「仕事や働き方クイズ18」を公開しています。
1958年発売・荻野屋の「峠の釜めし」は
現在も人気のロングセラー弁当です。
しかし、発売当時はほとんど売れませんでした。
今回の問題は、「なぜ、売れなかったのでしょうか?」です。
諦めない経営 峠の釜めし荻野屋の135年 [ 高見澤志和 ] 価格:1650円 |
荻野屋は、1885年横川駅の開業から駅弁の販売を始めています。
当時の横川駅は、高崎駅からの終着駅で
旅行者で賑わい弁当も売れます。
5年後、軽井沢駅〜横川駅間が開通
日本海側と太平洋側がつながります。
すると、高崎駅や軽井沢駅で駅弁を買う人が多く
横川駅で買う人は少なくなります。
荻野屋は売上拡大のため新商品の
駅弁「峠の釜めし」を開発しますが売れません。
それでは、クイズです。
はたして、「峠の釜めし」が売れなかった理由はなんでしょうか?
@ABの中から間違いを一つ選んでください。
@ 乗降客の少ない「横川駅」では、列車の停車時間が短かった
横川駅は、田舎の小さな駅でした。
駅の乗降客が少ないので列車の停車時間が短く、ホームでの
駅弁販売に必要な時間が十分とられていませんでした。
A「峠の釜めし」は売れるとして、宣伝活動をしなかった
益子焼の釜を使った「峠の釜めし」は保温性に優れるうえに
味も美味しく、120円の高価格でも売れるとみていました。
そのため、「峠の釜めし」新発売の宣伝活動を
積極的に行いませんでした。
ちなみに、1957年頃の駅弁価格は、幕の内弁当が80円
人気の焼売弁当など特殊弁当が100円程度で販売されていました。
B「峠の釜めし」弁当30個入の「売り箱」は33Kg
売り子は重すぎて売らない
「峠の釜めし」は1個が約1キロあり
普通の幕の内弁当の2倍近くありました。
弁当が30個入った「売り箱」の重量は33キロになります。
「売り箱」を首から下げて売るのは大変な重労働になり
売り子が売ろうとしなかったようです。
それでは回答です。
答え、「間違いは@」です。
横川駅は、碓氷峠越えの機関車連結の停車時間があり
駅弁販売に絶好でした。
急勾配の碓氷峠(高低さ553m)は一般の列車で走れず
1893年からスイス山岳鉄道のアプト式機関車が導入され
その連結作業のため横川駅に長く列車が停車しました。
その停車時間は、駅弁を売るには絶好の条件でした。
停車時間が短く、駅弁を販売する時間がなかったは、全くの間違いです。
AとBについて
A「峠の釜めし」は価格が高くても売れるとして、宣伝活動をしなかった
発売当時、「峠の釜めし」は、よく売れても1日30個程度でした。
4代目社長・みねじさんは、広告に使うお金があったら
それを衛生対策に使うという人でした。
広告費を使っても、お客様の喜びにつながらないと、広告に消極的でした。
そのため、「峠の釜めし」売り出しとき
広告はほとんど行われていなかったようです。
ところが、発売から半年後の1958年8月の昼過ぎ
突如爆発的に売れ出します。
その理由は、月刊『文芸春秋』のコラムで「峠の釜めし」の
美味しさが紹介されたからです。
このコラムの宣伝効果で、あっというまに
1日1000個を売る人気商品になります。
やはり、広告は必要なようです。
B「峠の釜めし」弁当30個入の販売箱は33Kg、売り子は重すぎて売らない
「峠の釜めし」の販売は、売り子たちが弁当の入った「売り箱」
(30個入りで33Kg)を首から下げて売っていました。
重量33Kgの箱を首からさげて売るというのは重労働でした。
あまりの重さに、売り子が売ろうとしなかったので
売り上げが伸びなかったようです。
1965年、ようやく「売り箱」が「手押し車」に変わります。
過酷な労働条件では、人は働かないということです。
なお、長野新幹線の開通で、軽井沢〜横川駅間は廃線になっています。
廃線跡ウォーキング東日本 気軽に無理なく歩いて楽しめる鉄道廃線跡と周辺スポッ (大人の遠足book) 価格:1650円 |
「荻野屋『峠の釜めし』」の詳細については
「スゴロクで学ぶユーチューブ」のNo.77・78回目でご覧いただけます。
このゲームでは、「鉄道で売れる駅弁の開発に全力を尽くした
4代目社長・みねじさんの働き方」を学ぶことができます。
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