2010年07月15日
堤防決壊
今日も風が強く、西日本では豪雨の被害があるようだ。
7月も中旬なのに、暑さも今ひとつだよね。
豪雨といえば、私が中学生の時だ。
実家の傍の川の堤防が決壊した。
住んでいる所から、下流へ約3キロぐらいの所だった。
忘れもしない、9月12日だ。
台風が近づいていたのと、前線が活発な活動で、雨量が多かったのを覚えている。
伊勢湾台風や堤防決壊を経験している両親は、川の様子を見に行き、
これは絶対決壊する、といって、家財道具を何でも良いから2階へ運びなさいと言った。
決壊したのは、午前10時半だったと覚えている。
父は、ここら辺は輪中地帯だから、下流でせき止められた水は必ず、
上流に上がってくるから家が沈むかもしれないとも言っていた。
そんな話を聞きながらも、1階にあるものを2階へどんどん上げた。
その当時、1階の半分は店舗だったので、住居部分は少なかった。
だけど店舗のショーウインドーや機械はどうなっちゃうんだろうと、心配だった。
そのうち、町からは避難命令が出た。
4時ごろになって、濁流が家の中に入り込んできた。
立っているのもやっとの勢いだった。
私たち姉妹は、おしりまで水につかりながら、避難所になった中学校へ行った。
両親は最後まで家を守るからといって、避難をしなかった。
町役場の人と喧嘩をしていた。
保護者が来ないと、おにぎりが支給されませんからと。
「うちの子達は、三日食べなくても生きていかれます。
別に支給がなくても良いです。」と父が突っぱねていた。
夜が明けて、中学校の2階から見ると、周囲の家は1階部分がほとんど沈んでいた。
まるで湖だった。
父は、町役場の人にまた言われたので、
しぶしぶ、トタン板をボートにして、物干し竿をかいにしてで中学校まで来た。
「こんな所、おっても仕方がない」といって、すぐさま帰っていってしまった。
2日目には大分、水が引き始め3日目にはすっかり地面が見え出した。
豪雨と聞くと、この堤防決壊を思い出すのだ。
そして災害は最初の3日が勝負だと。
異常事態なので、ほとんどの人が興奮状態に陥っている。
そんな時、少しでも冷静に状況を判断することが大切だなと思った。
父は非国民だったが、それでも状況を見極め、ほとんどの人が車を沈めてしまった中、
自家用車を高台に避難させたり、家財道具を上にあげさせたりと、的確な判断をしていたなと思う。
豪雨で被害に遭われた方にご冥福のキス。
7月も中旬なのに、暑さも今ひとつだよね。
豪雨といえば、私が中学生の時だ。
実家の傍の川の堤防が決壊した。
住んでいる所から、下流へ約3キロぐらいの所だった。
忘れもしない、9月12日だ。
台風が近づいていたのと、前線が活発な活動で、雨量が多かったのを覚えている。
伊勢湾台風や堤防決壊を経験している両親は、川の様子を見に行き、
これは絶対決壊する、といって、家財道具を何でも良いから2階へ運びなさいと言った。
決壊したのは、午前10時半だったと覚えている。
父は、ここら辺は輪中地帯だから、下流でせき止められた水は必ず、
上流に上がってくるから家が沈むかもしれないとも言っていた。
そんな話を聞きながらも、1階にあるものを2階へどんどん上げた。
その当時、1階の半分は店舗だったので、住居部分は少なかった。
だけど店舗のショーウインドーや機械はどうなっちゃうんだろうと、心配だった。
そのうち、町からは避難命令が出た。
4時ごろになって、濁流が家の中に入り込んできた。
立っているのもやっとの勢いだった。
私たち姉妹は、おしりまで水につかりながら、避難所になった中学校へ行った。
両親は最後まで家を守るからといって、避難をしなかった。
町役場の人と喧嘩をしていた。
保護者が来ないと、おにぎりが支給されませんからと。
「うちの子達は、三日食べなくても生きていかれます。
別に支給がなくても良いです。」と父が突っぱねていた。
夜が明けて、中学校の2階から見ると、周囲の家は1階部分がほとんど沈んでいた。
まるで湖だった。
父は、町役場の人にまた言われたので、
しぶしぶ、トタン板をボートにして、物干し竿をかいにしてで中学校まで来た。
「こんな所、おっても仕方がない」といって、すぐさま帰っていってしまった。
2日目には大分、水が引き始め3日目にはすっかり地面が見え出した。
豪雨と聞くと、この堤防決壊を思い出すのだ。
そして災害は最初の3日が勝負だと。
異常事態なので、ほとんどの人が興奮状態に陥っている。
そんな時、少しでも冷静に状況を判断することが大切だなと思った。
父は非国民だったが、それでも状況を見極め、ほとんどの人が車を沈めてしまった中、
自家用車を高台に避難させたり、家財道具を上にあげさせたりと、的確な判断をしていたなと思う。
豪雨で被害に遭われた方にご冥福のキス。