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2021年06月27日

関門トンネルは何故戦時下に完成を急がれたのか  背景に壮大な計画も



 旧陸軍も後押し  背景に壮大な計画も  

 関門トンネルは何故戦時下に完成を急がれたのか?  


 6-27-4.png 6/26(土) 6:20配信 6-27-4


 戦時中に完成した世界初(諸説あり)の海底トンネル


 6-26-10.jpg

 関門(鉄道)トンネルは関門海峡を横断する他の橋やトンネルからは少し離れて位置する 尚、新関門トンネルは新幹線用(国土地理院地図を加工) 6-26-10


 関門海峡の海底下を潜って本州と九州を結ぶ「関門(鉄道)トンネル」は、クルマや歩行者が行き来出来る「関門国道トンネル」と、新幹線が走って居る「新関門トンネル」等と共に、関門海峡を横断する交通路として知られて居ます。
 その開通は1942(昭和17)年7月1日と、関門海峡のトンネルとしては最も古く当時の日本は、第2次世界大戦に参戦し対米英戦の只中にありました。

 実は「関門トンネル」は、世界で最初の本格的な海底トンネル(諸説あり)であると共に「シールドマシン」と云う先頭に大きな刃の着いた回転式の筒型装置で掘削とトンネル壁面の構築が同時に出来る「シールド工法」と呼ばれる工法を、長距離を掘り進む為に日本で初めて本格的に導入したトンネルでありました。  
 本州と九州を結ぶ連絡通路を作ろうと云うプランは、可成り古くから存在し20世紀の始まり頃には既に計画がありました。

 当初は関門海峡に橋を架け様と云う考えでしたが、これは敵艦船からの砲撃の格好の的に為ってしまうと云う理由で却下されます。結果的にこの時の決断が、航空戦力の登場した後の時代にも活きる事に為ります。 1910(明治43)年1月の時点で、関門海峡にトンネルを通す計画がスタートしたと新聞等で報道されて居ますが、当時の鉄道院・内務省間の交渉が手間取り、正式に着手したのは1919(大正8)年に為ってからの様です。
 そこから地質調査・海底調査等が行われ、1921(大正10)年7月には工事が可成り困難で莫大な予算が掛かる事が判明し、結局、翌年から計画の立て直しが行われました。

 そして、各省庁の思惑もあり工事計画は難航。1930年代にはトンネルを掘るよりもこのママ船で云いのではと云う案も出ましたが、最終的には当時の鉄道省を陸軍が後押しする形で、1936(昭和11)年7月には現場機関として鉄道省下関改良事務所が発足し、同年9月19日に小森江で起工式が行われ、空前の大工事がスタートしました。

 軍事的緊張が高まる中 突貫工事で開通!


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 関門(鉄道)トンネル用シールドマシン 画像 鉄道省 土木建築工事画報1939年1月号「関門海峡連絡隧道工事図譜」Public domain、via Wikimedia Commons 6-26-11


 何故陸軍がこの計画に乗り気だったのでしょうか。それは、このトンネルが開通し実績が出来れば、国内の流通の安定だけでは無く、当時、計画として在った〔九州・壱岐・対馬・朝鮮半島を海底トンネルで繋げ、満州から九州迄繋がる鉄道網を構築〕しようと云う「大東亜縦貫鉄道構想」も前進するのではと云う思惑が在ってのものでした。
 空前の規模の計画ですが、完成すれば陸軍は、大陸向けの軍需品輸送の多くを鉄道で行えると云う事で、海上輸送よりも安定的な補給網を確保出来ることに為ります。  

 関門トンネルの起工直後に、大陸では中華民国との軍事衝突が始まりましたが、地質等を調べる為に本坑に先行して掘られて居た試掘坑道は1939(昭和14)年には貫通しました。その後も、戦時体制下で在っても工事は止まらず出水事故等を克服しながら、1941(昭和16)年7月10日には下り線の本坑が貫通しました。
 この本坑の工事には、これ迄国内で満足に行く結果の得られ無かった「シールド工法」を成功させる為、関係悪化が著しいアメリカに迄視察へ行ったそうです。  

 下り線には1942(昭和17)年6月11日に最初の試運転列車が通り、7月1日に貨物用として開通し、11月15日には旅客用にも開通しました。上り線のトンネル開通は1944(昭和19)年8月8日で、同年9月9日から複線での運用が開始された様です。
 尚、上り線トンネルの着工は1940(昭和15)年と云う事で、戦時中の物資の安全な流通の確保と云う目標もあり、可成りの突貫工事で進められて居た事が伺えます。

 戦時中にアメリカ軍は 関門トンネル破壊を検討していた!?


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 関門(鉄道)トンネル下り線トンネルの掘削現場(画像 鉄道省 土木建築工事画報1939年1月号「関門海峡連絡隧道工事図譜」Public domain、via Wikimedia Commons 6-26-13


 上下線のトンネルが開通した1944(昭和19)年7月は、太平洋戦争に於ける日本の敗色が既に濃厚に為り出して居た時期で、サイパン島を喪失し本土空襲の危機感も高まって居ました。本土空襲が始まると同時に、日本列島の島々を行き来している連絡船も狙われる様に為り、更にアメリカ軍の「飢餓作戦」と呼ばれる機雷による海上封鎖作戦で日本の海上輸送力は極端に低下します。
 そこで重要な地位を得たのが完成したばかりの関門トンネルで、本州と九州間の石炭や物資、更に兵員や兵器の輸送を比較的安全に行う事が出来ました。  

 連絡船の機能が麻痺する中、物資を運び続ける関門トンネルをアメリカの陸軍航空軍も日本に於ける最も重要な攻撃目標と位置付け、B-24爆撃機に搭載した遅延信管を着けた爆弾での爆撃も計画されて居ました。
 又、予定して居た南九州上陸作戦を支援する為に、日本船に偽装した救助船に爆薬を積んで関門トンネル付近に沈め、リモコンで爆破すると云う作戦計画も在ったそうです。幸い、爆撃や爆破作戦の準備をして居る内に戦争は終結と為り、関門トンネルは壊される事無く現在も運用されて居ます。

 戦時中は本州と九州を繋ぐ生命線と為り、戦後も日本の交通網に於ける要所の一つを担った「関門トンネル」で得たトンネル掘削のノウハウは、戦後日本の土木技術向上に大きな力と為りました。


 斎藤雅道 ライター 編集者





 【関連記事】トンネルの長さ4,999m・4,998m 敢えて5,000m未満に? 何故なのか?


 6-27-4.png 2021.01.01


 トンネル技術の進展により、5,000mを超える長大トンネルも珍しく無く為って来ましたが、中には4,999m・4,998m・4,997mと敢えて5,000m以下にしたのかと思えるものも。実は5,000mを超えると或る制約が生まれます。

 「長大トンネル」「水底トンネル」を通れ無い車両が
 
 5,000mを超えるトンネルは一般的に「長大トンネル」と呼ばれます。トンネル技術の進展により、その様な長いトンネルも今や珍しくは無く為って来ました。しかし、中には敢えて5000m未満にしたのかと思えるものも存在します。
 例えば中部横断道の樽峠トンネル(静岡県〜山梨県)は4,999m、国道106号「宮古盛岡横断道路」の新区界(くざかい)トンネル(岩手県)は4,998m、新名神高速の箕面トンネルは4,997mです。新東名も5,000m以上のトンネルがありませんが、大小のトンネルが9本も連続する様な区間もあります。


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 6-27-22 中部横断道の樽峠トンネル(写真は建設中)道路上の表示は四捨五入されて5,000mと為って居るが実際には4,999m(画像NEXCO中日本)


 実はトンネルの長さが5,000mを超えると或る制約が生まれます。石油を運ぶタンクローリー等、危険物積載車が原則通れ無く為るのです。規制の理由は道路法で「トンネルの構造を保全し、又は交通の危険を防止する為」とされて居ます。違反して通行した場合の罰則もあり、6か月以下の懲役又は30万円以下の罰金と為って居ます。
 
 高速道路機構(日本高速道路保有・債務返済機構)に依ると、5,000m以上のトンネルは供用前に危険物積載車の通行の禁止又は制限の検討を高速道路会社と連携して行い、必要性を判断しながら規制を実施するとのこと。又、供用後で在っても必要な場合は検討を行うと云います。
 尚、長大トンネルだけで無く、東京湾アクアラインのトンネルの様な水底トンネルや、これに類するトンネルも同様に危険物積載車の通行が規制されます。これ等は、首都高の羽田トンネル(300m)や東京港トンネル(1,325m・並行する国道357号のトンネル含む)等、大半が5,000mよりもズッと短いものです。

 タンクローリーも長大トンネルを通れる時がある
 
 例えば群馬・新潟県境の山地を貫く関越道 関越トンネル(1万1,055m)の場合、危険物積載車はその手前のICで下り、つづら折りのカーブが続く国道17号を経由して、三国トンネル(1,218m)を通行するのが一般的です。
 これでは災害時に被災地へ迅速なエネルギー輸送が出来無いと云う事で、2016年には国土交通省が通行規制の緩和を通達しました。被災した自治体等からの要請で、かつタンクローリーの前後に誘導車を配置し他の車両との間隔を保つと云った通行の安全が確保される場合には通行が認められる事があります。
 国土交通省道路局によると、2020年7月の九州豪雨の際も九州道の長大トンネルで規制緩和が適用されたそうです。


6-27-23.jpg

 6-27-23 災害時などでは、安全対策を行ったタンクローリーならば、長大トンネルの通行が認められることがある(画像 国土交通省)


 ちなみに、近年は地下区間が長い路線も増えて居り、日本最長の道路トンネルである首都高C2中央環状線の山手トンネル(18.2km)も危険物積載車は通行出来ません。一方、外環道の千葉区間(三郷南IC〜高谷JCT)も10km以上に渉り地下を走りますが、此処は道路の中央部が地上に向かって開いた構造の、所謂「半地下トンネル」(NEXCO東日本の呼称では「堀割スリット構造」)である為、危険物積載車も通行が可能です。
【了】



 〜管理人のひとこと〜

 〔シーら無かった・・・〕と云うものが世の中には幾らでもあります。このブログを始めてからは、色々な事を知り、知らなくても済んだことも数々あります。殆どの記事は管理人の気紛れな好奇心からですので、当たり外れが大きいのも許して頂きたい。バッチリと嵌るのは10に1つもあれば大成功です。
 普段何気に見過ごすものにも、先人が苦労し頑張った物語が数多く存在するものですネ。世の中には幾らでも感謝せずには為ら無いものが星の数ほどあるのです。イチイチ周囲に頭を下げて感謝するのも何ですから。普通にスルーするのが現代人のスマートさなのです。何か言いたいことが在れば、ご自由にメールを入れてくださいネ・・・待ってます。

















 




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