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2020年05月04日

【禍因子育て企画】「大正妖怪異聞-廓座お仙-」【番外編/お仙の話】

「無意味な言葉が僕の翼になる」より。
2013年05月25日投稿。




お妲はお仙が大好きだった。
小さな頃から一緒にいたし、ずっとずっと一緒だった。
種族もなんもかも越えて、性別なんてどうでもよくて、愛欲だとかそんなもの通り越して、ただただ、お仙の存在が、大好きで大好きで大好きで、愛おしかった。
だからもうずっと、今度は何があってもお仙の傍で生きるんだと決めた。
それはきっと、一座の他のものも同じ。
お仙は、皆に愛されるべくしてここにいる、そんな存在だったのだ。




朝、いつもなら、日が十分に上りきった頃に仙次郎はやっと目を覚ます。それがどうしたことか、今日は早くに目が覚めたので、そのまま仙次郎は布団の中で伸びをする。
そして暫くぼけっとした後やっと、気怠げに身体を起こすのだった。
おはよう、太郎、
心の中で言いながら、仙次郎は枕元に置いた鞠と煙管を優しく撫でる。
それが、仙次郎の一日の始まりだった。
仙次郎率いる妖怪一座のあるここは、元は遊び女達の廓であった。遊び女達の住む長屋で、時は昔、一時はお妲が住んでいた場所でもあった。女達はここで身支度をし、廓へと足を運ぶ、それを、お妲は一人家を出て、二十数年続けていたのだ。
寂しさに耐えられなかったのは、自分の方だった。
だからお妲を無理矢理故郷に連れ去って、酷いことをしたなと、今になって思う。明治が終わる頃、再び訪れたここは荒れ果てていて、お妲はたいそう寂しがっていたものだ。
だからこそ、仙次郎はお妲のためにここを妖怪一座として立て直した。
長屋はそのまま皆の部屋としてあてがい、廓は中を改装して小さな舞台にした。
全部全部、お妲のためにやったんだから、自分の幼なじみへの甘さには、自分で呆れてしまう。
そう、ぼんやり懐古に浸ってから、はだけた胸をぼりぼりと掻きながら仙次郎は立ち上がった。
そして鏡台の前に行き、肩を少し過ぎたぐらいの黒髪を、ゆったりゆったり、つげの櫛でとかし始めた。
寝起きで乱れた髪が徐々にさらさらとほぐれる頃、軽く団子にしてから、今度は顔を作り出す。
白粉を薄く、頬から鼻筋、そして額にあてがって、ゆっくりゆっくり伸ばしていく。紅(べに)は二色、今日は紅(くれない)を乗せようか、それとも紫紺に染めてしまおうか。
貝を手に取り、お仙は暫く悩んだ後、中指でつうぅと紅(べに)を掬い、紫紺を唇に乗せていった。
さて。
お仙はいつも、顔を作ってから着物を着る質だった。特に理由はないのだが、顔を作ることで、自身が仙次郎からお仙と変わる実感が湧くからかもしれない。
今日は何を着るかねぇ。
特に何を着るでもよいのだ。基本的に、お仙自身は興業に出ることもなければ、裏方もしない。一日中縁側でゆったり構えて、誰かが尋ねてきたり助けを求めてきた時だけ、出ればいい。だから、何を着ようが構いやしないのだ。
それでも着物に想いを寄せるのは、お仙の中にあるおなごの心が、そうさせているのかもしれない。
お仙は衣装棚から黒に菖蒲の着物を出すと、襦袢を着、山吹の半襟を仕込ませると、黒にそっと袖を通した。
そうして、お仙はお仙として、出来上がるのである。




お妲はたいそう多くの反物を持っていた。
遊び女時代の名残である。
多くの男がこれに袖を通してくれと貢いで寄越したが、全てが全てを仕立てられるはずもなく、そのままにしているものの方が多いほどである。
対して、お仙はさして物を持っている方ではなかった。
着物も普段使いが四、五着と、振袖が一つ。化粧の道具も、蒔絵細工の小さな文箱に貝の紅が二色と、白粉だけ。他には、鞠と煙管、そしてささやかながらの茶道具と、白磁器の一輪挿し。それだけだった。
そしてそれらは全て、昔お仙を飼ってくれていた太郎の遺した、大事な大事な形見であった。
着物などは、お妲と揃いが欲しいとねだった物もあるが、他は太郎がお仙のためにと買い与えたものだった。
太郎はたいそう、お仙を気に入っていた。
「お仙、珍しいねぇ、」
後ろから声が掛かって、お仙は振り向いた。そこにはいつもどおりのゆったりした面持ちで、お妲が立っていた。
目が合うや否や、お妲はお仙に抱き着いてくる。
いつものことだ。
そう、何にも変わらない。小さい頃から何にも。
「おはようさん、お妲」
「おはようねぇ、お仙」
二人は名もない頃からの仲だった。
親は誰とも知らない。気がつきゃ捨てられ、山でも人里でも生きていかれないから、二人、初めて出会った時からずっと、協力して生きようねと約束していた。
まぁそんな些細な約束はさっさと消えてしまったわけだが、何度か離れた後にこうしてまた一緒にいるのだから、面白い話である。
そうしていつもどおり二人で抱き合っていると、からんからんからんっ、いきなり近くで手桶が落ちる音がするもんだから、二人は音の方に目を向ける。
そこには、口をあんぐり開けた銀と、何も考えてなさそうに突っ立っている紀伊。手桶を落としたのは、どうやら銀のようだ。
そのまま銀が固まっている隣を、鴉がそのまますり抜けていって、
「いつものことだろ」
と吐き捨てて行くので、ハッとして銀は手桶を拾って、紀伊の手を無理矢理取って、おじゃましましたっ、と、わけのわからないことを口走りながら、そのまま風呂場に駆けて行った。
そんな後ろ姿を見送りながら、
「銀の字可愛いねぇ、」
と、嬉しそうにお妲が言うもんだから、本当に救えないねこの子は、と、お仙は苦笑いを漏らした。




廓座は一日に二度、妖怪による興業を行っていた。
蛇女や河童といった如何にも妖怪の出で立ちの者から、お妲のように完全に人に化けられる者から。昼の部は河童の傘回しから始まり、夜の部は蛇女が客席後ろから現れる。そして中身がいろいろその時々で変わり、最後はお妲の三味線で締める。そんな感じだった。
しかし、興業内容にはほとんど関わらないのがお仙の立ち位置だった。
いくらで券を売るやら何処ぞで地方公演だなどを取り決め、帳面をつける。帳面つけの金勘定はお仙の大好きな分野だ。暇があれば猫の姿で券売所に座り、券を買いに来た客達に幸運を呼ぶ猫又だなどとの名目で撫でてもらうのが趣味だった。
そう、あくまで趣味だった。
いつだったか銀が聞いてきたことがある。
「座長、あそこで何やってるんですか?」
どんな人間が俺達妖怪を見に来てるか確かめてるんですか?
それを聞いてつい大笑いしたものだ。
「いいや、人間に撫でてもらうのは気持ちいいだろう?」
「は?」
「誰だって、優しく撫でられるのは嬉しいだろう、だからだよ」
そう返すと、唖然とした顔で口を開けて、何も言わなくなったっけ。
でも、それが本当の答えだった。
そもそもお仙は、裏で支えたい性分なのだ。だから前に出るのは嫌なのだ。
だから、一座の者に頼られれば頭も捻るし力も貸す。元々誰よりも妖力が強いもんだから、それが誰かのためになるなら喜んで使いたいのだ。そして、いつもお節介。
紀伊を預かった時、これはいい機会だと思った。
銀はどこかここに馴染めないところがある。輪の中にいても、何故か不意に何処かに行ってしまいそうな目をする。馴染んだようでいて、ここが大切だと言っておいて、ここが大切だと思っておいて、不意に何処かに行ってしまいそうな……。
お仙は思う。
本当に自分はお妲にとことん甘いんだから、と。
新しい存在を自分で育てることで、その存在と一緒に、もっとここに寄り添ってもらえたら、それがお仙が銀に禍因を託した本当の理由だった。
子育てならもっと適任がいる。棗は赤子が好きだし、鴉は何だかんだで面倒見がいい。しつけだって彦爺に頼んだ方が賢い子になるだろう。実際、銀が育てて数週間、未だにあの子は言葉すら覚えてない。銀には向いてない。そんなことは最初から判りきっていたことだ。
「お紀伊をきっかけに、銀の字がここを、本当に自分の居場所だと思ってくれたらねぇ……、」
そう思うと、本当に自分はお節介が過ぎるんだからと、苦い笑いが漏れるのだった。




「お仙、これ見ておくれよ」
夕餉も終わり、さて庭でも眺めながら煙管を燻らせようかと思って広間を後にすると、すぐにお妲が追ってきた。
「?」
一瞬、お妲が何を言っているのか判らず顔をしかめる。そしてすぐに、あぁ、と気付いて髪を撫でてやった。そう、小さな花冠のついたその髪を。
「どうしたんだい?」
「お紀伊がくれたのさ。銀の字が洗濯の合間に教えたみたいでねぇ」
嬉しそうにお妲が言うので、つい、お仙の顔も綻んだ。
「お紀伊、あの子教えたらなんでもできるんじゃないのかい? あぁ、いつか三味線を教えてやりたいねぇ!」
「そうだねぇ……、でも今のままじゃあ、銀に似て家事ばっかな子になっちまうから、そうなる前に教えておやり」
楽しそうに笑うお妲に言うと、そうだねぇ、と嬉しそうに返すもんだから、つい愛おしくなって、お仙はお妲を抱きしめてやった。
身長こそお妲に及びはしないが、その強い腕は、おなごの恰好をしていてもやはり、お妲を安心させるに足るものだった。だからお妲は甘えてしまう。その力強さに。
「お仙……、」
銀の字もこれぐらい抱きしめてくれたらねぇ、
そう、お妲が言葉を続けようとしたその時、からんからんからんからんっ、今朝方聞いたような音がまた響いて。
お仙とお妲が同時に音の方を見ると、今度は銀だけでなく紀伊まで手桶を落としてあんぐり口を開けている。
「銀の字……、」
そう、お妲が声を掛けようとする一足早く、
「おっ、お紀伊はまだ子供なんだからそういうのは部屋でお願いしますっ!」
泣きそうな声で言いながら、紀伊の手をまた無理矢理引っ張って、銀は風呂場に駆けて行った。
その後ろ姿を見送りながら。
「本当に、世話が焼けるねぇ」
そう言って二つの手桶を拾うと、お仙はお妲におやすみを告げて、風呂場にそれを持っていってやるのだった。


続く






「君を僕に呉れないか」

「無意味な言葉が僕の翼になる」より。
2013年05月23日投稿。




君は幾らで買えますか
君は幾らで買えますか
君は如何して微笑んで
君は如何して哀しむのですか
君が鼓膜を揺らすのです
吐息が心の臓を揺らすのです
嗚呼、
君は幾らで買えますか、君は幾らで買えますか
買って飼って狩って
君の心は、
いったい幾らで買えるのですか






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【禍因子育て企画】「大正妖怪異聞-廓座お仙-」【四夜目】

「無意味な言葉が僕の翼になる」より。
2013年05月22日投稿。




「なぁに、お紀伊ちゃん」
紀伊がじっと見つめてくるので、お愁は首を傾げた。
すると、ぐっと着物の裾を握って、なぁー、なぁー、と声をあげた。
「なぁに? お着物、欲しいの?」
こくこくこく。
お愁の言葉に、紀伊は思いっきり頷いた。それを見て、お愁はにっこりと笑う。
お愁は、ずっとこの長屋に住んでいる小さな童女である。肩までの髪の一部を三つ編みして、きらきら飾り紐で結わえている、どこにでもいそうな童女だ。身体は僅か三尺余りしかなく、紀伊よりも少し小さく見えるぐらいである。二人にさして差はないのだが、やはり紀伊は角がある分お愁より大きく見えるのだ。
お愁は自分の着物を見た。赤に桔梗の入った、可愛らしい着物だ。
座長がここを買い取ってくれた時、これからお世話になるねとくれた、上物の着物だ。
大好きな座長に貰ったものだから、それだけでも嬉しゅうて嬉しゅうて、お愁はとても大切に着ていた。
そんな着物が、お紀伊ちゃんも欲しいのね。
そう思うとお愁は嬉しくなって、紀伊の頭を撫でて言った。
「お兄ちゃんに頼んでみようか」
すると紀伊は嬉しそうににこにこして、それからぎゅっとお愁に抱き着いた。それを優しく撫で撫でしてから、お愁は紀伊の手を取って、ぽてぽてと離れへと歩いていった。
離れに着くと、普段は茶室の中にいるか縁側でひなたぼっこをしている座長が、今日は珍しく離れの前で煙管を燻らせていた。
「あぁ、お愁、お紀伊、どうしたんだい」
言うと、座長は優しくお愁の頭を撫でてやった。
それにお愁が嬉しそうに目を閉じるのを見て、紀伊も座長をじっと見る。すると、今度はその手が紀伊の頭を撫でるので、紀伊は嬉しそうに喉をごろごろと鳴らした。
「お紀伊ちゃん、お兄ちゃんみたいね、ごろごろごろごろ、可愛い」
お愁は嬉しそうに笑った。
「さて、二人とも、どうしたんだい?」
そんなお愁をもう一度撫でてやってから、座長は尋ねた。
すると、紀伊はお愁の着物を引っ張って、じっと座長の顔を見る。
それに少し首を傾げて、
「ん、どした?」
座長はもう一度尋ねた。
すると、やっぱり紀伊は同じように着物を引っ張って自分を見るもんだから、座長は困ったように苦笑いを浮かべた。
それを見てお愁は、口を挟む。
「お兄ちゃん、お紀伊ちゃんね、お着物が欲しいみたいなの」
「着物?」
お愁は自分の着物を広げて見せた。
「お紀伊ちゃんも、お着物が着たいみたいなの」
「はぁ……、」
すると座長は困ったように腕を組んだ。
「着物、ねぇ……、」
そして溜め息を吐くと、紀伊をまじまじと見つめる。
「つまりあれかい、反物のお召しを着たいってことかい」
座長がぽつりと言うと、紀伊はこくこくと頷いて、またお愁の着物を引っ張った。
お愁は上目遣いで座長を見る。
「お兄ちゃん、お着物買ってあげて」
すると座長はもう一度溜め息を吐き、こつんとお愁の頭に拳を置いた。
「お愁、この子はお前と違って成長途中なんだよ。だから上物の着物を買ってやっても、すぐに着れなくなっちまうんだ。それに……、」
言い掛けて、口を閉ざす。
それにね、お愁、この子はまだ性別がないんだよ。
銀に育てさせて銀と一緒に風呂に入って、そんなこの子は、きっとそのうち男の容姿をとるだろう。自分が言うのもなんだが、そんなこの子が童女の恰好を、ねぇ……。
そう思うと先が憂えて、また、自然と溜め息が出た。
すると、お愁も紀伊も同じようにしょぼくれた目をするもんだから、また、溜め息が出る。
「そうさねぇ……、」
「お兄ちゃん……、」
まぁ、したい恰好をすることに反対はできないさね。
あまりにしょげる二人が可愛らしいもんだから、座長は肩を竦めた。
お古でよければ用意してやれんこともないか。
そう考え直すと、
「うっし、何とかしたら。おいで」
もうすっかり煙の落ちた煙管の屑を捨て、それを懐にしまった。
「じゃあ、ちょっと見に行ってみようかね。見るだけだよ、今日見て、どうしても欲しけりゃ、これからちゃんと手伝いを頑張るんだ、そうしたら、お前の頑張りによっては、買ってやらんでないよ」
言って、座長はまた、紀伊の頭を撫でてやった。
すると二人が顔を見合わせあまりに嬉しそうに笑うもんだから、座長は、まぁ、たまにはいいかと苦笑いを浮かべるのだった。
さて、どこぞ行こうかね。
そう思って、ふと、紀伊を見る。
あぁ、これじゃあ、外には出せないねぇ……。
座長は溜め息を吐いた。
そう、ここに来てから二週ばかりになるのに、紀伊は来たときのまんま、青肌に角と、誰から見ても鬼子の姿なのである。感情表現こそ多くはなったものの、喋ったりもしないし、このままじゃ、外に出ても人に忌まれるだけである。
「お紀伊、外に行くにはそのまんまじゃあ、ダメだ」
「なぁ?」
紀伊は不安そうに座長を見る。
そんな紀伊に、座長はお愁をぽんぽんと叩いて見せる。
「人の容姿になれなきゃ、外には出られないんだよ、お紀伊」
人とはね、そう、お愁みたいに角がないんだ。肌だって、お愁と同じ色なんだよ。
「お前、人に化けられるだろう。外に出るときは、お愁みたいにならなけりゃいけない。ほら、やってごらん」
紀伊はお愁を見つめた。
そんな紀伊を見て、お愁も言う。
「お紀伊ちゃん、お角、ないないよ、ないない」
お愁が自分の頭を叩いてしめすので、紀伊も自分の頭に手をおいて、角をぽんぽん触ってみた。
確かに、これはお愁にはないものだ。
なぁー、なぁー。
紀伊は目を瞑って、頭をぽんぽん叩いてみる。
すると、するすると角が小さくなって、しまいには本当に消えてしまったもんだから、これにはさすがに座長も驚いた。
なぁー、なぁー。
そして次には、肌の色も、お愁のように人と同じそれになって、しまいには髪も真っ黒に変えてしまったもんだから、感心して頭を撫でてやった。
「お紀伊、やればできるじゃないか」
すごいねぇ、こんな変化が、ちょいと教えただけで出来ちまうなんて。よくもまぁこんなものを作れるもんだよ、あれは。
座長はまじまじ紀伊を見つめながら思った。
そんな紀伊を見てお愁もはしゃぐ。
「お紀伊ちゃん、私たち、お揃いね」
そんなお愁を見て、紀伊も、嬉しそうになぁーなぁー鳴いた。
そんな二人を見て、ならまぁいっかと肩を竦め、
「じゃ、遅れないようについて来るんだよ」
と、先々歩き出した。
それを見て、お愁と紀伊も、嬉しそうに手を繋いでついていった。
そうして外に出て、三人いろいろ呉服を見て回ったが、やっぱり童用の上物の着物なんて、今時分どこに行っても見当たらない。
「小さい子も最近は洋装をすることが多いからねぇ」
呉服はめっぽう売れいきも悪くなったから、童女用の小さな反物は仕入れなくなったんでさぁ。
言われて、お愁も紀伊もまた、しょぼくれた。
当の座長はというと、まぁそんなもんだろうと鼻を鳴らして、じゃ、他を当たるよとそのまま店を後にするもんだから、お愁も紀伊も仕方なく、ぽてぽてとついて歩いていくしかなかった。
何軒か回った後、座長はふと立ち止まる。
急に立ち止まったりするもんだから、紀伊はそのままぶつかってしまい、なぁーなぁーと抗議の声を上げた。
すると座長は一軒の店を指差した。
「蜜豆だ、あそこのは美味しいんだ、どれ、ちょっと休んで行くかね」
そう言って二人の手を取って、座長は甘味屋ののれんをくぐった。
「主人、蜜豆三つ、」
座長は言いながら近場に腰を据える。
それに倣って二人も座長の前に腰掛けると、そわそわと辺りを見回しながら蜜豆を待つものだから、つい、座長の顔も綻んだ。
「いやぁ、驚いた。そらお仙さんの子供かい?」
暫くしてから蜜豆を運んできた若い男が、吃驚して声を掛ける。
それを聞いて、お仙は、くすくすと笑った。
「いややわぁ、文治郎はん、私にそんな宛があるわけないでっしゃろう?」
一座で預かってる子です、そう言うと、文治郎と呼ばれたその男は慌てて顔を真っ赤にし、いやぁそうですよね安心しました、と、わけの分からないことを呟いて店の奥に引っ込んでいった。
それを見てお愁はぽつり、
「お兄ちゃんって本当に……、」
と言って肩を竦めてみせた。
それにまたくすくすと笑いながら座長は、蜜豆美味しいねぇと優雅に口に運ぶもんだから、お愁もそれ以上は言わないことにしておいた。
そうして蜜豆を食べ終わる頃、座長は言う。
「さてね、これだけ歩いてもう見つからなかったからね、今日はもうお開きさね」
その言葉にお愁も紀伊もまたしょぼくれるけれど、座長はくすくすと笑って言った。
「お紀伊、せいぜい頑張って銀の字の手伝いをしてやんな。お前の頑張りによっては特注で仕立ててやるから」
そうしてすくっと立ち上がると、座長はまた先々行くもんだから、お紀伊ちゃん、お着物はまた今度だね、と、お愁は紀伊の手を引いて、座長に続いて、ぽてぽてと家路についたのだった。




「お仙、どこ行ってたんだい」
長屋にお愁と紀伊を送っていざ離れに戻ろうとすると、お妲が嬉しそうに抱き着いてきた。
本当に気儘に何処かに行っちまうんだから、寂しいったらないねとお妲があまりにもじゃれるので、お仙は肩を竦めて言った。
「お紀伊が着物が欲しいって言うもんだからね、ちょいと街を歩いてきたんだが、良いものは見つからなくてねぇ」
疲れ損だよ。
言うと、お妲はきょとんとした目でお仙を見つめる。
「着物? なんだいそんなもの、アタシのお古でよければなんぼだって紐解いてやったのに! 馬鹿だねぇ、お仙」
それを聞いて、お仙は口をあんぐりと開けた。
そんなお仙を見てお妲はくすくすと笑い、まぁたまには散歩もいいもんじゃないかと言うもんだから、お仙も肩を竦めて、そうさね、と返すしか出来なかった。


続く






【禍因子育て企画】「大正妖怪異聞-廓座お仙-」【番外編/鴉の話】

「無意味な言葉が僕の翼になる」より。
2013年05月21日投稿。




鴉は人であった。
幼少のみぎりに幕末の動乱で父母を亡くし、そこを天狗に拾われ、人であることを辞めた。少年と呼ばれる年の瀬に天狗道の修行を始め、それでも数年、そうして天狗となった頃には二十歳を越えていた。
元の名前は誰も知らなかった。
だから、鴉は鴉と名乗っていた。
誰にも自分を、知られぬように。




朝日が顔を焼く頃、鴉は目を覚ます。
何度か布団の中でごろごろ寝返りを打ってから、鴉は大きく伸びをした。
「眠い……、」
そうして鴉は起き上がると、自慢の黒髪を無造作に団子にし、手拭きを取って風呂場に向かった。
と、その時。
「あー、鴉、おはよー、」
後ろから間延びした声がする。嫌な声だ。そう、銀だ。
鴉は一瞥をくれてやると、何も言わずに風呂場の中へ入っていった。
そして戻ってきた手には、湯の入った手桶が一つ。
鴉は、ぬるま湯で顔を洗うことを日課としていた。
すると、それを見た影が、いきなりすっとんで風呂場に消えていく。
「おいこら、お紀伊!」
慌てて銀が追い掛けるのを気にも止めず、鴉はぬるま湯でゆったりと顔を洗う。
長屋の洗い場は、今の時間こそ日当たりが悪いが、昼過ぎになるとよく日が当たる。鴉はこの場所がたいそう気に入っているので、毎朝ここから一日を始めることに決めていた。
そして、その平穏を毎日のように乱していく、銀とその連れに、辟易していた。
そして、今日も。
どん!
顔を洗ってぼんやりしていた鴉の横に、ふてぶてしい音を立てながら、紀伊が手桶を置いた。
それに不機嫌を顕にして鴉が視線をやると、一丁前に睨み付けてくるもんだから、鴉は不愉快そうに溜め息を吐いた。
「育てた奴に似るもんだな、お前とおんなじ、ふてぶてしい睨み方してくるぜ」
紀伊より少し遅れてやって来た銀に目もくれず、鴉は悪態だけをくれてやると、残った水を手桶から流して立ち上がった。
「おい、ちっこいの、そのまんまだと熱ぃからちゃんと水でぬるま湯にしてから使いぃさ」
それだけ言うと、鴉はその場を後にした。




鴉は、ゆったり生きるのが好きだった。
時間なんて要らない。もうずっとずっと、同じような毎日を続けたい、そう思いながら生きていた。だので一日の大半はぼんやり過ごしていた。慌ただしいのは嫌いだし、叶うなら、必要最低限の会話だけで生きていたいと思っていた。
もちろん、興業なんて煩わしいものはしない。人から天狗に堕ちた身の自身を見世物にするような酔狂な趣味は、生憎持ち合わせていなかった。
ここにいるのだって、仙次郎が今まで通りに生きていい、ただ必要な時だけ力を貸してほしいと言ったからいるだけだ。もっとも、仙次郎が自分の力を無理に使おうなんてしないことは知っているし、たまにひなたぼっこの相手をさせられるぐらいが、せいぜいだ。そんなわけで、鴉はここの暮らしは気に入っていた。
だから、鴉はあの鬼子が気にくわなかった。
育てた奴に似たんだろう、まず、慌ただし過ぎる。あとあの自己主張するように睨む癖。どうしてそういうところばかり銀に似たんだかね。
鴉は溜め息を吐いた。
銀も拾ってやったばかりのころは、そんな目をしてよく自分を睨んでいたものだ。
そんなことをぼんやり考えていたら、何だか眠たくなってきた。
仕方ないので鴉は、仙次郎のところに昼寝でもしに行こうと、自分の部屋を後にした。




どうしてこんなことに……。
くそっ、鴉は心の中で悪態を吐いた。
そうだ、鬼子だ。人が離れに向かっていたら、ふらふら歩いてやってきて、かち合ったが最後、子鴨のごとくついてきやがる。仕方ないので仙次郎のところに行くのを止めて、まいてやろうと意味もなく敷地を徘徊していたら、早足になってまでついてくるもんだから、仕方ないしまくのも面倒臭いしで鴉も諦めた。
「ちっこいの、何か用か」
ないならあっち行きぃさ、銀のところに帰りぃさ。
鴉が言う。と、鬼子は何も言わずに、くっついてきたもんだから、さすがの鴉も吃驚した。
おいっ、離れぇさ!
腰回りにしがみつく小さいのをぐいぐい押し戻すが、なかなか離れない。それどころか、押せば押すほど強くしがみついてくるもんだから、もうどうしようもない。
鴉は諦めた。
しかし、このまま引っ付かせておく気も、さらさらなかった。
鴉は溜め息を吐く。
「餓鬼は嫌いなんだわ」
そう言ってばさりと赤黒い翼を出し、人ならざる力を行使する。びりりりっ、全身に雷が走ったかのような衝撃を受けた鬼子は、吃驚して離れ、その上尻餅をついて倒れた。
それをぼんやり見てから、溜め息を吐き、
「餓鬼は嫌いなんだわ」
もう一度言うと、鴉は翼をばたつかせ、そのまま何処かに飛んで行ってしまった。
そう、尻餅をついたまま、なぁーなぁーと鳴く鬼子を後に残して。




「おい、仙次郎、」
いつものように縁側で鞠を弄びながらごろごろしていると、空から声が聞こえてきた。
それを見て、目を丸くして言葉を返す。
「鴉、お前が飛んでくるなんて珍しいじゃないか。何かあったのかい?」
「何かもくそもねぇよ、あれさ、あの鬼子さ」
「お紀伊かい」
「それさ」
言いながら鴉はゆっくり降り立ち、庭先の腰掛け岩にちょこんと座った。
「なんなん、いきなり掻きついてきたりして。俺は餓鬼は嫌いなんだ」
「お紀伊かい」
「それさ」
そんな鴉を尻目に、仙次郎は鞠を愉しげに弄んでいる。
いつものことだが、何故か今日は気に食わない。
鴉は舌打ちをして、そっぽを向いた。
すると、仙次郎はくすくすと笑って言った。
「気に入られちまったねぇ、可愛がっておやりよ」
「はぁ? 何で俺が気に入られんのさ」
鴉が嫌そうに尋ねると、尚も仙次郎はくすくすと笑う。
「そんなのも判らないのかい。簡単だろう、銀の字がお前を好きだからだよ。無意識に同じものを追い掛けたいのさ」
その言葉に、鴉はうんざりしたように溜め息を吐いた。
何でぇさ、俺は餓鬼は嫌いなんだ。
「お前は子供に好かれるからねぇ……、」
愉しそうにごろごろ喉を鳴らしながら仙次郎が鞠を鴉にやって寄越した。それを片手で受け取ると、それをまた仙次郎に返してやる。寝転がったまま仙次郎がそれを受け取ると、また、鴉は溜め息を吐いた。
「鴉、可愛がっておやりよ」
「何で俺が……、」
そもそもあの餓鬼はお前が引き受けたんじゃねぇか。
悪態を声にしないまま、鴉はまた舌打ちをした。
そんな鴉を見て、仙次郎は苦笑いを隠しきれなかった。
お前のそういうところが、銀もお紀伊も気に入ってるんじゃないか、ねぇ、と。




「鴉、おい鴉!」
またか。
鴉は溜め息を吐く。
そしてそっぽを向いたまま、煩わしそうに手を振った。
「なんだよ、何でそんな不機嫌なんだよ」
寂しそうに銀が言うのに一瞥をくれてやってから、またそっぽを向いて、鴉は言った。
「餓鬼に付き合ってやるほど暇じゃない」
「なんだそれ」
言いながらも銀は、洗濯物を脇に置くと、鴉の横に腰掛けた。
見てみると、鴉は自慢の簪を並べて弄んでいる。
「お前暇なんじゃん!」
銀は頬を膨らませて言った。
「なんさ」
「いや、部屋でお紀伊がねんねしてて部屋じゃ畳めないんだよ」
言いながらも、せっせと勝手に人の部屋で畳み始めるもんだから、鴉は顔をしかめて銀を見た。が、銀はもちろん動じることもなく、それどころか口をぺちゃくちゃ動かしながらどんどん洗濯を畳んでいる。本当に、図太い餓鬼だ。
鴉は目の前の簪を億劫そうに端にやると、銀の持ってきた洗濯物に手を伸ばし、ごそごそ自分の着物だけを抜き取って、しまった。
それを見て銀がまた頬を膨らませる。
「手伝ってくれるんじゃないのかよ」
「誰が。これはお前の仕事だろ」
そう言って鴉は横になると、大きく伸びをした。
「んで?」
すると銀は嬉しそうに話を続ける。
「っていうかお紀伊寝てばっかなんだけど、あれ誰に似たんだろな」
「仙次郎」
「……、」
「んで?」
「そういえばお紀伊さ、やっと洗濯干せるようになったんだよ」
「あっそ」
「……、」
「んで?」
「ただ取り込む時に引っ張るのは止めてほしいよな、何回か言ってるんだけどさぁ」
「ふーん」
そんな感じで。
いつもどおりに銀が言いながらそれをただ聞くだけ。それが二人の、ちょうどいい距離だった。なんだかんだで鴉は銀を拒んだりしない。
そして銀は、鴉のそういう自分本位なところは、嫌いじゃなかった。
「しっかし、お紀伊の世話はやればやるほどどうしようもなくて疲れるんだけど」
「ま、気張りぃ。言っておくが俺は、手伝わんからな」
「誰も鴉に手伝ってくれなんて言ってないし。と、」
話もそこそこに銀は立ち上がると、畳み終わった洗濯物を抱えて、じゃあ配ってくる、と、鴉の部屋を後にした。
そんな銀の後ろ姿を見送ってから、鴉は大きく伸びをして、目を瞑った。
まぁ、気張りぃさ。
もう一度、心の中で声を掛けて。


続く






「例えば其処に僕が及ばなくとも」

「無意味な言葉が僕の翼になる」より。
2013年05月21日投稿。




知欲の果てに精神を犯されようと其れを知りたいと思う






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【禍因子育て企画】「大正妖怪異聞-廓座お仙-」【三夜目】

「無意味な言葉が僕の翼になる」より。
2013年05月18日投稿。




紀伊を世話し始めてから数日が経った。
堅いものが好きなのかと思ったら何でも食べてしまうらしく、食べるものに関してはお前がちゃんと管理しておやり、と、座長に言われた。もちろん鰹節を盗んだこともバレているようだった。怒られこそしなかったが、次はないよ、と、あの目が語っていた。
そもそもそういうことは早く言ってくれよ思いながら、そういうことなら、と、とりあえず雑炊やうどんといった、安易に食材が手に入るものを作って与えることにした。
今のところ不満の声はない、が、何でも食べるから言わないだけで、やはり一番美味しそうに食べていたのは鰹節のような気もしなくもない。
いやでも勘弁してくれ、座長は普段優しいが本当に怒ると怖いんだ。
そんなこんなで数日世話をしているわけだけど、とりあえず家事を覚えさそうと毎回家事に同行させてみるのだけど、じっと見つめるだけで同じことをしようとしない。
銀はいつも紀伊に話し掛けながら家事をしてみるが、言葉を覚えてくれなくて、声は返ってこない。たまに、子猫のようになぁー、なぁー、と鳴いているけれど。なので、傍から見たら銀は独り言を漏らしながら家事をしているようにしか見えないのである。
もしかしてこのまま何も家事を覚えてくれないんじゃないだろうか。そう思うと、銀の気も自然と重くなり、溜め息しか出なかった。
だが、そんな紀伊にも率先してすることがあった。
布団引きである。
「でも……、」
洗濯物を畳みながら、銀はちらりと横を見る。
「自分が寝たくなったらすぐに布団を引くのは止めてくれないか、お紀伊。見たら判るだろ、洗濯物畳むのには広い場所がいるんだよ」
はぁああああぁ、と、銀はまた溜め息を吐いた。
しかし紀伊は布団を引いて、毛布を抱き締めたまま、ずっと、ずっと、こちらを見ているのである。
そうまるで添い寝を催促するかのように。
「ダメだよ、お紀伊。そもそもお前が手伝ってくれないから時間が掛かるんだ」
銀は憎まれ口を叩いてから、再び洗濯物を畳み始める。総勢二十人弱の廓座の座員達の洗濯は銀の仕事だ。毎日毎日こなしているけれど、さすがにこの人数分一人で洗って干して畳んで部屋に持っていって。
はぁああああぁ、銀は大仰に溜め息を吐いた。
せめてお紀伊がちょっとでも手伝ってくれりゃあなぁ。
そう思いながらまた横目で紀伊を見ると、やっぱり添い寝を催促するかのようにこちらを見たまんまだった。
なぁー、なぁー、なぁー。
銀は顔を逸らす。
ダメだよ、そんな声出したって。
振り払うかのように首を振って、銀は手を動かした。
今は紀伊の相手より、早く洗濯物を畳むことが大切なのだ。
「特にあの鴉の野郎、ちょっと遅れただけでうるさいんだから」
そう言いながら、せっせと洗濯物を畳み出す。と。
なぁー、なぁー、なぁー、なぁー、なぁー。
また、紀伊が鳴き始めた。心なしか、その鳴き声が激しくなっている気がするもんだから、救えない。
はぁああああぁ、
銀は溜め息を吐いた。
「お紀伊、眠いならお前だけ寝ればいいよ。俺はさ、まだ洗濯物畳んで皆の部屋に持ってかないといけないから」
言って銀は紀伊を無理矢理布団に押し倒して、毛布もふんだくり、それを紀伊に掛けてやった。
すると、一丁前にこちらを睨み付けてくるもんだから、それにはさすがにびっくりして、銀は目を丸めた。
こいつ、こんな表情したっけ。
そう思いながらも、
「お紀伊、後で遊んでやるから、ねんねしてな」
睨み付けるその眼に気付かないふりをして、銀は背を向けて、洗濯物を畳むのに集中することにした。
そうして暫くが経った。ようやく全ての洗濯物を畳み終わって、各部屋に持っていくのを紀伊に手伝ってもらおうと振り向いたその時。
ん?
銀は血の気が引くのを感じた。
紀伊が、いないのである。
銀は急いで立ち上がり、
「お紀伊!」
叫びながら部屋を出たところで、冷静になる。
いや、あの眠たがりの紀伊が、わざわざ長屋の外に行くとは考えにくい。行動範囲など、所詮自分が連れて歩いた程度だろう。
そう考えると、銀は部屋に取って返し、洗濯用の大きな煮柳籠に畳んだ洗濯物を詰め込んで、よし、と気合いを入れて持ち上げた。
どうせ洗濯物を配らなきゃいけないのだ、そのうち何処かで紀伊に遭遇するはずだ、と。
そうして銀はあっちこっちそっちへと、どんどん洗濯物を配達していく。
しかし、ほぼ配り終えた時点で、まだ見つからない。
さすがの銀も、少し焦りを覚える。
もしかして外に出たりしていたら……。
昨今、妖怪に対する風当たりは、消していいものではない。我々のように妖怪であることを売りにして興業をやっているものや、人の姿になれるものならまだしも、外を妖怪が彷徨いているなど、見つかりでもしたらどのような目に合うか。
銀はその身をもって重々思い知らされていた。
紀伊はあんな見た目だから、鬼だ鬼だと蔑まれてしまうかもしれない。
そう思うと、手伝いもせずに添い寝を催促してきた紀伊を放ったらかしにしたことを後悔する気持ちが生まれてくるのだから、不思議なものである。
ごめんな。
銀は泣きそうになりながら、残りの部屋へと洗濯物を運んで、とうとう残りは最奥の部屋、お妲の部屋だけになった。
ここにいてくれますように……!
祈るような気持ちで銀は戸を開ける。
が、
「……、」
そこはがらんとしていて、もちろんな話、興業で舞台に立っているであろうお妲の姿もない。
「お紀伊……?」
いや、声を掛けたところで返る言葉があるわけではないのだが。
銀は泣きそうになった。
俺が、俺が構ってやらなかったばっかりに、紀伊が消えてしまった!
銀は、急いで座長の部屋へと走った。こういう時は、座長に頼るしかない。世話をしてやってくれと座長に頼まれておきながら、不注意で紀伊がいなくなってしまって、怒られるもはもちろんそうだろうが、今はそれ以上に紀伊を早く探してやらないとという思いでいっぱいいっぱいだった。
長屋から少し離れたところにあるこじんまりとした茶室の戸を慌ただしく開けると、銀は叫ぶ。
「座長! 座長! もうっ、お仙さんどこにいるんだよぅ!」
いや、分かっている。
部屋にいないなら庭にでも出ているに違いない。
座長は日向ぼっこが好きなのだ。
「お仙さん!」
銀は小さな茶室を抜け、枯れ水を望む縁側へと身を乗り出す。と。
「うるさいねぇ、銀の字。お紀伊が起きちまうだろうが」
襦袢姿の座長が膝枕に紀伊を寝かせてやりながら、不機嫌そうに声を出した。
銀は肩の力が抜けた。そしてへなへなと、その場にへたりこんで。
「おせんさぁあああん」
ぽろぽろと雫を零しながら、安堵の息を漏らした。
それを見て、不機嫌そうな視線を浴びせていた座長も、溜め息を吐く。そして銀の頭を撫でてやった。
「そんな心配するんなら目を離すでないよ」
尚も雫を零しながら、銀はこくこくと頷いた。
「この子ったらここに来るなりアタシを睨み付けて膝に陣取るもんだから、アタシも何も出来やしないし、」
座長はわざとらしく息を吐く。
「しかしこの子は寝てばかりだねぇ。銀の字、お前ちゃんとしつけてやってんのかい」
「……、」
「まぁいいさ。夕餉まで、お前は暫く部屋で休んでな。膳の用意ができる頃に、お紀伊連れて迎えにいくから」
座長の手は大きくて、銀は安心に身体の力が抜けるのを感じた。
そしてぽつり。
「俺もお紀伊とここで寝る」
「は?」
言って、そのまま座長にしがみついた。
不機嫌そうな声は聞かなかったことにして、暫しの間、おやすみなさい。




右には紀伊、左には銀。
お仙は苦々しげに悪態を吐いた。
「お前等なぁ、人を枕と勘違いしやがって」
そう言いながらも銀を撫でてやる手を止めないもんだから、自分もたいがいお人好しが過ぎるな、と、鼻で笑った。
「しかし本当に、アレが寄越しただけあって、一日中寝てばっかとはな。さすがに困るわ。そろそろ調教してやらんとな、なぁ、お紀伊」
お仙のにやりと笑うその顔を見るものは、今は誰もいなかった。


続く






「逃げるのばかり簡単だから」

「無意味な言葉が僕の翼になる」より。
2013年05月10日投稿。




逃げるのばかり簡単だから、ばいばい、君に、ばいばい






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「そんなはずもないのに」

「無意味な言葉が僕の翼になる」より。
2013年05月09日投稿。




胎動の中に
新しい君が眠っているかもなんて
そんなはずも、
ないのに、ね






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【禍因子育て企画】「大正妖怪異聞-廓座お仙-」【二夜目、番外】

「無意味な言葉が僕の翼になる」より。
2013年05月08日投稿。




ぽてぽてぽて。
何かが近付いてくる音がしたかと思うと、不意にぎゅうううぅと抱き締められた。
「銀の字?」
いや、違う。
もっと小さな何かだ。
「誰だい?」
言うも、その後ろに掻きついてきた何かは引っ付いたまま。
お妲は溜め息を吐いた。
銀の字かと思ったんだけどね。
そう、この掻きつき方には覚えがある。銀が後ろから引っ付いてくる時と、そっくりな感触なのだ。身長差はあるものの、ぎゅうううぅと何も言わずに掻きつくように引っ付いてくるのだ。それと、すごく似ている。
「誰だい?」
お妲がもう一度言うと、後ろからひょっこり鬼子が顔を出し、なぁー、なぁー、と声を出してきた。
「何だ、お紀伊かい」
確かそんな名前だったとお妲は思い出しながら、声を掛ける。
さて、銀は何処に行った。鬼子の世話は銀の仕事のはずだ。
「ひどいね、銀の字の奴、アンタをひとりぼっちにして」
お妲は手を差し出した。それを小さな手でぎゅっと掴んでくる。
なかなか可愛いところがあるものだ。
くすりっ、お妲は笑った。
「じゃあ、銀の字が戻るまでアタシの部屋に来るかい?」
言いながら、お妲は歩き出す。もちろん、その手をぎゅっと手に取ったまま、鬼子もぽてぽてとついてきた。
そうしていくらか歩いた長屋の奥の奥、そこにあるのがお妲の部屋だった。
「さ、お入りぃさ」
言ってお妲は部屋の道具箱を漁り始めた。何か小さな子が遊べそうなもの。おはじきくらいか。
そう思って、おはじきの入った小さな袋を手に振り向くと、鬼子は部屋の隅の布団を引っ張っている。
「なんだい、アンタ眠いのかい?」
お妲が言う間に、引っ張り出してそこに布団を敷いてしまった。そしてそこに寝転がると、ぽんぽん、ぽんぽん、自分の隣を叩きながら、なぁー、なぁー、と鳴いてみせた。
お妲は一瞬ぽかんと口を開けたが、すぐに微笑んだ。
「何だ、一瞬に寝てほしいのかい」
可愛らしいねぇ。
そう言うと、着ていた着物をするするするりと脱ぎ捨てて、襦袢姿で鬼子の横に寝転がった。
すると鬼子は毛布を手繰り寄せ、乱雑に、お妲に掛けてきた。
それにお妲はつい笑みを漏らす。
「ほらっ、馬鹿だねぇ、それじゃあアンタが寒いだろ、二人入るように掛けるんだよ」
そう言ってお妲は毛布をそっと掛け直した。
じゃあ、おやすみ。
そう言うと、ころころころころと、嬉しそうに喉を鳴らして鬼子が応えてくる。なんとも可愛いものじゃないか。
お妲はぎゅうううぅ、と鬼子を抱き締めた。
「アンタ偉いねぇ、銀の字にしてもらったこと、嬉しかったからアタシにもしてくれるなんてねぇ」
なぁー!
腕と胸の辺りから、嬉しそうな、威張ったような、そんな声が聞こえてくる。
それを優しく撫でながら、ぼんやりと、二人、微睡みに身を任せるのであった……。


続く






【禍因子育て企画】「大正妖怪異聞-廓座お仙-」【二夜目】

「無意味な言葉が僕の翼になる」より。
2013年05月08日投稿。




「おい、お紀伊、お前は何が好きなんだ? 何を食べるんだ?」
なぁー、なぁー、
がくりっ、銀は肩を落とした。
さっきからずっとこの調子なのである。
何を尋ねても子猫のように鳴くばかり。言葉は話せないらしい。しかし、どう教えればいいのか皆目見当がつかない。
洗濯を教えようと着物を横で洗って見せてやったが、楽しそうにじっと見はするけれど、やってみるかと尋ねても子猫の声を出すばかり。
その後薪を取りに行ったら、いきなり薪をがぶがぶかじりだしたもんだから、これは食べるものじゃない! と引き剥がすのに苦労したものだ。まぁ、つい先ほどの話だけども。
とりあえず、堅いものがいいのかと、座長の部屋から削る前の鰹を盗んで与えてやったのだが、がじがじ噛んでもうなくなってしまった。どうしよう。また盗んできた方がいいのだろうか。いや、一回でも肝が冷えたのに二度目に挑むなんてできるはずもなく。
はぁああああぁ、溜め息を吐いた。
既に挫折一歩手前である。
「もう子育て全般そうだけど、何が無理って食べ物どうすればいいのか本当に分かんないだけど」
堅いものが好きだからって、木なんて食べさせられないし。
「というかアレか? 木を食べて生活する種族とか? なぁ、もしかしてお前木を食べる種族なのか?」
銀はぽんぽんと紀伊の頭を叩いて聞いてみる。
しかし、ぽかんとした顔が帰ってくるばかりで、どうしようない。
はぁああああぁ、
何度目かになる溜め息を盛大に吐くと、銀は立ち上がった。
このままこうしていても仕方ない。紀伊の世話だけでなく、仕事はたくさんあるのだ。
「おい、お紀伊、布団出してやるからちょっとお昼寝するか。いや、するか、っていうか、しろ。寝ろ。とりあえず寝ててくれ、頼むから」
そう言って、銀は紀伊の手を引いて、自分の部屋へと連れていく。
その間も紀伊は子猫のように、なぁー、なぁー、と鳴いている。
なぁー、と鳴く生き物なのだろうか。
それとも誰かの真似だろうか。誰かに教わったのだろうか。
いや、まぁ、まだ小さいから鳴くことしかできないだけで、言葉もきっと覚えるに違いない。
そんなことをぼんやり思いながら、部屋の隅に畳んである布団を引っ張り出して、紀伊の目の前に敷いてやった。
枕、は、まだ紀伊は小さいから、その辺に畳んで縛っていた袴を取ってきて置いてやった。
それをぽかんと口を開けて紀伊は見ている。
そんな姿は可愛いと思うけれども、やっぱり自分には無理なのではという考えが消えてくれない。困ったことに。
銀はぽんぽんと布団を叩いた。
「お紀伊、ほら、ねんね、」
ぽんぽん、ぽんぽん。
紀伊は首を傾げる。
「ほら、ねんねだよねんね、ねんねしな」
紀伊は右に折った首を、今度は左に傾けた。
銀はきょとんとする。
もしかして紀伊は、寝る、ということがどういうことか、いまいちわかっていないのかもしれない。
これは困った。
銀は顔をしかめて頭を掻く。
しかしどうにか紀伊を寝かしつけなければ、干した洗濯を取って畳むことも出来ない気がする。
現に薪を取りに行った時、薪を食べ物と勘違いしてどれもこれも食べようとしていた。あんな堅いものをがじがじしっかり噛むものだから、引き剥がすのに相当苦労したものだ。って、これはさっきも言ったか。まぁつまりそれほど大変だった、ということだ。
さて、どうしたものか。
銀は考える。
自分は小さな時、どうしてもらっていたか。
いや、そんな小さい頃の記憶が残っているはずもないけども。
そしてまた銀は溜め息を吐く。
「お紀伊、ねんね」
そう言って、ごろりっ、布団に転がった。
「お紀伊、おいで。ほら、ここに、ねんね、ねんねだよ」
ぽんぽんと隣を叩きながら銀は言うと、にっこりと微笑んだ。
暫く、紀伊はきょとんとそれを見ていた。
そして同じように布団の上にぽてりと転がると、ぎゅっ、と銀に掻きついてきて。
可愛い。
しかし、予想外の展開である。
残念ながら銀には洗濯物を取り込んで畳み、皆の部屋へと配るという仕事がある。興行が終わるまでにそれを片付けてしまわないと、怒られてしまう。特に、座長のそれが遅れてしまうと、恐ろしい仕置きが待っているに違いない。
座長の命令は絶対だし、何より、先ほどの鰹節の件もある。いや、バレてないと信じたいが。
「お紀伊、ねんねはお前だけだよ。俺はちょっと仕事があるんだ」
そう言って、ぎゅうううぅ、と衣服に掻きついた紀伊を剥がそうとする。が、しかし、これまた小さいのにどこからそんな力が出てくるのか、なかなか剥がれそうにない。
仕方ない。
「紀伊! ねんねはお前だけって言ってるだろ!」
ばちんっ、
銀は紀伊の頬に手を食らわせた。同時に、後悔した。
俺は何てことを……、
すると、なぁー、なぁー、なぁー! と抗議するかのように鳴き始め、尚も強く銀に掻きついた。今度は服だけじゃなく、銀の身体そのものに、だ。
その様子を見て、銀は降参した。
もとはと言えば自分が仕事の邪魔だと無理矢理紀伊を寝かそうとしたのがいけなかったのだ。
それなのに、ちょっと都合が悪いからってひっぱたくなんて、俺は最低だ……。
「紀伊、ごめんな」
そういうと、銀は傍に用意してあった毛布を手繰り寄せると、自分と紀伊に、すっぽりと掛けた。
「紀伊、ねんね、一緒にねんねしような」
そう言って、目を瞑りながら、ぽんぽんと紀伊の背中を叩いてやる。
ああ、そういえば、ここに拾われて初めての夜、まだ人に戻る力が足りずに衰弱していた自分を、お妲姐さんが優しく抱いて寝てくれたっけな……。
銀は、ぎゅうううぅ、紀伊を抱き締めた。
そういえば紀伊を頼まれてから半日も経ってやしないのに、何だか酷く疲れた気がする。
寝かしつけがてら少しぐらい休んだって、と、考え終わるか終わらないか、銀は意識は深い夢の奥へと落ちていった……。




「銀の字、銀の字、早く洗濯物入れちまわないとお仙が怒……、」
言いながら戸を開けて、お妲はぽかんと口を開けた。
そこには、鬼子を抱き締めて眠る銀の姿があって。
つい、頬が緩んだ。
「仕方のない子だねぇ、」
でも、まぁ、お疲れ様。
そう言って部屋の戸をそっと閉めた。
暫くして畳んだ洗濯物が枕元に置かれるのに銀が気付くのは、もう少し先のことである。


続く






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