作成絵師:ぐみホタル様(https://skeb.jp/@Gumi_Hotaru)
こんばんは。土斑猫です。
今回から始まるのは、電撃文庫の黎明期を支えた名作。「半分の月がのぼる空」と、「しにがみのバラッド」、そして「シゴフミ」の三種クロスオーバー作品です。
どれも、自分にとっては思い出深い作品で、思い入れもひとしおです。
三種のクロスオーバーは初めての試みですが、上手く行きますかどうか。
しばしのお付き合い、お願いいたします。
―皐月雨―
――プロローグ――
雨が降る夜だった。
シトシトと、雨が降る夜だった。
激しく、荒ぶるでもなく。
儚げに、霧と散るでもなく。
シトシトと。
ただ、シトシトと雨が降る夜だった。
肌寒い夜だった。
深々と、肌寒い夜だった。
キリキリと、身に喰い込むでもなく。
キシキシと、骨を軋ませるでもなく。
深々と。
ただ、深々と肌寒い夜だった。
そんな、雨振りの夜の中。少女が一人、歩いていた。
随分と、風変わりな少女だった。
黒目がちな大きな瞳に、薄く紅い唇、肌の色は透き通りそうな粉雪色。
丸みを帯びながらも通った顎。その先へと伸びる髪もまた、雪の様に白い。
夜闇に浮かび上がるのは、薄手の白いワンピース。そして、白一色の姿の中でただ一点。強く目に映えるのは真っ赤なシューズ。
けれど、彼女を最も奇異しからしめているのは姿ではない。彼女を見る上で、最も異端たるもの。それは、華奢な右手に握られた存在。彼女の背丈の倍はありそうな長い棒。先端には、鈍色に光る大きな逆L字型の物体。
――鎌――
少女が携えるもの。それは、大きな首狩り鎌。見た目に重そうなそれを肩に担ぎ、少女はトコトコと雨の夜道を歩く。
と、そんな少女の足元に、付き従う様に歩く小さな影がもう一つ。
リン
その影が動くたび、澄んだ鈴音が響く。
影の正体は、一匹の黒猫。そこだけが白い尻尾の先端を天上に向け、テトテトと少女の後をついていく。夜空に浮かぶ月の様な金色の目の下には、真っ赤な首輪。それについた大げさな程に大きな鈴が、小さな身体が揺れる度にリンリンと鳴いた。
トコトコ テトテト リンリンリン
降りしきる雨の中を、少女と黒猫は歩いていく。
ただ、不思議な事が一つ。こんな雨降りの中を歩いているのに、少女も黒猫も、全く濡れていなかった。濁った水溜りを歩いても、赤いシューズは赤いまま。水を跳ねる事もなければ、泥に塗れる事もない。
トコトコ テトテト リンリンリン
シトシトと降る雨。少女と黒猫は、綺麗なままに歩いていく。
そのまま、仄明るく灯る外灯の下に差し掛かかる。その時、ふと二人(性格には一人と一匹)の足が止まった。
一拍の間。そして――
「うわっ!!何でこんな所にいるんだよ!?」
黒猫が、酷く嫌そうな顔をしてそう言った。
そんな、肌寒い夜の中。少女が一人、歩いていた。
随分と、風変わりな少女だった。
端正な顔立ちに、静かに澄み渡る夜空の様な眼差し。
肩口まで伸ばした髪の色は白銀。それを、頭の後ろでリボンで包む様に纏めている。
けれど、彼女を強く印象付けるのはその顔だけではない。何より奇妙なのは、その格好。
がま口の鞄を肩から下げ、頭には少し大きめなケピと呼ばれる頭頂部が平らな鍔付きの帽子を被っている。その姿は、まるで昔の映画に出てくるレトロな郵便配達夫を思わせる。
けれど、彼女を最も奇異しからしめているのは姿ではない。彼女を見る上で、最も異端たるもの。それは、華奢な右手に握られた存在。彼女の背丈よりもさらに長い棒。その先端近くには、時計の役目を果たすのであろう、アナログの文字盤が嵌め込まれている。
少女が携えるもの。それは、長大な杖。見た目に重そうなそれを肩に担ぎ、少女はスタスタと寒い夜気の中を歩く。
スタスタ スタスタ
満ちる冷気を割く様に、少女は歩いていく。
身震いする程に肌寒い夜。その身をかき抱く事もなく、少女は平然と歩いていく。薄い唇が息を吐いても、それが白く色付く事もない。
スタスタ スタスタ
深々と肌に染みる夜の中。少女は杖を肩に揺らしながら歩いていく。
そのまま、仄明るく灯る外灯の下に差し掛かかる。その時、ふとその足が止まった。
一拍の間。そして――
『うわぁ!!何でこんな所にいるのさ!?』
杖が、酷く嫌そうな声でそう言った。
雨の滴る夜闇の中、ユロユロと揺れる外灯の光。その中で、二人の少女が向かい合っていた。
「あら、お久しぶり。死神のお嬢さん」
「本当。久しぶりだね。配達員のお姉さん」
郵便配達の少女が澄ました顔でそう言うと、白い少女もニコリと微笑んで、言葉を返す。もっとも、ありふれた会話の中に、あまりありふれていない言葉が混じっているが。
「今から仕事?」
「う〜ん。本業になるかはちょっと微妙。あまり気が進む案件じゃないから、出来るなら、かな」
郵便配達の少女の問いに、死神と呼ばれた少女は思案顔でそう答える。
「相変わらずね。情が深すぎると、辛いんじゃない?」
「少し。でも、それがあたしだし」
素っ気なくはあるけれど、澄明で心地良い声と、幼くて柔らかい、けれどやけにオトナびた声が交錯する。
「そう言うそっちも、仕事?」
「ええ。二通程、届けなくちゃいけない死後文があるの」
「ご苦労様」
「お互い様ね」
気さくに話し合う少女達。しかし、その横でブツブツと愚痴る声が二つ。
「ねぇ、モモぉ。早く行こうよ。こんなのと一緒にいると、こっちまでせっかちになっちゃうよ」
『文伽、こんな所で無駄話してる場合じゃないよ。早く仕事を済ませて次のスケジュールに移らないと。こんなのと一緒にいると、獣の臭いが染み付いちゃうよ』
少女達の傍らの、黒猫と杖が同時にそんな事を言った。
「ん?」
『んん?』
その途端、視線を合わせる両者(片方は杖だから、目はないが)。互いの間に、バチバチと火花が散る。
「誰が獣臭いって!!ボクは天上に名だたる仕え魔を輩出した名家、「アラーラ家」のダニエル・ド・アラーラだぞ!!そのボクに向かって、よくもそんな事を!!そっちこそ、ただおしゃべりなだけが取り柄の棒っきれのくせに!!」
『誰がせっかちだって!?そっちが適切なスケジュール管理が出来ないだけだろ!?主人の手助けもろくに出来ないくせに!!出生にばかりこだわるなんて、全く器が知れるね!!』
「何を―――!!」
『何だって―――!?』
顔を突き合わせて(例によって片方は杖なので、顔なぞないが)唸り合う両者。その有様を見ていた両者の主人達が溜息をつく。
「こら、マヤマ。止めなさい。みっともないわね」
「やめなよ、ダニエル。マヤマ君に失礼でしょ」
郵便配達の少女――文伽がいきり立つ杖を引き戻し、死神と呼ばれた少女――モモが毛を逆立てている黒猫を抱き上げる。
「まったく。何でこんなに仲が悪いのかな。似た者同士なのに」
「似た者同士だからじゃない?同族嫌悪だと思うわ」
主人二人の言葉を聞いた一匹と一本が、同時に金切り声を上げる。
「『似た者同士じゃないよ!!』」
……息ピッタリだった。
「さて、でもそろそろ本当に行かなくちゃね。ほら、マヤマ。いい加減に落ち着きなさい」
まだ鼻息?の荒い杖の文字盤をコンコンと啄きながら、文伽が言う。
「そうだね。ダニエル、あたし達も行くよ」
まだフウフウ唸っている黒猫を撫でながら、モモも言う。
「それじゃ。お仕事、いい形で終わる事を祈ってるわ」
「うん。そっちも、忙しいだろうけど頑張ってね」
ごきげんよう。
さようなら。
二人の少女はお互いに別れを告げて、それぞれの道へと歩み出す。踵を返して、最初の一歩。けど、
その一歩が、同じ方向に踏み出した。
「あら?」
「あれ?」
二人はお互いの顔を見合い、ああなるほどと頷き合う。
そして、二人は歩き出す。旧知の友が連れ合う様に。
「ちょ、ちょっと!!モモ!!」
『何で、こんなのと一緒なのさ!?』
響き渡る、似た者同士の喚き声。それを置き去りにして、二人の姿は夜闇の向こうに消えていく。
シトシトと雨の降る、深々と肌寒い夜の事だった。
――霹靂――
全ては突然だった。
本当に、突然だったんだ。
忘れていた訳じゃなかった。気を抜いているつもりじゃなかった。覚悟だって、決めていた筈なんだ。
だけど。
それでも。
僕の心には、甘えがあったのかもしれない。そんな事は、もっと先の事だと。何事もなく過ぎていく日々の優しさに溺れて、知らず知らず現実から目を逸らしていたのかもしれない。
だけど。だけどさ。
こんなのって。こんなのって、あんまりじゃないか!!
あの時、言っただろ!?言ったよな!?五年はもつって!!オレの腕にかけて保証するって!!言ったろ!?なぁ!!なぁ!!夏目!!なぁ!!
――里香が、倒れた――
それは、とても肌寒い日だった。本当に、この季節には珍しいくらい。朝からシトシトと雨が降っていて、まるで梅雨が季節を飛ばして来たみたいだった。それでも、僕と里香はいつもどおりの道を、いつもどおりに通って学校に行った。僕は「急に寒くなったけど、大丈夫か?」なんて訊いた後に、自分が大きなクシャミをしてしまった。ズルズルと鼻を垂らす僕を見て、里香は「汚い」とか言いながらケラケラと笑っていたんだ。
そうさ。いつも通りに、笑っていたんだ。
けれど、その日の四時限目――
パーポーパーポーパーポー……
遠くから聞こえてきた救急車の音が、半分居眠りをこいていた僕を叩き起した。救急車の音なんて、そう珍しくもない。けれど、その時の音は何かが違った。まるで、心臓を鷲掴みにされる様な不安感。あれが、虫の知らせと言うやつかもしれない。僕が戸惑ううちに音は見る見る近づいて来て、とうとう学校の前に止まった。
流石に教室の連中がどよめき出す。授業をしていた英語教師の仁志田が静めようとしたけれど、そんなの焼け石に水だった。ザワザワと皆が騒ぐ教室。そこに、扉をぶち壊す様な勢いで誰かが飛び込んできた。
ほとんどの奴はポカンとしていたけど、僕はそいつらを知っていた。
吉崎多香子と……苗字は知らないけど、綾子とか言う女生徒。
二人とも、里香のクラスメートだ。吉崎多香子は、怖いくらいに切羽詰まった顔。綾子の方は、もう半分泣いていた。ざわつく教室を、吉崎の目が何かを探す様に見回す。その視線が僕を捉えた途端、吉崎が怒鳴った。いや、叫んだと言った方がいいかもしれない。
仁志田が、「何だ、お前達!!」と咎めたけれど、その声がかき消えるくらいの勢いで叫んだ。
「戎崎先輩!!先輩が……秋庭先輩が!!」
その時の吉崎の声を、僕は一生忘れない。忘れられない。焦燥と恐怖と、混乱と絶望がないまぜになった叫び。それが鋭いピックの様に、僕の心臓を貫いた。
他の連中にも、その叫びの意味が伝わったのだろう。ざわついていた教室が、波を打った様に静まり返った。まるで、テレビの音量をゼロにしたみたいに。
次の瞬間、僕はその静寂を置き去りにして、教室の外へと飛び出した。仁志田が呼び止める声が聞こえた様な気がしたけど、かまっちゃいられなかった。吉崎達が、慌てて後を追ってくる気配があったけど、気にする余裕はなかった。走った。ただ、走った。準備運動もなしに過負荷をかけられた肺と心臓が金切り声を上げたけど、それすらも無視した。走って。走って。走りまくった。生まれてこの方、あれほど速く走った覚えはない。けど、遅かった。まるで、汚泥の溜まった底なし沼を走る様な感覚だった。風も、空気も、そして自分の身体すらも、重かった。邪魔だった。重石の様に絡みつくそいつらを振り払う様にもがきながら、ただひたすらに走りまくった。
チラと窓の外を見た時、昇降口の前に止まる救急車が見えた。後部の扉が開いていて、救命員らしい格好をした男達が、水色の救命ベッドを車の中に運び込む所だった。そのベッドの上に、一人の女の子が横たわっていた。ベッドから垂れた長い黒髪が揺れている。遠目だったけど、見間違える筈がなかった。里香だ!!間違いなく、里香だった。里香は、ベッドの上に横たわったまま、ピクリとも動かない。その事が、僕の恐怖を煽る。まさか!!そんな!!嘘だろ!?混乱する僕の視界の向こうで、救急車の扉が閉まる。白い車体のパトランプが回り始める。待てよ!!待ってくれ!!苦しい息の中、声にならない声で叫んだけど、そんな声が届く筈もなかった。
ようやく昇降口についた時、そこにはもう救急車も里香の姿もなかった。汗だくで息を切らす僕の耳に、遠ざかるサイレンの音が嘲笑う様に聞こえていた。
昇降口には、保険の先生を始めとした数人の教師達がいて、何やら話し合っていた。その周りには、野次馬の様に集まってる生徒がいて、やっぱりヒソヒソと何やら言い合っていた。だけど、決定的に違う事は一つ。真剣に言葉を交わす教師達に対して、野次馬連中のそれは、好事の気配に満ちていた。小声だし、幾人もの声が混じって、何を言ってるのかは分からない。ただ、その声の中に多分に好奇心が混じっている事は間違いなかった。
ヒソヒソ ヒソヒソ
コソコソ コソコソ
それを聞いている内に、胸の中に暗い炎が灯った。怒りだった。どうしようもなく、腹が立った。
何だよ。何なんだよ。お前ら。里香が苦しんでるのに、何ヒソヒソ話してやがるんだよ。面白いのか!?興味深いのか!?里香が、里香がこんな事になっているのに!!それが、面白いのかよ!?
ここに来るまでに溜まっていた、焦燥や不安、行き場のない感情。それにそいつらの声が油を注ぐ。引火は容易だった。メラメラと、炎が燃え上がる。限界だった。喉まで上がってきた炎を吐き出す様に、口を開く。パサパサに乾いた唇がピッと裂けて、鋭い痛みが走る。構わない。炎を、声に変えて放とうとしたその時――
「お前ら!!何をやっとるかぁああ――――!!」
物凄い怒鳴り声が響いた。僕の怒りは、その勢いにあっさりと細切れて散った。まるで、燃える炎が嵐に飲まれて吹き散らされる様に。
怒鳴り声の主は、国語教師の近本覚正。鬼大仏だった。鬼大仏は、屯っていた野次馬に向かって声を張り上げる。
「何をコソコソやっておる!!授業中であるぞ!!教室に戻れぇええ――――!!」
鬼大仏のあだ名は伊達じゃない。その迫力に野次馬連中は竦み上がり、蜘蛛の子を散らすように去って行った。
はは。やっぱスゲェや。
怒りが蹴散らかされて、ポッカリと感情に穴が空く。そこに、疲労と無力感が一気に雪崩込んできた。途端に萎びた肺に空気が逆流し、酷く咳き込んだ。気持ちの悪い汗が噴き出して、足がガクガクと震えて来た。たまらず座り込む。
身体が、動かない。ただ、ガクガクと震えるだけ。声を出そうにも、喉が痙攣してヒッヒッ、とか細い声が漏れるだけ。
ああ、何してんだよ!!こんな所で、こんな事してる場合じゃないだろが!!行かないと!!里香の所へ!!立てよほら!!すぐに自転車置き場へ行って!!自転車に乗って!!救急車を追いかけるんだ!!早く!!早く!!早くするんだよ!!里香が待ってるんだ!!里香が!!里香が!!
焦れば焦るほど、身体から力が抜けていく。乱れた呼吸が収まらない。どんなに心で叱咤をしても、身体が言う事を聞いてくれない。ただ、無力にもがくだけ。どうする事も出来なかった。
「戎崎先輩、どうしたんですか!?」
混乱する意識の片隅で、そんな声が聞こえた。後を追いかけてきた吉崎達が、廊下で崩れ落ちている僕に気づいたらしい。駆け寄ってきて、座り込む僕に手をかける。背中を叩いたり、さすったり。だけど、そんな事は何の意味もなかった。呼吸がどんどん苦しくなって、このままでは気を失うと思った時、
「こら!!お前ら、教室に戻れと言っただろう!!」
そんな怒鳴り声が響いて、吉崎達がビクリと身を竦めた。鬼大仏がこっちに気づいたのだ。文字通り、鬼の様な形相で近づいてくる。けれど、その表情がピクリと動いた。
「む、戎崎。どうした?」
そう言うと、腰を屈めて僕の顔を見た。一瞥してすぐに「いかんな」と呟いて、保険医の先生を呼んだ。
保険の先生は急いで近寄ってくると、僕の様子を見て眉をしかめた。
「過呼吸を起こしてる。ビニール袋……を持ってくる暇はないわね」
すると、先生は僕の頬をペシペシと叩いた。朦朧とした意識が、少しだけハッキリする。
「戎崎君、分かる?」
僕が頷くと、先生は「なら、私の言う通りにして」と言って、鬼大仏を見た。鬼大仏の大きな手が、僕の身体を壁にもたれかけさせる様に横たえる。そして、保険の先生はゆっくりと僕に語りかけ始めた。
「息を止めて、10数えて。息を吸わない様に、気をつけて……」
言われるままに、息を止める。10まで数えたらところで、先生がまた声をかける。
「はい、吐いて、リラックスして……。鼻で息を吸って……、はい、今度は3秒吐いて……吸って……」
そのまま、3秒間息を吐いて、3秒間息を吸う事を1分くらい繰り返えさせられた。息を吐く度、先生が「リラックス」と優しく声をかけてきた。
そんな事を数回繰り返しているうちに、呼吸が落ち着いてきた。意識が本格的にはっきりしてきて、僕はようやく大きく息をついた。
そんな僕を見て、保険の先生は「もう大丈夫ね」と言うとニッコリ微笑んだ。
「戎崎先輩……」
「良かった……」
ずっと様子を見ていた吉崎達が、そう声をかけてくる。二人共、顔が半泣きだった。無理もない。こいつらだって、里香の事でいっぱいいっぱいだっただろうに。そこで僕にまでこんな有様を見せられたら、パニックになって当然だ。僕は、情けなさでいっぱいになった。
でも、しょげてる暇なんかなかった。僕は先生達に「ありがとうございます」とお礼を言うと、壁にすがる様にして立ち上がった。まだ足がガクガク言ったけれど、気合で活をいれた。綾子が、慌てた様に声をかけてくる。
「先輩、どこ行くんですか!?」
「決まってるだろ……。里香の所に、行かなくちゃ……」
「そんな!!無理ですよ!!今の今まであんなだったのに!!」
「そんなの、関係ねぇよ!!」
思わず怒鳴ってしまった。綾子が、ビクリと身を竦ませる。少なからずの罪悪感が湧いたけれど、それでも止まるわけにはいかなかった。行かなきゃいけない。里香が。里香が待ってるんだ。
フラフラと歩み出そうとした時、僕の前に大きな身体が立ち塞がった。見上げると、そこに仁王の様な顔をした鬼大仏が立っていた。
「戎崎。何処へ行く?」
強く、威圧する様な声だった。いつもの僕なら、適当にペコペコして退散する所だ。けれど、今は引けなかった。
「……言ったでしょ?里香の所に行くんです……」
「貴様が行って、何が出来る?」
出来る事なんて、ありゃしない。そんな事、とっくの昔に分かりきってる。今だって、僕は僕自身の事すら、どうする事も出来なかった。悔しいけど、鬼大仏達大人の手助けがなけりゃ、情けなく気を失っていた筈だ。だけど、それでも。
「……何も、出来ません。でも、待ってるんです……。里香が、待ってるんです……。オレ、行かなきゃ……!!行かなきゃいけないんです……!!」
まだふらつく足を踏ん張って、僕は睨んでくる鬼大仏の目を睨み返した。
一拍の間。そして――
「……そうか」
鬼大仏がそう言って、保険の先生に目配せした。頷く、保険の先生。鬼大仏が、突然後ろを向くと、腰を屈めた。
「乗れ。戎崎」
「……え?」
「その有様で、一人で行けると思っておるのか?車で送ってやる。負ぶされ」
「え?え?」
鬼大仏の言っている事が、すぐには理解出来なかった。だって、そうだろう。鬼大仏と言ったら、厳しくて、怒鳴ってばかりで、生徒の事情や気持ちなんて、考える筈もなくて……。
けれど、その鬼大仏が僕の目の前で自ら身を屈めていた。いつも見下している筈の生徒の、僕と、里香のために。その事実が飲み込めなくて、僕はただ、呆けていた。と、そんな僕の両脇を誰かが掴んだ。見ると、吉崎と綾子が、両方から僕を抱え込んでいた。
「「よいしょ!!」」
二人の声が重なる。僕の身体を、女子二人分の力が押す。足の踏ん張りが効かない僕は、そのまま鬼大仏の背に倒れ込んだ。
「近本先生!!戎崎先輩を、お願いします!!」
吉崎達が、いっせいに頭を下げた。「うむ」。鬼大仏が頷くと一緒に、太い両腕が僕の身体をガッチリとホールドした。そのまま、軽々と持ち上げられる。
「戎崎、急ぐぞ。舌を噛むなよ」
そう言うと同時に、鬼大仏が走り始めた。
「戎崎先輩、頑張って!!」
「秋庭先輩の事、お願いします!!」
後ろから、吉崎達の声が追いかけてくる。他の先生達の視線も感じた。優しい、とても優しい視線だった。何かがこみ上げてきて、僕は鬼大仏の背中で少し泣いた。
……とても広い、背中だった。
高校の敷地内から、一台の車が走り出していく。
落ちる雨を蹴散らしながら走り去るそれを、”彼女達”は屋上のフェンスの上から見つめていた。
シトシトと降り注ぐ雨の中。少しも濡れる事もなく、見つめていた。
「ああ、びっくりした。もう終わっちゃうかと思ったよ」
赤いシューズの横。チョコンと座った黒猫が、ハァと息をつきながらそう言った。その身体が揺れるたび、赤い首輪に付けられた鈴がリンと鳴る。
「そうだね。とりあえずは……かな」
綺麗な声。黒猫の頭の上から響く。サラリとなびく、白い髪。
真っ白な少女が、そこにいた。
少女は言う。幼いけれど、大人びた声。
「でも、まだ分からない。”あの子”からは、まだ死の匂いは消えてないから」
「そうだね。きっと、ボク達の事も見えると思うよ」
相槌を打つ黒猫。隣の少女の、顔を見上げる。
「会いにいくの?」
呟く様な問い。少女は、小さな相方を見下ろす。
「何か、嫌そうだね。ダニエル」
訊き返される問い。ダニエルと呼ばれた黒猫は、眉をしかめる。
「そうだなぁ。気は進まないなぁ……」
「どうして?」
わざとらしく小首を傾げる少女。響く、大きなため息。
「だってさ、会うとモモが辛くなるじゃん。いっつもそれで、傷ついてる」
優しい気遣い。それに微笑みで返すと、モモと呼ばれた少女は小さな相方を抱き上げる。
リリン
涼しげに、鈴が鳴く。
「ありがとう。ダニエル」
そう言いながら黒い毛皮を撫でると、ダニエルは嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らす。
「でもね……」
「……分かってるよ」
自分の言葉を遮った相方の言葉。目を細めるモモ。そんな主人の眼差しを見つめ返して、ダニエルは言う。
「どれだけ、一緒にいると思ってるの?モモの言いたい事も、気持ちも分かってる」
「………」
答える声はない。その代わり、クシャクシャと黒い毛皮を撫でる。少し、荒っぽく。
「ちょ、ちょっと待ってよ!!せっかく整えた毛並みが乱れちゃうじゃないか!!」
抗議するダニエル。謝る代わりに、笑いかける。
「じゃあ、行こうか?」
「はいはい。分かったよ」
そして、黒猫を抱いた少女は消える。まるで、降りしきる雨の中に溶け込む様に。
リン
名残香の様に響く鈴の音。後に残るのは、シトシトと泣く雨の呟き。
続く
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