2017年02月16日
宮崎県佐土原に島津家の痕跡を探してA
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鎌倉時代の武士道しか知らぬ島津勢は、敵に後ろを見せて逃げる事を潔しとしません。
あくまで、敵陣のど真ん中を戦いながら突破するという戦法にでました。
普通に見ると、全員玉砕覚悟のやけくそ突撃ですが、九州内で400年ちかく戦いの日々を過ごしてきた島津勢には、こういう場合の戦法も身につけていました。
例えば1.000名の軍勢で敵陣に突っ込み、大将と側近を先行させ、100名はその場に留まり全滅するまで戦う、全滅したら次の100名が同じ事をする、それを繰り返す事で大将達と敵軍の距離を離し脱出させるという、後の世まで島津の捨て肝(すてがまり)と呼ばれた壮絶な戦法でした。一説には、義弘は豊久を逃がそうとしたとも言われていますが、やはり総大将を生かすのが常識でしょう。
結果、豊久は大勢の家来達とともに31歳の生涯を関ヶ原で閉じてしまいました。
徳川方から佐土原の領地は召し上げられ、佐土原島津家はたった20年あまりで絶えてしまいました。
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