その推移の中でデザイン理念が大きく変遷しました。
3代の学長の更送、国立、市立、私立と運営の変化は象徴的な出来事でした。
理念の変遷の特色とバウハウスを
取り囲む社会とデザイン運動との関連で考えてみます。
1919年4月から1933年4月の14年間のバウハウスの活動の中で、
3度の学長の交代があり、その度に理念の変化がありました。
手工芸に固執した表現主義運動のもとで
第1代目学長ヴァルター・グロピウスのバウハウスがスタートしました。
その後、美的造形を拒絶した機能主義的、社会主義的な考え方の
第2代目学長ハンネス・マイヤーの新たな展開がありました。
第3代目学長ルードヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエは、
理想的な建築教育機関としてバウハウスを位置付けました。
ここでは、彼ら3人の理念の違いにより、
バウハウスの芸術活動がそれぞれどの様なものであったのかを
絵画を中心に話してみます。
初代グロピウスの理念は建築を下にすべて造形活動を総合し
統一芸術を創造することにありました。
教育の目標は、@一定の造形的基礎、A潜在的能力を引き出す、B既成概念の解放でした。
彼は、造形活動の基礎は手わざにあると考え、
芸術家は手工芸に立ち戻らなければならないという思想に至りました。
この思想を実行することにより、まず目標Aは達成できます。
更に、目標@とBを予備教育に取り入れました。
予備教育にはヨハネス・イッテンが担当しました。
彼は、学生に芸術的才能を解放し、造形の基本原則を伝えようとしました。
彼の教育プログラムには、この予備教育の他に工房教育と建築教育があります。
工房教育は造形の形態原理を学ぶのと実際に制作に携わるのと2つあります。
それぞれに専任の講師がいて親方とよばれていました。
つまり、各工房には2人の親方が指導にあたっていたのです。
工房教育の意味は、機械時代の大量生産工業時代の新しい学校へと脱皮し
インダストリアル・デザインの教育及び実践の機関にすることにありました。
しかし、想像的創造家の個性的解放を目指す芸術教育家のイッテンにとって
考え方の面でグロピウスと対立することになり、イッテンは辞職します。
後任としてヨーゼフ・アルバースとラスロー・モホイ=ナギが予備教育にあたりました。
2人は、創造力の解放を
具体的なデザイン開発を支える造形上の実験的経験の豊かな源泉として基礎づけました。
ナギは、造形の基本的教育を行ないました。
印刷工房で彼は機械的印刷術という新しい試みや大胆な統一文字の実験もおこないました。
アルバースは、学生が工房に分かれて専門的な訓練を行なう前の
準備となる基礎工作教育にあたりました。
そのころ政情が左から右にかわり
保守派層からバウハウスの社会的位置付けに厳しい批判がありました。
経済的な事情もあり、1926年バウハウスはデッサウ市に移り市立大学としてスタートします。
工房教育も2人の親方制から1人の親方に変更となりました。
親方も教授と呼ばれるようになりました。
1928年グロピウスは辞職しました。
表向きの理由は本来の建築の仕事に専念したいという事ですが、
実際は反バウハウスとの対外交渉に嫌気がさしたとも言われています。
1928年4月、2代目の学長にはハネス・マイヤーが就任しました。
美的造形を拒絶し機能主義、社会主義的な考え方を進めました。
構造改革と称し建築教育を科学的な基礎に乗せてそれを体系化しました。
つまり、彼はデザインを生活現象と同等と見なし、
デザインのプロセスに社会的、科学的な基準を組み入れました。
しかし、こうした機能主義的な方向に抵抗がある学生たちは、
カンデンスキーやクレーが開いた自由画教室にいくようになりました。
こうした行為は、マイヤーの信条に反していましたが、
彼は対外的には容認していました。
しかし、マイヤーが社会主義者として政治に関与していることが分かると、
グロピウスらの働きで学長の席を追われました。
3代目の学長はグロピウスがペーター・ベーレンスの事務所で働いていた同僚の
ミース・ファン・デル・ローエが就任しました。
彼は、理想的な建築教育の場として工房を整理統一しました。
これにより、工房における生産活動は後退しました。
経済不況やナチス躍進でデッサウ市の財政も悪化し工房生産製品の販売も絶望的となり、
そこからの収入の見込みは途絶えました。
こうした情勢の下に建築専門の工科大学として格付けすることにより
なんとかバウハウスを維持しようとさせました。
しかし、相対的に絵画教室の位置は隅に追いやられました。
こうした中でクレーもバウハウスを去っていきました。
最終的にはナチスによって国際主義の根城だのユダヤ人の巣窟だのという理由で
1932年10月閉鎖させられました。
その後、ベルリンで私立研究所としてスタートするも結局
1933年4月ナチスの突撃隊によって建物は封印されました。
14年間の短い間に表現主義と機能主義の思想が駆け抜けました。
ここで活躍した人の大半がナチスの手を逃れ、機能主義全盛のアメリカに渡りました。
バウハウスで実験的な授業を試みた講師、
そこで学んだ学生たちがアメリカを実践の場として活躍したということは、
バウハウスにとってもアメリカにとっても効果的でした。
アメリカにとっては優秀な芸術家を多く受け入れられたこと、
そして、バウハウスで学んだ人にも実践の場が与えられたことです。
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