2020年03月31日
フランスのアッと云う間の敗北を決定付けた戦車将軍の決断
フランスのアッと云う間の敗北を 決定付けた戦車将軍の決断
〜プレジデントオンライン 3/30(月) 9:16配信〜
ハインツ・グデーリアン(写真・SZ Photo・時事通信フォト)
第2次世界大戦でドイツ軍は、陸軍大国フランスが築いた大要塞「マジノ線」を難無く無力化した。現代史家の大木毅氏は「戦線中央部のアルデンヌ森林にマジノ線は延びて居ない。そこを迅速に突破して連合軍を分断・撃破する計画を実行したのが、戦車将軍グデーリアンだった」と云う。
※本稿は、大木毅『戦車将軍 グデーリアン』(角川新書)の一部を再編集したものです。
ナチス・ドイツのフランス侵攻作戦の骨子
ドイツによるベネルクス三国並びにフランスへの侵攻作戦、秘匿名称「黄号」の企図は、端的に云えば中央突破に有ったと云える。フランスは、1929年以来、膨大な予算を注ぎ込んで、ドイツとの国境地帯に要塞線を築いて来た。有名な「マジノ線」である。
このドイツ側から見て左翼の正面を攻撃すれば、第1次世界大戦の陣地戦の二の舞いに為るのは眼に見えて居る。サリとて右翼を強化して、ベルギー・オランダに開進し英仏海峡地域に進撃すれば、連合軍の主力と激突し停止を余儀無くされるのは必至だった。
だが、戦線中央部に当たるアルデンヌ森林には、マジノ線も延びては居ない。ソコを迅速に突破して連合軍を分断・各個撃破すると云うのが「黄号」作戦の骨子で在った。しかも連合軍は、ドイツ軍は右翼に重点を置いて攻勢に出て来るだろうと考え、その場合には主力をオランダに進出させると云う計画を立てて居たから、アルデンヌから英仏海峡沿岸諸港への突進は、彼等の裏を掻く事に為る。
「黄号」作戦の命運を握るドイツ装甲部隊
と云うのは、連合軍がオランダ方面に突出すればする程、その南側面、或いは後背部が西進するドイツ軍に依って脅かされる事に為るからだ。リデル=ハートは、こうして生じた両軍の作戦構想の相互作用を「回転ドア」に例えて居る。連合軍が東に向かえばドイツ軍が西に進み、両軍の構成する回転ドアが動くのである。
この「黄号」作戦の成否は、集中された装甲部隊がアルデンヌの森から英仏海峡沿岸諸港迄、作戦的な次元で独立機動出来るかに懸かって居る。第一の関門は、アルデンヌの森を抜けた先、自然の防御陣であるムーズ川の町スダンだった。普仏戦争に於いて、1870年にナポレオン3世が、包囲された麾下の軍と共に降伏した所だ。
アルデンヌの森を突破し、ベルギー国境へ
1940年5月10日「黄号」作戦は発動された。ドイツ軍右翼のB軍集団が、オランダ・ベルギー方面で攻撃を開始する。これはオランダ方面に連合軍の注意を惹き付け主力を誘引する為の陽動だった。
とは言え、B軍集団は、一部の装甲師団、更には空挺部隊迄も投入して居たから、連合軍は即座に反応し、フランス第七軍がオランダに・イギリス遠征軍がベルギーに向かう。しかし、ドイツ軍の真の主力である三個の自動車化軍団は、アルデンヌの森に展開して居た。
北から、第15自動車化軍団・第41自動車化軍団・グデーリアンの第19自動車化軍団である。グデーリアンは、麾下軍団右翼に第2装甲師団・中央に第1装甲師団・左翼に第10装甲師団と「大ドイツ」連隊を配置し進撃を開始する。5月10日午前5時35分、第1装甲師団の陣頭に立ったグデーリアンは、ルクセンブルクの国境を越え午後にはベルギー国境に達した。
「諸快速師団〔装甲師団・自動車化歩兵師団〕が、その数千両の車輛と共に、当初、最先頭の線に配置されて居る歩兵師団の間を抜けて円滑に前進し、更に補給と後送を実施出来る様に、地形困難な山岳地帯とムーズ川を越えて三本の通路が確保された。
この『トロッコ軌道』と称された道は、常に、若しくは当分の処は、快速師団だけが使用するものとされたのである」(ネーリング「ドイツ装甲部隊史」)
真価を発揮した「委任戦術」
奇襲は成功した。フランス軍は航空捜索により、アルデンヌにドイツ軍の車輛が密集して居る事を確認して居たのだが、B軍集団の攻撃に眩惑された連合軍首脳部は、主攻はオランダと北部ベルギーで、アルデンヌのソレは然したる脅威では無いと判断したのである。
侵略を受けたベルギーがこの方面に配置したのは、猟兵師団一個と騎兵師団一個を基幹とする弱体な支隊だけだったから、到底ドイツ装甲部隊を拒止出来るものでは無かった。かくて、アルデンヌの困難な地形で敵を押し留めるチャンスも空しく費消されてしまう。
第19自動車化軍団のムーズ渡河攻撃は、ゼークト以来磨き抜かれて来たドイツ軍の用兵思想の優秀性を見せ付けるものであった。下級指揮官への大幅な権限委譲を好しとする「委任戦術」が、その真価を発揮したのである。
現場は攻撃目標を指定されるだけで、どう遣るかに付いては一切掣肘掣肘(せいちゅう)を受け無かった。彼等自身が、前線の状況から一番良い方法を練り上げ実行したのだ。
その結果、人員60,000・車輛22,000を幅10キロの正面に集中した第19自動車化軍団の作戦に 当たっても、「準備・攻撃・渡河・突破・・・全てが全く時計仕掛けの様に進んだ」(当時、第1装甲師団の首席伝令将校だった男爵フライターク・フォン・ローリングホーフェン中佐の回想)
大打撃を招いたフランス軍司令官の誤算
一方、ムーズ川の陣地を守って居たフランス軍は、此処でも奇襲を受けた。従来の常識からすれば、砲兵支援無しの渡河攻撃は自殺行為に等しい。従って、フランス軍の司令官も、ドイツ軍の攻撃は後続の砲兵隊が到着するのを待って行われるに違い無いと判断して居た。しかしながら、既に触れた如くグデーリアンは「空飛ぶ砲兵」即ち航空機に頼って居たのだ。
ドイツ空軍は、スダン周辺僅か4キロ程の地区に、延べ1,215機の爆撃機を投入、間断無く波状攻撃を実施して、フランス軍の指揮系統と兵士達の神経を切り裂いてしまったのである。かくて、第19自動車化軍団はムーズ渡河に成功・橋頭堡(きょうとうほ)を確立した。
けれども当初、戦車や重火器を対岸に渡すのに使用出来るのは、足った1本の臨時架設橋に過ぎ無かった。空襲に依ってこれを破壊し地上部隊の反撃を加えれば、ドイツ軍の好機が一転して窮地に変じるのは必定であろう。
蜂の巣に飛び込む恰好と為った連合軍機
5月14日、連合軍は満を持して控置(ひかえち)して置いた空軍部隊を投入した。だがドイツ軍も、そうした可能性を見過ごして居た訳では無い。大規模な空襲が在ると予想して居たグデーリアンは、スダン周辺、取り分け架設橋付近に手持ちの高射砲303門を集中配置し待ち構えて居た。ドイツ空軍も、前日の爆撃機に代えて戦闘機814機を迎撃(げいげき)に差し向けた。
故に蜂の巣に飛び込む恰好と為った連合軍機は、目的を達成出来ぬママ大損害を被る。出撃した戦闘機250機(延べ数)及び爆撃機152機の内、167機が撃墜されるか戦闘不能とされたのだ。
更なる西進に「待った」を掛けるヒトラー
スダンの門は破られた。同じ頃、北の第15・第41自動車化軍団もムーズ川渡河に成功して居る。しかしながら、グデーリアンは極めて悩ましい状況に在った。3月15日、A軍集団麾下の軍司令官を集めた会議で、ムーズ川渡河以降はどう行動する積りかと問われたグデーリアンは、更に西進すると答えたものであった。
処が、第19自動車化軍団の上部組織である、クライスト装甲集団・A軍集団・OKHは、何れもその様な突進には反対であった。歩兵が追い付いて来て、橋頭堡を確保・拡大する迄、装甲部隊は足踏みしたママそこで待って居ろと云う認識だったのである。
ハルダー陸軍参謀総長は、1940年3月12日付のA軍集団参謀長ゲオルク・フォン・ゾーデンシュテルン中将宛書簡で、ムーズ渡河攻撃に参加した装甲部隊を、そのママつぎの作戦に投入する事はし無いと明言して居る。
充分な兵力を持った歩兵部隊が、活動出来るだけの基盤がムーズ川の西岸に作られた時点で、どう使うかを考えると云うのだ。ヒトラーも、突進する装甲部隊の側面が開いたママに為る事を恐れ「ムーズ渡河決行後の措置」は、自らの専権事項にするとして居た。
戦車将軍、独断専行で西進続行を決める
グデーリアンに取って、それは我慢の為らぬ優柔不断でしか無い。スダンの防御陣を覆滅し、西方への道が開けた今コソ、第1次世界大戦で突進部隊が遣ったのと同様、装甲部隊が側背を顧みず進撃し、敵を混乱に陥れるべきであろう。
そうして無力化された連合軍部隊は、例え後方に残って居たとしても脅威には為らぬ。矢張り第1次世界大戦末期に、後続の歩兵に依って、突進部隊がマヒさせた敵を撃滅した様に掃討して行けば好い。焦慮を深めるグデーリアンの基に決断を迫る報告が届く。
第1装甲師団が、アルデンヌ運河に架かる橋を無傷で確保したと云うのである。西方に通じる扉がより一層大きく開かれたのだ。予想される連合軍の反撃に備え、命令通りに橋頭堡を固めるか・敵の混乱に付け込み、第19自動車化軍団の総力を挙げて西へ進むか。
2つに1つの難しい問題に直面し、思い悩むグデーリアンだったが、第1装甲師団作戦参謀のヴェンク少佐が背中を押した。同師団の指揮所を訪れ、西への旋回は可能かと問うたグデーリアンに、少佐は「チビチビ遣うな、継ぎ込め」と云う、あのスローガンを呟いた後に頷いて見せた。
これに力付けられたグデーリアンは、5月14日午後2時、第1及び第2装甲師団に全兵力を以て西へ向かえと下命する。西方侵攻作戦の決定的瞬間で在った。グデーリアンは、ヒトラーや陸軍上層部の意に背いて、独断専行で作戦次元の機動戦を続行すると決めたのである。
グデーリアンの決断でフランスの運命は定まった
多くの軍事史家は、スダンの敗北と5月14日のグデーリアンに依る決断で、フランスの運命は定まったとして居る。正しく、敢えて装甲部隊を突出させ長駆進撃するとのグデーリアンの決定が、連合軍の敗北を招いたのだ。
今日、グデーリアンの戦略次元に於ける能力に対する批判や疑義は、決して少なく無い。にも関わらず、彼の作戦次元での能力は卓越して居たとの評価は尚盤石である。掛かる称賛も、1940年5月14日に示された様なグデーリアンの作戦的判断力に鑑みれば、故無き事では無い。しかしながら・・・グデーリアンは、コノ勝利を完成させる事が出来無かった。
大木 毅(おおき・たけし) 現代史家 1961年生まれ 立教大学大学院博士後期課程単位取得退学(専門はドイツ現代史・国際政治史)千葉大学他の非常勤講師 防衛省防衛研究所講師 陸上自衛隊幹部学校講師等を経て著述業 著書に『「砂漠の狐」ロンメル』(角川新書2019)『ドイツ軍事史』(作品社2016)他 訳書にエヴァンズ『第三帝国の歴史』(監修 白水社2018─)ネーリング『ドイツ装甲部隊史 1916-1945』(作品社 2018)フリーザー『「電撃戦」という幻』(共訳 中央公論新社2003)他がある
現代史家 大木 毅 以上
ナチス侵攻を防げ無かったフランスの要塞群
「マジノ線」その美しき廃墟
〜TEXT BY LAURA MALLONEE WIRED(US) 2017.03.17 FRI 11:00〜
フランスが1930年代にナチス・ドイツによる侵攻を防ぐべく作り出した要塞群「マジノ線」莫大なコストを投じたにも関わらず、ドイツ軍の奇襲作戦によりマジノ線は機能せずフランス軍は敗北する事と為る。今なお残る要塞の跡を訪ねると、ソコには独特の雰囲気が漂って居た。
ムルト・エ・モゼル県のブレエン・ラ・ヴィルの街に在る、ブレエンの要塞は完全に地下に作られて居る。それ等は約4,600フィート・約1.4キロメートルの地下通路から分岐した10の区画から構成されて居る。これ等の油圧式砲塔は、唯一地上に出て居る要塞の部分だ。
フランス人は今直ぐ「マジノ線」の事を忘れた方が好い。フランスは1930年代に、11年と4億5,000万ドルを費やして450マイル・約720kmの田園地方に要塞を築きドイツの軍事化に対抗した。ナチスが1940年5月に侵攻して来た時、彼等は只単にそれを迂回しただけだったが。
この事をフランス人は、アレコレ思い悩む事も無い。だが、アレクサンドル・グルカンジェは、魅力的な作品『The Line』を撮影する為に、その要塞の残骸を10年掛けて探索する程マジノ線に魅了されてしまった。彼は、凡そ500もの放棄された兵舎や砲塔等の建造物の写真を撮った。
「私は少しばかり取り憑かれて居るんです」と彼は話す「暇に為ると、私は見逃したかも知れないものを未だ探してしまいます」
その「線」は1本の線では無く複数に分かれて居り、所々15マイル・約24kmの幅で幾つもの層が重なって居る。フランスは130万立方ヤード・約100万立方メートルのコンクリートを注ぎ、15万トンの鉄柱を立て、数千の砲塔や塔、そして何千もの兵士を匿える掩蔽壕を建設した。
それをフランスの「万里の長城」と呼ぶ者も居たが、実際はそうでは無かった。フランスは塹壕戦を予想して居たのだが電撃戦に為った。ドイツ軍は一気に攻めて来たのである。
グルカンジェの家族はモーゼルに家を持って居り、ソコは特にマジノ線が厚かった。彼の祖母は壁が建つのを見た事も憶えて居る。彼は、子供の頃に森を探検して居る間、苔むした残骸を何度も見た。2006年にその家を訪れた事が彼の関心を蘇らせたが、ファインアートの写真家達がマジノ線を殆ど無視して来た事を知って彼は驚いた。「自分の遣りたい方法でアプローチ出来る事は写真家に取って非常に刺激的です」そう彼は話す。
彼は最も面白いと感じた要塞に着目した。グルカンジェはインターネットや歴史に関する文章・Google Earth・印刷された地図を調べて旅行を計画したのだが、訪問先は全部で50カ所以上にも及んだ。4×5フィルムの大判カメラを担いで森や山を5時間もの長い間トレッキングに費やす事も珍しく無かった。
グルカンジェの写した崩落しつつ有る要塞の圧倒的な風景は、驚く程現代的な雰囲気が漂って居る。フランスはマジノ線が攻撃から守って呉れる事を期待したが、多くの歴史家はソレが間違った安心感を与えた為に実際はフランスを弱体化させてしまったと考えて居る。
その効果は今では「マジノ心理」と呼ばれて居る。欧米の政治家がコレ迄以上に壁を求める時には、その事に付いて考えるべきだ。
以上
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