アフィリエイト広告を利用しています
ファン
検索
<< 2022年02月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28          
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
ヨリちゃんさんの画像
ヨリちゃん
プロフィール

広告

posted by fanblog

2019年08月22日

部落差別に抵抗した人々 その歴史が刻まれた京都の街 を行く



 
 部落差別に抵抗した人々 その歴史が刻まれた京都の街 を行く


  〜yahoo ニュース 4/23(火) 9:47 配信 (京都新聞社・岡本晃明 Yahoo!ニュース 特集編集部) 〜


 




 〜トンネルを抜けて、東京からの新幹線が京都駅へと減速して行く。鴨川を渡ると、車窓から金網に囲まれた空き地と古い団地が見える。
 京都は今、観光客で溢れ京都駅周辺はホテル建設ラッシュに沸く。観光地へ急ぐ人達は通り過ぎてしまうが、京都には部落差別に抵抗した人達の歴史も刻まれて居る。部落差別は、地名を明記して地区の現状や未来を語る事さえ抑圧して来た。
 再開発の波に晒され立ち退きが迫る京都駅前の街で、出身地を隠す事を強いられて来た人達に、街への思いを聞いた〜



 迫る「改良住宅」からの退去

 京都の人気観光スポット「三十三間堂」は、JR京都駅から東へ歩いて行ける。その途中、鴨川に架かる橋の手前には、フェンスに囲まれた更地と工事現場が目立つ。ここ「崇仁(すうじん)」と呼ばれる地域では再開発が進む。
 その一角に淡いグリーンの古い洋風の建物が見える。「柳原銀行記念資料館」と云う。明治時代、被差別部落の人達が地域振興の為に自ら設立した銀行の遺構だ。崇仁地域は大正時代、被差別部落の人達が誇りを取り戻そうと、差別撤廃に団結した「水平社運動」の拠点で全国仮本部が置かれた。

 「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と呼び掛けた日本初の人権宣言「水平社宣言」は1922年、京都市内で採択されて居る。そうした運動の関連資料は、柳原銀行記念資料館で保管されて居る。
 資料館の傍に5階建ての団地がある。戦後、部落差別を無くす為の同和行政で建設された「改良住宅」だ。世帯向けで広さ35平方メートル。エレベーターも風呂も無い。住民は「市ブロ」と呼ばれる同和対策事業で建てられた市営浴場に通う。

 築50年に為る棟で一人住まいする高橋のぶ子さん(83)は、夫と共に、此処で子供2人を育てて来た。勉強机を置くスペースは無く、炬燵に家族全員は入れ無い。改良良住宅の建設前を高橋さんが振り返る。

 「路地の8軒長屋で共同便所、共同ポンプの水場が一つ。子供が何処の家も多かったから、朝はトイレの順番待ちで『早よ出え』って喧嘩に為るし、雨の日は泥濘(ぬかるみ)の路地で傘を指して水汲みをしたもんです」

 部落解放運動は1950年代に高揚し、住環境の改善を行政に求めた。高橋さんは生活と子育てに追われる中、解放運動と出合った。

 「路地裏集会へ行くと夫が怒ってナ。部落差別では『寝た子を起こすナ』と云う風潮があったから。集会や識字教室に行く時は、夫に『お風呂行って来る』とウソを着いて洗面器持って出たもんヤ。改良住宅が出来るのが、ソラ楽しみやった。工事を毎日見に行った。家毎に蛇口があってトイレもあって。極楽やナア云うて」

 京都市は、郊外に在る京都市立芸術大キャンパスを2023年に崇仁地域に全面移転する計画を進行中だ。駅東部を「文化芸術都市」のシンボルゾーンにと掲げる。芸大移転に伴い、高橋さん達が暮らす改良住宅の古い七つの棟や「市ブロ」は取り壊される。崇仁地域内に新設される市営住宅へ転居する日が迫る。

 「納得出来ん、と言うてん、最初は。一人遣ったらココで十分や。思い出もあるしな。建てる迄の運動を思ったら離れたく無い。でも崇仁の人口も減って居るし、シャアナイなとも思う」

 高橋さんは2年前、転倒して脚に障害が残り、階段の上り下りが辛い。新築の市営住宅にはエレベーターや風呂も完備される。それでも「納得出来無い」と云うのは、行政に翻弄された街作りへの思いがあるからだ。
 京都駅東側に密集して居た劣悪な家屋やバラックを、京都市は1960年代から本格的に撤去して来た。指定した全域を市が買い上げ、同じ地区内に新設する改良住宅に賃貸で入居して貰う「クリアランス」方式を取った。指定区域が広い崇仁地域では買い上げが難航、バブル期に地上げ業者が暗躍した煽(あお)りも受け、先行取得した市有地が更地のママ虫食い状態で放置されて居る。
 それが人口流出の一因と為った。崇仁地域には改良住宅が計22棟・約1000戸。空き室が目立つ。過つて9000人だった人口は激減し1400人に。半数近くは高齢者だ。

 78歳の女性は「ココでは顔見知りが居るけど、立ち退き後の市営住宅では何処に入居するか抽選だから、誰が隣に来るのか分からん。この年齢だと不安やネエ」と話した。
 片岡親樹さん(72)は3年前に脳梗塞で倒れ右脚が不自由だ。「新しい市営住宅に移ったら、家族が独立し今は単身なので、入居要件で狭い部屋に為るかも知れん。家族分の家具があるのにどうしたらエエンヤ」と言う。「でも、今のママでは街は高齢者ばかりに為る。芸大移転で若者が来て賑やかに為る事を期待して居る」芸大移転に伴う改良住宅立ち退きに、簡単に〇かバツ1の賛否で割り切れ無い思いがある。


 




 一代限りの街

 2006年迄に国土交通省は、公営住宅の家賃に付いて「応能応益負担」や入居基準見直しを打ち出した。改良住宅を公営住宅と同じ扱いに出来る様変え、これが旧同和地区の改良住宅に暮らす人達を揺さぶった。
 公営住宅制度は低所得者層への住宅対策だ。何世代も定住する想定では無く、住み替えを促す様制度設計されて居る。事実上「一代限り」の施策だ。一方、改良住宅は「住宅地区改良法」に基づく、公営住宅とは別の法律だ。同和地区等の劣悪な家々を街並み毎行政が取り壊し、代わりの住居を提供する制度で、入居資格には収入制限も同居親族要件も無かった。高橋さんは改良住宅に入居した頃、こんな街に為るとは想像して居なかった。

 「ズッと住み続けられると思って居た。孫達世代・子供世代も、地域の人達が住み続ける街ヤと思って居た。今は家賃が応能応益負担で、所得が在る程高い家賃に為った。お風呂も無いこんな狭いとこやで。若い世代が住めん。そりゃ出て行かはるわな」

 子供達が成人して一旦地区外で暮らすと、低収入世帯と云う入居要件がUターンしたくても壁に為る。入居者が亡く為った際、改良住宅では親族が引き継げたが、京都市は国に従い「同居1年以上」等と厳格化した。同居して親を看取ったものの、同居期間が僅かに1年に足りず退去を迫られた人も居る。根強い部落差別と重為って、子育て世帯の減少が止まら無い。高橋さんは言う。

 「応能応益にしたのは可笑しい。此処は改良住宅で差別から取り戻したんヤ。何時の間にか一般公営住宅に為った。京都市は全戸にチラシ配って説明したと云うけど、字が読めへんとこにチラシ入れた処で、丁寧に目通す人云うのは少ない。今でもそうや」

 改良住宅の建設ラッシュだった1960年代の被差別部落では、読み書きが出来ず入居契約書を読め無い人も多かった。差別による貧困で学校に満足に通え無かった人達。子供が学校で渡されたプリントが読め無い人、目的地の地名が読めずに駅の自動券売機を使え無い人・・・バスの行き先案内が分からず、無理をしてタクシーに乗る人が今も居る。

 読み書きは「識字教室」で学んだ

 崇仁地域では今も毎週土曜日「識字教室」が開かれて居る。通うのは70代以上の高齢女性5・6人。何十年と通い、達筆な人が殆どで今は習字や手芸を楽しむ憩いの場だ。高橋さんは30代だった1972年、子育てや箱にマッチを詰める内職に追われながら、地域の女性達と「崇仁識字学級」を立ち上げた。

 「最初に習った字は、何故か『うま』と云う字ヤッタ。馬の絵を先生が見せたんや。ひらがなから一つずつ(教わった)。ゼンゼン書けへんかったから」

 高橋さんは当時の作文にこう綴って居る。

 「私は識字学級に通って、一字一字勉強しても、十文字習っても三文字しか覚えられません。字をしらないことは、話すこともひかえめで、これも言っておけばよかったとあとでこうかいすることが多くあります。
 自分の子供だけは、こんな悲しみをさせたくないと思う気持ちが、何か私をさみしくしていく。なせ、こんな差別が出来たのだろう」


 差別で奪われたものと誇りを取り戻す為、文字を刻み、この地で直向に歩んで来た歴史が篭る。各地の識字教室は1970年代半ばから、行政が同和地区の隣保館(現コミュニティセンター)で運営する様に為った。当時の教材を京都部落問題研究資料センターが所蔵して居る。
 ひらがなの書き順から始まり「府庁前(ふちょうまえ)」「祇園(ぎおん)」と言ったバス停の読み方を学んだ事が分かる。作文のテーマ例には「しごと・楽しい・失対・苦しい」とある。失対とは失業対策事業の略語。日雇い労働する意味で使われた。被差別部落の暮らしに密着した言葉を教材にした事が窺(うかかが)える。識字教室で学んだ人達は、運転免許や調理士の資格を取り就職に繋げた。

 識字教室に通い始めて3年目。高橋さんの作文には、京都市内の別の被差別部落のお年寄りから聞き取った内容が綴られて居る。

 「どろんこによごれてお風呂に行くと、外の風呂場は入れてくれない。『きたない人は、みんな部落民だけや』とののしられてきた。このように、きたながられてきたが、ようやく地区の中に風呂が建てられた。そのときのうれしさは、口では言いあらわすことができないほどだったそうです
 わしらが子どものころは、子守りが仕事で、雨のふる日はお寺の門が、もりの集まる場所になっていた。せなかの子が泣くと、やかましいといって、門を追い出されるので、せなかの子と、もりとがいっしょに泣くことも多かった。みんなが苦しく悲しい中で、ふと出たことばから子守り唄をつくってうとうたもんや
 おばあちゃんたちは、目をしょぼしょぼさせながら、たくさんの話をしてくれます。その顔のしわや、手の先まで、部落差別の長い長い苦しみがしみこんでいるのです」


 この作文の終わりには、高橋さんが採録した「盆がきたとて なにうれしかろ」の子守唄がある。フォークグループ『赤い鳥』等がアレンジし『竹田の子守唄』としてヒット曲に為った。今、全国の「旧同和地区」で人口減が起きて居る。高橋さんは言う。

 「追い出せば、出て行けば差別問題が無く為ると云う考え方は誤って居る。生まれ育った街の名を、何で隠さなアカンのや」


 




 父の「すいろう」

 崇仁地域に育った藤尾まさよさん(62)は4年前「崇仁発信実行委員会」を立ち上げた。キャンパス移転を控えた市立芸大生等と一緒にフリーペーパー「崇仁〜ひと・まち・れきし〜」を発行。「ちょぼ焼き」と言った崇仁で親しまれて来た料理、様々な商店の紹介だけで無く、人々が部落差別の中で生き抜いて来た歴史を伝えて居る。
 そのフリーペーパーには、実名で笑顔で地域の人達が登場する。藤尾さんは「故郷の名前を声に出したい。差別の中で出せ無かった声を記録に残したい」と話す。藤尾さんは実名で差別体験を語り、崇仁街歩きの案内人を務める。小学生の頃の思い出。それはこんな内容だ。

 「両親は文字も書け無いので就職が出来ず、日雇いの肉体労働で顔を日焼けで真っ黒にして働いてました。懸命に働いて、ヤガテ父は水道配管の仕方を覚えました。或る日家に帰ると、電話が曳いてありました。貧乏な家に立派な電話ナンて!電話脇の壁に大きなカレンダーが貼ってありました。水道配管の仕事が入ったのでしょう、カレンダーに『すいろう』と書いてありました
 わたしも姉も学校に通わせてもらってるので文字を知っています。私たちは『すいろう』の字を指してゲラゲラ笑ったのです。『アホちゃう、ホンマは、すいどう、やで!そんな事も知らんの?』父は恥ずかしそうにして、わたしたちの前からいなくなりました。
 本当は『すいどう』です。でも父は、自分の耳に入ってくる音の中で、自分の知っている文字を並べて書くのです。小さい時から働いて働いて、やっと結婚できてそして働いて子どもが生まれ、かわいいわが子から、文字を書けないことをばかにされる。その『すいろう』という字は、その時の父の精一杯の文字でした。わたしはそんな親の痛みを知ろうともしませんでした」


 藤尾さんは、講演会でも語って居る。

 「母は口癖の様に『街の人は怖い』と言ってました。街の人とは、同和地区外の人の事を言います。私は自分の出身を隠す為地元から遠いデパートの高級服売り場で働き始めたんです。
 或る日、崇仁在住の顔見知りの小母ちゃんが来店しました。『エエとこに就職したんやな、ヨウ頑張ったな』と、我が事の様に嬉しそうに小母ちゃんが話し掛けて来る。でも心の中で『ココはアンタ等の来るとこや無い。私が同和地区出身ってバレるやん。もう帰って』と考えて居ました。生まれた町から逃げ、家族から逃げ、自分自身からも逃げて居た」


 藤尾さんは過つて、長く交際して居た男性から結婚を申し込まれた。だが、男性の母は「地区外の女性と結婚させたい」と反対。藤尾さんは絶望し自殺を図ったと云う。

 「その後、別の男性と結婚しましたが、差別の事もあって離婚し、9カ月の子供を連れ崇仁に帰りました。仕事も結婚も上手く行かず『こんなトコに産みやがって!お前等の所為や!』と親を責めた事もあります。(自分の)子供が中学生に為りPTA活動をして居た時、差別に遭った中学生が『どんなに頑張ってもアカン。どうせ僕らを認めて呉れへん』と叫ぶのを聞いて鳥肌が立ちました。
 足った15歳なのに部落差別で人生を諦める。嫌、諦めさせられる……生徒達の姿が自分の人生に重なり、部落差別への怒りが込み上げて、ヤッと47歳から人権学習を始めました。『同和地区出身だから差別されても仕方無い』との偏見をそのママ受け入れ、私が私自身を差別して来た事に気付かされた。スリ込まれた考え方に縛られ、社会の中に差別を生み出して居たのは、知ろうとして来なかった私自身だったのです。
 『知ら無い』と云う事は本当に残酷です。そして『知ろうとし無い』と云う事は、結果的に人間に残酷な事をさせるんだナと思います」



 




 ネット時代の部落差別

 差別の実態を伝えるのに「差別語」や、向けられた罵倒の言葉を記事にして好いのかどうか。部落解放運動は戦前からメディアの差別表現を告発して来た。
 1951年、雑誌の小説が、崇仁地域を含む駅周辺の地名や実名を明記して、暮らし振りや特定職業等を「暴露小説」と銘打って描写。今のマスメディアは使わ無い「差別表現」を繰り返し用いた。雑誌名から「オール・ロマンス事件」と呼ばれる。怒りの声は大きなウネリに為り、行政責任も糾弾して戦後社会運動の転換点に為った。

 被差別部落の地名が拡散される恐れは今、高まって居る。情報化の進展を踏まえて2016年「部落差別解消推進法」が制定された。メディアが被差別部落の地名を特定し報じると「〇〇さんは部落の人」と言った差別を助長し再生産する恐れがある。逆に報じ無いと、今も有る差別や同和対策事業終了後の課題が、解決済みの過去として忘れさられてしまう。
 インターネット上に繰り返される差別的な書き込み。京都駅東部エリアで、新聞紙面に実名で出た事がある人達からも、こんな胸中を聞いた。

 「ネットに写真が出るのは怖い」 「名前を伏せて」

 この記事では地名や匿名扱いに付いて悩み検討を重ねた。京都駅東部には他府県から移り住んだ人達も、在日コリアンの人も多く暮らして来た。同和問題の面だけ語ると、地名に刻まれた様々な人の足跡を消し去る危うさも伴う。
 1990年前後から崇仁地域では、歴史を語り継ぐ住民運動が立ち上がった。それが被差別部落の歴史を隠さず、藤尾さん達が誇りを持って語れる土壌と為って居る。柳原銀行遺構も解体計画から保存運動が守った。

 「市ブロ」市営崇仁第三浴場に行ってみた。過つては同和対策事業で民間の銭湯より格安だったが、同対事業が打ち切られた今は京都市内の銭湯と一律の430円。
 男湯の扉を開けると服を入れた脱衣籠が三つ。お年寄りが「兄ちゃん、石けん持ってんのか?シャンプーは?」と声を掛けて来る。湯気で煙る風呂場に顔馴染み同士の世間話が木霊する。「馴染みの飲食店も市ブロも、芸大移転で無く為るそうや」市営住宅への転居を待たずに地区外へ去った人のウワサ。高い天井に反響して好く聞き取れ無い。木霊するのが楽しいのか、女湯から子供達がオオカミの遠吠えを真似る声がする。


 「昔の市ブロは仰山(ぎょうさん)の子供で、ソラぁ賑やかヤッタで」

 (肩書、年齢等は取材時のものです 敢えて本記事では人物や風景を記載しません)

                 以上



 京都新聞社 1879(明治12)年に創刊。京都府と滋賀県全域をカバーして居る地元紙。https://www.kyoto-np.co.jp


 




 あの話題の車に頭金なしの完全月額定額で乗れる






この記事へのコメント
コメントを書く

お名前:

メールアドレス:


ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/9107585
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。