作成絵師:ぐみホタル様(https://skeb.jp/@Gumi_Hotaru)
「皐月雨」・第5話更新です。
―想い文―
言われた事が、理解出来なかった。ただ呆然と、目の前に差し出された手紙を凝視する。風変わりな郵便配達夫の手の中にある封書。その宛名書きには、確かにあたしの名前が書き刻まれている。「里香へ」と。懐かしい、覚えのある筆跡で。
「どうしたの?受け取りなさい」
文伽と名乗った郵便配達夫がそう言う。酷く、淡々とした口調で。だけど、震える手がそれを受け取る事はない。出来る筈もない。
「……ふざけないで……!!」
「こっちは至って、真面目なつもりだけど?」
少なからずの怒りが混じった声にも、文伽さんは飄々とした態度を崩さない。それが、あたしの苛立ちを煽る。
「”秋庭玲二“って、誰だか分かってるの……?」
「あなた……秋庭里香の父親ね。知ってるわよ」
「だから、ふざけないでって言ってる!!」
激高と共に払い落とそうとした手を、ヒラリと手紙がかわす。代わりに伸びてきた手が、あたしの唇にピタリと指を当てた。
「う……」
「落ち着きなさい。その激情は、今のあなたの身体には負担が過ぎるわ」
澄んだ声が、あたしの激情を冷やす。だけど、沸き立つ怒りは収まらない。冗談にしても、世の中には許せるものと許せないものがある。
「……落ち着いたかしら?」
そんな言葉とともに、文伽さんはあたしの口から手を離す。ハァッ。止まっていた、呼吸が戻る。あたしは大きく息を吐いて、ベッドの上に突っ伏した。トクトクと速まる鼓動を抑えながら、ハッハッ、と喘ぐ。
「だから、言ったでしょう?」
言いながら、文伽さんがあたしの背に手を置いた。パジャマ越しに感じる、冷たい手の体温。それが、身体の乱れを吸い取る様に、動機は収まっていった。
「全く。世話がかかるわね」
手を戻しながら呟く文伽さんを、あたしは上目で睨む。
『文伽が悪いんだよ。急にこんな事言われたら、吃驚するに決まってるじゃないか。まして、この娘にとっては父親は普通にもまして特別な存在なんだよ?知ってるくせに』
ようやく立ち直ったらしい杖(マヤマ……とか呼ばれていただろうか?)が、そんな事を言ってあたしに声をかける。
『ごめんね。文伽も悪気はないんだよ。ただちょっと、無愛想で非社交的でぶっきらぼうで……ギャフ!!』
また壁に叩きつけられるマヤマ。再び沈黙してしまう。コホンと咳払いをした文伽さんが居住まいを正した。
「ごめんなさい。確かに、話を急ぎ過ぎたわね。最初から説明するわ」
「………」
相変わらずのど突き漫才を続ける、一人と一本。これだけドタバタしてるのに、扉一枚向こうにいる筈の看護師さん達が気づく様子がまるでない。やっぱり、この娘達もモモと同じ。人間(ひと)ではないのだ。
「あなたをからかうつもりはないわ。この手紙は紛う事なく、あなたの父親、秋庭玲二からのものよ」
「でも……パパは……」
「知ってるわ。あなたが幼い頃に、亡くなっているのでしょう」
何でもないかの様に、さらりと言う。文伽さん。手に持っていた手紙を、宛名がよく見える様にピッと立てる。そこにあるのは、懐かしい筆跡で書かれた「里香へ」の文字。見間違える筈もない。でも、そんな筈もない。訳が分からない。心が、乱れる。
「これはね、死後文よ」
「しごふみ……?」
聞きなれない言葉。眉を潜めるあたしに向かって、文伽さんは続ける。
「死後文(これ)は、死した人が遺した人へと送る手紙……。モモが、言っていたでしょう。想いを残した魂は、その想いに縛られてしまう。そうならない様に、その魂達が残した想いを届けるのが、私の仕事」
「……!!」
普通に聞いたら、あまりに荒唐無稽な話。でも、今のあたしに笑い飛ばす事は出来ない。何故なら、あたしはもう会っているから。その話を証明する存在に。死神と名乗ったあの娘の、優しい微笑みが脳裏を過る。
「でも、パパが死んだのは、もう何年も前よ?それが、何で今になって……」
「それが彼の……秋庭玲二の願いだったから」
「え……?」
問いかけの答えは、あっさりと返される。
「彼から頼まれたのよ。里香(あなた)が、「恋を覚えたら渡してくれ」って」
「!!」
思いがけない言葉。顔を赤らめるあたしに、文伽さんは改めて手紙を差し出す。
「受け取って。ここに、あなたの父親の”想い”があるわ」
もう、拒む必要も憤る道理もなかった。恐る恐る手を伸ばし、手紙を受け取る。黒い切手の貼られた、一通の便箋。震える手で、封を切る。一瞬、懐かしい匂いが漂った様な気がした。
授業時間が終わると同時に、僕は学校を飛び出した。自転車に飛びつき、そのまま全速力で若葉病院に向かう。何度も信号無視を繰り返しながら病院にたどり着くと、乱れる呼吸を整える間ももどかしく、里香のいる病室へと直行した。
「里香!!」
息せき切って病室に飛び込むと、里香とおばさんが驚いた顔でこっちを見た。里香はリクライニングベッドの半分を起こして、そこに身を委ねていた。身体に付けられていた器具も少し減って、顔色も幾分良い様だ。
「吃驚させないでよ。馬鹿裕一」
か細いけれど、しっかりした声。間違いなく、昨日よりも回復している。僕は、ホッと胸をなで下ろした。
「いらっしゃい。裕一君。どうぞ、座って」
おばさんがそう言って、自分の座っていた椅子を僕に進める。僕は「すいません」と言って、素直に勧められた椅子に座る。
「それじゃあ、私、ちょっと用事を足して来るから。里香の事、お願いね」
そんな言葉を残して、おばさんは部屋を出て行った。おばさんはたまに、こうやって気を使ってくれる。そんな時、僕達はその好意に存分に甘える事にしている。
「裕一」
さっそく、里香が呼ぶ。僕は席を立って、ベッドに近づく。
僕が近づくと、里香が嬉しそうに微笑んだ。僕は、手を伸ばしてそのおでこを撫でた。里香は目を閉じると、黙って僕に身を委ねる。触った肌は少し火照っているけど、熱はない様だった。
「昨夜、どうだった?ちゃんと眠れたか?何処かしんどかったり、痛かったりしなかったか?」
「――――!」
一瞬、里香が何か考える様な顔をした。何かあったのかと心配したけれど、里香はすぐに笑みを戻すと、こう言った。
「うん。大丈夫だったよ」
「……本当か?」
「何よ。疑うつもり?」
里香が、口を尖らせる。あんまり詮索して、機嫌を損ねるのも身体に障る気がした。僕は早々に、追求の手を引っ込める。
「別に。そんなつもりねぇよ」
「なら、よし」
里香も簡単に納得して、矛を引く。里香も十分、自分の身を案じている。入院生活が長かった分、やせ我慢をすれば結果的に周りに迷惑がかかる事も重々に承知している。その事に関しては、僕はあまり心配してはいなかった。
それでも、間近で見ると里香が衰えている事は明白だった。三日前までは、確かに僕らと一緒に日常生活を送っていた筈なのに。ほんの一分足らず、心臓が動く事をやめてしまっただけで全ては壊れてしまう。その儚さと理不尽さを、僕は心の底から怖いと思う。表に出しこそしないけど、患う里香の抱く恐怖はもっとだろう。
「きゃ!?」
里香が小さく声を上げた。知らずのうちに、僕が抱き締めていたのだ。
「裕一……どうしたの……?」
蚊の鳴く様な声で、里香が訊く。でも、僕は答えずに抱き締める。
彼女の鼓動を確かめる様に。だけど、壊してしまわない様に。優しく、強く力を込める。数日前から比べて、確実に華奢になった身体。その奥に感じる鼓動に、僕の鼓動を合わせる。トクントクン。ドクンドクン。二つの心臓が奏でるデュエット。それはいつしか同調して、一つの心音となって僕に届く。頭に描く、イメージ。里香の中で息づく、僕の心臓。弱くもなく、脆くもない、あるべき形の心臓。そう。僕の考えが現実になれば、里香は生きれる。まとわりつく病魔に、日々を脅かされる事もなく。五年や十年なんて短い時間じゃなく。里香は、生きていく事が出来る。いや。里香だけじゃない。そして僕もまた、彼女と共に生きていく事が出来る。約束も、誓いも違う事なく。里香を。里香だけを守って生きていける。
……決意は、固まりつつあった。
「裕一……苦しい……」
腕の中で、里香が呻いた。僕は慌てて腕を引く。
「わ、悪ぃ!!大丈夫か!!」
「うん……大丈夫……」
軽く咳をしながら、里香は言う。
「ごめん……。ちょっと夢中になった……」
「………」
と、気がついた。
謝る僕を、里香が見つめていた。
何を言うでもなく、まるで僕の内を探る様に。じっと僕を見つめていた。
「な、何だ?どうした?」
戸惑いながらそう訊くと、僕の目をその黒い眼差しで見ながら里香は言った。
「……裕一、何かあたしに隠してない……?」
ドキリ
心臓が、飛び跳ねた。何で、急にそんな事を訊いてきたんだ?あまりに突然すぎて、訳が分からない。
「ねえ……。隠してない……?」
続けて、里香が問う。まるで、心の中を見透かされている様な気がする。答えを求めるその瞳が、僕の胸の内をかき乱す。いっそ、思いを全部ぶちまけてしまおうか。けれど、理性がその衝動を押し止める。今、僕の計画はまだしっかりした形を成していない。里香に話しても、否定されてしまうに決まっている。いや、それ以前に里香は絶対了承しないだろう。彼女に拒絶されたら、この計画自体が頓挫してしまう。悟られる、訳にはいかない。僕は、作り笑いを顔に貼り付けて、里香の問いを否定する。
「な、何言ってるんだよ?そんなの、ある訳無いだろ?」
「……裕一、おかしい……」
それでも里香は、納得しない。
グイッ
不意に身体が引かれた。里香が、僕の胸倉を掴んで引き寄せたのだ。弱っているとは思えないくらいの、力だった。引き寄せた僕の額に、里香の額がぶつかる。鈍い痛みが広がったけど、それでも里香は僕を放さなかった。
「……何、隠してるの……?あたしにも、言えない事……?」
そう。言えないのだ。絶対に、言う訳にはいかない。里香だけじゃない。この計画は、きっと周りの人間全てに否定される。だから、知られる訳にはいかない。まして、里香が知るのは全てが終わった後でいい。だから。だから今は。僕は意を決して、里香の手を振り払った。
「ないって、言ってるだろ!!」
振り払うと同時に、語気を強めて言う。里香が、驚いた様に手を引っ込めた。でも、構う暇はない。今は、誤魔化すだけの時間を稼がなきゃいけない。僕は、急いで踵を返す。
「悪ぃ。ちょっと頭冷やしてくる」
突き放す様にそう言って、僕は病室を飛び出した。背中に、取り残された里香の視線を感じながら。
「裕一……」
部屋から飛び出していく裕一の背中を、あたしは成す術なく見送るしかなかった。後を追いかけたかったけど、今のあたしには無理な話だった。遠ざかっていく彼の足音を聞きながら、あたしは枕の下に手を入れた。
取り出したのは、一通の手紙。黒い切手が貼られたそれの宛名は、あたし。差出人は秋庭玲二。あたしのパパ。もういない人からの手紙。「死後文」と言うらしい。昨夜、文伽と名乗る配達夫によって、あたしの元に届けられた。
「パパ……」
一度開けた便箋をもう一度開いて、中の手紙を取り出す。開いたその中には、懐かしい匂いと共に懐かしい文字が眠っていた。それを、大事に、大事に、胸に抱く。閉じた目の奥で昨夜の事が思い出された。
薄暗い病室の中で、あたしは信じられない気持ちで”それ”を手にしていた。
「パパからの……手紙……」
あたしが、恋を覚えたら渡す様に頼まれたという手紙。それを、震える手で開くあたし。そんなあたしを、文伽さんは黙って見つめている。マヤマ君は、沈黙したままだ。文を読むのが怖い。まるで、何かの禁忌を犯してしまう様な気がする。おずおずと文伽さんを見やると、彼女はそんなあたしの心を後押しする様に、静かにあたしの肩に手を置いた。急かすでも、強制するでもなく。ただ静かに手を置いた。冷たい感触。それが、あたしの心を落ち着かせていく。やがて意を決し、あたしは手紙を読み始めた。
「――里香、元気でいますか。色々と話したい事はあるけれど、まずは、君を置いていく事。そして、君の未来を守ってあげられない事を、父親として謝りたいと思います。本当にごめんなさい。でも、少しだけ安心もしています。君が、この手紙を読んでいると言う事は、大事に思える人が出来たという事ですね。この手紙を読む時、君が何歳になっているかは今の僕には知る術はないけれど、小さかった君が、そう思える人が出来るまでに成長してくれた事を、心から嬉しく思います。
本当に、おめでとう。
親の子贔屓になるかもしれないけれど、君は賢い子です。君が選んだその人は、きっと素晴らしい人でしょう。思えば、僕は君にあまりにも大きな枷を課してしまいました。それが、とても心残りであったけれど、その穴はきっとその人が埋めてくれると信じています。どうか、離す事なく、違う事なく手をつないで、迷いなく進んでください。
男親としては、少々複雑なところもあるけどね。」
懐かしい筆跡。懐かしい口調。間違える筈もない。パパのものだった。温かい感覚が、胸を満たす。裕一に抱きしめられた時とは違う、胸の疼き。目から雫が落ちて、手紙の文字を滲ませる。文伽さんは、何も言わない。ただ黙ってあたしを見守る。
あたしは涙を拭い、二枚目の手紙をめくった。
「ただ、一つだけ覚えていてほしい事があります。
君が選んだその人は、必ず君を守り、守ろうとしてくれると思います。でも、いつかその人にも苦しむ時が、痛みに耐えなければいけない時が来ると思います。いえ、必ず来ます。そんな時は、君がその人を守ってあげてください。傷ついた心を癒し、間違えた道を行き直せる様に、力になってあげてください。人の絆は、一方通行では決して紡ぐ事は出来ません。守り、守られ、互いを癒し合いながら紡いでいくものです。その事を忘れずにいてください。そして、いつか生まれるであろう君達の子供にも、伝えてあげてください。君は、それが出来る人間だと、僕は信じています。
最後になりますが、君達に捧げたい言葉があります。
僕の一生は、決して長いものではありませんでした。だけど、それを不幸と思った事は一度もありません。僕の心の傷は、君とママと暮らした月日が埋めてくれました。僕が君達からもらった幸せ。それを、今度は君達が受け継ぐ事を、心から願っています。
どうか、君達の歩く道が、明るい光に満たされたものであります様に。
僕の娘、里香へ
君の父、玲二より」
「パパ……」
溢れる涙が止まらない。これ以上字を滲ませるのが嫌で、あたしは急いで手紙を畳んで便箋に戻した。
「……伝わったかしら。”彼”の想い」
手紙を胸に抱くあたしに、文伽さんが問いかける。
あたしは、黙ったまま頷く。
『ああ良かった。信じてもらえなかったり、受け取ってもらえなかったりしたらどうしようかと思ってたんだけど……』
いつの間にか復活していたマヤマ君が、嬉しそうに間に入ってくる。
『お父さんの想い、伝わって良かったよ。これで、君のお父さんにも面木が立つってものだよ。文伽もいい経験になったよね。人の想いを伝えるって仕事の難しさと高潔さってものが良く分かっただろ?これを契機に、もう一度自分を見直してね……』
仕事が片付いたのがよっぽど嬉しいのか、ペラペラとよく喋る。文伽さんが辟易した様に耳に指を突っ込んだ。
「悪いわね。長期の案件が済んで、ちょっとテンションが上がってるみたい」
辟易した様に溜息をつくその顔は、あいも変わらず澄ましているけど、最初に見た時よりもずっと柔らかく見えた。その顔に向かって、あたしは口を開く。言わなくちゃ、いけない事があるから。
「文伽さん……。マヤマ君……」
「?」
文伽さんが、小首を傾げた。
「ありがとうございます……。パパのお願いを、叶えてくれて……」
そう言って、頭を下げる。あたしの分も。そして、パパの分も。それを聞いた文伽さん。帽子をぐいっと、目深に被る。
「お礼なんか必要ないわ。これが私の仕事だもの」
淡々と答えるその声音は、何処か満足気に聞こえた。
『何だい?柄にもなく照れてるのかい?文伽。嬉しいなら嬉しいって言えば……イテッ!!』
余計な事を言うマヤマ君の文字盤を、文伽さんがペチリと叩いた。
『痛いな!!さっきから壁にぶつけたり叩いたり!!僕の事、太鼓のバチか何かと勘違いしてない!?』
「そうね。太鼓のバチの方がましかもね。バチはそんなにギャアギャア喚かないもの」
『ひ、酷いよ!!文伽!!僕は君のためを思って……』
「それがうるさいって言うのよ」
ギャアギャアと言い合う二人と一本。いいコンビだな、と思う。ふとその姿に、昨夜夢で出会った真っ白い女の子と相方の黒猫を思い出した。死神と名乗った彼女達。その手に持つ禍々しい大鎌のイメージとは全然違う、とても優しかった彼女達。
記憶の中の、彼女が言う。
――今、あなたの近くにはもう一つ、危うい魂がある――
――その魂は、今、死への執着に囚われてしまっている――
――とてもとても暗い澱みにはまってしまって、あたしの声じゃ、届かない――
――助けられるのはきっと――
――あなた、だけ――
……確かに託された、あの願い。でも、分からない。今のあたしに、一体誰が助けられると言うのだろう。いやそもそも、あたしの近くで、死に囚われている者なんているのだろうか。あの娘から答えを聞く事は、叶わなかった。でも、今目の前にいる彼女達だったらどうだろう。あの娘と同じ、死に関わる者。そして、あたしに想いを伝えに来た者。ひょっとしたら、知っているかもしれない。あたしに託された、あの言葉の意味を。
「あの、文伽さん……」
「……駄目よ」
問う前に、答えられた。
「まだ何も……」
「分かるわ。モモ(あの娘)の言葉の意味でしょう?」
淡々と、冷淡にすら聞こえる声で、文伽さんは言う。
『ごめんね。”それ”は、僕達の権限の範疇外なんだ』
続く様に、マヤマ君も言う。酷く、申し訳なさそうに。
「私達は、あくまで配達夫。役目は、死者の想いを届ける事。人の生死の行方に干渉する事は出来ないの」
「でも、モモは助けてあげてって……!!」
「それは、あの娘が死神だから。本来死ぬべきじゃない魂を止めるのも、また役目」
憤るあたしに、静かな声音で文伽さんは言う。でも、あたしは納得出来ない。
「そんなのおかしい!!人の命に関わる事なのに、役目云々で決めるなんて!!」
思わず激昂した瞬間、表情に乏しい文伽さんの顔に笑みが浮かんだ気がした。
「そうね。あなたの想いは正しいわ。そんなあなただから、モモ(あの娘)も託したの」
『本当だね。最近は他人の生死なんて気にもとめない人間(ひと)が多いのに、誰かも知れない人のためにそんなに怒れるなんて、凄いと思う』
文伽さんとマヤマ君が、そう言いながら近づいてくる。
「大丈夫。あなたなら助けられる。まして、”彼”の事なのだから」
”彼”。モモと同じ言葉。あの時の、ザラリとした気持ちが蘇る。
「……誰なの?誰の事を言ってるの?あたしの周りに死にそうな人なんて……」
『”死にそうにない人”なんて、いないよ』
マヤマ君が言った。
「死は、全ての生命(いのち)に平等に訪れる。どんなに生気に溢れた人間でも、一秒後は分からないわ。あなたなら、重々承知の筈でしょう」
文伽さんが言う。言いながら、ゆっくりと手を上げる。
「心配しなくていいわ。あなたなら、きっとたどり着ける。”彼”の元に。だから今は……」
トン
白魚の様な指が、あたしの額に優しく触れた。
「……!?」
途端に襲う、猛烈な睡魔。起こしていた身体が、成す術なくベッドに沈む。
「眠りなさい。そして、”その時”のために身体を癒しなさい」
冗談じゃない。これでは、昨夜の繰り返し。知らなければいけない事は、まだあるのに。薄れゆく意識の中、目の前の彼女に向かって声を絞る。
「待って……。あたしは、誰を……何をすれば、いいの……?」
「………」
一拍の間。そして、彼女の声が言う。
「……父親の声を辿りなさい。答えはきっと、そこにあるわ……」
『ちょ、ちょっと、文伽!!それは権限が……』
「何の事かしら?私は手紙を読めと言っただけよ」
『……ああ、やれやれ……』
マヤマ君の呆れた様なの声と、文伽さんの澄ました声。それらを最後に、意識は急激に遠ざかっていく。すがる様に、手を伸ばす。
「待って……。待って……」
『きっと、また会うよ』
凄く遠くで、マヤマ君の声が聞こえた。
「あなたが、答えにたどり着けたなら……」
最後に文伽さん。そして、全てが途切れて――
気がついた時、あたしの目の前にあったのは、文伽さんとは別の女の人の顔。昨夜の担当の看護師さんだ。時計は、朝の六時を指していた。
「随分、乱れてるわね。昨夜、寝苦しかった?」
彼女はそう言いながら、絡まったケーブルや外れた心電図のコードを直していく。そんな彼女の声をぼんやりと聞きながら、あたしはしばし呆けていた。と、自分が何かを持っている事に気づく。手の中にあったのは、黒い切手の貼られた便箋が一枚。
「!!」
……夢じゃ、なかった。
急いで手紙を枕の下に隠すと、そのまま素知らぬ顔をする。
「じゃ、体温と血圧、測りますね」
看護師さんがそう言って、準備を始める。渡された体温計を脇に挟みながら、あたしは昨夜の文伽さんの言葉を思い出していた。
――父親の声を辿りなさい。答えはきっと、そこにあるわ――
パパの手紙。そこに書かれていた事。看護師さんが検診を終えて出て行った後、あたしは手紙を取り出して、もう一度目を通した。昨夜、震える心で読んだ文(ふみ)。それに、もう一度目を通していく。そして、あたしはある箇所で目を止めた。
――君が選んだその人は、必ず君を守り、守ろうとしてくれると思います。でも、いつかその人にも苦しむ時が、痛みに耐えなければいけない時が来ると思います。いえ、必ず来ます。そんな時は、君がその人を守ってあげてください――
守られるだけじゃいけない。時には、あたしが守らなきゃいけない。そんな、言葉。その中の一語。
――あたしが、選んだ人――
その言葉が連想させるのは、たった一人の人物。
嫌な。とても嫌な考えが、頭に浮かんだ。
「……裕一……?」
たどり着いた答えに、あたしの心がザラリと揺れた。
裕一が飛び出して行ってから、三十分程が過ぎた。彼は、まだ戻ってこない。
さっき問い詰めた時の反応。確かに、おかしかった。彼は、何かを隠している。それは間違いない。だけど――
――あなたの近くにはもう一つ、危うい魂がある――
モモが告げた、あの言葉。明らかに、死を示唆したもの。でも、あたしには死(それ)と裕一(彼)を結びつける事がどうしても出来なかった。あたしよりも先に、裕一が死ぬ?ありえない。そんな事、ありっこない。大体、裕一が何で死ぬって言うのだろう。彼は、あたしの様な病を抱えてはいない。死ぬ道理がないではないか。けれど――
――死にそうにない人”なんて、いないよ――
――死は、全ての生命(いのち)に平等に訪れる。どんなに生気に溢れた人間でも、一秒後は分からない――
そんなあたしの思考逃避を遮る様に、昨夜の文伽さん達の言葉が脳裏を過る。そう。死なない人間なんていない。誰だって、今の一秒後は分からない。急性の病気が、起こるかも知れない。思いがけない、事故に合うかもしれない。可能性は、いくらだってある。だけど。それでも。
裕一が、あたしより先に死ぬ。
その可能性を、心が絶対に受け入れようとしなかった。ありえない。ある筈がない。裕一は、約束してくれたのだ。あたしを、一生守っていくと。死んでしまったら、守る事なんて出来る筈もない。彼が、あたしとの約束を破るなんてある筈がない。ある筈が、ないのだ。
袋小路にはまった思考が、グルグルと回る。軽い目眩。たまらず、身体をベッドに埋める。
どうすればいいんだろう。
何をすればいいんだろう。
分からない。
分からない。
助けを求める様に、パパの手紙を胸に抱く。
パパ。あたしの周りで何が起こっているの?
裕一は、何をしようとしているの?
いくら問うても、答えなんて返ってくる筈もなかった。
コンコン
突然、病室のドアが鳴った。
「!!」
慌てて手紙を枕の下に隠す。
裕一が、戻ってきたのだろうか。平静を装いながら、声を返す。
「……どうぞ」
ギィ……
病室のドアが開く。
「よーっす」
そんな軽い声と共に、一人の看護師さんが入ってきた。よく知ってる顔。良くしてくれた顔。亜希子さんだった。
部屋を見回した亜希子さんは、頭をかきながら言った。
「ありゃ、一人かい?裕一の奴は?」
「あ、はい……。ちょっと、用事があるって……」
「はぁ?」
あたしの答えに、亜希子さんは眉を釣り上げる。
「あいつ、あんた放っといて何やってんだよ」
「いえ……。ちょっと、席を空けただけですから……。すぐに、戻ってくると思います……」
「……そうかい」
そう言って溜息をつく亜希子さんの様子は、何か変だった。不信に思って、問いかける。
「あの……裕一が、どうかしたんですか……?」
「あ、別に……ちょっとね……」
誤魔化す亜希子さん。やっぱり、様子がおかしい。嫌な感じがして、問い詰める。
「何かあったんですか?裕一、何かしたんですか?」
「あ、いや……」
「教えてください!!裕一、どうかしたんですか!?」
今のあたしを興奮させるのは、あまり上手くないと判断したのだろう。何処かバツが悪そうに亜希子さんは話し始めた。
「いやね、あいつ、あんたが意識失ってた間、様子がちょっとおかしくてね……」
亜希子さんの話に、あたしの血はゆっくりと下がっていった。
雨が降っていた。
シトシトと、雨が降っていた。
激しく、荒ぶるでもなく。
儚げに、霧と散るでもなく。
シトシトと。
ただ、シトシトと雨が振っていた。
肌寒い夕暮れだった。
深々と、肌寒い夕暮れだった。
キリキリと、身に喰い込むでもなく。
キシキシと、骨を軋ませるでもなく。
深々と。
ただ、深々と肌寒い夕暮れだった。
そんな夕暮れの中、雨と共に薄闇が落ちてくる若葉病院の屋上。そこで、戎崎裕一は本を読んでいた。
来ているジャケットを頭に被り、本に雨が滴るのを防ぎながら。
ズボンが雨水を吸うのも構わず、濡れた床に座り込み。
黙々と。
黙々と、本を読んでいた。
続く
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