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2017年02月18日

沖田畷の戦いを制した薩摩の陰陽師集団@

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「島津氏の祈祷所の跡」。
鹿児島市内の常磐町?になるのでしょうか。数年前に、いまでは個人の住宅になっている場所に、そんな案内板を見かけました。当時、周辺は区画整理事業の真っ最中で、それから訪れていないので案内板がまだ有るのかさだかではありません。
後に「沖田畷(おきたなわて)の戦い」と名付けられた戦いがあります。
時は1584年。信長が本能寺の変で殺されて2年後の事で、秀吉による全国統一が成る少し前のことです。
当時の九州の勢力図は、南から「島津氏」が豊後の大友氏を破り、その勢いで北部九州まで手中にせんものと覗っていて、唯一対抗しうるのは、肥前(今の佐賀県)を本拠地とする「竜造寺氏」だけでした。
中小の勢力は、このいずれかに庇護されなければ生き残れない状況で、島原半島南部を領する「有馬氏」も例外ではありませんでした。龍造寺氏の動きに脅威を感じた「有馬晴信」は島津氏に援軍を要請し、島津・有馬の連合軍約6.000名と、龍造寺軍30.000名が島原北部の湿地帯「沖田畷」で決戦に挑みました。(続)
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2017年02月17日

悲劇の僧「俊寛」

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鹿児島市の繁華街にある御着屋(おつきや)交番の近くの建物の間の目立たない場所に、石碑と説明の案内板がひっそりと建てられています。
案内板には、この場所が「俊寛僧都 」が流刑地へ送られた時の、船出の地であることが書かれています。
鹿児島市は平地が少ないため、江戸時代以前から海を埋め立てて広げられてきましたが、石碑のある場所から現在の海岸線まで、今では2キロは離れています。
先ほどの交番名「御着屋」もこの地がかつて船着場だったことを物語っています。
「俊寛」のことは平家物語や歌舞伎の題目にもなって現在まで伝わっているので、ご存知の方も多いとおもいますが、ちょっと補足させていただきます。
京都の木寺の僧、「俊寛」の家系は下役ながらも源氏につながります。平安末期、平家の台頭により源氏はほとんど力を失っていました。
それに不満を持つ源氏派の公家や武家達が、平家転覆を目的としたクーデター計画をたて、話し合いを重ねていました。ところがこれが平家の知るところとなり、集まっていた「俊寛」以下数人が捕らえられ、流刑されました。流刑された島についてもいくつかの説がありますが、鹿児島県の硫黄島か喜界島だろうと言われています。(諸説有り)流刑地の島には数年おきに御赦免船が来て、罪を許された人々が許され帰るなか、クーデターの首謀者とされた「俊寛」だけは決して許されず、島で非業の死をとげました。
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島津氏由来の花尾神社


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島津家の祖先は、朝廷の権力者藤原氏の有力な御家人近衛家に仕えていた、惟宗氏だとされています。
鎌倉幕府の開府に伴い鎌倉に移り、忠康が近衛家の荘園、島津荘(今の都城付近)の荘官に命じられました。
その子忠久が源頼朝より直接その地の地頭に任ぜられ、続いて薩摩・大隈・日向三国の守護職に追任されました。それを期に名字を惟宗から島津に変え、島津氏の初代となりました。
当初、今の出水市に拠点を築き薩摩の平定の第一歩を踏み出しました。
ところで、鹿児島市郡山町に「花尾神社」があります。ここからは伝説のようなものですが、島津家初代忠久は実母の丹後の局を呼び寄せ、この花尾一帯の領地を授けました。
源頼朝の木像を御神体に花尾神社を建立し、丹後の局が亡くなると、その地で荼毘に付し墓を建て霊を弔ったとされています。小さな神社ですが、格子状の天井には一枚一枚に鮮やかな絵が書かれ、贅を尽くした造りから地元ではさつま日光と呼ばれてきました。
鹿児島市中心部から車で30分ほどでしょうか、周辺には「南泉院」や「隠れ念仏洞」などが在りますので、観光にお勧めです。
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2017年02月16日

宮崎県佐土原に島津家の痕跡を探してA

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鎌倉時代の武士道しか知らぬ島津勢は、敵に後ろを見せて逃げる事を潔しとしません。
あくまで、敵陣のど真ん中を戦いながら突破するという戦法にでました。
普通に見ると、全員玉砕覚悟のやけくそ突撃ですが、九州内で400年ちかく戦いの日々を過ごしてきた島津勢には、こういう場合の戦法も身につけていました。
例えば1.000名の軍勢で敵陣に突っ込み、大将と側近を先行させ、100名はその場に留まり全滅するまで戦う、全滅したら次の100名が同じ事をする、それを繰り返す事で大将達と敵軍の距離を離し脱出させるという、後の世まで島津の捨て肝(すてがまり)と呼ばれた壮絶な戦法でした。一説には、義弘は豊久を逃がそうとしたとも言われていますが、やはり総大将を生かすのが常識でしょう。
結果、豊久は大勢の家来達とともに31歳の生涯を関ヶ原で閉じてしまいました。
徳川方から佐土原の領地は召し上げられ、佐土原島津家はたった20年あまりで絶えてしまいました。
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宮崎県佐土原に島津家の痕跡を探して@

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戦国時代末期1579年、島津氏の勢力は日向迄も席巻し、佐土原を治めていた伊東氏に勝利しました。
島津氏は、佐土原城主として「家久」を送り分家させました。その「家久」はわずか7年ほどで病死し、息子の
「豊久」が19歳で跡を継ぎましたがそれから間もなく、関ヶ原の合戦が始まります。
「島津義弘」は、甥の「豊久」を伴い西軍方としてわずか1.000名ほどの兵を率いて参加しました。
後に「島津の退き口」として有名になったエピソードが生まれます。
積極的に戦いに参加するつもりはなかった島津勢でしたが、気がつくと周囲に陣取っていた西軍武将たちは情勢不利と見て退却しており、徳川本隊数万の軍勢の中に取り残されてしまいました。
敵に後ろを見せて逃げる事を潔しとしない島津勢の、前代未聞の退却戦がはじまります。(続く)





2017年02月15日

霧島に在った「華林寺」の痕跡

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霧島神宮のすぐ近くに、苔むした古い墓石群がひっそりと在ります。
ここにはかつて「華林寺」という寺が存在していました。
1484年に島津家11代当主「忠昌」が、神社と寺を同時に建立したもので、神社は霧島神宮として残りましたが、
寺は廃仏毀釈令をうけ廃寺となりました。
墓石群は歴代の住職、僧達のものでその数は百を超える規模です。
中々分かりづらい場所に在るので、霧島神宮に行かれた際には散策をかねて探してみて下さい。
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2017年02月14日

蒲生どんの墓?


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蒲生八幡宮の近くに「蒲生どん墓」と書かれた案内板があります。
道が狭くなるので手前に車を停めて歩いていくと、苔むした墓石群が目に入ってきます。
案内板によると、この地を治めていた地方豪族「蒲生氏」の八〜十三代までの当主とその家族の墓がまとめられているそうです。元々「蒲生氏」は、宇佐八幡宮の大宮司「藤原教清」の子舜清が、蒲生院という荘園の管理者としてこの地に拠点を築いたのが始まりとされています。
島津氏とは結構古くに家臣団に加わり、蒲生の地を任され、家老職を務めるほど信頼された関係だったようです。古い墓石の前に立つと、何故かしんみりとした気持ちになり、しばらくその場にたたずんでしまいました。
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2017年02月13日

日本一の大楠


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鹿児島にもいくつかの「日本一」がありますが、その中の一つが姶良市蒲生町に有る「大楠」です。
推定樹齢1500年といわれ、側に立つとその圧倒的な大きさに畏怖さえおぼえます。
この巨木は、蒲生八幡神社の境内に有り、古くから御神木として崇められてきました。
蒲生八幡神社は1123年、この地を支配していた蒲生氏が建立したもので、後に島津氏との戦いに敗れ、他の地へ転地させましたが、島津氏が引き継いだ後も大切に守られてきました。
鹿児島市中心部から車で40分程でしょうか、一見の価値ありです。
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2017年02月12日

「西郷隆盛 公」のご先祖様達の墓

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殆どの方がご存知の通り、薩摩人の誇り「西郷隆盛」の墓は、鹿児島市下竜尾町の南州神社に有り、その御霊は神として祀られています。
しかし、隆盛 公の両親や先祖の墓がどこに有るかは、鹿児島人の間でも以外と知られておりません。
市内の薬師町、大通りから外れた地元民の生活道路沿いに、西郷一族だけの墓所がひっそりと存在しています。
主な墓石は、西郷隆盛 公の両親、戊辰戦争で戦死した弟の吉二郎、愛加那との間に生まれ、維新後に京都市長や台湾の宜蘭市長などを歴任した菊次郎の墓もここに有ります。
元々は、市内南林寺墓地に有りましたが、墓数20万基を超えるほど大きくなったので、市内数カ所に移されました。その時に西郷家の墓も現在の場所に移されたようです。
ご先祖様が居なければ稀代の英傑「西郷隆盛」も存在しなかった訳ですから、人々から忘れられたようになっている西郷家墓地にも、もう少し関心を持っていただきたいと思います。
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大隅半島に残る肝付氏の遺物

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肝付氏関連も遺物の続きです。
高山の町中を流れる高山川沿いの道路を上流に行くと、肝付氏五代目「兼石」の墓と伝えられてきた遺跡があります。「兼俊」が姓を肝付に改めてから五代目の当主です。
後から入府してきた守護職、地頭達との間で領地をめぐり、争いの絶えない時代を生き、元寇の役の際には当時の守護職のもと出仕し、警護番役をつとめました。
記録によれば、昔はこの地の近くに、長珠庵や地蔵堂などが在ったそうですが、今は苔むした墓石が数基残されているだけです。
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