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2020年04月25日

コロナ危機で露呈 日本政治は「家族」への想像力が貧し過ぎる




 コロナ危機で露呈 

 日本政治は「家族」への想像力が貧し過ぎる


            〜現代ビジネス 森山 至貴 4/24(金) 7:01配信〜


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 家族はコロナ対策の「ハブ」

 この処、ジョギングする人だけで無く、手を繋いで歩く男女のカップルも街中に増えたと感じる事は無いだろうか。若年層だけで無く、中高年の男女カップルも手を繋いで仲睦まじく歩道を歩いて居る。新型コロナウィルスの流行が収束の気配を見せ無い現在、繁華街に出掛ける事が出来無いのだから近所を散歩でも、と云う人が多いのは十分に理解出来る。
 人と人の物理的な接触に現在の私達が可成り注意を払って居るからコソ、手を繋ぐと云う行為が何時も以上に目に着くと云う事も有るだろう。

 「三密」を避けるとか、他人と距離を空けてジョギングするとか、人と人が物理的に遠ざかる様私達の多くは結構な努力をして居る。そう遣って努力をして居る私達の中には、他人が自分と同じ様に努力をして居ないのを見ると遂非難したく為ってしまう人も居るかも知れない。
 しかし、手を繋ぐ男女のカップルを目撃して「私はこんなにシンドイ思いで努力をして居るのに、他人と密着する等怪しからん」と憤ったりするだろうか。恐らく殆どの人はし無い。多くの場合は「アノ二人は夫婦」と即座に判断し、目撃した事すら忘れてしまうだろう。本当は二人の関係性等判りはしないのだが、だからと云って手を繋ぐことを問題視したりはしない。大人と子供が密着して歩いて居てもそうだ。「他人の子に感染させたらどうするのだ、怪しからん」ナンて思わ無い。「親子連れなんだな」以上である。

 回り諄いのでマトメてしまおう。そもそも「家族」が密着するのは好く有る事だし、問題無い。様々な活動を控える様要請される現在に於いても「家族」での活動は例外であって、且つ後ろ指をさされ無い「普通」のことなのだ。
 勿論「家族」での活動に対してこうした態度を取るのは、人々が自分達に都合好くものを考えて居るからでは無い。国や専門家もそれに「お墨付き」を与えて居る。厚生労働省HP上の「新型コロナウイルス感染症対策の基本的対処方針」にも「家族以外の多人数での会食を避けること」と、家族を例外とする記述があるし、公衆衛生の専門家が「家族で散歩するのは好い」と述べて居る。

 但し、好く考えれば、同居して居る家族は元々濃厚接触して居るから互いに感染させても仕方無い、と云う事には為ら無い。職場等で感染者と濃厚接触した人が家で経過観察する場合も、同居の家族とは室内でも物理的距離を保つ様保健所から指導される。
 遠方に離れて暮らして居る家族為らば尚の事、移動を伴う物理的接触は避ける様求められる。里帰り出産も、実家を離れて大学進学した途端オンライン授業に切り替わって心細く為った大学生の帰省も、自粛を余儀無くされて居るではないか。逆に、ルームシェアして居る同居人と連れ立って散歩する事は公衆衛生学上問題無い(し、勿論自粛を要請されては居ない)筈だが、行政文書にも専門家のアドバイスにも当然その様な居住形態への言及は無い。

 ここから見えて来るのは、新型コロナウィルスへの対策に於いて「家族」は科学的にも政策的にも重要な要素の一つで有る事、そして、文脈に応じて異なる定義を与えられる事に依って様々な「ずれ」を含みながら使われて居ると云う事だ。雑駁に言ってしまえば、家族は曖昧な形のママ新型コロナウィルスを巡る政治の要(かなめ)ハブ(結節点)に為って居るのである。
 本稿では、新型コロナウィルス対策に於いて家族と云う関係性にどの様な役割が負わされ期待されて居るかを、幾つかの関連する言葉や事例に着目して考えてみたい。更に、そこで想定され利用される曖昧な家族像は「平時」に於いて政治が家族を様々な仕方で宛てにする事態と地続きで有る点に付いても考えてみたい。

 「マスク配布」から見えること

 家族は新型コロナウィルスを巡る政治の要である。その事を最も好く示すのが、関連して用いられる「世帯」と云う言葉である。ここで問題。「新型コロナウイルス感染症緊急経済対策」(4月7日閣議決定)の決定に依り、どの様な世帯にマスクが2枚ずつ配布される事に為ったか、知って居るだろうか? 
 「どの様なも何も全世帯だろ」と思った読者の皆さん、申し訳無い。これはそもそも問題が悪いのだ。私も指摘されて気付いたのだが、国の方針に依れば、マスクは「世帯」に配られるのでは無い。一つの「住所」に付き2枚配られるのだ。厚生労働省の行政文書の何処を見ても、書いて有るのは「全戸配布」と云う表現ばかりである。

 だから、2世帯以上が一つの住所に住んで居る場合でも、マスクは2枚しか届か無い。配布枚数決定と送付のコストを考えての判断では有ろうが、必要な人にマスクが届か無い事態が頻発する事は間違い無いだろう。そもそも人々が必要として居るのはマスクなのか、と云う疑問もあるが。
 しかし此処で考えたいのは別の問題だ。この政策、本当に「住所」だけに関係して居て「世帯」や「家族」の有り方は関係無い、と言えるものなのだろうか。実は、配布されたマスクの裏面にはQRコードを使って「好く有る質問と回答」のHPに誘導する文面があり「2世帯同居の方など」もソコに誘導される。しかし実際にHPを見てみると、書いて有るのは「家族の人数が多く、2枚で足り無い場合」の「不足する世帯への対応」に付いてだ。「戸(住所)」の話が「世帯」や「家族」へと横滑りして居るのがお判りだろうか。

 「1世帯2枚に為って居ないではないか」と云う意見を交わせる様厳密さを期しながらも「住所」を用いた政策は、緩やかに「世帯」や「家族」に軟着陸させられ、人々の暮らしとの接点を形成する。矢張り家族は此処でも政治の要に為って居るのだ。だからコソ、この政策が想定して居ない家族を生きる人に取っては、マスクを配ると云う取るに足り無い・・・ものでしか無いだろう、矢張り・・・政策ですら傷をもたらすものに為る。
 例えば同居している同性カップルで有る。散々「そんなものは正しい家族の有り方では無い」と非難され、同性婚すら認められ無いにも関わらず、かと云って配られるマスクは4枚では無く2枚で「こんな時だけ1世帯扱いかよ」と憤れば「嫌、一つの住所に2枚配って居るだけですから」と梯子を外される。
 脇を見れば「家族の人数が多い」「2世帯同居」の家族等への対応は予告され、自分達も2世帯だが、2人暮らしなら人数が少な過ぎて対象とは為ら無いだろうと嘆息する。

 家賃負担を減らす為にルームシェアしている学生やフリーター・非正規労働者の中にも同じ落胆や失望を抱える人が居るだろう。想定されて居る家族の形から零れる者に取っては、そう云ったひとつひとつの経験は、新型コロナウィルスそのものに対する恐怖や不安と同じ様に精神に堪えるのである。
 この様に、今回の新型コロナウィルス対策は、政治がどの様な家族・世帯を典型的なものとして想定して居るのか、その裏面として、そこから零れ落ちる人達への想像力を如何に欠いて居るかを明らかにするものでもある。
 
 「10万円給付」政策のヤバさ

 象徴的なもうひとつの事例が、1人当たり10万円が給付される特別定額給付金(仮称)制度だ。4月21日現在発表されて居る概要に依ると、1人当たり定額の給付で有るにも関わらずこの制度に於いては「世帯」が極めて重要な役割を果たして居る。何故なら、この制度の「受給権者」は世帯主だからだ。
 「世帯主がマトメて受け取ると、仮に世帯主がDV夫(妻でも構わない)だった場合、自分で使い込むと云う新たな経済的DVが発生してしまうから」と云う懸念が真っ先に思い浮かぶが、それだけでは無い。ソモソモ、世帯主以外の人間、多くの場合は妻や子供が、自分に給付される金額を自分で請求する権利すら無い(か、少なくとも想定されて居ない)のだ。

 世帯主は圧倒的に男性が多い現在「妻や子供の所有物は夫の所有物」と云わんばかりの、イエ制度も真っ青の制度が運用されようとして居る事自体驚愕であるが、現政権がこれ迄どの様に家族を捉えて来たかと云う点から考えれば、残念ながらその極めて保守的な家族観の延長線上に有るからコソ、この様な形の制度に為ったことは明らかであろう。
 とは云え、政権の家族観が今困って居る人を十分に支える事より優先されて好い筈が無い。制度が滑り出す際には、より平等で有効なものへと練り上げられて居る事を強く願わずには居られない。

 こうした給付の方法を見て居ると、現在の政治に取って、家族とは、当然の様にお互いを助け合う様な存在で有るとイメージされて居るのかも知れない。しかし、実態がその通りであるとは勿論限ら無い。先程DVの可能性に付いて取り挙げたが、実はこれは可能性では無く現実の問題である。
 外出自粛の影響でDV被害の相談が増加して居り、対策として内閣府がDV相談+(プラス)と云う窓口を4月20日に立ち上げた。「共に一つの住居に暮らす」事は、常に安全を意味するとは限ら無い。

 家族が負わされて居るもの

 又、家族関係が良好なものであったとしても、新型コロナウィルスへの対抗の拠点として盤石で有るとは決して言え無い。何故なら、平時に於いて家族が負わされて来た負担の過重さが、今回の危機を契機にしても具体的な問題を引き起こして居るからだ。
 アナウンサーの赤江珠緒さんが、夫のPCR検査に際して「親が共倒れに為った場合の子供の面倒は誰が見るのか」「未だ解決策も思い付いて居ません」とお書きに為った手紙が記憶に新しい人も多いだろう。その後、赤江さんご自身も検査結果が陽性で有る事が判明し、夫の入院中に自宅隔離しつつ検査結果陰性のお子さんを一人でケアして居ると云う事が明らかに為った。
 元々私は赤江さん出演のラジオ番組の熱心なリスナーだが、それを割り引いたとしても矢張り、この話を聞くと、本当に胸が潰れる様な思いがする。

 日本は子育てへのサポートが貧しいとは頻繁に指摘される事だが、そうした平常時に於ける家族を巡る歪みが、こうした形で既に噴出して居るのである。平時から人的・物的なリソースが潤沢で有れば避けられたであろうリスクの有るケア労働を、家族が抱え無ければ為ら無いこの状況は、何としてでも改善させ無ければ為ら無い。

 家族に何が課され、負わされるのか

 新型コロナウィルスを巡る政治の要、ハブとしての家族に付いて、幾つかの事例を取り上げながら考えて来た。ウィルス対策は、医学や疫学の領分でもあるが、人々の行動やライフスタイルの変容や制限に掛かわざるを得ない点に於いて、極めて政治的なものでもある。そして、その政治の要に、私達に取って極めて馴染み深い現象としての家族が存在する。

 従って、私達は、曖昧さがあり重荷を負わされて居て、歪や歪みが有ると云う事を知った上で、家族と云う制度を何とか乗り熟しながら新型ウィルス対策を成功させ無ければ為ら無い地点に今立って居る。しかし忘れては為ら無いのは、この曖昧さ・重荷・歪は、新型コロナウィルスに依って引き起こされたものでは無いと云う事だ。それは、新型コロナウィルス以前の私達の「普通」の日常に、既に潜んで居たものに過ぎない。
 だから私達は、新型コロナウィルス対策の名の下に、家族に何が課され負わされるのかを注意深く見詰め、時に正し、そして忘れずに居なければ為ら無い。家族と云う一つの政治的制度が、収束後の私達の生を苦しく、ミスボラシクするものに為ってしまうか否かは、他の誰でも無い今の私達の、家族を巡る一つ一つの政治的決断に懸かって居るのだ。


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 森山 至貴 早稲田大学准教授 早稲田大学文学学術院准教授 1982年神奈川県生まれ 東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻(相関社会科学コース)博士課程単位取得退学 東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻助教を経て 現在、早稲田大学文学学術院准教授 専門は、社会学 クィア・スタディーズ 著書に『「ゲイコミュニティ」の社会学』『LGBTを読みとくークィア・スタディーズ入門』

                  以上



















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