2024年04月28日
支倉常長 キューバにやってきたサムライ
ハバナの支倉常長像、日本人彫刻家、土屋瑞穂作
Cubadebate、2024年4月28日、Abel Aguilera Vega
アジアの文化は伝統的に「西洋」から縁遠い、と誤って考えられてきたが、この数千年間、何らかの形で接触を継続してきた。紀元前4世紀のアレキサンダー大王の征服以降、少なくとも紀元前1世紀以降の両大陸をつなぐ商業ルートの運用や、紀元13世紀初頭のチンギス・ハーンの東ヨーロッパでの存在、あるいは14世紀末のマルコポーロによる中央アジアや中国への渡航可能性は、両地域のあいだの交流を証明している。
しかしながら、これらの接触はつねに定期的なものではなく、十分に豊富なものでもなかった。上述の出来事は、わが国と結びついた慶長使節団のようなほかの接触を目立たなくさせてきた。
予期せぬ旅
支倉常長は17世紀の日本の侍であり、1613年にヨーロッパへの外交使節団を率いた。慶長使節団として知られるこの使節は、徳川秀忠将軍によって、スペインとローマ教皇と商業および政治関係を結ぶために派遣された。支倉とそのお供は、1620年に日本に帰国するまで、ヨーロッパのさまざまな国々を旅行した。
支倉の生涯の前半についてはほとんど知られていない。1571年に生まれ、早くから侍として教育されたことが確認されている。1592年から1597年にかけて日本による朝鮮侵略に参加し、その軍事的手腕とともに航海の知識を獲得したことが、外交使節に選ばれるにあたって決定的なものとなった。
15世紀から17世紀にかけては海洋探検の黄金時代であった。この期間にキリスト教は日本で人気を得たが、1613年に江戸幕府はその布教を禁じた。しかしながら、探検家セバスティアン・ビスカイーノをヌエバ・エスパーニャに帰国させたいという将軍の意思によってこの使節が始まったのは、この時期であった。ビスカイーノは金銀島の探検のために日本に到着していたが、嵐により船が被害に遭い、継続できなかった。将軍は日本の使節団と一緒にビスカイーノが帰国できるようようガレオン船の建造を命じた。
1613年10月28日、フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロと支倉によって率いられた使節団は、日本に有利な新たな商業ルートの開拓を目的として、月ノ浦湾を出発した。
世界をめぐるひとりの日本人
太平洋を航海し、メキシコを横断したあと、使節団は1614年7月23日にハバナに着き、支倉はキューバの地を踏んだ記録上初の日本人となった。当時、ハバナのサン・クリストバル集落は、100軒ほどの家々と、カリブ地域にたどり着いた船乗りたちの娯楽のための商業施設がある程度であった。
アジアの一行が現れたことは、ハバナの人びとにとって大きな驚きであったに違いない。その身体的特徴や、着物の服装、腰に差した刀、草履を履いていること、それらはこれまでキューバ国内で決して見られなかった風変りな様相を呈していた。これら訪問者に興味を抱いた植民地当局は、彼らを訪問し、おそらくは聞き取りをおこなった。
ハバナでの短い滞在のあと、船はスペインに向かって出発し、スペインでは当時大陸の主要大国の君主であったフェリペ三世に迎えられた。
この会見はなごやかなものであったが、日本におけるキリスト教弾圧の時代におこなわれたため、日本側が求めていた通商協定の調印をフェリペ三世は拒否した。一方、ローマ教皇パブロ五世からは叙勲を与えられ、三か月の間の滞在許可を受け、「ローマのパトリシオ」の称号を授与された。支倉はキリスト教に改宗したが、これはキリスト教を禁じていた自国での災難をのちに彼にもたらした。
ヨーロッパを出発した使節団は、ほぼ同じルートで戻り、7年かけて1620年に日本に着いた。実際のところ使節団はほとんど結果を出せず、この間に日本は大きく変わり、鎖国に向けて進んでいた。これが、日本がヌエバ・エスパーニャと予定していた協定を結ばず、1623年に同国との通商取引を破棄し、1624年に国交断絶する原因となった。
しかしながら、この使節団は日本とヨーロッパのあいだの関係の歴史において、画期的な出来事とみなされている。2001年4月以降、キューバと日本の関係発展の反映として、ハバナのプエルト通りには、支倉常長を称えるブロンズ像が建立されている。
クロード・デリュエによる支倉常長の肖像画、1615年作
Hasekura Tsunenaga, un samurái en Cuba
http://www.cubadebate.cu/noticias/2024/04/28/hasekura-tsunenaga-un-samurai-en-cuba/