作成絵師:ぐみホタル様(https://skeb.jp/@Gumi_Hotaru)
「皐月雨」・第6話更新です。
―暗い雨―
心臓移植
――心臓移植とは、拡張型心筋症等、重篤な心疾患に羅患し、末期状態にある患者で、他に代替治療手段が無いと判断された希望者(レシピエント)を対象に、脳死状態にある提供者(ドナー)から心臓を移植する手術である。術後は拒絶反応及び感染症の予防に尽力する必要があるが、救命と余命の延長、人生質の向上を図り、最終的に社会復帰が期待できる治療法である――
雨が降っていた。シトシトと、雨が降っていた。頭に被ったジャケットの隙間から空を見上げたけど、当たり前の様に月は見えなかった。
そんな薄闇の中で、僕は携帯の明かりを頼りにその本を読んでいた。
「……心臓移植の、適応除外条件……」
ブツブツと呟きながら、次の文に目を走らせる。
――心臓以外に重症疾患がある場合。例:肝機能障害・腎機能障害・慢性閉塞性肺疾患・悪性腫瘍・重症自己免疫疾患等――
僕は、そんなものを抱えてはいない。肝臓はとっくの昔に治った。OK。
――その他の疾患がある場合。例:現在進行中の消化性潰瘍及び感染症・重い糖尿病・重度の肥満・重度の骨粗鬆症等――
そんなのにも、罹っちゃいない。OK。
――アルコール・薬癖・精神疾患等のある場合――
酒に手を出した事はあるけれど、ほんのお遊び程度。どこぞの馬鹿親父じゃあるまいし。これもOK。
――重度の肺高血圧を伴う場合――
ない。OK。
次の項目に、目を移す。
「……提供者(ドナー)と希望者(レシピエント)の適合条件……」
――体重差が少ない事。希望者(レシピエント)の体重が提供者(ドナー)の-20%〜+50%程が望ましい――
里香は小さくて細いけど、体格差から見て、いくら何でもそんなに大きく僕と離れている訳がない。正確な体重は知らないけれど(前に訊いたら怒られた)、多分これは大丈夫だろう。
――血液型が適合している事。AOBが同型である事が望ましいが、以下の場合も適用する。A→AB、B→AB、O→A、O→B、O→AB――
里香の血液型はAB。僕はA。A型からAB型への移植は可能の様だ。問題ない。
――前感作抗体のない事。感作とは、ある抗原に対しアレルギー反応をおこしうる状態にする事を言う。例として、モルモットにある抗原を注射し、一定の期間おいてからもう一度同抗原を注射するとアナフィラキシーを起こす事が出来る。この時、前処置として行う注射を「感作する」という。この様に、提供者(ドナー)から希望者(レシピエント)に移植を行った場合に、急激なアレルギー反応(アナフィラキシー・ショック)を起こす事を防ぐため、希望者(レシピエント)に提供者(ドナー)に対する感作抗体がない事を確認する必要がある。故に移植を行う場合、提供者(ドナー)・希望者(レシピエント)間でリンパ球交差試験を行って、希望者(レシピエント)の抗体が陰性であることを確認する。
これが一番難解だったけど、要するに僕の心臓に対して里香がアレルギーを起こさないかと言う話らしい。こればかりは、検査してみないと分からない。でも、僕には妙な確信があった。里香が、僕を拒絶する筈がない。きっと、里香の身体は僕の心臓を受け入れてくれる。そんな確信だった。どの道、行動に移さなきゃ話は進まない。僕が健在な内に検査してくれと言ったって、周りが承知してくれる筈がないのだから。
もう一度、全てを読み直す。なぞった文章に、僕の計画を明確に否定する記述はない。
――上手くいく――
僕は、その確信を強くした。
そして、僕は本の最後の言葉に目を落とす。
――2011年10月までの日本での移植例は113例。その内、10年生存率は96%となっている。移植後は患者の多くが社会復帰し、日常生活において全く支障をきたさない者の割合は96%程度にまでのぼる――
――96%――
その数字が、この上なく輝いて見えた。正常な心臓さえあれば、里香はこの確率で生きる事が出来るのだ。5年なんて、短い時間じゃない。ちゃんとした人生を、全うする事が出来るのだ。
今まで、僕は無力だった。里香を守るなんて言っても、いざ事が起きれば何をする事も出来ない。でも、これなら。この方法なら、僕は里香を守る事が出来る。ずっと。ずっと。離れる事なく、守っていく事が出来る。なんて、素晴らしい事だろう。僕は小さく笑んで、本を閉じた。
ふと、携帯を見る。里香の所を飛び出してから、いつの間にか一時間近くが立っていた。いけない。夢中になりすぎた。こうしてる間にも、里香に何かあったら大変だ。里香にもしもの事があったら、僕の”計画”も無意味なものになってしまう。全ては、里香が生きるためのものなのに。
僕は立ち上がると、頭に被っていたジャケットを取る。僕の代わりに雨に当たっていたそれは、しっとりと湿っていた。濡れた床に座っていたせいで、ズボンも湿っている。まあ、このくらいすぐに乾くだろう。僕はジャケットを軽く絞ると、それを羽織って院内に戻るドアを開けた。その時――
――リン――
不意に、鈴の音が聞こえた。思わず、振り返る。けれど、そこに広がるのは、シトシトと雨の降る夜の屋上。その光景だけ。鈴の音なんてしそうなものは、どこにもない。
空耳か。
そう結論づけて、僕は中に入ってドアを閉めた。
――リン――
また鈴の音がした様な気がしたけれど、もう気には止めなかった。
「……自分の心臓をあたしに移植って……裕一がそう言ったんですか……?」
「ああ……まぁ、そんな事を言ってたね……」
亜希子さんから聞いた話に、あたしは愕然とした。移植?裕一の心臓を、あたしに?馬鹿な。そんな事をしたら、裕一はどうなる?いや、どうもこうもない。そんなのは、自明の理ではないか。正気の沙汰じゃない。
「そんな……。それで……それで、亜希子さん、なんて言ったんですか!?」
「おい!!そんなに興奮すんな!!まだ身体が本当じゃないんだぞ!!」
亜希子さんが慌ててなだめてくるけど、それどころじゃない。
「いいから!!聞かせてください!!裕一に、何て言ったんですか!?」
「分かったから落ち着けって!!」
身を乗り出すあたしを、何とかベッドに押し付けると亜希子さんはやれやれと言った体(てい)で頭をかいた。
「ぶん殴ったよ」
「え?」
「馬鹿な事言ってんじゃないって、ぶん殴った」
その答えに、思わず目を丸くする。この女(ひと)らしいと言えば、この女(ひと)らしいけれど。
「で、でも、それで裕一、納得したんですか?」
「落ち着きなって。どうもあんたらしくないね」
そう言って、亜希子さんはハァッと溜息をつく。
「納得もへったくれもないんだよ。いいかい?心臓移植ってのはそんな簡単に出来るもんじゃないんだ。医療関係のゴタゴタの他に、いろんな法律が絡むし、金だってかかる。そんなたくさんの壁に阻まれて、受けたくても受けらんない患者がごまんといるんだ。ガキの一存で、どうにかなるもんじゃないんだよ」
「そう……ですか?」
「そうさ。大体、提供者(ドナー)になるにはまず脳死状態にならなきゃいけないんだよ?そんな真似、出来る訳ないだろ?」
そして、亜希子さんは今だ釈然としないあたしの頭をクシャクシャと撫でて、少し優しい顔でこう言った。
「あん時は、あんたがあんな事になって、裕一の奴も錯乱してたんだよ。一時の気の迷いってやつさ。心配しなさんな」
「……はい」
頭を撫でられながら、あたしは頷くしかなかった。
「じゃあね。何かあったら、すぐに誰か呼ぶんだよ」
そう言って病室を出ていく亜希子さん。あたしは頷いてその背を見送った。小さく手を降る亜希子さん。そして、病室の扉が閉まる。と、
「……!……!?」
「………?」
「……!!……!!」
「…!!」
扉の向こうから、何やら言い合う声が聞こえてきた。合間には、何か固いものを叩く様な音も。そして、しばらくすると……。
カララ……
もう一度病室の扉が開いて、裕一が頭をさすりながら入ってきた。思わず、身構える。
「イテテ……。あ、里香。ゴメンな。ちょっと、空け過ぎた」
そんな事を言いながら、ニヘラと笑う裕一。その様子は、いつもと変わらない。でも……。
「……遅かったね。裕一。何してたの……?」
「いや、ちょっとディルームで漫画を読んでたら居眠りしちゃってさ。でも、亜希子さんがついていてくれたんだな。お前放っといて何やってんだって、ゲンコくらっちまったけどな」
そう言う裕一の頭には、確かに大きなタンコブがあった。だけど、あたしの関心はそんな事には向かない。
「……ディルームで、漫画読んでたの……?」
「おう」
「じゃあ、何で服、濡れてるの……?」
「あ……」
裕一が、しまったと言った顔で言葉に詰まった。
そう。彼の身体は、しっとりと濡れていた。まるで、今まで雨の中にでもいた様に。ザワリ。心が疼く。嫌だった。とても嫌だった。ずっと隣りにいた裕一が、突然知らない所に行ってしまった様な、そんな気持ちがした。
「裕一、来て」
ベッド脇にかけてあったタオルを手に取りながら、彼を呼ぶ。
「な、何だよ?」
「いいから、来い」
ちょっと語気を強めて言うと、怒らせちゃ不味いと思ったのか、ヘコヘコと近寄ってきた。パサ。間近まできた彼の頭に、タオルを被せる。そして――
ワシャワシャワシャッ
裕一の頭を思いっ切り拭きまくった。
「うわ、ちょ、何すんだよ!?」
「うるさい。黙って拭かれなさい!!」
ワシャワシャッ ワシャワシャッ
拭きまくる。これでもかというくらい、拭きまくる。
「痛い!!痛いって里香!!タンコブ出来てんだぞ!?」
「黙れ!!こんなに濡れて!!風邪ひいたらどうするの!?」
「いや、それより問題はお前だろ!!そんな力むなって!!また、何かなったらどうするんだよ!!落ち着け!!ってか痛いって!!痛い痛い!!」
「落ち着くのは裕一でしょ!!」
「!!」
あたしの声を聞いた裕一の動きが、ピタリと止まった。
パフッ
そのまま、彼の頭を胸に抱き抱える。彼の顔が、一気に熱くなるのがパジャマ越しに分かった。
「り、里香?」
「……亜希子さんから聞いた」
ピクリ
腕の中で、裕一の身体が震える。構わずに続ける。
「……移植の話、本当……?」
「………」
答えがない。その沈黙が、殊更あたしの不安を煽る。
「……本気じゃ、ないよね……?」
沈黙。
「……馬鹿な事、考えてないよね……?」
やっぱり、沈黙。
「ねえ……裕一……」
すがる様に、問う。
「答えてよ……」
その不安を紛らわす様に、裕一を抱き締める。湿った服から、微かに雨の匂いがした。
相変わらず、裕一は何も言わない。普通なら、亜希子さんの様に馬鹿げた話と笑い飛ばすべきなんだろう。けれど、今のあたしにはそうは出来ない理由がある。
――モモ――
――文伽さん――
夢と、現の狭間で出会った少女達。彼女達の言葉が、止む事なく頭の中で反響する。証が欲しかった。彼女達の言葉を否定する証が。裕一の。彼の口から、あれは一時の気の迷いだと否定する言葉が。だけど、彼は何も言わない。言ってくれない。続く沈黙。不安が、確信に変わろうとしたその時、
グイッ
急に、身体が引かれた。
「あ……」
思わず、声が漏れた。裕一が逆にあたしを抱きしめ返していた。温かい胸板。湿ったジャケット。それに、顔がギュッと押し付けられる。強く香る、雨の匂い。その奥に感じる、彼の鼓動。それが、酷く静かに聞こえたのは、気のせいだろうか。
「……大丈夫だ」
彼が言う。
「大丈夫だから、心配すんな」
それは、確かにあたしが求めていた言葉。けど。だけど。
「オレは、ずっとお前の傍にいるから」
だけど、違う。
「約束したろ。ずっと、一緒だって」
違う。これは、あたしの求めている言葉じゃない。
「守ってやるから。ずっと、ずっと、守ってやるから」
形は同じ。だけど、そうじゃない。これは、この言葉は――
「裕一……!!」
あたしが、たまらず声を上げたその時、
ガチャッ
唐突に、病室の戸が開いた。裕一の身体が、パッと離れる。
「ごめんなさい。随分、待たせちゃったわね」
そんな言葉と一緒に入ってきたのは、ママだった。手にはスーパーの袋を持っている。何処かで、買い物をしてきたらしい。
「いえ。大丈夫です。里香も、どうって事なかったですし」
作った様な笑いを顔に張り付けながら、言葉を返す裕一。そんな彼に向かって、ママが言う。
「裕一君、そろそろ帰りなさい。雨が降ってるし、日も暮れたわ」
「でも……」
躊躇する様子を見せる裕一。正直、あたしも帰って欲しくなかった。ママも、そんなあたし達の気持ちを察してはいるのだと思う。一瞬困った様な顔をする。それでも、次に放つのは大人としての言葉。
「駄目よ、裕一君。明日も学校でしょう?何かあったら連絡するから、今日は帰りなさい」
少しの間。そして、頷く裕一。
「分かりました。お願いします」
「あ……」
思わず身を乗り出すあたしから、裕一の身体がス…と離れる。
「里香、じゃあな。具合悪くなったら、すぐにおばさんか看護師さんに言うんだぞ」
そう言って、裕一は出口に向かう。
「待って……!!」
「こら、里香」
追いすがろうとしたあたしを、ママが押し止める。
「我侭言っちゃ駄目よ。裕一君には、裕一君の生活があるんだから」
「でも……」
「どうしたの?いつもはこんな事ないのに……」
不審がるママの向こうで、裕一が微笑む。
「心配するなって。明日、学校が終わったらすぐに来るから」
「ごめんなさいね。ちょっと、気が弱くなっちゃったのかしら?すっかり甘えちゃって……」
「いいえ。それじゃ……」
裕一が扉を閉じようとした時、ふと彼の視線が虚空を見上げた。
「どうしたの?」
ママが訊く。
「いえ……。何か、鈴の音が……」
「!!」
一瞬、心臓が跳ねた。
「鈴の音?何も聞こえなかったけど……」
小首を傾げるママに、裕一が笑いかける。
「そうですね。空耳みたいです」
そして、締まり始める扉。
「裕一……!!」
呼びかけるあたしの視線の向こう。閉まりかけの扉の向こうで、裕一が笑いかけるのが見えた。
リン……
閉まる扉。軋む音に混じって、微かに鈴の音が聞こえた様な気がする。
閉まる瞬間、扉越しに見えた夜空は雨。
月は、見えなかった。
続く
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