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2018年09月29日

スペイン巡礼記 J 8日目:ナヴァレッテで出会った小さな天使

Pilgrimage in Spain J Day:8 A tiny Angel 【4.2011】

巡礼8日目:Navarrete ナヴァレッテ 〜 Najera ナヘラ (18km)
「私のもとに天使がやってきた夜 
The night An Angel came to me」

巡礼で最も厳しいのは体力ではなく、コミュニケーション不足による精神的ダメージだ。

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夕べ楽し気にテーブルを囲む人々で賑わうキッチンの隅で目を伏せ、耳にはウォークマンのイヤホンを挿してまるでインヴィジブルな存在ででもあるように日記を書いていた私の隣りに、突然一人のおばさんが座ってバゲットを食べ始めた。
何となく嬉しくなって私も今朝ホテルから失敬してきたマフィンを取り出して食べることにした。飲み物は道中泉から汲んだペットボトルの水だ。

すると隣のおばさんが何か言いながらみかんを半分差し出してきた。スペイン語なのでわからないが、食べろということらしい。果物を摂る機会は少ないのでありがたく頂いた。すると次はリンゴを半分切ってまた差し出してきた。

本来おばさんが一人で食べようと思って買ったものに違いないから申し訳なくてためらっていると、いいからいいから、という身振りで私の前にコトンと置いたので、ありがたくそれも頂くことにした。

それからおばさんはスペイン語で話し始めた。真っ黒に日焼けした肌には皺が目立ち、おばさんというよりお婆さんに近く見える彼女は確かシルエラという名前だったと思う。

私は、ヘアバンドで前髪を上げた額には深い皺がくっきりと刻まれていたが窪んだ目には強い光が宿っていてタフさを感じさせるこんな高齢(に見える)のお婆さんが一人で歩いていることに驚いたし、彼女は私が日本という極東の小さな国から来てこんなに小さいのに若い女の子が一人で歩いている(というイメージを持ったらしい)ということに、大きな身振り手振りで驚いていた。といっても彼女もスペイン人にしては小柄だったが。

みかんとリンゴだけではなく今度は半分に切り分けたバゲットにチーズを挟んで渡してくるので、私は自分のマフィンを食べたからもうお腹一杯だという仕草をすると「マニアーナ、デサジューノ(明日の朝食に)」と私の手に握らせた。

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まるで世話を焼いてくれる母親のようで目頭が熱くなるのを抑えながら、私はそれを受け取った。彼女の夕食のきっちり半分が私のためになくなってしまったわけだが、それでも彼女は満足気に頷いていた。目を細めて、顔を皺くちゃにした小さな天使がそこにいた。


その後スーペルメルカード(食料品店)は近くにあるか尋ねると、彼女は目を丸くしてスーペルメルカードに行きたいのか、と問い返した。

頷くと、おもむろに立ち上がり、ついて来いというふうに手招きする。(日本とは手の平の向きが逆で、よく外国映画で見るカモーン!の仕草と同じだ。)え、今すぐ?一緒に行くの?と戸惑ったが夕食も食べ終わったし、またここで一人で時間をつぶすのも気が進まないので、慌ててテーブルの上を片付けると、せっかちそうにスタスタと歩くシルエラの後について階下へ降りて行った。

スーパーはアルベルゲの前の通りをほんの少し上った所にあった。小さな村のスーパーにしてはなかなか充実しているが、やはり日本のコンビニのように一回で飲み切れるようなサイズのミルクは売っていない。
ミルクは諦め、朝食のために比較的小さなオレンジジュースの紙パックを一個だけ買うにとどめた。私を案内してくれるだけかと思ったシルエラはというと、大きなボトルに入ったミルクとインスタントのスティック・コーヒーを手にしている。

みんなこんな大きなボトルのミルクを一体何日で飲み切るんだろう、と不思議だったが外人はとにかく食事の量が多いので、シルエラも小さいながら一日で飲んでしまうのかもしれない、などと考えていると、彼女は私が手にしていたオレンジジュースを見て「なんだ、それだけしか買わないのか」という身振りをして自分の会計時に一緒に払ってしまった。

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私がアルベルゲの前のフエンテ(泉、もしくは水道)でペットボトルに水を入れると、彼女はスペイン語で何か言って笑い、自分も同じようにペットボトルに水を足していた。
毎回水を買うのも結構な出費だし、私は胃腸がかなり強靭なようで、フエンテの水をそのまま飲んでもお腹を壊したことは一度もなかったので、巡礼路の至る所にフエンテが造られているのにはとても助けられた。

アルベルゲの隣りのバルでは、頻繁に会うドイツからのでこぼこ夫婦がオープンエアのテーブルで優雅な夕食とワインを楽しんでいた。キッチン付きのアルベルゲでは夕食が付かないことが多いので、お金に余裕がある人はたいてい村のバルかレストランへ行く。

キッチンへ戻るとシルエラは冷蔵庫に牛乳ボトルを入れながら何事か尋ねてくる。明日の朝カフェ・コン・レチェ(ミルクコーヒー)を作るということらしいが、それ以外の言葉がわからなくて首を傾げていると、シエンテ(6)とかセテンテ(7)とか数字を言っている。

それとマニアーナ(明日)という単語から、明日何時に起きるのかを訊いていると推測して、手で数字を示しつつ7時半と答える。シルエラは再び目を丸くして驚き(そんなに遅くまで寝ている人はほとんどいないからだろう)、何やら顎に手を当てて考えていたが、今度はキッチンを出て私のベッドがある部屋に入っていくので「ここが私のベッド」と教えると、ベッド脇の椅子を指さしながら何やら一生懸命スペイン語で言うのだが、どうしても意味がわからない。

彼女もこれ以上のコミュニケーションは無理と判断したのか、肩をすくめる仕草をすると両手を合わせて右耳の横に持っていき「寝る」と言った。私がジュースのお礼を言うと彼女は少しはにかんだように笑い、もう一度椅子を指すと自分の部屋へ戻って行った。白いTシャツを着たその後ろ姿に、私は小さく頭を下げたのだった。

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そして翌朝、しばらくの間、人の動き回る気配と徐々に明るくなっていく世界を閉じた瞼の裏に感じながらも動けず、しばらくうつらうつらしていると、ふいに全ての物音が止んだ。反射的にパッと目を見開き腕時計(失くしたり忘れたりしないように、腕時計をしたまま眠るのだ)を確認すると時刻は8時。

やばい、寝過ごした!急がなきゃ。
なかなかほぐれない体を無理矢理動かし、ヨロヨロとバスルームに向かう。私と入れ違いに、最後の若い男の子がトイレから出て行った。階下からは、まばらにこれから出立する人々の足音が聞こえていた。

そんななか顔を洗ってやっと頭がすっきりすると、昨日シルエラに頂いたバゲットを食べるためにキッチンへと向かう。ところが、誰もいないキッチンでバゲットに齧りついた瞬間、アルベルゲの管理人がモップ片手に入ってきて、いそいそと掃除を始めるではないか。そんな中でゆっくり朝食など食べていられず、二、三口で諦めると私はそそくさと部屋へ戻った。そしてやっと気が付いたのである。

ベッド脇の椅子に半分の牛乳が入ったボトルとインスタントコーヒーの紙パックが置かれていることに。そして私はシルエラが言わんとしていた内容をやっと理解した。

彼女は私が起きられなかったらこの椅子に牛乳とコーヒーを置いておくからカフェ・コン・レチェを作って飲みなさい、と言いたかったのだ。ああ、そうか、最初からそのつもりで彼女はこんな大きな牛乳ボトルを買ったのだ。

しかし、すでに時刻は8時を過ぎ、管理人が今度は私のいた部屋へ入ってきて「早くここを出ていけ」と言わんばかりにバスルームの掃除を始めた。公営のアルベルゲは8時までに出立するのが暗黙のルールなのだった。

ああ、どうしよう。今更キッチンでゆっくりカフェ・コン・レチェを作る時間はないし、そうかといってこんな大きな牛乳ボトルを持って歩くのは重すぎるし、第一この炎天下ではすぐに悪くなってしまう。悩んだ末に私は牛乳を置いていくことにした。

フリーミルクはまた、今日このアルベルゲに着いた人たちが使うだろう。そう願って「おばちゃん、ごめんね」と小さく呟き、私は追い立てられるようにアルベルゲを出て足早に歩き始めた。

私はシルエラの好意を無駄にしたのだ。
神への道を歩いているはずなのに、私はなんて心の曲がった人間なのだろう。何くれと世話をやいて自分の食べ物の半分を私に分け与え、私の名前も覚えてくれた、まるで母親のようなおばさんだったのに。
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初めて泣く I cry for the first time in Camino

それを思うと罪悪感で胸が痛くて、私は歩きながら初めて泣いた。
体は昨日よりラクだったけれど、人とのつながりを大切にできない自分が情けなくて、泣いた。

あのタフなシルエラは、すでに10キロ以上先をスタスタと、ひとり歩いているだろう。彼女は小さなおばさんに姿を変えた天使だったのかもしれない。あるいは私の母が、孤独に耐えきれず巡礼を諦めかけている娘を助けるために、おばさんの身体を借りて現れたのかもしれない。

そんな気がして、私は歩きながら歯を食いしばってワンワンと泣いた。鼻を啜り、落ちる涙の粒を拭うこともできずに、リュックの持ち手を握りしめながら、しばらく泣いたまま歩き続けた。


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他国の女の子たちはすぐに周囲に溶け込んで楽しく過ごす努力をしているのに対し、私はいつも自分から周囲との間に壁を築いて、一人閉じこもってしまう。

そして内心、誰かが声をかけてくれるのを待っている。8歳の子供じゃあるまいし、自分から心を開かなければ何も始まらないとわかっているのに。

一人で旅に出ることはできても、旅先でコミュニケーションを図る勇気がない。そして、差し伸べられた手さえも上手くつかむことができずに人の好意を無にしてしまう。

そんな自分という人間がつらくて、一昨日ログローニョでホテルに泊まったばかりなのに、私は今日も気が付くとオスタルを探していた。

ナヘラという比較的大きな町の旧市街に入った時、私の前を歩いていたあのドイツ人でこぼこ夫婦が仲良さげにアルベルゲに入ろうとしているのが見えてしまったから。
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楽し気な人々の中に入れば入るほど、孤独を感じずにはいられない。それは日本の東京でも同じだった気がする…。

人の優しさを素直に受け入れられない、私という人間がこのとき抱えていた精神的ダメージは、この旅の中で最も大きかったかもしれない。右膝の痛みさえ忘れるほどに。


★スペイン巡礼記Kへ続く…
(表題上部の>>をクリックしてください)
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