2017年02月06日
人斬りと呼ばれた薩摩武士
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中村半次郎。長じて桐野利秋と名を改めました。
生家は、鹿児島城下から二里ほど離れた吉野村の実方(さねかた)という小さい集落で、武士とは名ばかりの最下層の郷士でした。
彼らの生活は百姓とさほどかわらず、毎日の畑仕事の合間に、郷中教育という薩摩藩独特の制度のもとで剣の修練や読み書き、武士としての心構え等を身につけていったのです。
当時、日本中には様々な流派の剣法があふれており、武士の子弟達はいずれかの道場に通い剣の腕を磨く事があたりまえの事でした。薩摩藩でもそれは同じでしたが、城下に道場は少なく、上級武士の子弟のみが通える所で、郷士身分の子弟は郷中教育のなかで年長者から教えられていました。
西郷、大久保らとともに、当時の藩主斉彬に見出され、京都での宮中対策、江戸城開城、戊辰戦争と、常に西郷の側にいて、後の悲劇的な西南の役で西郷と一緒に38歳で散って逝きました。
若い頃から剣の腕は薩摩藩でも一番強いといわれ、京都での討幕活動中には新撰組や見回り組といった幕府方の組織の者達を何人も暗殺したため、幕府方の連中からは「人斬り半次郎」と呼ばれ、恐れられていました。
写真は西郷隆盛を中心に、西南の役で死んでいった人々の墓が並ぶ南州墓地。
死してなお西郷を守らんとするように中心の西郷の墓の向って左隣に眠っています。
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