2020年04月26日
「始皇帝」を生んだ男達 〜秦帝国 天下統一への道【中国歴史夜話】
【中国歴史夜話】
「始皇帝」を生んだ男達 秦帝国 天下統一への道
〜サライ.jp 文 砂原浩太朗 小説家 4/26(日) 11:05配信〜
暴君か英雄か評価は分かれるにしても、歴史上、秦の始皇帝(前259〜210)の存在感は誰もが認めざるを得ない。何しろ、500年以上に渉り乱れに乱れた世を統一した人物なのである。好悪は別として、只者で有る訳も無い。
だが、言うまでも無く天下統一は始皇帝一人の功績では無い。彼が13歳で王位に就いた時、秦は既に他を圧倒する強国と為って居た。云わば「始皇帝」誕生の地均(じなら)しが出来て居たのである。本稿では、秦を覇者足らしめた男達を通じ、大帝国胎動の軌跡を追う。
小説家 砂原浩太朗氏
法に生き、法に死す〜商鞅☟(しょうおう)
秦は元々中国の西北辺境に暮らす民で、主に牧畜を行って居たと云う見方が有力である。天下を治めた周王室が衰退、国々が争い乱れたのが春秋・戦国時代(前770〜221)だが、この初期に諸侯の列へ加えられた。が、その後も他の国より一団低く見られる時期が続く。
それが一変したのは、商鞅(しょうおう ?〜前338)に依る改革の為。衛(えい)と云う小国の王族出身で本名は公孫鞅と云うが、後商の地を与えられたのでこう呼ぶ。
孝公(在位前361〜338 この時代は、未だ王を名乗って居ない)に仕え、未だ辺境の一国に過ぎなかった秦を法治国家へと変貌させた。
村落をまとめて「県」と云う行政単位を作り、中央から派遣した役人に治めさせる、バラバラだった度量衡(長さ・容積・重さの単位)を統一する等、後に始皇帝が行った政策は、商鞅に起源を持つものが多い。又、自ら幾度か軍功を挙げ、君主の一族でも功無き者はその籍に入れ無い等、厳しい統制で強国への道を志向した。
彼を巡っては興味深いエピソードが色々と残って居るが、此処では代表的なものを二つ紹介する。先ずは孝公に仕官する折の事。最初、徳を以て世を治める道を説いたものの全く関心を持たれ無かった為、日を改め面会を願った。
つぎは短時日にして強国を作り上げる方法を披露した処、孝公は痛く感じ入り、商鞅を信任する様に為ったと云う。何より実利を重視する秦と云う国の性格が好く出た挿話だろう。
もう一つは、彼の最期に纏わるもの。商鞅は極めて厳格に法を用いる人物で、君主の一族や貴族でも容赦なく罰した。その為恨みを買う事深く、孝公が没するや直ちに失脚、命を狙われる身と為って逃亡する。その途次、或る宿屋に泊まろうとしたものの断られてしまった。
慌てて逃げた為置き忘れて来たのか、追われる身ゆえ出す訳に行かなかったのか、身分を証明する書類が示せ無かったのである。無論、相手がこの国の宰相等と知る由も無いママ、宿の主が云う「商鞅さまの法では、身元が判らない者を泊めると、罰せられる事に為って居りますので」
自ら作った法に依って追い詰められた形と為り、結局は車裂きの刑と云う悲惨な最期を遂げてしまう。が、彼が大国秦の礎を築いたのは疑う余地の無い事である。
勝ち過ぎた名将・白起
商鞅の改革に依って強国と為った秦は、昭王(在位前307〜251)の世、更なる大躍進を遂げる。王は始皇帝の曽祖父に当たり、57年の長きに渉ってその位に在った人物。宰相・范雎(はんしょ)に依る遠交近攻(遠方の国と結び、近くの国を討つ)策を採り、七雄と呼ばれる諸侯の内斉と親しみ、楚や韓・魏・趙と争った。
この時代、軍事面で絶大な貢献をしたのが名将・白起(はくき ?〜前257)である。度々諸国との戦で功を建てたが、司馬遷の「史記」には「首を捕る事24万」「13万」「5万」「城を落とす事61城」等、凄まじい迄の戦歴が記されて居る。無論誇張も大きいだろうが、連戦連勝の勢いだった事は間違い無い。
中でも特筆すべきは、秦の覇権を決定付けた「長平(山西省)の戦い」趙を相手とする戦だが、当初、秦軍は敵将・廉頗(れんぱ「刎頸の交わり」と云う故事で有名な人物)の持久戦術に悩まされて居た。ソコで「秦が恐れて居るのは、趙括(ちょうかつ)が将軍と為る事だ」と云う噂を流す。
趙括は若き俊才で兵法の研究にも長けて居たが実戦の経験は少なかった。目論見が当たり、廉頗に代わって趙括が派遣されて来た処で秦側も猛将・白起を投入する。
趙軍は難無く撃破・包囲され40万人と云う犠牲を出して再起不能の状態に追い込まれた。実際、後に始皇帝が天下統一へ乗り出した折も、趙は早々と滅亡の憂き目を見る事と為る。
だが、戦国最大とも云うべき犠牲を出したこの戦は、勝者で有る白起の心にも深い傷を残したらしい。彼は僅か3年後、王から叛意を疑われ自決を命じられるが「長平でアレ程の人を殺したのだから、当然だ」と云って死の座へ就いたと云う。
始皇帝即位の立役者・☟呂不韋
「長平の戦い」は、後の始皇帝・政(せい)が生まれる前年の事。この頃、彼の父で昭王の孫に当たる子楚は、何と戦の相手である趙の都に人質と為って居た。故国で在る秦が、現在身を置く趙に決定的な大勝を収めてしまったのだから、命さえ危ぶまれる身の上である事は言う迄も無い。
だが、そんな彼に手を差し述べる人物が現れた。呂不韋(りょふい)と云う豪商がそれである。子楚は20人以上居る子の一人に過ぎなかったが、利用価値が有ると踏んだのだろう「奇貨居くべし(掘り出しものだ、押さえて置こう)」と云って接近した。
政 始皇帝
秦本国の有力者に働き掛け、子楚を太子とする事に成功する(第9回参照)。のみ為らず、イヨイヨ険悪と為った情勢を睨み、趙の都から子楚を脱出させたのも彼だった。
又、始皇帝の生母が元呂不韋の寵姫で有った為、彼コソ実の父であると云う説迄囁かれて居る。無論伝承の域を出ないが、呂不韋が居なければ、後の始皇帝・政が王と為れた目は極めて小さい。それ処か、幼くして趙の都で殺されていた可能性も高いから、彼コソ「始皇帝」を生んだ男だとは言えるだろう。
子楚は在位3年にして没し政が13歳で王位に就く。呂不韋は父の代から引き続き宰相に任じられた。3,000人の食客を抱え、現代迄伝わる「呂氏春秋」と云う書を編纂させる等、絶大な勢威を奮う。
が、太后(政の生母で、呂不韋の寵姫だった女性)の愛人である「ろうあい」が反乱を企てた際、同心を疑われて罷免、程無く自ら命を絶つ事と為る。政が天下統一戦に乗り出したのは、呂不韋の死から5年後。大願を波多氏、中国最初の皇帝と為るには、そこから9年しか掛から無かった。
後進国と目されて居た秦は、商鞅以来100年余りで天下を統一するに至った。だが、こうして振り返れば、その功労者とも云うべき人物が揃って天寿を全うして居ない事に気付く。秦に限らず、国家の誕生には、数多の流血を必要とするのだろう。歴史に触れる事は楽しみであり喜びだが、胸の隅にこうした視座を持って居ても好い様に思うのである。
文 砂原浩太朗(すなはら・こうたろう) 左 小説家 1969年生まれ 兵庫県神戸市出身 早稲田大学第一文学部卒業 出版社勤務を経てフリーのライター・編集・校正者に 2016年「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞 著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』共著『決戦!桶狭間』『決戦!設楽原(したらがはら)』(何れも講談社)がある
サライ.jp 以上
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