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2017年02月11日
大隅に残る肝付氏の遺物@
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肝付氏は、平安時代に朝廷から薩摩国府の役人に任じられて下向してきた一族の末裔です。
元は「伴」という姓でしたが、3世代後の子孫「兼貞」が大隅国肝属郡の弁済使となり、その子の「兼俊」が赴任地の郡名から取って肝付(旧字体: 肝属)の姓を名乗ったのが始まりだとされています。
本拠地を肝付町高山に構え、大隅半島の豪族達を平らげて実効支配していましたが、鎌倉時代に守護職として下向してきた島津氏とは、大隅半島の覇権をかけ、戦国時代末期まで幾度となく戦ってきました。
その本拠地であった高山には、肝付氏にまつわる遺物が多く残されています。
写真は、肝付氏の守護神として信仰の対象だった四十九所(しじゅうくしょ)神社です。
創建は984年といわれてますから鹿児島県内でも有数の古い神社です。
ここには11月の奉納祭で披露される「流鏑馬」の神事が伝えられていますが、900年の昔から続けられているのは全国でもあまり例がないことでしょう。
神社への参道は、流鏑馬で馬が走れるように、道路の半分だけが舗装されずに残されています。
薩摩焼の故郷「美山」
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鹿児島市から国道3号線を北上する事約20`、日置市東市来町に美山(みやま)という集落があります。
天下人となった豊臣秀吉が、諸大名に命じて朝鮮に出兵した慶長の役。
薩摩藩からは第17代藩主、島津義弘公が7.000名程の兵を率いて参加しました。
義弘公は朝鮮から帰国する時、朝鮮人の陶工(約80名)を連れ帰り、美山に移住させて後の薩摩焼の基になる陶磁器の製作にあたらせました。
無理やり連れてきたのでしょうが、決して隷属的な扱いをせず、准士分として苗字帯刀の身分を与え代々丁重に扱ったといわれています。
現在でも美山には多くの窯元が集中しており、展示即売しておりますが、毎年11月上旬に開催される「美山窯
7元祭り」の時には多くの人が訪れ、にぎわいます。窯元の中でも一番有名なのは沈壽官窯でしょう。
代々美山の朝鮮人陶工のリーダーをされてきた家系で、世襲したら沈壽官を名乗るのが習わしになっておら
れ、現在の沈壽官さんは15代目です。
有田焼の柿右衛門のような存在で、一子相伝で伝えられてきた技法は、他の追随を許さぬほど突出しており、
価格もそれなりにお高いのですが、作品を見れば納得されるとおもいます。
2017年02月10日
南国鹿児島でも雪は降ります。
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県外の方からみれば、鹿児島は「南国」というイメージがあると思いますが、
冬場は福岡あたりと同じくらい寒いです。
今朝は久しぶりの積雪です。鹿児島市北部の吉野台地は、一面の銀世界になりました。
車の屋根で測ったら、20センチ以上積もっていました。これだけの積雪は2〜3年振りでしょうか。
今週末までは寒い日が続くようなので、鹿児島に来られる方は防寒対策をされて下さいませ。
2017年02月09日
桜島と双璧をなす薩摩の名山。
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鹿児島を象徴する山と聞けば、殆どの方が「桜島」と答えるでしょう。
確かに、鹿児島市内に住む私にとって、錦江湾を隔て噴煙を上げる桜島はいつ見ても、雄大で見飽きません。
鹿児島人の誇りとも言える、特別な存在です。
でも、鹿児島には県外の方々に是非見てもらいたい山がもう一つあります。
別名「薩摩富士」とも呼ばれてきた南薩の雄山、開聞岳です。
海抜0からいきなり922mまで立ち上がる姿は、近くで見るとまさに圧巻です。
知り合いに、名古屋から夫婦で旅行にこられ、開聞岳の姿に感動して越してこられた方もおられます。鹿児島へおこしの際は、ぜひ見て頂きたい山です。
2017年02月08日
ブームも下火?中国骨董品の現状。
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かつて、まだ貧しかった頃の中国から膨大な数の書画骨董が世界中に流出しました。
外貨を稼ぐための国策でもあったのでしょうが、重要文化財、国宝級の品々も売られて行きました。
ところが、次第に豊かな国へと変貌しつつあった2005年に、「持ち出そうとする年から110年より昔の物は、国外に持ち出す事は出来ない」という法律が制定されたのです。
それ以降、中国骨董品の価格はいっせいに上昇しました。4〜5年前までは、古い物なら何でも売れるという状態でした。日本中の骨董専門の店を中国人バイヤー達が訪れ、中国人富裕層に売るための骨董を買っていかれてましたが、現在は少しおさまっているようです。鹿児島に、華僑の方が経営されておられる貿易会社があり、在庫品の中国骨董を売るお手伝いをしていました。
その間、何人の中国人バイヤーさん達を案内したでしょうか。多分100人は超えていると思います。
2017年02月07日
わーれはうーみのこしーらなーみーのー♫
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近頃はどうでしょうか、私の年代では、小学校で「我は海の子」という唱歌を習いました。
この歌の歌詞は、鹿児島市出身の児童文学者、宮原晃一郎(1882〜1945)という方が作詞されました。
彼は鹿児島市内でも海に面した天保山(てんぽざん)の家で10歳までを過ごしました。そんな少年時代の懐かしい光景を思い浮かべながら書かれたのでしょう。
市内の祇園之洲というところに石碑が建てられています。ちなみにこの祇園之洲は、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが日本に初上陸した時に、船が接岸した場所でもあり、その記念碑も近くに建立されています。
2017年02月06日
旧街道の面影が残る道
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桐野利秋と、別府晋介の生家があった実方(さねかた)の近辺には、旧街道筋の面影を残す場所が所々残されています。
通称、鼓川(つつみがわ)線と呼ばれる市内から実方を通り、吉野方面に登る道路は旧街道を広げたり、ショートカットして作られている為、この道路に沿うようにしてとり残された、昔の道が残されました。
車は殆ど通らない、沿線の住民の生活道路なので、ハイキングを兼ねて歩いてみるのも面白いと思います。
人斬りと呼ばれた薩摩武士
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中村半次郎。長じて桐野利秋と名を改めました。
生家は、鹿児島城下から二里ほど離れた吉野村の実方(さねかた)という小さい集落で、武士とは名ばかりの最下層の郷士でした。
彼らの生活は百姓とさほどかわらず、毎日の畑仕事の合間に、郷中教育という薩摩藩独特の制度のもとで剣の修練や読み書き、武士としての心構え等を身につけていったのです。
当時、日本中には様々な流派の剣法があふれており、武士の子弟達はいずれかの道場に通い剣の腕を磨く事があたりまえの事でした。薩摩藩でもそれは同じでしたが、城下に道場は少なく、上級武士の子弟のみが通える所で、郷士身分の子弟は郷中教育のなかで年長者から教えられていました。
西郷、大久保らとともに、当時の藩主斉彬に見出され、京都での宮中対策、江戸城開城、戊辰戦争と、常に西郷の側にいて、後の悲劇的な西南の役で西郷と一緒に38歳で散って逝きました。
若い頃から剣の腕は薩摩藩でも一番強いといわれ、京都での討幕活動中には新撰組や見回り組といった幕府方の組織の者達を何人も暗殺したため、幕府方の連中からは「人斬り半次郎」と呼ばれ、恐れられていました。
写真は西郷隆盛を中心に、西南の役で死んでいった人々の墓が並ぶ南州墓地。
死してなお西郷を守らんとするように中心の西郷の墓の向って左隣に眠っています。
2017年02月05日
いも侍と呼ばれた薩摩武士。
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幕末に京都で討幕活動をしていた諸々の藩の藩士達のなかで、薩摩人と土佐人は見かけだけで判別できたそうです。まぁ両藩とも服装や髷の形(月代の剃り方)等が時代遅れで,ダサイと見られていたそうです。
刀にしても、当時には時代遅れの「朱鞘」と呼ばれる鞘が赤く漆で塗られた刀を使っている者が多く、しかも歩く際に邪魔になるほどの長刀を堂々と帯びていました。
江戸も末期になると、武士も身なりを飾るようになり、刀も軽くて短い物が人気になっていた時代、京都や江戸で朱鞘の刀などを差している者は、田舎者として失笑されたそうです。
しかし、薩摩、土佐の両藩は「武士が身につける物に気をつけるのは、恥ずべきことだ。」という教えが生きていたのでしょうか。
そんなところにも、明治維新をやり遂げた原動力の一部があったのかも知れませんね。
太平の世でも決して鍛錬を忘れなかった薩摩武士。
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鹿児島市内には「馬場」の付く地名が沢山あります。今思い浮かぶだけでも、「高見馬場(たかんばば)」、納屋馬場(なやんばば)、舘ん馬場(やかたんばば)、他にも「堅馬場(たてばば)」とありますし、他には「騎射場(きしゃば)」という地名は、馬に乗りながら弓を射る(やぶさめ)の練習場が在った場所です。
これらに共通するのは、現在の地図では正式な町名ではなく、またその範囲も極めてアバウトであるにも関らず、地元鹿児島の人間は、のあたりまえのごとく使用しているということです。
江戸時代を通して、武士達の鍛錬場がこんなに多く存在していたということも、「武の国」薩摩藩の特徴でしょうか。