◎私が最も恐れていること◎
私が最も恐れていることの一つ目が若い女性を妊娠させることですね。
前回の記事で、26歳の時に知り合った女性には挿入しなかったと書きましたが、若い女性の場合は妊娠の危険性があるので敢えてそうしないわけです。
その後、30歳の時に知り合った女性は年配ですので、その女性に旦那と子供がいる事なんか関係なく、私は遠慮なく中出ししています。
子供だけは欲しくない、若い女性の妊娠だけは、私が最も恐れていることの一つです。
私が恐れていることの二つ目は、不動産売却に関するテレアポです。
私が相続する持家は、既にローンがなく、管理費さえ払えば良いのですが、偶に家にいると、不動産売却や不動産投資に関するテレアポがひっきりなしにかかってくる。
二十代から集め始めた膨大な蔵書とDVDのコレクションを去年、やっと整理し終えたばかりで、これらのコレクションを他の住居に運ぶ(引っ越し)ことなんか無理というか絶対にやりたくない。
私は今住んでいるマンションが快適なので、今の持ち家に永住するつもりです。なので、不動産売却・不動産投資に関するテレアポはひたすらウザいというか、恐怖すら感じます。
◎球技嫌い・チームワーク嫌い◎
私には、球技嫌い・チームワーク嫌いという特質があります。
野球やサッカーの試合中継を子供の頃に観た記憶はありませんし、バスケットボールやバレーボールも全然観ていないですね。
それ以外にも、テニスやゴルフも含め、球技全般が嫌いです。
村上春樹が熱中しているのもマラソンやトライアスロン、ウェイトリフティングといった基本は一人でパフォームする競技ですし、三島由紀夫の後半生のボディビルも含め、作家の運動神経とかスポーツの好みは、単独競技になりやすいのかな、という気はします。
例外として、石原慎太郎や馳星周は、生来のサッカー好きで有名ですが。
◎若い女性の妊娠も含め、私が子供を恐れる理由◎
一般的には、小説家とは「恋愛の研究者」と世の中では捉えられていて、18とか19歳の時に「小説を書いています」などと自己紹介すると、周りの大人たちから「恋愛経験はあるの?」、「女性と一晩ベッドを共にしたことはあるの?」、「小説を書きたいなら、いろんなことをいっぱい経験しなきゃダメだよ」等々、いろいろと小突かれることが多かったわけです。
この記事の後半で書きますが、世の中で「恋愛の大家」と自称している作家でも、実際にはそれほどでもないというケースもかなりあるんですけどね(汗)。
私が恐れているのは、このブログの前々回の記事で指摘したように、子供が生まれることで、全ての大人たちが、学校・会社・家族のしがらみに捉われてしまうという事なんですよ。というのは、子供はいずれ学校に通いますよね。そうすると、既に高校や大学や専門学校を卒業している親たちも、子供が通う小中学校のPTAの役員とかを順番に任され、会社の仕事の他に年中の学校行事の準備で忙殺されるようになるわけです。これは、成人した年配者が社会人大学とか通信大学・大学院とかで、自分の意志で学び直すのとは違うわけです。学校を卒業しているのに、子供が通う学校の年中行事で、会社の仕事の他に実生活を忙殺されてしまうわけですよ。これは、日本の社会が基調としている学校・会社・家族という三つのしがらみで個人の自由を自己犠牲にまで追いやる洗脳と変わりないわけです。そして、成人にまで成長した自分の子供は、実は将来の不良債権になるかもしれない。私が、若い女性の妊娠や子供を恐れるのは、この点です。
◎日本人が自殺に追い込まれる最大の理由◎
これは、日本人の自殺率をグラフにした統計ですが、
私が思うに、日本人が自殺に追い込まれるのは、いじめや経済的要因も含め、個人のやりたいこと、生きる意味、自由などが集団的に抑圧されているせいだと思います。
生きる意味は誰もが自分で考えて良いんだよね、と脳科学の専門家が言う社会になっていますが、実際には、周りや集団が個人のやっていることに対し、生きる意味を外側から押し付けてくるケースが多い。それが嫌で嫌で、耐えられないから、自殺に至る日本人が急増しているわけです。
つまり、学校・会社・家族という三つのしがらみの中で成果を示せ! この三つのしがらみの中で成果を示すことが人生の意味だ! という洗脳を日本の社会集団は、個人に押し付けてくるわけですよ。
こういうしがらみや洗脳から逃れたいという自覚がある人たちは、作家やフリーランスやニート・ひきこもり、動画配信者になりたがるわけです。
◎メディアへの露出重視の日本の出版業界◎
最近の日本のニュース番組では、芸人やタレントが専門家や評論家の代わりに勝手なコメントや意見を述べたり、元々、メディアに露出する頻度が多い芸人やタレントが本を出版し、文学賞の候補になったりしていますが、これは元々、不況の出版業界をテレビを媒介にして潤そうという試みなんですね。
この事に関しては、私もある掲示板で「タレント作家の誕生背景」というスレッドを建てて抗議し、それがきっかけで炎上を招いたことがあります。
なので、本を書く人が何かを考えたり、何かを調べたりしたことを出版したいという動きよりも、今、尊ばれるのは、テレビでも動画配信でも、どちらでも良いから、元々、メディアに露出している人が本を出版するという動きなんですね。
テレビや動画配信で露出の多い人が本を書けば、必ず元は取れるからです。本を出すリターンが大きいことは確実ですから、出版社はそういう有名人に対し、高い原稿料を支払います。
こんな動画を見つけました。
本を書いて月収20万円は無理でも、彼の15ページほどのノートを電子版で出版することなら一円もかけずに、名刺すら作らずに無理なくできます。私は既に十冊以上のミニ書籍を出していますが、名刺なんか作っていません。
理系の青年を罵倒しているえらてんさんの場合、本を売る困難さを理解しているのは正確な認識と云えるのですが、えらてんさんの出した本は、紙の書籍で本屋で平積みにされているので、万が一、返品の事態になった時に痛手が大きくなります。電子書籍の場合は、紙の書籍と違って、そういう困難がないんですね。
本で出さなくても、この理系の青年の場合、動画配信で、彼の仏教に関する捉え方を披歴することも可能な筈です。
この青年の場合は仏教関係の肩書がないので、「理系のエリート校出身が輪廻を捉えると、こうなる!」という触れ込みでも良いわけです。
なので、問題は売り方、テーマの出し方だと思います。
で、この理系の青年に対する、えらてんさんの「仏教関係の肩書はありますか?」という質問で、何となく、私が思い浮かべたのは、一昔前に経歴詐称で一世を風靡した佐村河内守やショーンKの虚偽の肩書です。
この動画に出ている理系の青年の場合は、哲学を書こうとしているので、経歴詐称して本を出したら、問題になりますが、これが小説の場合はどうなるでしょう?
小説とは嘘話を書くものです。
現に、原一男が撮った『全身小説家』の被写体となっている井上光晴という作家は、自分が日本で最初の共産党を創ったとか、自分の親戚には大之進という大歌舞伎役者がいたとか、自らの経歴とか交友関係とか年譜などを全部、自作して小説を書いていたのですね。
で、実際には、彼の小説は、彼の生前にだいぶ高く評価されていて、彼のドキュメンタリーを撮っていた原一男が、映画の中で彼の虚構と嘘を暴いて、没後は読まれなくなってしまうという経緯なんです。
なので、井上光晴の場合は、佐村河内守やショーンKのように経歴詐称に類することを何度も繰り返しながら、生前は作家として身を立てていたわけです。
ところが、小説が嘘話=フィクションというのは、当然の前提です。
井上光晴の経歴が虚偽や詐称であっても、作品としての小説が、嘘話として面白ければ、それは社会的に小説としての意味があるし、日本の近代文学史で重宝される価値もあるのです。
芥川賞にしろ、ノーベル文学賞にしろ、それら高名な文学賞の選考委員たちが口を揃えて言うのは、作家の肩書や経歴などは評価の対象にしてはいない、問題にしているのは作品(=嘘話)だという事なんです。
なので、経歴や年譜、交友や姻戚関係などを全て自作しても、小説は高く評価された井上光晴の場合、確かに才能ある作家として評価されなければいけないし、小説家としては優秀だったという事になるのです。
メディアに露出している有名人が本を出したり、コメントを述べたりしているのが重宝される今の出版業界ですと、仮に、佐村河内守やショーンKのような虚偽の肩書や経歴を名乗っている人間がテレビなどで嘘の名声を得たまま、小説(=嘘話)を書き、それが高名な文学賞を受賞した場合、彼等の経歴詐称が後になって暴かれても、その小説(=嘘話)さえ面白ければ、社会的には作家として正当という事になるんです。
なので、私は、社会にとって、才能の意味とは何だろう? と少し首を傾げているところです。
今の社会にとっての個人の才能とは、インターネットでもテレビでも何でも良いから、兎に角、個性の露出以外に何もないんじゃないですかね。
参考までにコレも貼っておきます。