アフィリエイト広告を利用しています

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2023年11月08日

とにかく笑顔でいること

えまれぬことなりとも、えませ給え。
『日蓮大聖人御書全集』新版 1952頁 (河合殿御返事)

仕事をしている場合、通常は、笑顔でいられない状態であることが多いものです。嫌な人との関わりがあったりしますし、忙しすぎるという場合もあります。余裕がなくなり、顔が険しくなってくるのですね。当然、笑顔など出てきません。

しかし、日蓮によると「えまれぬことなりとも、えませ給え」ですから、笑顔でいられないような状態であっても、笑顔でいなさいというのですね。

そんなことできるか、で終わってしまうならば、その程度の人生となります。やはり、ここは自らの人生を開きたいのですね。日蓮の言うとおり、やってみようと思うわけです。

人生の達人らしき人々を観察しますと、余裕があり、穏やかですね。取って付けた笑顔ではなく、柔らかな笑顔という特徴があります。微笑みと言ってもいいかもしれません。このような境涯を目指したいですね。

常に「えまれぬことなりとも、えませ給え」との言葉を反芻しながら、徐々に自分の中にこの言葉を浸透させ、いつでも笑顔でいられるようしていき、この言葉を身体化、血肉化、骨髄化していきたいですね。

やるかやらないかは、自分次第ですから、やる方に舵を切って、あとは、ただただ実践すればよいでしょう。

日蓮大聖人御書全集 新版 分冊 第4巻

新品価格
¥1,200から
(2023/11/8 23:10時点)



日蓮大聖人御書全集 新版

新品価格
¥8,000から
(2023/11/8 23:10時点)


posted by lawful at 23:08| 生き方

2023年11月05日

速成は堅牢ならず

人は、インスタントにすぐに結果を求めがちですが、その結果が大したことがなく、すぐに陳腐になり、使い物にならない場合が多いのではないでしょうか。

やけに急ぎますが、そんなに急いで出来上がったものが長持ちすることはなく、いわば、安物買いの銭失いに似た状態になるだけでしょう。

中国の古典に学びながら、どのように行動すればよいのか、考えてみましょう。
物盛んなればすなわち必ず衰え  驍ればまた替あり
速成は堅牢ならず  すみやかに走れば顚躓多し
灼灼たる園中の花  はやく発きてまたまず萎む
遅遅たる澗畔の松  鬱鬱として晩翠を含む
賦命は疾徐あり  青雲は力めて致し難し
語を寄せて諸郎に謝す  躍進は徒為のみと
『蒙求・小学 (中国の古典)』村山吉広 編訳 講談社 235頁

現代語訳を見てみましょう。
物が盛んであれば必ず衰える  栄えている者も没落する
速成されたものは堅牢でなく  急いで走ればつまずきが多い
きらびやかに咲く園中の花も  開いたかと思えばすぐにしぼむ
成長のおそい谷間の松は  やがて緑が濃くなってその姿を保つ
運命には早いおそいがあり  立身出世は人力では定めがたい
申しわけはないけれど  焦ってもこればかりはどうにもならない
『蒙求・小学 (中国の古典)』村山吉広 編訳 講談社 234頁

「速成は堅牢ならず」ですから、急いでも意味がないようです。慌てず、焦らず、ゆっくりと、じっくり物事に取り組むことですね。いろいろな知識にしても、すぐにものにしたい、身に付けたいと思いがちですが、付け焼き刃の知識は、すぐに忘れがちであり、いざというときに役に立ちません。堅牢でないのですね。

やはり、知識を得るならば、堅牢な知識でなければなりません。そのためにも、速成でなく、歩みが遅遅たる状態でありながらも、じっくりと知識を充実させることです。そうすることによって、その知識をいつでも活用できる状態にすることができます。

いつまでも浮き足立つのではなく、どっしりと構えて物事に取り組むべきですね。まさに、「速成は堅牢ならず」との言葉は、ある意味、安心感を与えてくれます。何事もスピードだ、早ければよいという安易な、そして、軽薄な風潮に流されてしまいがちですが、やはり、ここは中国の古典から学び、慌てる必要はないことを確認したいところです。

いままでの人生を振り返りますと、急ぎすぎて、息切れがしておりました。どこかで、早ければよい、何事も早く身に付けるのが有利だ、得策だという感覚に苛まされていたように思います。

別に慌てることはないのですね。息切れがするような人生は、つまらないと感じはじめております。深呼吸して生きていく方が人間的であると思うのですね。

たしかに、仕事の面では、スピードも大切でしょう。しかし、仕事にしても、私生活の面にしても、大事なところは、じっくり、ゆっくり身に付けていくことを意識する必要があります。

堅牢な知識、堅牢な技術、堅牢な対応術等々、堅牢なるものを身に付ける方が、長い目で見れば、実は、得策なのですね。誰かに後れを取るのが嫌だという気持ちは分かりますが、別に、他人が早く進もうが、他人には他人の人生速度があるのであり、自分の人生速度とは関係がないのですね。それが関係あると誤解するから、早く早くという誤作動が起こるわけです。

「速成は堅牢ならず」という言葉を自分のものにする中で、自分自身の人生が開かれていくことでしょう。

蒙求・小学 (中国の古典)

中古価格
¥2,000から
(2023/11/5 00:13時点)


posted by lawful at 00:11| 生き方

2023年10月09日

自分にないものを数えるのではなく、自分にあるものを数える人生

「少欲知足」という言葉は、御書において、以下の通り、2カ所出てきます。
ただ正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ。
『日蓮大聖人御書全集』新版 1434頁 (曽谷殿御返事(成仏用心抄))

よき師とは、さしたる世間の失無くして、いささかのへつらうことなく、少欲知足にして慈悲有らん僧の、経文に任せて法華経を読み持って人をも勧めて持たせん僧をば、仏は一切の僧の中に吉き第一の法師なりと讃められたり。
『日蓮大聖人御書全集』新版 695頁 (法華初心成仏抄)

「曽谷殿御返事(成仏用心抄)」も「法華初心成仏抄」も真蹟がない御書ですが、内容が信仰に深く関わるものであるため、よく読まれている御書ですね。

「少欲知足」は、僧侶にからめて述べられており、僧侶のあるべき姿をあらわす言葉として使用されています。修行の身である僧侶が欲望まみれでは話になりませんので、欲は少なくとされるのは納得できます。また、今所持しているもので満足せよということ、つまり、足るを知ることが大事とされるのもよく分かります。

では、「少欲知足」は、僧侶だけの指針であるのか。別に僧侶に限る必要はないと思います。我々にとっても意義深い指針と思えるのですね。

人は、自分にないものを数え始めると不幸になります。あれもない、これもないと言い続けると心が塞ぎがちになるものです。いわば、欲が肥大化しているのですね。当然、足るを知るなどという状態ではありません。足りない、足りないですからね。「少欲知足」と反対の生き方をすると不幸になります。

一方、自分にあるものを数え始めると、いろいろなものがあると再認識し、自分が恵まれていることに気付きます。いつの間にか顔がほころんで幸せになります。これもある、あれもあるとなって、欲が肥大化する必要がなくなるのですね。まさに、「少欲知足」な状態となり、幸せな生き方となります。

自分にないものを数える人生ではなく、自分にあるものを数える人生を歩むことが「少欲知足」といえるでしょう。

もちろん、自分に足りない点は、補う必要があります。その際、単に足りない、足りないと嘆くのはよくないですね。自分の持っているものに基づき、その自分の持っているものを最大限活用しながら、自分の足りない点を補うという姿勢が大切です。いたずらに、あれもこれもと強欲になるのではなく、ひとつひとつ着実に自分の至らない点を改善するのがよいですね。

日蓮大聖人御書全集 新版

新品価格
¥8,000から
(2023/10/9 19:23時点)


posted by lawful at 19:20| 生き方

2023年07月08日

孟子の言葉

『孟子』離婁章句下に、以下の言葉があります。
孟子曰く、大人は言必ずしも信ならず。行い必ずしも果ならず。惟だ義の在る所のままなり。

孟子がこう言った。
「萬人に勝れた人(大人)は、必ずしも言行一致するとは限らない。
どうかすると、人との約束も実行しない場合がある。
事情が変って、先約を実行しない方が、却って人に対して親切になることもあり得るからだ。
又、一たん始めた事は飽くまでやり通す。無論、これは悪いことではない。しかし始めて見て、これは間違っていたと氣のつくような場合は、さっさと中止した方がよい。どこまでも無理押しして、自分ばかりでなく、世間にも迷惑のかかるような結果になることは、当然避けなければならない。
この見極めをつける心掛けは、義として大切なことだ。」
杉村顕道 『孟子講義』 1985.12

大人(たいじん)とは、一体いかなる人物か、それについて孟子が述べた言葉ですが、なかなか味わい深い言葉です。

確かに、言ったことを守ること、約束を守ることは重要であり、人間としての基準といえましょう。ただし、その基準は絶対的な基準ではないようです。ひとつの基準ではあるけれども、程度とすれば、あまり高くない程度の基準なのでしょう。ある意味、小人の基準ともいえるかもしれません。

大人(たいじん)は、約束を守るという基準に縛られることなく、本当に人のためになる行動を行うという基準があり、その場合、約束を破ることもあり得るということです。単に、約束を守るという基準を遵守すればよいという安易な姿勢ではなく、高度な判断を踏まえて適切な行動をするのが大人(だいじん)なのですね。

決められた基準を守るだけの人間は、小人であり、それはそれで重要ですが、それだけでこと足れりとならないのがこの世の中です。その時、その時に応じた価値のある行動が必要とされることがあり、そのような行動を創造しうる人物が大人(たいじん)というわけです。

また、何事も始めたことは最後までやり通すのがよいという基準もありますが、これも大切ではあるけれども、さほど重要ではないと思いますね。世の中は変化し、また、自分自身も変化する中で、最初の方針がそのまま通用するわけもなく、常に、変化していく必要があります。やり始めたことも、常に、修正を加えながらブラッシュアップしていくのが適切ですね。

大人(たいじん)としての練り上げられた判断に基づき、行動に修正を加え、より価値的な行動をしていくことが肝要です。あるひとつの基準を絶対視して、身動きができないような人物は小人であり、大したことは為せません。やはり、大人(たいじん)でなければならないといえるでしょう。

孟子の言葉は、現代においても力を持ち得ていますね。さりげない言葉でありながら、我々に深い思索を要求し、安逸な基準で満足するなと言っているようであり、常に、自分の頭で考え、その上で行動せよと迫ってくるようであります。

孟子 全訳注 (講談社学術文庫)

新品価格
¥1,270から
(2023/7/8 19:57時点)



孟子 (講談社学術文庫)

新品価格
¥1,155から
(2023/7/8 19:58時点)



posted by lawful at 19:53| 生き方

2022年07月02日

『論語』における人間の6条件(志学・而立・不惑・知命・耳順・従心)

子の曰わく、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順がう。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。

先生がいわれた、「わたしは十五歳で学問に志し、三十になって独立した立場を持ち、四十になってあれこれと迷わず、五十になって天命をわきまえ、六十になって人のことばがすなおに聞かれ、七十になると思うままにふるまってそれで道をはずれないようになった。」
『論語』金谷治訳注 岩波文庫 35頁〜36頁

孔子が各年代に応じて到達した境地を述べている部分です。十五歳で志学、三十歳で而立、四十歳で不惑、五十歳で知命、六十歳で耳順、七十歳で従心というふうに順序よく、ひとつひとつ得ていくという形になっています。

ただ、七十歳になるまで従心が得られないという意味ではないと思います。五十歳で従心を得てもいいわけです。

この『論語』の一節には、「志学・而立・不惑・知命・耳順・従心」の6つがありますが、これは、人間の6条件といってよいものでしょう。『論語』においては、各年代に配当されていますが、別々にせずとも、常にこの6条件を得るよう精進することが肝要と思えるのです。

人は、何歳であっても、常に学ぶ必要があり、独立自尊の精神が必要であり、惑わされることなく、人智を超えた天の計らいをも把握し、他者の意見を受け入れる度量が必要であり、物事を為すにあたって道を踏み外さないという振る舞いができるようになる必要があります。

「志学・而立・不惑・知命・耳順・従心」の6つの順序は、難易度の順序と考えた方がよいでしょうね。確かに、「従心」はなかなか得られる境地ではありませんが、別に七十歳になるまで待つ必要はなく、得られるならば何歳であってもよいですね。

この6つの条件を満たしてこそ、人間になれるということをあらわしたのが『論語』といえましょう。

論語 (岩波文庫)

新品価格
¥924から
(2022/7/2 10:09時点)


posted by lawful at 10:05| 生き方

2022年05月31日

ニーバーの言葉

ニーバー〖Reinhold Niebuhr〗
[1892〜1971]米国の神学者・倫理学者・牧師。「文明は宗教を必要とするか」「道徳的人間と非道徳的社会」など、近代社会とキリスト教倫理に関する著書を多数著した。
『デジタル大辞泉』 小学館

アメリカの神学者であるニーバーの言葉は、非常に示唆に富みます。
O God, give us serenity to accept what cannot be changed, courage to change what should be changed, and wisdom to distinguish the one from the other.

簡単に訳してみましょう。

神よ、
変えることができないことを受け入れる平静さを、
変えるべきことを変える勇気を、
そして、変えることができないことと変えるべきこととを識別する叡智を、
我々にお与えください。

変えることができないことは、他人や、自分ではどうすることもできない社会の制度、風習などですね。このようなことについては、そういうものなのかと受け入れる平静さが重要のようです。

しかし、愚人は、つい、このような変えることができないことに悩み、憤り、くよくよする傾向があるようです。一方、賢人は、まさに、ニーバーに言葉の通りの振る舞いになっていますね。見事なほどです。

変えるべきこととは、自分のことであり、勇気を持って変えていくことが肝要のようです。

愚人は、自分自身が行わなければならない改善行動をなかなか行いません。ああでもない、こうでもないと言い訳ばかりで、何もしないのですね。一方、賢人は、自分で行える改善行動をすぐにしています。

ニーバーの言葉を実践している人は誰なのかと思い返してみますと、田中角栄がその実践者であったことを思い出しました。
くよくよしても仕方のないことは、くよくよしない。やらなければならないことは、万難を排してもやる。これが田中のオヤジです。
早坂茂三『田中角栄 頂点をきわめた男の物語 オヤジとわたし』

我々もニーバーの言葉の実践者となるべきですね。
posted by lawful at 06:00| 生き方

2022年01月02日

ゲーテに学ぶ人生の処し方

処世のおきて

気もちよい生活を作ろうと思ったら、
済んだことをくよくよせぬこと、
めったに腹を立てぬこと、
いつも現在を楽しむこと、
とりわけ、人を憎まぬこと、
未来を神にまかせること。

(『ゲーテ詩集』高橋健二訳 新潮文庫)

ゲーテは、「済んだことをくよくよせぬこと」と言います。しかし、凡夫は、過去のことをくよくよ悩みます。ああすればよかった、こうすればよかった等々、後悔の連続です。くよくよ、後悔を重ねているうちに人生が終わってしまうといっていいほどです。

しかし、同じ人生を歩むにしても、くよくよ、後悔では芸がなさ過ぎます。やはり、ゲーテが言うように、済んだことをくよくよせず、気にしないことですね。もちろん、反省すべき点は反省するにしても、いつまでも反省では前に進みません。ある程度のところでけりを付け、次の段階、次のステージに進むことですね。

済んだことをくよくよしないことが困難であろうと、とにかく、くよくよしないと決めることですね。ゲーテの言うとおりにすればよいのです。御託を並べている場合ではありません。とにかく、くよくよしない。これに尽きます。

次に、ゲーテは、「めったに腹を立てぬこと」と言います。腹を立てることは、怒っている状態ですね。「瞋るは地獄」というように、地獄界の境涯、最低の状態ですね。つまらないことでいちいち怒っていては、身が持ちませんし、第一、そのような人は馬鹿にされるだけで終わってしまいます。自分の感情をコントロールできない幼稚な者と看做されます。

ここで注意したいのは、「めったに」と付け加えているところです。絶対に腹を立てるなとは言っていないのですね。然るべきときは瞋るべきであると言っているように思えます。所謂、公憤という公のために瞋るということは重要であり、このような瞋りは必要といえましょう。ただ、このような瞋りを為すべき時は、人生の中で数回程度でしょう。よって、腹を立てないで生きていけばよいのですね。

そして、ゲーテは、「いつも現在を楽しむこと」と言います。将来楽しむのではなく、今、楽しめばよいのですね。先々いいことがあるだろうではなく、今、現在がいいことなのであり、それを楽しむというのが人生を処す要諦といえましょう。これもなかなか困難に思えますが、とにかく、強制的にでも常に現在を楽しむことですね。

さらに、ゲーテは、「とりわけ、人を憎まぬこと」と言います。つい、ひとは、他人を憎んでしまいます。あの人が悪い、この人が悪いとうるさいのですね。確かに、他人が悪いということはあり得ますが、だから何なのかということなのでしょうね。人を憎んでいいことがあるか。ないようですね。いいことがないならば、取り立てて人を憎む必要はないでしょう。別に人を許す必要はありませんが、憎む必要もないですね。

最後に、ゲーテは、「未来を神にまかせること」と言います。我々は、将来のことを心配しすぎているのかもしれません。苦労性、心配性で生きているようです。自分の人生は自分で決めて、その通りに生きたいという願望が肥大化しているともいえましょう。ある意味、病理であり、傲慢ですね。未来はどうなるか分からず、自分でコントロールできるようなものではありません。ここは潔く、神に任せる、仏教的、東洋的に言えば、仏に任せる、天に任せるという感じでしょうか。自分を越えたものに身を委ねるという謙虚さが求められます。どっちにしても、なるようにしかならないわけで、自分の人生だ、といきり立ったところで人間の力などたかがしれています。

ゲーテの「処世のおきて」を見てきましたが、この通りに生きていくと、心地よくなるでしょうね。腹を立てず、人を憎まぬという点は、非常に高い倫理性が見て取れます。倫理的に優れているというのは、やはり、心地よいものです。

過去にくよくよせず、現在を楽しみ、未来を神にまかせるという点は、ストレスフリーであり、まさに、現代に必要とされる処世術といえましょう。

現代人は、この逆の人が多いかもしれません。
済んだことをいつまでもくよくよして、
いつも誰かに腹を立て、
現在を楽しむことができず、
常に人を憎んで、あの人が悪い、この人が悪いと言い、
未来は自分がどうにかできると思いつつ、しかし、どうにもできず、苛立っている。
といった感じでしょうか。気持ちのよい生活ではなく、気持ち悪い生活になっていますね。

やはり、ゲーテの言う通りに生きた方がいいですね。四の五の言わず、「処世のおきて」の通り、自らの人生を処することですね。

ゲーテ詩集 (新潮文庫)

新品価格
¥605から
(2021/12/28 21:14時点)


posted by lawful at 06:00| 生き方

2020年03月01日

大した人間になりたくても、大した人間になれない

恐ろしく我の強い男だったが、今度の事で、己の如何にとるに足らぬものだったかを沁々と考えさせられた。理想の抱負のと威張って見たところで、所詮己は牛にふみつぶされる道傍の虫けらの如きものに過ぎなかったのだ。
中島敦『李陵・山月記』新潮文庫 123頁〜124頁

李陵・山月記 (新潮文庫)

新品価格
¥440から
(2020/3/1 22:12時点)



人は、大した人間になりたいと思っています。また、大した人間であると思っています。

しかし、実際、人は大した人間になれず、大した人間と思っていたのは勘違いであったことに気付きます。そのときに、落ち込むのですね。

そこから、大した人間でないならば、大した人間でないなりに生きていけばよいのですが、どうしても大した人間になりたいという欲望に囚われ、無駄な努力をすることがままあります。

そのような経過をたどり、それなりの時間を経て、それなりの年齢になり、やっと、自分自身が大した人間でないことを認めるのですね。

別に大した人間になれなくても問題はありません。そもそも大した人間など1パーセントいるかいないかのレベルです。0.1パーセント以下かもしれません。いずれにしても、我々とは関係のない次元の人々が大した人間であり、我々は大したことがない人間のグループにいます。別にそれでいいのです。

大した人間でないにしても、大した人間でないなりの生き方があるわけで、あとは工夫次第でしょう。

大した人間でなくても、それなりに長所、強みがあります。そこを上手に伸ばし広げていけば、楽しく、幸せに生きていけます。それが分からないで、大した人間になりたいと欲張るから、煩悩の蟻地獄に落ちていくわけです。

確かに、大した人間になりたいと思い、努力をしても、結局、大した人間になれないという事実は、堪えます。しみじみと堪えます。しかし、そこを乗り越える必要がありますね。いつまでも夢想している場合ではありません。

自分の強み、長所を把握し、そこに時間、エネルギー、お金を集中させることですね。大した人間は、あらゆることを為すことができますが、大したことがない人間は、少しのことしかできません。少しであっても、磨いていけば、名刀になります。たった一本の名刀かもしれませんが、それでいいと思います。



posted by lawful at 22:11| 生き方

2019年01月01日

新年

年頭自警
一、 年頭まず自ら意気を新たにすべし
二、 年頭古き悔恨を棄つべし
三、 年頭決然滞事を一掃すべし
四、 年頭新たに一善事を発願すべし
五、 年頭新たに一佳書を読み始むべし
『安岡正篤一日一言』致知出版社 6頁

新しい年となりました。

年頭自警として、五つの項目がございますが、どれもこれも重要なことばかりです。

まず、自らの気持ちを一新することですね。常に自分自身を新しくしておくことが肝要です。これがあってはじめて他の四つの項目が完遂できるといってよいでしょう。

次に、古い悔恨を棄てるとありますが、古くても古典等は、いつまでも残しておくべきですが、後悔や恨みの感情は、古ければ古いほど厄介なものですから、棄てておくのがよいですね。

そして、滞っている事柄を一掃するということですが、わだかまりなどがこれに相当するのではないでしょうか。人間、年を重ねるに従って、何だかんだとわだかまりの感情が増えてくるものです。それを一気に掃き捨てろということですね。

善事をなすということですが、大きなことではなく、身近なところから善事を行うのがよいように思います。常に接する人に対して、穏やかであることが重要でしょうし、感謝の念を持ちながら接するのが大切でしょう。身近な人を大切にするというのが一善事と思われます。

佳書を読み始めるということですが、早速、日蓮の「十字御書」を読んだところです。
抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば・或は地の下と申す経文もあり・或は西方等と申す経も候、しかれども委細にたづね候へば我等が五尺の身の内に候とみへて候
十字御書 1491頁

地獄界の境涯といえ、仏界の境涯といえ、どこか遠くにあるのではなく、我が身の中にあるということです。自分自身が仏たり得るのか、それとも、地獄程度の人間に留まるのか。自らの心次第ということですね。この意味からも、「年頭まず自ら意気を新たにすべし」との言葉が重要であることがわかります。
さもやをぼへ候事は我等が心の内に父をあなづり母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候
同書 同頁

父、母という身近な人を蔑ろにし、疎んじるならば、善事をなしているとはいえず、このような人間は、地獄界の境涯にあると日蓮は指摘します。地の下に落ちるまでもなく、心が地獄というわけです。
今正月の始に法華経をくやうしまいらせんと・をぼしめす御心は・木より花のさき・池より蓮のつぼみ・雪山のせんだんのひらけ・月の始めて出るなるべし、今日本国の法華経をかたきとしてわざわいを千里の外よりまねきよせぬ、此れをもつてをもうに今又法華経を信ずる人は・さいわいを万里の外よりあつむべし
同書 1492頁

佳書として、御書をあげておりますが、当然、法華経をも含めるべきであり、勤行を行うことは、まさに、法華経の方便品と如来寿量品とを読誦することであり、法華経供養、法華経信仰をしているということですから、幸福があらゆるところから集まってくるということです。信仰をして不幸せでは何にもなりませんので、十字御書通り、幸せを引き寄せる信仰をしていくべきと思います。

年頭自警を通して、自らの信仰のあり方を見直したところです。後悔や恨みつらみ、滞っているわだかまりなど、一切、掃き捨て、新たな気持ちで生きていきたいと思うところです。

安岡正篤一日一言

新品価格
¥1,234から
(2019/1/1 23:51時点)



日蓮大聖人御書全集

新品価格
¥3,565から
(2019/1/1 23:51時点)


posted by lawful at 23:48| 生き方

2018年03月23日

不運は改善へのきっかけといえるでしょう

病があろうが、運命が悪くなろうが、それを感謝と喜びにふりかえることです。
そもそも病とか不運とかというものの原因を考えてください。何にも自分に落ち度がなくして、病や不運がくるはずがないのであります。つまり、原因あっての結果。
ですから、おまえの生き方に誤りがあるぞ、と自覚を促すために病なり不運なりが与えられたとしたら、これは大きな恵みですわ。それを考えたら、恨みどころか感謝にふりかえ、喜びで誤りを是正する方へと自分の心を積極的にふり向けることが一番必要でしょう。
『中村天風一日一話』財団法人天風会編 PHP研究所 55頁

不運があると嘆き、悲しみ、挙句の果てには恨みが生じますが、このような生き方がそもそも間違っていると指摘されています。

不運には、その人の生き方に間違いがあるから生じるのであって、何にもないところに生じるものではないということです。

間違った生き方をして、再び、間違った生き方を繰り返すのではなく、誤りは誤りとして認識し、感謝、喜びをもって、改善に勤しむのが正しい生き方といえましょう。

不運がありますと、落ち込みます。それは仕方がないことですが、いつまでも落ち込んでもいられませんので、自分の至らないところを認識できたとの喜びを得ながら、感謝の念を持ち、より高次の自分に至るよう精進することですね。

また、不運に見舞われるということは、ある意味、厄落としともいえるわけで、不運を呪うより、不運によって助かったと考える方が価値的でしょう。実際、考え方という次元だけでなく、本当に厄落としになっているというのが実相かもしれませんね。

この程度の不運でよかった、というわけです。

早め早めに厄は落としておいた方がよいですね。

そう考えますと、不運は、ありがたく、感謝、喜びへとつながっていきます。
posted by lawful at 08:07| 生き方

観心本尊抄―訳注

新品価格
¥1,980から
(2023/1/1 22:16時点)

日蓮 「闘う仏教者」の実像 (中公新書)

新品価格
¥906から
(2024/1/6 19:41時点)

岩波 仏教辞典 第三版

新品価格
¥9,900から
(2024/1/6 19:42時点)

図説 ここが知りたかった!日蓮と法華経

新品価格
¥1,925から
(2024/2/10 15:31時点)

カテゴリアーカイブ
<< 2024年03月 >>
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

観心本尊抄―訳注

新品価格
¥1,980から
(2023/1/1 22:22時点)

日蓮 「闘う仏教者」の実像 (中公新書)

新品価格
¥906から
(2024/1/6 19:41時点)

岩波 仏教辞典 第三版

新品価格
¥9,900から
(2024/1/6 19:42時点)

図説 ここが知りたかった!日蓮と法華経

新品価格
¥1,925から
(2024/2/10 15:31時点)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村
PVアクセスランキング にほんブログ村
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。