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2019年12月05日

サハリンの日本遺産 姿消す統治の名残




 




  サハリンの日本遺産 姿消す統治の名残


               〜GLOBE+ 12/4(水) 12:02配信〜

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       サハリン州地誌博物館は、過つての樺太庁博物館(撮影 服部倫卓)


 消滅する日本由来の狭軌鉄道

 ユーラシア大陸の東、北海道の北に浮かぶ樺太島(ロシアでの呼び名はサハリン島)は、日露戦争後の1905年のポーツマス条約により、北緯50度線を境に南北に分割され、北は帝政ロシア(後にソ連)領に、南は日本領に為りました。
 しかし、第二次大戦末期の1945年8月のソ連対日参戦によって、ソ連軍が南樺太を占領。以降、樺太島全土をソ連(後にロシア連邦)が実効支配し現在に至ります。今日のロシアの行政区画では、樺太島は極東連邦管区の中のサハリン州に属して居ます。なお、樺太島だけで無く、千島列島・クリル諸島もサハリン州に所属してます。

           12-5-6.jpg

 サハリン南部には今でも、日本統治時代の遺産が僅かに残って居ます。その一つに、過つて日本が敷設した軌間1,067mmの狭軌鉄道も在りました。処が、ロシアは2003年からサハリンの鉄道の軌間をロシア本土と同じ1,520mmの広軌に入れ替えるプロジェクトに着手。曲折を経て、この程9月1日より、広軌による鉄道運行が開始されました。
 こうして、サハリン島における日本統治の名残が、又一つ姿を消しました。このニュースに接して、サハリンにおける貴重な日本遺産の風景を取り上げて見たく為りました。飽く迄も私の限られた体験の範囲内ですが、今回はこのテーマでお送りします。

 ちなみに、プーチン政権は間宮海峡(その最狭部のネベリスコイ海峡)に橋を架けてロシア本土とサハリン島を結び、此処に鉄道を通すと云う壮大なプロジェクトを計画して居ます。サハリンの鉄道をロシア本土と同じ1,520mmに作り替えたのは、将来的に大陸とサハリン島を鉄道で行き来出来る様にする為の布石でもあります。

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 未だ線路が狭軌だった2013年に、州都ユジノサハリンスク・過つての日本名は豊原の駅で筆者が撮影したもの。その後、線路、車両共に広軌のそれに一新されてしまった筈なので、今と為っては貴重なショットと言えるかも知れません。
 なお「D2-007」と書かれた手前にある列車は、1986年に富士重工宇都宮車両工場で生産されたものだそうです。当時のソ連運輸通信省が、日本の鉄道車両技術を参考にする狙いもあり、10編成40車両を、当時の日商岩井を介して輸入したのだとか。寂しい事に、サハリンにおける狭軌の廃止に伴い、この列車も引退する方向の様です。







 博物館が代表的な建築遺産

 今日のサハリンの街中を歩いてみても、日本統治時代の建築物等は余り残って居ません。そんな中、過つて日本が建てた樺太庁博物館の建物が、現在はサハリン州地誌博物館として使用されて居り、日本風の建築が往時を偲ばせて居ます。
 樺太庁博物館は1937年に開館し、日本の城郭屋根を乗せた当時流行の帝冠様式の建築でしたが、1945年8月24日にソ連軍によって接収されました。サハリン州地誌博物館では、ソ連体制下では、1905〜1945年の日本時代に付いての資料は展示されて居なかったそうです。ソ連崩壊後は、日本時代の資料に付いても公開される様に為りました。北緯50度線の国境標石等を見る事が出来ます。

 個人的に、2013年に初めてサハリン州地誌博物館を見学して衝撃を受けた写真があります。日本は1945年に敗戦し南樺太をソ連に明け渡した訳ですが、日本人住民は直ぐに本土に戻れた訳では無く、多くは2年程、ソ連統治下のサハリンで苦難の生活を余儀無くされた様です。
 下の写真は、ソ連統治下で初めて迎えた1946年のメーデーの様子。「国営オットセイ工場」と云う名前や、オットセイのハリボテが恍けた雰囲気を醸して居ますが、笑顔のロシア人に対し、笑って居る日本人は一人も居らず、彼等を襲った過酷な運命に思いを致さざるを得ません。
 なお、2018年に私が再度この博物館を見学した時には、このオットセイ工場の写真は見当たら無かったと思います。ヒョッとしたら、もう展示はされて居ないのかも知れません。

 遠征軍上陸記念碑

 アレは、サハリン島の南岸のコルサコフ・日本時代の呼び名は大泊に程近いプリゴロドノエに在る「サハリン2」の液化天然ガス(LNG)プラントを視察しに行った時の事でした。その近くの丘に登ってみた処、ソコに日本語の石碑がありました。

           12-5-4.jpg

 横倒しになった碑文には「遠征軍上陸記念碑」とあります。私は確認出来ませんでしたが、後日、日本総領事館で伺った処、1905年と云う年号も書いてあるとの事でした。詰まり、日本が日露戦争に勝利して南樺太を領有した際に、軍が当地に遠征しそれを記念したものの様です。
 ちなみに、今日この地は海水浴場として地元民に人気がある様で、丘の周りは駐車された車で溢れて居ました。打ち棄てられた日本語の石碑、屈託の無い笑顔で溢れるビーチ、そしてその向こうに見える世界最大級のLNGプラントと、中々シュールな風景でした。

 旧北海道拓殖銀行大泊支店

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 そのコルサコフの中心部には、日本統治時代の建築遺産が、ヒッソリと残って居ます。旧北海道拓殖銀行の大泊支店の店舗がそれです。私自身は訪問した事が無いので、過つての同僚が撮った写真をお借りしました。
同行が樺太で営業を開始したのは日露戦争が終わって間も無い1905年で、日本銀行の委託を受けた拓銀が社員を派遣。1907年には正式に支店と為り、一部預金為替業務も開始したと云う事です。

 大泊支店はソ連の南樺太占領によって閉鎖されたものの、建物は残り、近年は日本の極真空手の道場として使われたりして居たそうです。内部は大理石の柱が立つモダンな造りながら、写真に見るように近年は建物の傷みが大分激しく為って居ました。
 最新の情報では、シートが被せられて修繕工事が行われて居た様です。従って、この日本遺産に付いては、どうにか消滅を免れ、これからも日本統治時代の名残を留めて呉れそうです。


           服部倫卓      以上







 【関連報道】 「日本の協力は要ら無い」 独自の発展に自信を深めるロシア@色丹島

   〜北方領土ってどんなとこ?  朝日新聞記者 中川仁樹 2018.09.28〜

 行きたくても行け無い場所。日本人に取って北方領土はそんな場所です。日本政府はこの地域を「ロシアが不法占拠して居る」として、日本人の立ち入りを規制して居るからです。そんな現地の今を、地元ジャーナリスト等の力を借りてリポートします。

 「アジン(1)ドゥバ(2)トゥリ(3)」

 北方領土・色丹島の斜古丹(しゃこたん・ロシア名・マロクリリスク)に在るスポーツセンター「色丹アリーナ」子供達が稽古に励んで居るのはロシアで人気が高まって居る軍の白兵戦用に作られた実践的な格闘術だ。実戦形式の練習では、安全の為頭や胴、足にプロテクターを装備する。
 10人程の子供達の表情は真剣そのもの。コーチの構えるミットを目掛け、鋭い突きや蹴りを次々と繰り出して行く。

 この体育室があるのはアリーナの2階。中央に敷かれた試合用のマットを囲み、サンドバッグやパンチングボール、トレーニング器具がズラリと並ぶ。1階にはバスケットボールやバレーボール等の球技が出来る広い体育室もある。
 シベリアのクラスノヤルスクから来たインストラクターのヤロスラブ・ザバーギンさん(31)は「施設はとても豪華。ロシア本土でも、何処にでも有る様なレベルじゃ無い」と話す。ランニングやウエイトトレーニング等の器具もズラリと並ぶ。島内には20年以上、屋内スポーツ施設が無く、島民待望の施設だ。

 色丹アリーナがオープンしたのは2017年3月。ロシア政府が地域開発の目玉として作った「クリル諸島(千島列島と北方領土のロシア側呼称)社会経済発展計画」により建設された。
 館長のセルゲイ・ロギノフさん(43)は「島民に取っては待望の屋内スポーツ施設だ」と打ち明ける。色丹島は1994年の北海道東方沖地震で大きな被害を受け、体育室を備えた新しい文化会館も壊れてしまった。その後、20年以上屋内スポーツ施設が無い状態が続いて居たと云う。

 住民の期待に応える為、器具の購入には住民アンケートの結果を反映させた。チーフ・インストラクターには、モスクワのスポーツ大学を卒業し陸上の国際大会で優勝経験もあるスポーツ選手を本土から招いた。営業時間は火曜日から日曜日の午前9時〜午後10時で、大人の利用料金は100〜150ルーブル(約170〜約250円)、18歳迄の子供は無料だ。
 格闘技や球技、ストレッチ等に平均で週400人が通う。ロギノフさんは「島民にスポーツの習慣を根付かせたい」と意欲を示す。

 色丹島では他にも社会経済発展計画によるインフラ整備が急速に進んで居る。2015年7月には、島中部の穴澗(あなま。ロシア名・クラボザボツク)に総合病院が開業。内科や外科、小児科、産婦人科、歯科があり、それ迄島には無かったマンモグラフィー等の新しい設備も整備した。治療の為にサハリンに船等で行く負担が大幅に軽減された。
 今年5月には新しい幼稚園が開園。サハリン州のコジェミャコ知事は、滑走路の建設にも意欲を示して居る。2017年8月には北方領土で初の経済特区が色丹島で作られ、水産加工場のプロジェクトが進行中だ。斜古丹のロシア側行政トップであるセルゲイ・ウソフさんは「経済特区が出来、人口が増えて居る。島はこれから発展するだろう」と自信を示す。

 色丹島では20年程前迄は、親日的な雰囲気が強かった。1994年の地震の頃、ソ連崩壊後の経済や社会の混乱期にあり、ロシア政府からの支援が遅れた事もロシアへの諦めに近い島民感情を膨らませた。一方、日本は大量の食糧や医薬品を送った他、診療所や発電所も作って積極的に支援。島民の中には「島を日本に引き渡しても好い」と云う声が強く為ったと云う。
 だが、プーチン大統領が2000年に就任した後、原油高の追い風も受けてロシア経済は発展に向かい、社会も安定。プーチン氏は極東開発にも積極的な姿勢を示し、日本への編入を望む島民の声は小さく為って行った。安倍晋三首相とロシアのプーチン大統領が2016年12月の日ロ首脳会談で、北方領土での共同経済活動を目指す事で合意したが、実は島での期待はそれ程盛り上がって居ない。

 1956年に日本とソ連が結んだ日ソ平和条約には、平和条約締結後に色丹・歯舞の2島を引き渡すと明記した。プーチン氏も日ソ平和条約を日ロ交渉の基礎とする考えを示して居り、2島返還が日ロの落とし処との見方は根強くある。色丹島の住民の中には、共同経済活動が返還の布石に為ると恐れて居る人さえ居る。
 ウソフさんも「日本人に関係するテーマには興味は無い。彼等が何かをすれば、何かを要求される」と、日本への警戒感を示す。又「エネルギーや観光、ゴミのリサイクルでは共同経済活動に賛成だ。ロシアより優れた技術があるから」としながらも「漁業等では、それ程日本の協力は要ら無い。日本が魚を取り尽くすから」と主張する。

 9月中旬にウラジオストクで開かれた東方経済フォーラム。北方領土問題に向け、共同経済活動を前進させ様と乗り込んだ安倍晋三首相を待って居たのは、ロシアのプーチン大統領の予想外の提案だった。
 「年末迄に、前提条件無しで平和条約を結ぼう。領土問題等の懸案は条約に書き込めば好い」
 プーチン氏の強気の姿勢の背後には、着々と進む北方領土の開発と、それに対する住民の支持に自信を深めて居る事がある。


                  以上


 【管理人のひとこと】

 何を隠そう、管理人は終戦の翌年の1946年に樺太で生まれた引揚者の家族だ。管理人は、生まれたばかりなので樺太の記憶は全く無いが、私の兄姉達が子供時代に育った・・・恐らく懐かしい故郷なのだろう。北海道に引き揚げて最後は札幌に居を移した。
 安倍氏の外交努力?も空しく2島返還もママなら無かったが、今更二つの島が戻ったとしても、果たして日本に何が出来るのだろう。それで無くとも北海道でサヱ少子高齢化の波に襲われ人口減少が続き、次々と空白地帯が生まれて居る。酷寒の地をどの様に開拓し維持発展させられるのか・・・とても疑問なのだ。それで無くとも緊縮財政を誇る我が国が、北方領土を返して欲しい・・・と真剣に考えて居るのかも疑わしい。恐らく、魚業関係では何がしかのメリットは在るだろうが、この狭い国土も持て余して居る現状では何をか言わんである。



















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