか夢のような出来事でしたが、あの経験は一生忘れられません。
忘れたくない思い出です。
あの日から、もうすぐ半年ですね。
ちょっと今回は震災の経験について書いてみようと思います。
もう半年?
いや、まだ半年。
だけど、本当に濃い半年だった気がします。
わたしは仙台在住だったので、地震に遭いました。
転勤族の夫は、年明けから転勤になり、また新たな土地に単身赴任していました。
わたしも、部屋が決まり次第引っ越すということで、少しずつ荷物をまとめながら過ごしていました。
いつもと変わりない1日だけど、ちょっとナーバスになっていたその日。
なんとなく自分が孤独な気がしていた。
それは、とても黒い気持ちだった気がします。
転勤、転勤で、せっかく築いた関係も離れてしまう。
北海道の友人とも疎遠になってしまう気がして。
夫はいつも居ない。
『どうせ私はどこに行っても、結局最終的には独りだ』と、どこか投げやりになっていた
そんな時。
突然、あまり耳にしない大きな携帯の警告音にビックリしたと同時に、地鳴りのような音と揺れがやって来ました。
それはだんだんと強くなり、いつまで経っても止まる事がなく『何か変だ』と思ううちに、激しい揺れと共に、部屋の物がドタンバタンと倒れたり壊れたりする音が聞こえました。
わたしは悲鳴を上げながら、大事なコーヒーカップが入った食器棚を必死で押さえてました。
部屋の電球(シャンデリアのような)がブルンブルンとものすごい勢いで回っていて
『ああ、この電球も落ちるのか?ガラスのテーブルの上に落ちたらどうしよう・・』
と恐怖を感じているうちにようやく揺れが収まってきました。
もう、家の中がグチャグチャでした。
でも、私も愛猫ゴンも無事でした。
気づくと電気も水もガスも使えなくなっていた。
でも、何だかあまり頭が回らなかった。
その後も、何度も何度も大きな揺れがやってきました。
外に出ると、救急車や警察、消防車のサイレンの音。
お店もコンビニもあっという間に行列ができ、真っ暗でグチャグチャな店内の中
水や食料を買い求める人達。
わたしも、気づけば暗くなるまで並んで買い物をしました。
でも水も食品もほとんど品切れで、お腹に溜まりそうなお菓子や飲料などを買いました。
帰宅した頃には辺りが暗くなり、そのうち何にも見えなくなりました。
真っ暗。
孤島に独りになった気がした。
外って、全ての家や外灯が消えると本当に真っ暗闇で何にも見えないものなんですね。
その日は雪。
家の中がすごく寒くて震えた。
スキーにでも行くような格好をしても寒くて。
ゴンにも毛布を何枚もかけて暖めました。
今の状況がわからなくて震えました。
こんな時に限って携帯の充電も無くなり、ガソリンすらエンプティマークになってしまってた。
『まだガソリン入れなくていいや』と放ったらかしてた事をすごく後悔した。
それでも、手探りで家の中を探し見つけたアロマキャンドルを鍋の中に入れて火を灯し
ようやく少しだけ明るくなりました。
でも、きっとわたしは黒い気持ちを抱えたから本当に孤独になってしまったのかな。
そんな事を考えていた。
そんな中、アパートのお隣の奥さんもたまたま1人だったので、真っ暗な中少しお話したり
調達した食べ物などを交換し合ったりして少しホッとした。
ほんの少しだけ今の状況が知りたくて、ガソリン不足の車中でラジオを聴いた。
ラジオでDJが一生懸命今の状況を伝えていた。
自分も大変だろうに。
そして、その時『仙台市だけで、確認できるだけでも200〜300の遺体が・・』
という情報を聴きました。
ショックでした。
ハンドルを握ったまま、震えが止まらなかった。
でも、その時DJの言葉は忘れられない、絶対。
『あきらめないでください。あなたは、独りじゃありませんから』
涙が溢れてきました。
明け方になり、わたしは動き出しました。
なんと、防災袋があった事に気づいてテンションがグッと上がった。
すっかり気が動転してて忘れてたのでした。
防災袋の中には、ラジオ付きの懐中電灯があり大喜びしました。
そして、ペットボトルの水数本や、乾パンなど。
簡易トイレも入っていた為、本当助かりました。
その後は相変わらず電気も水も電話も携帯も繋がらない数日でしたが
明け方から活動を始め続けました。
お店に並んで食糧をゲット。
6時間並んだ末どうにかガソリンを少しだけ入れてもらえたり
給水所に数時間並んでペットボトル数本にお水をもらいに行ったり。
小学校の給水所に1人で水を汲みに行った時はあまりの行列と家族連れに
また泣きそうになった。
やっぱり独りだ・・そう思って情けなくなった。
しかも、水が行き渡るかわからないといった情報を聴き、すごく不安になった。
2時間ほど並んだのに、もう水がないと聞いた時は泣いた。
でも、その時近くのコミュニティセンターで水がもらえると聞いて必死に走った。
リュックサックに空のペットボトルを詰め込んで、両手に給水袋を持って。
そこもものすごい行列で、絶望的になった。
でも、その時コミュニティセンターの上の方から、どこかのおじさんがコッソリと声を
かけてくれた。
『こっちにも水道あるよ』って。
ありがとう!おじさん!
その後数日間サバイバルな体験だったけど、近所の人や並んでる人達と
情報交換などし合ったりしてほんわかとした気持ちになったりしました。
お風呂に入れない為、ようやくゲットできた『赤ちゃんのおしりふき』は
体を拭くのに助かりました。
こういう時必要なんだな〜って思うものが色々ありました。
(それはまた今度の機会に書きたいです)
そして、携帯や電話がようやく繋がるようになって沢山の不在着信メールが
送られてたことがわかった。
何度も両親兄や、友達、疎遠になっていた人までもが電話やメールをくれていた事で
本当に、本当に泣ける思いだった。
『わたしは、孤独だと思ってたけどそうじゃなかったんだ』と。
なんだか夢のような出来事でしたが、あの経験は一生忘れられません。
忘れたくない思い出です。
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