恐ろしく我の強い男だったが、今度の事で、己の如何にとるに足らぬものだったかを沁々と考えさせられた。理想の抱負のと威張って見たところで、所詮己は牛にふみつぶされる道傍の虫けらの如きものに過ぎなかったのだ。
中島敦『李陵・山月記』新潮文庫 123頁〜124頁
人は、大した人間になりたいと思っています。また、大した人間であると思っています。
しかし、実際、人は大した人間になれず、大した人間と思っていたのは勘違いであったことに気付きます。そのときに、落ち込むのですね。
そこから、大した人間でないならば、大した人間でないなりに生きていけばよいのですが、どうしても大した人間になりたいという欲望に囚われ、無駄な努力をすることがままあります。
そのような経過をたどり、それなりの時間を経て、それなりの年齢になり、やっと、自分自身が大した人間でないことを認めるのですね。
別に大した人間になれなくても問題はありません。そもそも大した人間など1パーセントいるかいないかのレベルです。0.1パーセント以下かもしれません。いずれにしても、我々とは関係のない次元の人々が大した人間であり、我々は大したことがない人間のグループにいます。別にそれでいいのです。
大した人間でないにしても、大した人間でないなりの生き方があるわけで、あとは工夫次第でしょう。
大した人間でなくても、それなりに長所、強みがあります。そこを上手に伸ばし広げていけば、楽しく、幸せに生きていけます。それが分からないで、大した人間になりたいと欲張るから、煩悩の蟻地獄に落ちていくわけです。
確かに、大した人間になりたいと思い、努力をしても、結局、大した人間になれないという事実は、堪えます。しみじみと堪えます。しかし、そこを乗り越える必要がありますね。いつまでも夢想している場合ではありません。
自分の強み、長所を把握し、そこに時間、エネルギー、お金を集中させることですね。大した人間は、あらゆることを為すことができますが、大したことがない人間は、少しのことしかできません。少しであっても、磨いていけば、名刀になります。たった一本の名刀かもしれませんが、それでいいと思います。