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2017年11月03日

―皐月雨―・4(半分の月がのぼる空・しにがみのバラッド。・シゴフミ・クロスオーバー二次創作)

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 作成絵師:ぐみホタル様(https://skeb.jp/@Gumi_Hotaru

 こんばんは。土斑猫です。
 「半分の月がのぼる空」クロスオーバー作品・「皐月雨」の第四話掲載です。





                ―文渡―


 雨が降る夜だった。
 激しく、荒ぶるでもなく。
 儚げに、霧と散るでもなく。
 シトシトと。
 ただ、シトシトと雨が降っていた。
 そんな濡れた夜闇の中、静かに佇む人影が一つ。
 滴る雨に濡れそぼるでもなく、満ちる冷気に凍えるでもなく。
 静かに。
 静かに。
 彼女”達”は、佇んでいた。


 「終わったわ」
 全てを見届けた彼女は、その薄い唇からホッと息を吐いた。
 「どうやら、上手くいったみたいね」
 『ヒヤヒヤしたよ。本気でやっちゃうかと思った』
 人影は一つ。けれど、声は少女と少年の二つが響く。
 「確かにね。鬼気迫るくらい、真に迫ってたわ」
 その顔に笑みを浮かべる事もなく、澄ました表情で感心した様に、郵便配達夫の少女――文伽は言う。対して、その右手に握られた杖は妙に嬉しそうな様子。
 『”あいつ”は本気(リアル)だったけどね』
 「……楽しそうね。マヤマ」
 何処か呆れの気配が漂う文伽の声に対し、杖――マヤマは喜色満面(面はないが)の様子で答える。
 『だって、面白くなかった?”あいつ”、すっかり手玉に取られちゃってさ。なかなか出来るね。あの娘』
 酷く愉快げな様子の相棒に、文伽はやれやれと溜息をつく。
 「マヤマ。『明日は我が身』って言葉、知ってる?」
 そんな文伽の言葉に、マヤマは笑うのをやめる。
 『ああ、そうだね。次は僕達の仕事だから』
 「そうよ。モモ(あの娘)も言ってたでしょ。魂が迷いなく逝くためには、想いを残してはいけない。その想いを届けるのは、私達の仕事」
 そう言って、文伽は静かに歩き出す。
 『行くの?』
 「ええ。”彼”の想いを伝えなくちゃ」
 それを聞いたマヤマが、感慨深そうに息をつく。
 『長かったなぁ。あの娘が、恋を覚えるまで待ってくれなんて言うんだもの。スケジュールの構成が一苦労だったよ』
 「仕方ないわね。それが願いだから」
 『分かってるよ。スケジュール調整はバッチリさ。ところで……』
 「何?」
 『もう一通の方は、どうするの?』
 その言葉を聞いた文伽の足が止まる。
 「……まだよ」
 『あ、やっぱり?』
 マヤマの声が、ガックリと調子を落とす。
 『出来れば、一度に済ませたかったんだけどなぁ。あの子、やっぱり危うい?』
 相棒の問いに、文伽は何かを見通す様に雨の帳の向こうを見つめる。
 「そうね。今のあの子はとても傾いでいる。今の状態で”彼”からの手紙を渡せば、それが最後のひと押しになってしまいかねない」
 まるで、夜闇の向こうにかの者がいるかの様に、文伽は言う。
 「そうなってしまっては、全てが崩れるわ。”あの娘”の運命も。”彼ら”の願いも」
 『厄介だなぁ。僕達に出来る事、ないの?』
 もどかしそうに言うマヤマを、白魚の様な指が撫でる。
 「分かってるでしょ?これは、人の命の行方、そのものに関与する問題。配達夫(私達)の管轄の外よ」
 そんな主の言葉に、相棒は溜息をつきつきぼやく。
 『やれやれ……。結局、一番大事な所は”あいつら”頼みなんだね』
 「それが、世界の理。今は、モモ(あの娘)達とあの子自身の心を信じるしかないわ。だから……」
 言いながら、文伽は再び歩き始める。
 「今は果たしましょう。配達夫(私達)の役目を」
 『分かったよ。文伽』
 雨の中で舞う紺色の外套(マント)。やがて、彼女達の姿は夜闇の向こうへ消えていった。


 目を開けると、そこには優しく微笑むママの顔があった。
 「里香……分かる……?」
 優しい声。ずっと昔から、あたしを支えてくれた声。あたしは、答える。
 「……うん……」
 呼吸器越しの、くぐもった声。だけどしっかりと、伝わってくれた。頷いたママが、ナースコールを押した。すぐに聞こえてくる、複数の足音。それを耳に受けながら、あたしは昨夜の夢を思い出していた。


 「……やっと、言えたね」
 昨夜の幾度かの短い覚醒。その合間の、深い昏睡。胡乱な現実。明確な虚夢(うつゆめ)そこで会った、真っ白い女の子。死神と名乗ったその娘は、泣きじゃくるあたしに、優しい声で言った。
 「あなたは、あまりに長く死の傍に居過ぎたの。だから、とても簡単に死を受け入れてしまう」
 さっきまで、あたしの命を刈り取ろうとしていた大鎌。その刃はもう、あたしには向いていない。自分の背丈の倍はあるそれを掲げ持ちながら、彼女はその様にあまりそぐわない微笑みを浮かべる。
 「でも、今のあなたの心は違う。死を拒絶して、生きる事を願ってる。あなた自身が、その事をしっかりと自覚しないとダメ。そうでないと、あなたはまた死に引きずられてしまう」
 不思議な話だと思った。死神というのは、死の体現者ではなかったのだろうか。それが、今あたしに生を説いている。生きろと言っている。
 「”その時”は、確かにいつか来るけれど、それでも今は抗って。想いを、諦めないで。それが、”彼”との誓いでしょう?」
 ”彼”。その言葉が示す意味が、強く心を揺らす。そう。あたしは。あたし達は誓ったのだ。
あの夜、こことは違ったこの場所で。半分の月が照らすあの場所で。ずっといっしょだと。生きていこうと。
 精一杯の力を込めて、頷く。
 それを見たモモが、もう一度優しく微笑んだ。
 「じゃあ、生きなくちゃね」
 再び紡がれたその言葉は、とても。とても、嬉しそうだった。


 「感謝しろよ。お前のために、モモはやりたくもないお芝居したんだからな」
 蝙蝠の羽でパタパタと浮かぶ黒猫が、胸を張りながら威張って言う。その様子がとても生意気だったので、少し嫌味を言う事にした。
 「そうだね。ありがとう。”ダンちゃん”」
 「そうそう。そうやって素直に……って、”ダンちゃん”て呼ぶなぁあああああ!!」
 叫び悶えながら、きりきり舞いをするダニエル君。彼を無視して、あたしはモモに問う。
 「それでこの後、あたしはどうすればいいの?」
 喚きたてるダニエル君をやっぱり無視して、モモは答える。
 「どうもしなくていいよ。時が来れば、自然に目が覚めるから」
 「そう言うもの?」
 「そう言うもの」
 話すモモの顔は、やっぱりとても優しい。きっと、これが本当のこの娘。あの死神としての顔の方こそ、作り物なのだろう。それでも、随分と騙された。おまけに泣かされた。こっちにも少々、嫌味でも言っておこうか。
 「……あなたって、ホントに死神?全然、らしくないんだけど。”変わってる”って言われない?」
 「うん。あたしは、”ディス”だから」
 瞬間、そう言ったモモが「しまった」と言った顔をした。どうしたんだろう?って言うか、”ディス”って何だろう?
 「モモ!!」
 途端、喚きながらきりきり舞いしていたダニエル君が大声を出して飛んできた。
 「だから自分を”ディス”って呼ぶのはやめなよ!!モモは立派な死神だよ!!」
 そして、振り向きざまにあたしを睨む。
 「お前もお前だ!!言うに事欠いて、何て事言うんだよ!!その言葉に、モモがどれだけ……」
 あたしに食って掛かってくるダニエル君を、モモが背後から抱き抱える。
 「ごめんごめん。分かったから、落ち着いて。ダニエル」
 謝るモモは、何か寂しそう。そして、ダニエル君の怒り様は大変なもの。訳が分からず、思わず訊いてしまう。
 「え……?な、何?あたし、そんなに……」
 「『そんなに』、だとぉ〜〜〜〜〜!?」
 モモに抱かれたダニエル君が、ギャアギャアと牙をむく。
 「そんな軽い気持ちで言ったのかよ!!尚更許せないぞ!!折角モモが……!!」
 「いいから。落ち着きなさい。ダニエル」
 言いながら、モモが抱き締める腕に力を込める。ダニエル君が、「ギュッ」と言って沈黙した。
 「あたし、そんなにキツイ事言ったかな……?」
 困惑するあたしを見て、モモが困った様に笑う。
 「ううん。あたしが不注意だったの。”ディス”ってね、死神言葉で「変わり者」って言う意味なんだ」
 「あ……!!」
 思わず、口を押さえる。
 「ダニエルはね、あたしがこう言われるの、とても嫌ってるの。いつも気をつけてるんだけどね」
 モモの腕の中では、まだダニエル君が唸り声を上げている。その眦には涙まで浮かべて。“あれ”は、モモ(この娘)達を、この上なく傷つける言葉だったんだ。そこまで酷い事を言うつもりじゃなかったのに。後悔の念が起こる。
 「……ごめん……」
 出してしまった言葉。どうすることも出来ずに、謝るだけ。と、憤るダニエル君をなだめていたモモが何かを考える様な素振りをした。
 「いいよ。許してあげる。その代わり……」
 ふと、モモの表情が変わった。とても静かで、透明な顔。途端、胸が、ドキンと鳴った。
 「悪いと思うなら、一つ聞いて」
 怖いくらいに透麗な顔で、モモは言う。何か、嫌な予感がした。
 「今、あなたの近くにはもう一つ、危うい魂がある」
 「え……?」
 言われた事の、意味が分からなかった。戸惑うあたしに、それでもモモは告げ続ける。
 「その魂は、今、死への執着に囚われてしまっているの。とても大きく揺らいでる。まるで、嵐の中に立つ枯木みたいに。このままでは、きっと堕ちてしまう」
 淡々と続く言葉。分からない。この娘は一体、何を言おうとしているのだろう。伝えようとしているのだろう。
 「とてもとても暗い澱みにはまってしまって、あたしの声じゃ、多分届かない。助けられるのはきっと……」
 そして、モモははっきりと言った。
 「あなた、だけ」
 「……!?」
 嫌な言葉だった。意味は全く分からない。だけど、物凄く怖い言葉だった。さっき、大鎌を突きつけられた時よりももっと強い怖気が、背中を走る。
 「何!?何を言ってるの!?分からないよ!!」
 何かに脅迫される様な圧迫感を感じながら、あたしはモモに問いかける。と――
 ユラリ
 「!?」
 世界が揺らいだ。思わずたたらを踏むあたしに向かって、モモは言う。
 「……時間だね」
 「時間?時間って何!?」
 揺れながら、遠くなっていく視界。その奥でモモ達があたしを見つめている。
 「意識が戻るの。あなたは、向こうに戻るんだよ」
 その言葉に、あたしは焦る。まだだ。まだ、大事な事を聞いていないのに。
 「待って!!誰なの!?あたしが、誰を助けられるって言うの!?」
 白く染まっていく視界。遠い声が、辛うじて届く。
 「……今は、生きて。生きる強さを、想いを取り戻して。そして……」

 ――”彼”を、助けて――

 霞む声が、確かに言った。
 (”彼”……?)
 その意味を理解する前に、意識が虚空に溶けていく。
 「しっかりやれよ―――!!」
 間際に聞こえる、ダニエル君の声。
 ――リン――
 遠くで、鈴の音が鳴った。


 一連の処置と診察を終えた先生達が、病室を出ていく。最後の看護師さんが出るのと同時に、扉がバンと開いた。
 「お静かに願います!!」
 そんな看護師さんの叱咤なんて何処吹く風と言った体(てい)で、裕一が飛び込んできた。そのまま、あたしのベッドに飛びついてくる。走ってきたのだろう。肌がしっとりと湿っていて、微かに汗の匂いがした。視界の隅で、身を引いたママが苦笑する。ああ、いてくれたんだ。求める様に、左手を上げる。その手を、裕一の手が強く握った。力強い熱感。それを、生きてる感覚として感じられる事が嬉しかった。
 「里香、分かるか?オレだぞ!今度は、分かるか?」
 裕一が、そんな事を訊いてくる。でも、言ってる事がよく分からない。不思議そうな顔をしていると、横からママが教えてくれた。
 「里香。貴女、昨夜一度目を覚ましてるのよ。その時、裕一君の事呼んでるし、手も握ってるのに。覚えてないのね」
 全く。母親よりも男の方を先に呼ぶなんてね。そう言って、ママは笑った。
 それで事情を察したあたしは、裕一に「ごめんね」と言ってみた。思ったよりもかすれた声しか出なかったけれど、ちゃんと聞こえたらしい。裕一は、「おう」と嬉しそうに笑って、あたしを握る手に力を込めた。


 里香の意識は、二日目からハッキリしてきた。まだ、身体中に心電図のコードやら点滴のチューブやらが付いていて、自由には動けない。もっとも、絶対安静だから、それらがなくても動いちゃいけないんだけど。
 医者は、経過が良ければ一ヶ月ほどの入院で家に戻れると言っていた。もっとも、その後も同期間の自宅療養が必要らしい。
 ……長い。あまりにも、長かった。里香の時間は有限だ。その、決して長くはない時間の中で、二ヶ月もの空白は長過ぎた。いや。それで終わりじゃない。これからも、同じ様な事が起こらないとも限らない。その度に、里香の時間は削られていく。ひょっとしたら、全ての時間が一度に削り取られてしまう可能性だってある。あの時、夏目は言った。「五年は持つ」……と。でも、実際はそうじゃなかった。里香の時間は、虫にたかられた葉っぱも同然だった。日に日に齧られ、貪られ、その面積を減らしていく。木から落ちる時期が来る前に、全てを食い尽くされてしまうかもしれない。与えられた筈の、わずかな猶予。でも、それですら絶対ではなくて……。
 医者に退院までの期間を聞かされた時の、里香の顔が頭にちらつく。今までの長い入院生活に比べたら、一ヶ月なんてあっという間と強がっていた。でも、その顔に差していた影を、僕は見逃してはいなかった。本当は悲しいのだ。悔しいのだ。でも、その思いを顕にした所で、どうにもならない事を知っているのは他の誰でもない。里香自身だ。里香は、知っている。この虚しさを。この苛立ちを。表に出さない術を。全てに諦めという名の蓋を被せて、ただ飄々と佇む術を。それが、どんなに理不尽な事であろうとも。
 今、僕は里香と二人で病室にいた。里香はまだ絶対安静だけど、それでも意識が明確になった分退屈を感じる様になったらしい。時折、僕やおばさんと話をする様になってきていた。もう何処も痛くないのに、トイレくらい自分で行かせて欲しいものだとおばさんに不平を言ったり、本を自分で読めないから、読んで聞かせろと僕に命令したり。調子だけは、いつもの里香に戻りつつある様に思えた。
 だけど、そんな時間は本当に儚い。
 心室細動。数十秒の心停止が里香に与えたダメージは、決して軽くはない。その体力は著しく落ちていて、少し起きていたかと思っても、すぐに眠り込んでしまう。
 今もまた、里香は眠りに落ちていた。ほんの数分前までは、僕と話をしていたのに。おばさんはいない。所用で、今は席を外していた。と言うか、里香の意識が戻ってからはちょくちょく席を立って、僕と里香を二人だけにしてくれていた。そんなおばさんの心配りに感謝しながらも、里香が眠りに落ちている間、僕はどうしようもない無力感に襲われる様になっていた。
 こんなに里香が苦しんでいるのに。こんなに里香が悲しんでいるのに。今の僕には、何もしてやる事が出来ない。「里香を、守る」。心に決めた筈のあの誓いが、ちゃんちゃら可笑しいものに思えてくる。「守る」?どうやって守るって言うんだ。僕には、夏目の様な医学的な知識も技術もない。里香の治療を支える、財力もない。今までは、早く大人になってその為の力をつけよう。漠然と、そう思っていた。だけど、今度の事で思い知らされた。甘かったんだ。あの決意をもってなお、僕は甘かった。里香の病気は、そんなガキの思惑に従ってくれる程、悠長じゃない。優しくもない。まるで、真綿で首を絞める様に、キリキリ里香を苛んでいく。里香が生きている限り、それを続けていく。
 僕は座っていた椅子を立って、眠る里香の傍らに立った。静かに眠る彼女の顔を、そっと撫でる。
 「ん……」
 小さな声を上げて、里香が身動ぎする。その頬は、この短い時間で少し痩けた様に見えた。
 里香の身体には、沢山のコードやチューブが繋がれている。心電図、フットポンプ、カテーテル、点滴。それらはまるで、里香の命を縛り付ける拘束具に見える。僕は、この拘束から里香を開放したかった。永遠に。ずっと。この苦しみから、里香を解き放ちたかった。せめて、生きてる間だけでも。
 僕は、里香の左胸に目をやる。微かに上下するその奥で、全ての元凶が息づいてる筈だった。そう。全ては、この心臓のせい。あるべき形を取らずに生まれてきた、このたった一つの、ちっぽけな存在が里香を苦しめる。これまでも。今も。そして、これからも。話は簡単なのだ。これさえ。この、心臓さえ正しくあれば。
 僕は、自分の左胸に手をやる。トクン。トクン。強く、正しく脈打つ、命の塊。そう。あるのだ。求めるものは、ここにある。これが、里香の中にあれば……。
 僕は、椅子の上に置いた一冊の本に目をやる。
 ……やるべき事は、見え始めていた。


 夜中に、ふと目が覚めた。
 周りを見回す。
 誰もいない。
 ママも。
 裕一も。
 ママは多分、親族用の宿泊室。
 裕一は、流石に二日間の宿泊は認められなかった。
 そもそも、裕一には学校がある。あたしにだけ、かかずらわっている暇はない。二人共、同じ病院(ここ)に入院していた時とは違うのだ。裕一には、未来がある。あたしのために彼の時間まで止まって欲しくはなかった。
 あたしと、裕一の生きる時間は違う。いつの日か止まるあたしと、歩き続ける裕一。「ずっと一緒に」。約束した、あの誓い。違えるつもりはない。それでも、現実はそれを許してくれない。それを、今度の事は文字通り痛みをもってあたしに思い出させていた。いつまでも、夢を見ているんじゃないと。そう。所詮は束の間の日常の中で、見ていた夢。裕一は、いずれ現実の世界へ戻っていく。あたしを置いて。
 分かっていた。
 理解していた。
 だけど、忘れていたかった。
 夢を、見ていたかった。
 もっと。裕一と一緒に。
 少し、眦に温かいものを感じた。
 ああ、嫌だ。嫌だ。
 腕を上げて、目を擦る。点滴の管が張って、微かな痛みを感じたけど構わない。色んなものを誤魔化す様に、ゴシゴシと擦る。
 その時、
 ニャーン
 遠くで、猫の声が聞こえた。
 猫。
 不意に、昨夜見た夢が思い出された。
 お喋りな黒猫を抱いた、真っ白い女の子。
 死神と名乗った彼女は、あたしに言っていた。
 「生きなくちゃね」と。
 ”こっち”と”向こう”の狭間で見た、胡乱な夢。だけど、その言葉は不思議と強く心を波立てる。死神が言ったのだ。「今は生きろ」と。なら、あたしはまだ、生きれるのだろうか。まだ、この現(うつつ)と言う夢を見続ける事が出来るのだろうか。裕一と一緒に、いる事が出来るのだろうか。
 「……生きなくちゃ」
 ポソリ
 あの娘の言葉を繰り返す。
 「生きるんだ」
 何か、熱いものが胸に灯った。
 「ん……」
 横たわっている身体に、力を込めてみる。筋肉が軋んで、血液が流れる感覚がした。心臓は変わらずに動いている。静かに。だけど確実に。
 「……頑張って」
 健気に動く心臓を、鼓舞する。そう。あなたはあたし。ずっと、共に生きてきた。これまでも。今も。そして、きっとこれからも。
 点滴が固定された腕に、力を込める。刺さった針が揺れて、疼く様な疼痛が走る。痛みは生きている証。あたしは生きている。そして、生きていく。明日も。その先も。”彼”と、一緒に。
 横たわっていた、身体を起こす。表示される心電図が、僅かに乱れる。それさえも、生きている証。もうちょっと。もう少し。
 ギシ……
 小さく軋むベッド。
 そしてあたしは、身体を上げた。
 「はぁ……」
 全てを終えて、小さく息を吐く。
 ベッドの上で、身を起こした。ただ、それだけの事。だけどそれは、大事な一歩。あの光の元へ。彼の隣へ。戻るための歩み。胸に手をやる。トクントクンと、確かな鼓動。ありがとう。頑張ってくれて。そう労いながら、ゆっくりと呼吸をする。少しだけ高みで吸った空気は、微かに外の世界の匂いがした。


 『大丈夫?あんまり無理、しないでよ』
 唐突に、聞きなれない男の声が耳を打った。
 「!?」
 驚いて顔を上げると、薄暗い部屋の端。カーテンの閉まった窓際に、幽鬼の様に立つ人影があった。
 いつの間に入ったのか。確かにたった今まで、この病室にはあたししかいなかったのに。咄嗟に、枕元に置いてあったナースコールに手を伸ばす。
 『ああ、ちょっと待って!!』
 そんな声が聞こえた瞬間、
 パツン
 「―――っ!!」
 空気が揺れて、ナースコールが弾かれた。
 『ちょっと文伽、あんまり手荒な事しないでよ!!何かあったらどうするのさ!?』
 「大丈夫。今のこの娘は、この程度で手折れたりしないわ」
 それまで聞こえていたのとは、別な声が聞こえた。もう一人いる?目の前の人影は、一つだけなのに。
 「驚かせてごめんなさい。でも、警戒はしなくていいわ。害意はないから」
 そんな言葉と共に、人影が進み出て来る。
 視界に入ってきたのは、一人の少女だった。年格好はあたしと同じくらい。とても綺麗な顔をしている。でも、その容姿に反してとても奇妙な格好をしていた。
 紺色の外套(マント)に格式張った制服。肩に下げているのは、がま口の大きな鞄。頭に被るのは、少し大きめで頭頂部が平らになった鍔付きの帽子。確か、ケピとか言う代物だ。その姿は、まるで昔の小説に出てくる郵便配達夫の様。
 でも、一番変わっているのはその右手に握られたもの。それは、彼女の背丈よりもさらに長い杖。複雑な形状に刻み込まれたその先端には、アナログの時計が嵌め込まれて、カチカチと時を刻んでいた。
 総じて言えば、とても場違いな格好。コスプレか何かだろうか。ハロウィンには、大分季節が早い様に思えるのだけど。
 それでも。相手が同性と分かって少し警戒感は薄れた。でも、まだ油断は出来ない。最初に聞こえた、男の声の主がいる筈。
 「……警戒してるわよ。あなたのせいじゃない?マヤマ」
 『ええ?僕のせいなの!?そりゃないよ文伽!!』
 ……一瞬、耳を疑った。唐突に響いた、男の子の声。それが、少女の持つ杖から聞こえた様な気がしたのだ。
 目を丸くするあたしに向かって、彼女”達”は言う。
 「無理もないけど、本当に怖がらなくていいわ。私は文伽。見ての通りの郵便配達。そして、こっちの杖は相棒のマヤマ。マジックアイテムだから、喋るのも気にしなくていいわ」
 『そういう事。よろしく』
 ……間違いなかった。杖が喋ってる。マジックアイテム?何そのファンタジーな世界。訳が分からない。
 混乱しているあたしに向かって、杖が慌てた様に言う。
 『ああ、あんまり悩まないで。身体に障るから。そういうもんだと納得して。OK?』
 そんな事言われても……
 「そうよ。今のあなたなら、受け入れられる筈。喋る杖なんて、話す猫と大差ないでしょ?」
 『ちょ、ちょっと文伽!!大差ないって何さ!?あんな奴と一緒にしないでよ!!』
 「マヤマ、ちょっと黙ってて」
 『だって……ギャフン!!』
 文伽と呼ばれた少女が、杖を壁に叩きつけた。踏んづけられた食用ガエルみたいな声を上げて沈黙する杖。でも、そんなど突き漫才に構う余裕はあたしにはなかった。
 話す猫……?ひょっとして……!!
 「あなた……ダニエル君を、モモを、知ってるの……?」
 「知ってるわ。同業……という訳じゃないけど、同じ様な存在よ」
 ……夢じゃ、なかった。広がる動揺は、胡乱だった夢が現実となった驚きだろうか。それとも、あの優しい死神が幻でなかった喜びだろうか。
 戦慄きながら、あたしは文伽に問う。
 「それじゃあ、あなたも、死神なの……?」
 でも、文伽は首を振って否定する。
 「同業じゃないと言ったでしょう?私は、郵便配達夫……」
 言いながら、肩から下げた鞄の口をパクリと開ける。取り出されるのは、一通の手紙。
 「役目は一つ。便りを、想いを届ける事……」
 そして、彼女は手にした手紙をあたしに差し出す。
 「秋庭里香。あなたに手紙よ」
 「え……?」

 「”秋庭玲二“からね」

 告げられた名前に、一際大きく鼓動が鳴った。


                                   続く
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